第1話「静寂の朝、遠い叫び」
朝、ガラス越しにぼんやりと光が射しこむ。
木造の山小屋は春の冷え込みがまだ残っていて、目覚めてすぐに布団から出るのは少し勇気がいる。
俺、小林誠はカーテンをそっと開け、静かな外の気配を確かめた。
パンデミックが始まって、もう二年が経つ。
かつては世界中で同時に感染爆発が起き、テレビもラジオも「未曾有の危機」を叫んでいた。
都市は混乱し、脱出する車や人の波、墜落した旅客機、火の手が上がる夜の町……。
今思えば、あの時の自分は何を信じて、どう生き延びられると思っていたのか、よく分からない。
ニュースやSNSで流れてきた断片的な情報では、世界のほとんどの人間が消えたらしい、と言っていた。
正確な数字なんて誰にも分からない。ただ、今この村の外れで、こうして一人きりで朝を迎えていることが、それを何よりも物語っている。
俺が暮らしているのは、かつて村外れに建っていた小さな山小屋だ。
人里から離れた分家の名残らしく、簡素な作りだが、屋根と壁はまだしっかりしている。
水は井戸と雨水タンク、近くを流れる小川(名前は知らないが、地図にはそれらしい川筋が載っていた)からも取れる。
薪ストーブは古いが頼りになるし、倉庫には昔の農機具や使い込まれた道具が残っていた。
もともと母方の祖父母の家で畑仕事を手伝った経験があったし、家事は子どものころから自然と身についていた。
料理も掃除も洗濯も、今では自分でやるしかないから、苦にならない。
パンデミック発生直後、俺は都内にいた。
あの時はとにかく逃げるしかなかった。
電車は止まり、バスは動かず、誰もがパニックになっていた。
たまたまタクシーに相乗りできて何とか都心を抜け出したが、高速のパーキングエリアで他の乗客と離れ離れになり、そのまま一人ぼっちになった。
それからは徒歩と運良く拾えた自転車で山道を進み、夜は道端や廃屋で寝泊まりしながら、ただ人の少ない場所を目指して歩いた。
感染症対策の知識はあったし、YouTubeで得たサバイバルの豆知識も、こういうとき意外と役に立った。
何とか辿り着いたこの小屋で、最初は毎晩怯えながら過ごしていたが、少しずつ暮らしを整え、今はようやく落ち着いて朝を迎えられるようになった。
外の柵越しには、ゾンビが二、三体見える。
パンデミックが始まったばかりの頃、都内の繁華街で発症したばかりの連中を実際に目にした。
発熱と錯乱で絶叫しながら、信じられない速さで走り回り、人を襲い、ガラスを突き破って飛び出していく姿は、今も記憶から消えない。
あの異様な光景に背筋が凍り、俺はとにかくこの場から逃げなければと必死だった。
——あのときの駅前は、地獄だった。
道に横たわる人。叫ぶ女の子。駅ビルの2階から飛び降りてくる人影。
燃える車の向こう側で、誰かが名前を呼んでいた気がするが、振り返る余裕などなかった。
背中を押したのは、生への執着ではなく、恐怖そのものだった。
そしてその恐怖も、いまではもう、遠いどこかに置いてきた。
でも、ここ一年でゾンビの様子は明らかに変わった。
今、柵の外に残っているのは、低体温でぼんやりと徘徊するだけの低活動型ばかりだ。
小さく呻くだけで、昔のような恐怖は感じない。
油断はできないが、今の俺には「静かな隣人」くらいの存在だ。
朝はまず畑に出る。
夜のあいだに降りた霜が、畑の土をうっすらと白く覆っている。
種まきにはまだ早いが、畑の土を耕しながら、春の気配が少しずつ近づいてきていることを実感する。
トマトやジャガイモの種芋、タマネギの苗は、納屋の奥で出番を待っている。
野良猫の足跡が残っているが、ここには猫もペットもいない。
静かな分だけ、時折風の音や小鳥のさえずりが、やけに鮮やかに聞こえる。
食事は昨夜の残りの野菜スープに、トーストしたパン。
倉庫の古いラジオをつけてみる。
雑音混じりのノイズだけ。世界のどこかに人がいるなら、今頃どんな朝を迎えているだろう。
日記をつけるのが日課になった。
もともと研究者気質で、観察したことや思いつきをメモするのが好きだ。
最近の関心は、ゾンビの動きとウイルスの変化について。
空気感染が落ち着いて、今は接触感染だけが残ったという話。
ここに来てから、人と会ったのは一度もない。
それでも、消毒や隔離のルールだけは徹底して守っている。
知識と工夫で、危険は“コントロールできる”と信じている。
午後は、納屋で壊れた道具の修理や、薪割り。
日が高くなると、山の空気がほんの少しだけ暖かくなる。
遠くの林にカラスが飛ぶ影を見つけると、何となくほっとした。
生き物がまだいる、という事実は、不思議な安心感をくれる。
夜はストーブでお湯を沸かし、本を読んで過ごす。
今日は村の図書室から持ってきたガーデニングの本。
ページをめくる手は冷たいが、それも今では心地よい。
かつては、忙しなく生きることがすべてだった。
上昇志向も、競争も、目まぐるしい毎日も、今は全部遠い昔のことのように思える。
パンデミックで全てが壊れ、独りきりで静かな朝を迎える今。
失ったものは多いが、手にした静けさも悪くない。
そう思いながら、俺は日記のページを閉じた。
ゾンビのあとで、この沈黙の庭で。
俺は今日も、静かに生きている。
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2025/7/27 1話のタイトル「沈黙の庭」から「静寂の朝、遠い叫び」に変更しました