9 生贄少女、ちょっと怒る
チビと呼ばれるようになった子どもが夜の国に住み着くようになり、はや一週間。もはや我が物顔で、チビは魔王城の回廊を歩いていた。
生まれてから一度も切ったことがない銀の髪はもさもさしていて足元につきそうなほどの長さだったが、不思議と貧相には見えない。夜の国に来たばかりの頃と比べるとまるで絹のような美しい髪へと変わったチビの頭の上には、フワフワが乗っている。「モッシャ!」とフワフワは嬉しそうにチビの髪を食べて、さらにきらきらに輝かせていた。
「あ……げふ、あ、げふ、あ……うー……」
白いシンプルなワンピースに身を包んでいるチビは、頭の上のフワフワを気にすることなく、何やら咳き込むように声を出してときどき喉に手を当てては難しい顔をしている。
「フワワ~?」
「げふ、あー……。うー……」
チビは、つん、と唇を尖らせて天井を見上げた。魔王城の天井には太い枝がにょきにょきと至る所から生えて緑の葉っぱを揺らしている。魔王城は、一本の大樹を中心として成り立っているのだ。
ふと、まだ固く、小さな蕾を枝の先に見つけた。初めてこの夜の国に訪れたときはそんなものはなかったように思うから、変化がないような夜の国にも季節があることを知り、チビは少しだけ驚いた。
誰とも会話をすることなく生きてきた五年間。
名前もなく、呼ばれても『スペア』という、まるでただの記号のように、人として扱われることのなかった日々。そんな中で自分でも何を思い至ったのか、木箱に乗り込み夜の国の扉を越えて、魔族たちが住む国へとやってきてしまった。
――人生、いろいろ。
まだまだ五年間しか生きていないというのに、チビはしみじみとそう感じていた。腕を組みながら、うむうむと頷きつつ目的地へと近づく。そして目当ての場所にたどり着いたとき、えいや、とばかりに扉を勢いよく両手で押した。魔王城の扉はどれも大きくてチビにはちょっと大変だ。
「ふむーっ!」
ばーん、と両手を広げるがごとく登場した幼女、もといチビであるが、部屋にいた視線が、一斉に彼女に集まった。そこにいるのは魔王の側近である悪魔と、大柄な虎の魔族、ついでにふわふわな犬である。三人、いや二人と一匹は、テーブルの上に置かれた何かに顔を突き合わせていたようだが、チビを振り返りぎょっとした顔をしている。
「あ、ち、チビ!? わふ、わふわふ、チビ、えっとえっと、おはよう、ええっと」
「おお、チビか。何か用でもあるのか? よし、腹が減ったなら飯を作るか!」
「出てお行きなさい。ここはあなたが来るところではありません」
犬の姿のままテジュはわたわたと両腕を動かし肉球をこちらに向けるし、カシロはわざとらしく両手を開いて体を大きく見せている。そしてフォメトリアルはちゃきちゃきと無意味に眼鏡を上下に動かしていた。
「……んぬぅ?」
チビは眉をひそめた。訝しげな顔のまま彼らは何をしているのかとテーブルの上を覗き見ようとする。「わー! 見ちゃだめぇ!」犬の姿のままのテジュが、何かを抱き上げようとし、「こ、このおバカ!」とフォメトリアルが叫ぶ。肉球ではうまく掴むことができなかった『それ』が、ぽーんっと宙を飛んだ。
まるで鳥のごとく、白いそれが飛んだのは一瞬のこと。ばさっ、と音を立てて、チビの前に落っこちる。「ああ……」とカシロが、ふわふわの手で自身の額を押さえるように頭を抱えた。チビは落ちたそれを、じっと見下ろす。
ただの本だった。
開いたページにはたくさんの文字が書かれていて、少しの挿絵もある。なんだこれ、とチビは思った。
「見てはいけないと言ったでしょうッ!」
「ひぴぃ!?」
雷が落ちたような大声で、フォメトリアルは怒りの声を轟かせる。びっくりして、チビは飛び跳ねた。「あ……」と小さくフォメトリアルは声を漏らしたが、チビはじろりと目の前の魔族を睨む。
「……ん、ベーッ!」
そのままじりじりと後ずさり、勢いよく反対に走り去った。
***
あっちに行け、と言われるのはいつものことだ。
汚い、こんなところになんでいる、気味が悪い。
いいや声をかけてくれるのなら、まだマシな方かもしれない。思い出したのは、チビとそっくりなあの人のこと。
チビには双子の兄がいる。双子、というのは一緒に生まれたという意味で、とてもよく似ている人間同士、ということはなんとなく知っていた。
チビはいつも薄汚れた格好でこそこそと小さなネズミのように生きていた。きらびやかな王宮の中で自分だけが切り取られた存在のように感じて、とても不思議だった。ある日のことだ。太陽の影から隠れるように小さくなっていたはずなのに、ふいに眩しさを感じて顔を上げた。王宮の塀の上で、チビと同じような顔をした銀髪の顔の男の子が、こちらを見下ろしていた。
多分、目が合った、と思う。びっくりしてチビが青い目を見開いたとき、男の子はふい、とすぐに塀の向こうに消えていった。双子の兄という言葉を思い出したのは、しばらくたってからのことだ。
初めて会った双子の兄は、チビの存在なんて心の隅っこにも置いていなかった。
「……げふっ」
チビは妙な咳をついて、自分の喉をなでる。
いらない者扱いされるのは慣れている。夜の国にいてもいいと言われたところで仲間に入れてもらうわけではないとわかっていたし、なんてこともない。……と、思っていたところで、むう、とチビはほっぺを膨らませた。
――あざと、に。
三人の魔族たちが顔を突き合わせていた場にはアザト――夜の国の魔王はいなかった。もしかすると、夜を作っている最中なのかもしれないし、執務室にいるのかもしれない。魔王の側近であるフォメトリアルがアザトと一緒にいないのは珍しいが、そういうこともあるだろう。
――みんなのこと、あざと、に、言いつけて……。
そこまで考えて、つん、と顔を上げた。しばらくそうしていた後、ふー……と子どもらしかぬ長いため息をついて下を向く。すると、頭の上にころんっと小さな何かが当たった。「あうっ」フワフワの隣に落ちたらしく、フワフワもびっくりしていた。
こんころ、こんころ。
チビの頭の上に落ちた何かは床の上で何度か跳ねて、ころころと転がった後に止まった。拾ってみると、親指くらいの木の実である。見たことがない種類だが、一体どこから落ちてきたのだろう。
――あれ、ここ、どこだろ……。
顔を上げてきょろきょろ見回してやっと状況を把握した。
部屋から飛び出した後、一体自分がどのようにして魔王城の中を走ったのか、実はよくわかっていない。
チビが不安になって周囲を見ると、城がとても静かなことにも今更気づく。
魔王城の大きな窓からは、まん丸い月が見えた。暗い城の中を照らすため、星の光を入れたカンテラが壁の上部から生えた木の枝にひっかけられ、ぽつり、ぽつりと等間隔に設置されている。
頼りなげなく揺れている、カンテラの中に閉じ込められた星の光たちは、ときおり、ふっ、と蝋燭に息を吹きかけるように消えてしまう。すると、どこからかやってきた黒いモヤモヤたちが、とろりとした蜜のような液体をカンテラに流し入れ蓋を閉じると、蜜はカンテラの中をくるくる回り、次第にまた柔らかな星の光を放つ。外で捕まえた星の明かりなのだと、テジュが言っていたことを思い出した。
真っ直ぐに伸びた、星の川のようにきらきらと輝く夜の回廊を、チビはゆっくりと歩いて渡った。「フワワッ」と頭の上ではフワフワが楽しそうに跳ねている。
魔王城はとても広い。ひと月やそこらいたところで、把握なんてできそうにないくらいに広い。だからとりあえず歩いて進んでみようと考えたチビだったが、大きな両開きの扉の前にたどり着いた。
「…………?」
城の扉は自分にとっては大きすぎると考えていたチビだけれど、眼前のその扉は、いつもの扉のざっと倍はある。もはやハンドルには手が届きそうにもない。さらにおかしなことはそれだけではなく、扉のいたるところに宝石が埋め込まれ、自ら光り輝かんばかりに存在感が溢れている。とても目が痛い。
なんだこれ、とチビは若干の渋い顔をした後にもとの道を辿ろうとしたのだが、その前に扉は重厚な音を立てて、ゆるやかに外向きに開きチビを招いた。
「ぬ、ぬぅ……?」
「あん? 誰か来たワケ?」
そこにいたのは。
つるりとした太い尻尾を持ち、こめかみから一対の角を生やした一人の少年だった。