7 生贄少女と、魔王様
たったのひと月。けれども人間の子どもにとってはきっと大きな時間だった。ぼさぼさだった銀の髪はつやつやと輝き、痩せこけて枯れ枝のようであった手足はほんの少しふっくらとして、いつの間にか随分と愛らしい姿に変わっていた。だというのに、人の子に与える服など魔族は持っていないから、着ているものは貧相な白いワンピースと、首には石ころのような、もとは星のかけらであるネックレスをかけているだけだ。
なぜだか魔王はその子どもを気の毒に感じたが、人の国の方がよっぽど子どもを可愛がってやるに違いない、とそのときを待った。だんだんと、日が過ぎるごとに落ち込むように顔を曇らせる子どもには気づかずに。
とうとう、その日がやってきた。
玉座の間にはイリオルル国の使者たちと、フォメトリアルやテジュ、カシロ、そして下級魔族たちがずらりと並び、魔王はその多くを睥睨した。隣には、子どもを立たせた。
「よ、夜の国の魔王様とお会いできるとは、光栄の極みでございまして……」
常であるのならば、貢ぎ物を送り届けた人間たちとは顔を合わせずに帰らせる。人間たちは魔族に怯えていたが、絶好の機会であるとも思っているのだろう。次第に使者の口調は饒舌に変わっていき、夜の国の王を褒め称えた。同時に自身の国を売り込み、魔族の力を借りようとしているのは目に見えたため、「そこまででよい」と使者の口上を切り上げさせる。
魔王の言葉を聞き、使者の男はぴ、と即座に口をつぐんだ。
「それよりも、だ。そなたらは一体何を考えておるのか。我らが夜の国は、このような貢ぎ物を求めてはいない。二度と送ってはこぬように」
「は……え、あっ、左様でございますか。お口には合いませんでしたか」
「合うわけがないだろう」
「し、失礼いたしました。我が国で採れた、希少な作物でしたので、ぜひにと思ったのですが、今後はこのようなものを送らぬようにと申し伝えます」
何やら会話が噛み合っていない。奇妙な感覚のまま、魔王は隣に立つ子どもに「行け」と静かに伝えた。子どもは魔王を振り返ったが、魔王は首を横に振る。すると諦めたようにどこか薄暗い表情のまま、子どもはゆっくりと壇上を降りていく。
「送られてきたものは、この人間だ。見覚えがあるだろう。貴国の、王の娘ではないか?」
「え……?」
ひと月の間に、印象が変わったからだろうか。すぐ近くにいるはずの子どもの姿を使者は訝しげに見つめる。魔王以外の魔族たちも、使者の行動に懸念を持っているらしい。フォメトリアルは、特に苛立った表情をしている。「魔王様の手を煩わせるなど……」とぶつぶつと文句のようなものまで聞こえた。
「銀髪、そして、青目……!?」
しかし、自国の王族と同じ色合いであると、やっとのことで気がついたらしい。「ああ!」と、ぽんと使者は手を打った。やっと話が通じたのか、とどこかほっとするように肘掛けを握りしめていた手から力を抜く。知らぬ間に、力が入っていたようだ。
「スペアではありませんか!」
「……スペア?」
なんのことだ、と魔王は眉間に皺を寄せる。
「その者の名は、ペアではないのか?」
「ペア……? いいえ、スペアです。そもそも、そう呼ばれているだけで、名もありません。我が国王と王妃の間に生まれた娘に違いはありませんが……男女の双子で生まれたのです。我が国では王位継承権は男に優先的に与えられますから、女はそれほど重要視されません。その上、王族は魔法を使えねばならぬところを、そこのスペアは、小さな明かりを生み出す魔法のみしか使えないという役立たずで……」
じろり、と使者が視線を向けると、ただでさえ小さな子どもは、さらに小さくなるようにうつむき、じっと自身の足を見つめていた。
「明かりを生み出したところで、一体なんの意味があるというのか……太陽など、何もせずとも毎日勝手に出てくるものではありませんか。城ではやっかい者として扱われております。そういえば、ここしばらく姿が見えないと思ったら、こんなところに忍び込んでいたのですね」
呆れたように、使者は息を吐き出す。
魔王は、ただ呆気に取られていた。どくり、と心臓が音を立てる。驚き、自身の胸に手を当てた。感情が、暴れている。いいや違う、流れ込む。子どもの小さな背中が見える。からからと、子どもの胸で星のかけらが震えていた。うなだれる子どもの心が、魔王の中に流れ込む。ぽろぽろ、ころころと心のかけらが。
きっと、これは悲しさ。
そうなのだろうか?
そうだ、悲しい。とても悲しかった。【私】は、ずっと寂しかった。
――兄がいると聞いた。けれどもちゃんと話したことはない。父親は王様だそうだけれど、会ったこともない。お母さんは、死んでしまったらしい。普通の人には、そういった家族というものがあるのだと知って、興味がなかったといえば嘘ではない。
『なんだこいつ! 邪魔だな、あっちに行け!』
『王族と同じ色だってのに、ろくな魔法も使えないだなんて……蹴っても何も言わないし、気味が悪い』
ころん、と転げた格好のまま大人たちを見上げる。私のほっぺたはいつも泥だらけだ。
ご飯をもらえないのはいつものことだし、役立たずだと言われたり、見ないふりされたりするのもいつものことだ。だから別に気になりはしないけれど、少しくらい誰かの役に立ってみたいな、と思った。
名前はないし、あっても『スペア』と呼ばれるだけ。
自分なんてどこにもない。そんなのちょっと寂しいな、とある日ふと思ったのだ。じゃあ私に、何ができるかなと考えたとき、『魔王』と呼ばれる存在がいるのだと知った。『魔王』がいる国には、いつも『貢ぎ物』が届けられているらしい。魔王様に捧げるためにと準備された木箱を見て、私も魔王様のもとでなら役に立てないかな、と考えた。
そう考えたら我慢ができなくなって、ある日の夜、木箱の中にこっそりと入り込んだ。自分が初めて誰かの役に立てるかもしれないと思うとわくわくして、どきどきした。木箱の中に入っていたフルーツは、移動をする間にこっそり全部食べてしまった。とっても美味しかった。
木箱の中は真っ暗闇で、ちっとも光が差さないから少しだけ怖かったけれど、久しぶりにお腹がいっぱいになったから、ごとごと揺られているうちに眠ってしまった。次に目をあけたとき、誰かの話し声がした。魔王様に会えるかな。この人が魔王様かな。
夜の国はどきどきして、わくわくして、でも少しだけ怖くもあって。
すごくすごく、楽しくって。
「あ……」
「まったく、この恥さらしが! 汚らわしいその口を開くな!」
びくん、と子どもの肩が震える。ひ、と子どもはしわがれた自分の声を隠すように、口元を手で覆い隠す。
魔族たちがざわつき、お互いに顔を見合わせていた。甘やかされて育ったのでしょう、とうそぶいていたフォメトリアルは、大きく目を見開き、まるで時間が止まったかのように息の一つもできていない。テジュは犬歯をむき出しにするように唸り、カシロは毛を逆立て使者を威嚇した。
その異様な空気に使者や、それに追随する人間たちは怯える。
「な……一体、皆様、何を……スペア! お、お前のせいだろう! こんなところまで来て、我らに迷惑をかけて……!」
「ひっ」
使者は子どもの手を力尽くで引いた。そのときさらに膨れ上がった殺気は、一体誰のものか。
魔王は、とうとう気がついたのだ。子どもは話さないのではなく、話せないから。言葉を教えてもらっていないから。いや、こうして話すことを禁じられていたから。子どもらしくないしゃがれた声は、喉を使うことがなかったから。
けれども。
「ま」
小さな声が、唇が、震えた。
「ま、まおーーーーーーーー! アザ、ト!」
嫌だ、と力いっぱい使者の手から抵抗する。
じたばたと暴れ、騒ぐなと使者が拳を振り上げたとき、ばきり、と玉座の肘掛けが壊れ落ちた。
幼い体で必死に助けてくれと、子どもが叫んでいる。アザトと、彼自身の名を呼んでいると意識した途端、恐るべきほどに感情が爆ぜた。魔族たちが食い殺さんとばかりに吠え、子どもの頭に乗ったフワフワが、子どもを必死に引っ張っている。
そうだ、これは自身の怒りだと知ったとき、大気が振動した。がらがらと城が揺れ、崩れる。大樹がざあざあと落葉し、逃げろと人間の使者たちが叫び、悲鳴を上げている。
「――去ね!」
ただの言葉一つ。
しかしそれは深い闇の底から吐き出されたような、神からの啓示と同等だ。
人間たちは、散り散りとなって逃げ去った。怯え、恐れ、これからは眠れぬ夜を過ごすであろう。なぜなら彼らは夜の国から弾き出されたのだから。
知らぬうちに、魔王は、アザトは、子どもを抱きしめていた。ぐずぐずと子どもは鼻をぐずって、顔を真っ赤にさせて魔王の胸に顔を埋めている。いくつもいくつも、幼い目から涙がせり上がり、ぽろぽろとこぼしてアザトの服を濡らす。
「あざ、あ、あざ、アザ、ト……」
なんだ、と問いかけてやる代わりに、何度も幼い頭を柔らかくなでた。
「い、いっしょ、い、いっしょ、に……」
このしわがれた子どもの声を聞く度に、どうにも胸が苦しくなる。
どうしてこの子どもが、このように泣かねばならぬのだろう。
どうして、自身の気持ちすらも満足に言葉を落とせぬのだろう。
子どもの首から下げた星のかけらが、不思議ときらきらと輝いている。子どもからの心のかけらが、そうっとアザトに言葉を伝える。それはただ泣きじゃくる彼女とは異なり、温かな、何か。
(まったく、人間は愚かだ)
アザトは、そう思う。
ほんの少しの明かりしか生み出せぬという子どもの魔法。空にいつでも太陽があるのだからと使者はせせら笑ったが、この国には、そんなものはありはしない。
空にあるものは、柔らかな月と、こぼれ落ちるような小さな星々だけだ。
誰にも負けることなく、消えもせず、ただ己の力のみで輝く明かりなど、この国にはありはしない。
(こんな温かなものが、ありきたりなものであるはずが、ないだろう……)
一緒にいたい、と体で叫ぶ子どもを、アザトはただ抱きしめた。