第19話「追跡」
夜が明けると、山岡はいつものように早起きし、猟銃の確認を終えると、すぐに支度を整えた。
小林も目を覚まし、まだ眠そうに目をこすりながら、玄関先に立つ山岡に声をかける。
「罠、見に行くんですよね。俺も行きます」
山岡は一度だけ頷いた。ハチも当然のように立ち上がり、小林の横を静かにすり抜けていく。
朝の山には薄く霧がかかり、湿った空気が肌を撫でていった。二人と一匹は慎重に獣道を進みながら、設置した罠を順に確認していく。
最初の一基は異常なし。二基目では、くくり罠が作動していた痕跡があったが、獲物の姿はなかった。
「かかったけど、抜けたな」
山岡が草の上の擦れた跡を指差す。ワイヤーは伸び、地面は荒々しく抉られていた。
そして三基目。
そこには、荒れた地面、引きちぎれた草、赤黒く滲んだ血の痕跡が残されていた。獣の毛も数本、鋼線に絡まっている。
「熊、ですね……?」
小林が声を潜めて言う。山岡は膝をつき、痕跡を確かめながら短く頷いた。
「ああ。だが……暴れたな」
罠の設置場所から斜面に向かって、何かが引きずられたような跡が伸びていた。血の筋は途中で細くなり、やがて消えている。
「罠が足に食い込んだまま逃げたんでしょうか」
「だろうな。ただ……ここまで暴れてるとなると、そう遠くへは行けてない」
山岡の声は低く、だが確信に満ちていた。彼は立ち上がり、ハチに目をやる。
「追うぞ」
その一言で、空気が変わった。ハチはぴくりと耳を動かし、もう一度、森の奥へ鼻を向ける。すでに気配を追い始めている。
「小林、お前も来い。足元には気をつけろ。いざとなったら、ハチを信じろ」
「……はい」
気圧されるようにうなずいた小林は、深く息を吸ってから山道へ踏み出す。
朝の霧がまだ森を覆っていた。湿った土の匂いの中に、かすかに鉄のような臭いが混じっている。引きずられた痕跡は、斜面の先で深くなり、そしてその先へと続いていた。
熊は確実に傷を負っている。だが、今なお生きているかもしれない。興奮している手負いの獣だ。油断すれば、逆にこちらが獲物になる。
二人と一匹は、気配を殺して、静かに、しかし確実に山の奥へと踏み込んでいった。
小林の足元に、乾きかけた血痕が点々と続いていた。山岡が前を歩き、ハチはその少し前を低く構えて進んでいる。ハチの鼻は地面をなめるように動き、時折ぴたりと止まっては、再び前進する。
「まだ動いてたら厄介だな……」
小林が呟いた声は、誰にも届かぬほど小さかった。
獣道は次第に斜面を登りはじめ、岩と木の根が複雑に絡む急坂になっていく。血の跡も、掠れるように不鮮明になっていた。
ふと、ハチの動きが止まった。
風上の茂みに向けて、低く唸り声をあげるでもなく、ただじっと見つめている。
山岡は無言で手を上げ、小林に留まるよう指示すると、ゆっくりと崖沿いを回り込みながら近づいていった。ハチは地面に伏せ、動かない。
小林も無言でうなずき、草の音一つ立てぬよう気を配りながら、後ろで身を低くした。
山岡は静かに銃を構え、一定の距離を保ったまま膝をつく。
茂みの向こう──ぬかるんだ地面に横たわる黒い塊。
息をしていた。
熊は、明らかに衰弱していた。喉の奥で詰まるような荒い息を吐き、肩がわずかに上下している。
その目は半ば虚ろで、焦点を結んでいるのかも判然としないが、それでも確かに、生きていた。
罠のワイヤーは右後脚に深く食い込んでいた。周囲にはずるずると這ったような跡残している。足元の血だまりは既に乾き始め、鼻先からわずかに垂れた涎が、草の葉先に粘ついていた。
小林は思わず足が止まり、言葉を失った。
生き物の死を、自分の手で迎えに行くこと──その覚悟が、現実の重さをもって迫ってくる。
山岡はまったく迷いを見せなかった。
手際よく脇へ回り込むと、猟銃を構え、わずかに身を低くした。
「……無駄に苦しませるな」
そう一言だけ告げると、狙いを定め、引き金を引いた。
小さく、しかし重たい音が山にこだました。
それは爆発でも破裂でもなく、ただ鈍く、硬質な音だった。
熊の身体がぴくりと跳ねて、やがて静止する。
空気が変わった。風の音が戻り、木々がさざめき、鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
命の終わりが、自然の中に溶け込んでいった。
「……終わったぞ」
山岡が短く言って、ワイヤーを外しながら倒れた熊の様子を観察する。
その顔に、驚きや達成感といった色はなかった。あるのは、長年繰り返してきた作業への、職人としての目だった。
山岡が立ち上がり、手で合図を送る。小林は一歩ずつ近づき、熊の姿を真正面から見た。
それは、小林が今まで見たどんな動物よりも大きかった。毛並みは乱れ、罠と暴れた痕跡が体中に残っている。それでも、その巨体は今やただの肉塊であり、山の主だった存在は、命を終えていた。
「冬眠明けにしては、悪くない肉だな。脂もちゃんとある」
呟くようにそう言うと、山岡は熊の肩あたりを押し下げるようにして状態を確認する。
倒れた熊の臭いを確認するようにハチがそっと近くまで寄り、鼻を寄せてから静かに引き下がった。小林も近づき、その額に深く刻まれた銃痕を見つめた。
「これで……卵、守れますね」
思わずこぼれた言葉に、山岡は答えず、ただ小さくうなずいた。
朝の光が木立を抜け、熊の体を静かに照らしていた。森は再び沈黙に包まれ、その中で、三つの影がゆっくりと立ち上がる。
小林は、その光景を見届けながら、自分が今どこにいるのかを改めて実感していた。
文明が崩壊した世界で、生きるということは──こういうことなのだ。