8 生贄少女は、夢を見る
ばたばたばた、と子どもが短い手足をばたつかせて歩いている。子どもなりの早歩きである。その頭の上には、おなじみのフワフワがいる。落ちないようにと必死に頭に食らいついている。
そのさらに後ろには、緑髪の悪魔がいた。アザトの片腕、一番の従僕。フォメトリアルだ。彼は長い手足で優雅にばたばたと歩く子どものあとを追う。
「お待ちなさい」
いやでござる、とばかりに今度は子どもは全力で走った。しかしやっぱりフォメトリアルはぴったりとついてくる。「待ちなさいと言っているでしょうっ!」雷の魔法を使うような大人気ない、いや悪魔げないことはさすがにしなかったが、さすがの子どももその大声にはびくん、とその場に立ち止まり、おずおずと振り返った。じろりとこちらを見下ろすような視線を把握して、子どもはげっそりとした顔をする。
「……なんですか、その顔は。だから、逃げるのはやめなさい。ここに、こちらに向かって」
腕を組んで、フォメトリアルは眼鏡越しの鋭い目つきを子どもに落とす。「……私は」しかし、すぐに言い淀み、渋面を作り視線をそらした。が、それも一瞬で、真っ直ぐに子どもに向かい合う。
そっと頭を下げる。
「申し訳、ありませんでした。あなたにもあなたの事情があったというのに、愚かな人間と決めつけ、不快な思いをさせたことを謝罪します」
「ぬ」
「いやなんですかその適当な返事は! さぞ気にしてませんよとばかりに! どうでもいいんですけど~的な顔は!」
「ふぬう」
「こら待ちなさい! この夜の国の住人となるからには、スペアなどという愚かな名など許しません! 完璧に最高な、あなたが納得する名をつけてみせますとも!」
「まずは言葉の練習から始めますよ! お待ちなさい!」と指導書を片手に小走りするフォメトリアルから子どもは魔王城の回廊を逃亡する。頭の上のフワフワも、困った困ったとまん丸い体から伸びた細い手足を動かしている。
と、そこで前方からやってきたのはテジュだ。「んは~い、チビー!」と本日はただの犬の姿をしているテジュが、わふわふと四本脚で駆けてきた。
「チビー、チビー! ほんとに城に住むことになったんだよなー! ふわー、うれしいぃ~!」
興奮しすぎたのか、口から舌が漏れている。
ついでに尻尾が残像ができるほどにぶんぶん揺れている。
「ぬ……ぬむ」
「じゃあいっぱいかけっこできるな! かくれんぼにするか!? おれ、めちゃくちゃ上手だぞかくれんぼ! 遊ぼう、遊ぼうな!」
「ぬむ、ぬぬ」
「いいってことか!? いいってことだな!?」
「ぬ、ぬ」
「ほらはっきり言わないとテジュには通じませんよ。そのためにはまず言葉を」
ふふん、と眼鏡のブリッジを上げるフォメトリアルを無視して、子どもは頭に乗っているフワフワを力の限り投擲した。「ふ、フワワ~!?」「わーい、まるいものだ~!!!」「困ったらフワフワを投げるのはやめなさい!」
わいわい、わちゃわちゃ。そこにまたやってきたのは、カシロだ。「お、みんなそろってるな」ふおん、ふおん、と音が鳴るほどに虎の尻尾が楽しそうに揺れていた。
「子どもってのは、甘いものが好きなんだろう? アップルパイを焼いてみたんだが、どうだ? 厨房に行かないか?」
「ぬ!」
「こらあ! なぜ私の話を聞かずにそちらにはほいほい行くのですか! 両手を上げて、全身で喜びを表現しない! わくわくとスキップするんじゃない!」
「はっはっは。そんなに喜ばれると作りがいがあるなあ」
***
「……腹でも、満たしたのか?」
魔王、アザトフィプスの執務室にて、いそいそと子どもがやってくる。るんた、るんたとどこか幸せの音が聞こえてくるような足音だ。アザトの質問に返答することなく、子どもはアザトの膝を狙う。
アザトは子どもが入ったところで手を止めずに、かりかりと書類にペンを走らせた。ペンのインクが滴り、紙をひっかく。窓から差し込む光はかすかな星あかりのみ。
まるで静かな子守唄のような、そんなペンの音を聞きながら、子どもはアザトにもたれ、こっくり、こっくりと船をこぐ。
しばらくアザトの膝の中で眠っていたと思ったら、今度はぱちっと目を覚ました。きょろきょろと周囲を見回した後でほっとしたような顔をする子どもに、「ここは、夜の国だ」とアザトは木漏れ日のような静かな声で、呟くように囁いた。
「お前の国ではない。ずっとこの、夜の国にいたらいい。いつまでも、お前の気が済むまで」
きっと、子どもは夢を見ていた。
誰からも、気づかれない、見向きもされない、透明な人間のように扱われていたあの日々のことを。
顔が隠れるほどの、長い銀の前髪の隙間から幼い顔が覗いた。
可愛らしい丸いほっぺ。つん、と上を向いた愛らしい鼻。宵の夜と、昼間の空を混ぜ合わせたような、美しい青い目が、ゆっくりと見開かれる。
ぱくりと、口を動かした。そこに声はない。
けれども、不思議とアザトは子どもの声が聞こえるような気がした。彼女の首から下げられた星のかけらが、心の声を伝えているのかもしれない。
「……そうか」
ん、とへにゃりと笑った子どもは頷く。
そうした後で、少し考え、くい、とアザトの服を引っ張った。
「……ん? どうした。……お前も、話したいのか?」
子どもの顔はふてくされている。口元を尖らせて不満を表しているようだ。
「たしかに、そうだな。フォメトリアルは少し、押しが強い。あいつも悔やんでいるのだろう。急がずに、少しずつで、いいのではないか」
こくりと頷いた子どもは、ぽてん、とアザトの胸にまたもたれた。「……眠るのか?」しばらくすると、返事の代わりに無防備なほどに気持ちがよさそうな寝息が聞こえてくる。アザトはそっと子どもの頭をなでた後に、書類に向かう。星あかりが、ぽろぽろと部屋にこぼれ、まるでおとぎ話の一ページのように、ゆっくりと時間が流れていく。
ふと、アザトは顔を上げた。
「名が、必要だな……」
どんな名にすべきなのか。まだそれはわからない。けれども必要なように思う。自身が、子どもに『アザト』と呼ばれたとき、胸を駆け上がるような喜びがあった。それこそ、我を忘れてしまうほどに。
壊れた城の修復は骨でできた下級の魔族たちや、闇でできたモヤモヤたちが頑張っているところだ。少しやりすぎたかもしれない、と後悔はしている。
さて、と考え、窓の外を見上げる。暗い闇ばかりが広がる夜の国。そんな中で、子どもが生み出した小さな光を思い出す。
きらきらと輝くような、そんな名がいいと感じた。小さくとも、この夜の国の中でひときわ輝く、太陽のような。
子どもが起きたら話してみようとアザトはまた考えて、書類にペンを走らせる。
知らぬうちに、口元にわずかな微笑みを乗せたまま。
夜の国は、ここにある。ほんの少し扉を抜けただけの、すぐそばに。きっと木箱に入っているうちに勝手にたどり着くだろう。
そこにいるのは冷たくて、怖くて、恐ろしい魔族たち。けれども、温かで、柔らかで、賑やかな魔族たち。
楽しい日々が、待っているに違いない。