33 星喰の日
***
今日は星喰の日だ、と誰かが言っていた。
城を歩けば至る所で聞こえる言葉だから、チビはもう、誰が話していたのかもわからなくなってしまった。もしかしたら、会った全員が言っていたのかもしれない。
「ほし、くい……?」
夜の国の、星がなくなってしまうなんて大変だ。
ただでさえ真っ暗な国なのに、もっと真っ暗になってしまう。それってもう、何も見えなくなってしまうんじゃないだろうかとチビはとても心配な気分になってきた。
だからなのか、魔族たちは「今日はもう、部屋にこもって寝ることにする」と口々に言っていて、モヤモヤでさえもだんだん姿を消していく。
ついさっき、フォメトリアルに出会ったのだが、『今日のお勉強はお休みとします』と律儀に声をかけてくれた。ちなみにそのときのフォメトリアルの服装は、水玉のパジャマであり頭にはナイトキャップを被っていた。
まだまだ知らないことはいっぱいあるのだなあ、とチビはなんとも言えない気持ちになった。
「……部屋、いく?」
チビの頭に上にのったフワフワに尋ねると「フワワ~?」と、どちらでもいいとでも言うように、ゆらゆらと揺れている。
いつもはアザトの部屋で一緒に寝ているチビなのだが、チビの部屋もちゃんと用意されているのだ。アザトは最近忙しいのかめっきり姿を見せず、ちょっと寂しいが仕方ない。
「――――」
「…………?」
そのときである。チビは自分の『名』を呼ばれたような気がして、振り向いた。そうした後で、どうしてそんなことを思ったんだろう? と首を傾げた。なんせチビには、名前なんてないのだから。
それじゃあもしかして、誰かに『チビ』と呼ばれたのだろうかと考えたが、それも違う気がする。
「……アザト!」
うーん? と体と首を斜めにさせて考えていると、ちょうど回廊の端っこに、見覚えのある影を見つけた。アザトもチビを見つけてくれていたらしく、迷いのない足取りで近づいてくる。
「アザト、お仕事、おわった?」
「……ああ」
たまらず足に抱きつき見上げると、どこか硬い表情でアザトは首肯した。
アザトはあまり大きく表情を変えることはないのだが、もうなんとなく、チビは変化のない彼の表情を読み取ることができるようになっていた。
「……どうか、した?」
「…………」
アザトは答えなかった。
代わりに、ゆっくりと膝を折って、いつかのフォメトリアルと同じように、チビの目を真っ直ぐに見てくれる。
「……少し……外に、行かぬか」
そう、告げた。
***
「ほしくいの日、外……でても、いい?」
「……ああ」
耳をなでる風が、さらさらと波のように草原を駆け抜けていく。
いつかの日、アザトがチビに星の石をくれた草原で、草をかき分けるようにアザトは歩き、その後ろをチビが歩く。フワフワも、チビの頭の上に乗ったままだ。
星喰の日なのだから、フワフワは待っていてもいいと伝えたのだけれど、「フッワワ~!」と返事にもならないような返事で拒否されてしまった。今もぱたぱたと楽しそうに細い手足を動かしている。
――アザト、どう、したんだろう……。
アザトの口数が少ないのはいつものことだが、沈黙を不安に思ったことはない。
ざわざわと胸の奥が不安を叫ぶ。
「星喰の日とは、夜の国と、人間の国を繋ぐ扉が……もっとも大きく開く日の、ことだ」
「もっとも、おおきく……?」
アザトはぽそり、ぽそりと話す。けれど振り返ることはない。
どこまで歩くのだろう。
このままいつまでも、どこまでも歩くような気がして、少し怖くなってしまう。
――こっち、向いてほしい。
そうすれば、こんな不安なんて簡単に吹き飛ぶのに。
どうして振り向いてくれないんだろう。
「夜の国は、生と死の国でも、ある。テジュのように、人と同じように年を取り、世代を重ねる種族もいるが、多くの魔族は死ぬと、新たに同じ役割の者が、同じ場所に生まれる。カシロたちの、ように。しかし人は死ぬと、必ず夜の国を通り、次の新たな生を得る必要がある。人は、それを、輪廻と……呼ぶ」
「…………」
アザトは、チビの父の輪廻を閉ざした。夜の王である彼は、それをすることができる力がある。
会ったこともない父について、多くの感情をチビは持たない。ただじっと、アザトの話を聞いた。そして、どうしてその話を自分に聞かせるのかということを考えた。
どくん、どくんと心臓が大きな音を立てている。
体を蝕むような恐怖がじわじわと背中まで這い上がる。どうして自分はこんなに怯えているんだろう。何を恐れているんだろう。
――出ていけと、言われたらどうしよう。
ふと、理解した。
アザトは、心を閉ざしているのだと。チビに、自身の心情が伝わぬようにと、声を平坦に吐き出し、表情を見せぬように前を向いて、歩き続けている。
だから怖い。彼が、何を伝えようとしているのか、わからないことがとても怖い。
もし、この国から出ていけと言われてしまったらと欠片でも考えてしまうのは、きっとチビが一番恐れていることだから。
だって、もうここは、チビの居場所だから。
なくてはならない、自分の場所なのだから。
「星が、喰われる。――前を、見なさい」
知らぬうちに伏せていた顔をゆるゆると上げ、チビは言葉を失った。
赤い光が地平線から覗き、星が少しずつ喰われていく。紺色の闇が、ゆっくりとカーテンを開くようにひらひらと躍り、流れる風とともに朝焼けの光が入り交じる。チビの青い瞳が消えた星のきらめきを探して、一面に広がる黄金の光を映し出す。瞬く度に、瞳の中の星が弾ける。
そこにあるのは明るい、朝焼けの空だ。
「きれ、い……」
本当に、美しかった。
まるで今ここに世界が生まれたかのような、ぴかぴかの朝の空。
知らぬ間に風は止んでいた。星が喰われてしまったのだ。
星が喰われ、そして朝が来た。星がなくなるのだから、暗くなってしまうと考えていたのは、ただの勘違いだったことに驚いた。
「あ、アザト……」
駆け出して、腕を広げて前を見た。嬉しくなって振り返ると、アザトは静かな瞳でチビを見つめていた。いいや違う。彼が見ているのはチビではない。チビの、そのさらに背中を――。
また勢いよく振り返る。すると黒く長い影が、真っ直ぐに伸びている。そのおかしさを理解したのは、しばらく立ってから。太陽が、目の前にいるのに。チビの影は、真っ直ぐに太陽へと伸びている。
ぞっとするような光景だった。それなのに、不思議と怖くはなかった。懐かしささえ感じた。
「……ギギは、夜の国の中心に存在する。あれは入り口と、出口を塞いでいるのだ。私と対となる、この国の魂の番人」
チビの頭につけたニアの花が、かすかに揺れる。ギギが与えた赤い花だ。
「その花を通じて、あの者の声を聞いた。私には、あの者の姿が見える。もうこの世にはいない。本来ならすでに新たな輪廻を回るはずだったろうに、この場に留まっていたようだ」
アザトは、ゆっくりとチビの影の向こうに指を向ける。見えない。
姿なんて、何も見えない。
「あれは、死んだお前の母だ」
『――――』
名前を、呼ばれた。
ただチビは瞠目した。理由もわからず、足を踏み出す。そこにいるのだろうか。会ったことも、話したこともない。チビと兄を産んで死んでしまった人。
「……おかあ、さん?」
***
アザトには、一人の女の姿が見えた。
それは星喰の日が近づくほどに濃く、存在を主張する。チビとよく似た顔つきで、同じ髪色。チビの兄であるアレクシスとも、よく似ている。
『あの子に、会いたい』
そう話されたところで、アザトにはどうすることもできない。
死者と生者は、もはや別の生き物なのだから。
『あんなに小さな子を、守ることができなかった。お願い、会いたいの、あの子に会わせて』
お願いだと手を合わせて、許しを乞うようにうつむく女を、アザトはただ見下ろした。
わからない。
チビとともにいることで、人の心を知った。だからこそアザトにはわからない。
チビは、母と会うことを望むだろうか。人の心は複雑で、だからこそ愛おしい。
間違えることが恐ろしい。嫌われることも恐ろしい。ましてや悲しませることも。
これは、本当に正しい行いなのだろうか。
聞こえもせず、会えもしない母と、言葉を交わすことなど、必要なことなのだろうか。
きっと、答えなどどこにもない。
「……ほんとうに、おかあさん、いるの?」
『ああ、大きくなったねえ、大きくなったね……』
「ど、どこに? どこに、いるの?」
『ごめんね、助けてあげられなくて、ごめんね』
「わから、ない、わかんない! どこ、なの!?」
『どうして私、死んじゃったんだろう。こんな可愛い子を残して、どうして……』
「あ、アザト、どうしよう! 聞こえないよぉ、なにも、聞こえないよぉ!」
『アレクシスを、あなたの兄を、ここに呼んだの。なんとか、それだけはできた』
「わ、わたし、お話、へただから、きっと、話しても、つたわんない!」
『頑張ったね、本当に頑張ったね。あなたのこと、ずっと見てたよ』
「おかあさん、わたしが、いるって、わかんない!」
『聞こえてるよ。大丈夫だよ。頑張ったね、頑張ったよね……それだけ、ずっと、伝えたくて……』
「どうしよう、アザトぉおおお!!!」
なんて滑稽なのだろう。
なんて愚かなのだろう。
聞こえぬ母の声に娘は泣きじゃくり、母も同じように涙をこぼして必死に娘を抱きしめる。けれど、そのぬくもりは伝わらない。
――愚かなのは、私だ。
わかっていたことだ。いっときの感情を優先し、ただの悲劇を作り出した。少しずつ、影は細くなり、消えていく。チビは虚空を抱くように手を伸ばし、掻き消えた影を呆然と見下ろす。
「……次の、生へ飛び立ったのだろう。もともと、留まるべきではない、魂だった」
チビは強く唇を噛み締め、ぼろぼろと涙をこぼした。
これほどまでに彼女が泣くのは初めてのことだ。いいや、一度だけ。一緒にいたいとアザトに叫んだあの日のことを思い出す。
あの苦しさを、もう味わわせまいと誓っていたのに。
あまりにも、己が無力だった。
チビは顔を伏せたまま、肩を震わせ泣き続けた。
「わた、し……ずっと、さみしいのは、ちょっとだけって、思ってた」
けれども聞こえる嗚咽は次第に小さくなり、鼻を赤くしたままチビは少しずつ言葉を落とす。アザトは片眉を上げて、チビの話を待った。
「夜の国、の前。おしろ、に、いたとき。さみしかったから、箱に入って、この国に、きた。さみしいのは、少しだけと、思ってた。でも、ちがった。すごく、すごく、さみし、かった。さみしいの、わからな、かった」
「…………」
「夜の国、楽しい。さみしくない。楽しい、知らないと、さみしいも、わからない。さみしいの、知ったの、みんなのおかげ。みんながいて、いま、すごく、楽しいから」
ゆっくりと、チビは顔を上げる。
「いっしょに、いてくれて、ありがとう」
向けられた笑みに、どれほどの驚きがあったのか、チビにはきっとわからない。
屈託のない温かなこの笑みを、アザトはきっと一生忘れることがないだろう。
失っていた言葉を呑み込むように、アザトはゆっくりとチビに近づく。いまだに涙と鼻水で濡れたぐちゃぐちゃな顔を隠したがるチビの小さな両手を取る。
「魔力を」
「……ぬ、ぬう?」
「魔力を、この手に」
「わ、わかんな……」
「明かりを灯すときと、同じだ。……お前の母からの、贈り物が、もう一つある」
チビはもともと大きな目をぱっと見開いて、無意識にアザトの手を強く掴む。アザトにとっては痛くも痒くもないその力が、愛らしくて、わずかな微笑を浮かべる。チビはといえば、口を尖らせてうーうー唸りながら、魔力の出し方を探っている。
「こ、こう!」
温かな光が辺りを包んだ。それと同じく、不思議な光景が周囲に広がっていく。「え」チビは驚きに目を大きくさせて、辺りを見回す。チビとアザトを基点として、みるみるうちに花の蕾が膨らみ、開き、赤い花の絨毯の中にいるかのようだ。
それは、チビの髪に飾られてる花と同じで――。
「ぜんぶ、ニアのはな!」
「ああ。ニアの花は、わずかな明かりに反応して、花開く。夜の偽りの空では、開かぬ。お前の、明かりを作る魔法のみ、この国では、咲かせることができる……」
一体どこまで続いていくのかというほどに、赤い花は次々に花開く。「ははあ……」と、チビは理解しているのかいないのか、よくわからない顔でぼんやりと辺りを見回している。
「これが、お前の名だ」
「ははあ……」
やはりよくわかっていないらしい。「なまえ!」しかし一拍間をおいて、さすがに反応した。「なまえ……!?」今度は無意味に首を振って、上を向いて、ぎょぎょっとした顔をしている。朝の空は、いつの間にか青く広がり明るい光を花畑に落としている。
「――ニアフェリシア、と。生まれたら、そう名付けるつもりだったそうだ」
もう、彼女は、チビではなく。
「にあ、ふぇりしあ……」
チビは、いいや、ニアフェリシア――ニアは、自身の名前を何度も噛みしめるように繰り返し、「へへ」と照れ笑いのように首を傾げた。
「かぞく、名前、つけてくれてた。うれし……。……でも、もう、いない」
得たときと、失ったとき。それが同時ならば、不思議と喪失感だけが深くなる。わずかに寂しさをにじませた顔で、ニアは揺れる赤い花に視線を落とした。
アザトも、何も言うことなく彼女の横顔を見つめていたとき。
「そんならさー! おれたちが家族になりゃいーんじゃない?」
ずぼっと近くの花畑から元気な声の主が飛び出した。もちろんテジュである。
「……テジュ!? ほ、ほしくいの日! なんで、いる!?」
「いや? 別に星喰の日だからって部屋にいなきゃいけないわけじゃねーよ? あれだよ、魔族にとって朝は夜だから。眠いからみんな寝てるだけー」
そうなの? とばかりに大きな目をこちらに向けるニアに、そうだとアザトは首肯する。魔族という生き物はみんな適当なのである。
実は最初からずっとテジュがくっついてきていたのだが、アザトは見ないふりをしていた。
「っていうかチビ……じゃなかった。ニアだっけ。ニアの家族がいないってんならさ! おれたちが、なりゃいーじゃん。たとえば魔王様の娘とか」
あっけらかんとした笑うテジュの話があまりにも想定外で、ニアは何度も瞬きをする。
「娘以外でもさ、カシロの妹でもさ、フォメトリアルの飼い主とかさー」
その理屈だとフォメトリアルはニアのペットである。
「……おれの嫁でもいいんだぜ?」
「ぬ!」
「あいたァ!」
最後にぽそっとチビの耳に囁くように話した言葉に反応して、チビは即座に頭突きをした。
テジュは「いやあん」と言いながら耳をぺったんこにして自分の顎をなでている。
「兄、もういる! アレク!」
「たしかにそっか。でもいーじゃん! 家族が何人いてもさ! そっちの方が、楽しいよ!」
テジュは力いっぱいに両手を広げて、くるりと回った。
そうすると、勢いよく巻かれた花の雨が散る。テジュの胸を叩いて文句を言っていたニアも一緒に巻き込まれて、ほわほわの絨毯に落っこちそうになったところを、アザトが二人を持ち上げる。
二人一緒に抱き上げられると、子どもたちは互いにきょとんと目を見合わせて、何がおかしいのかくつくつと肩を揺らし、次第に大声で笑い始めた。
腕の中で笑う子どもたちと一緒にいると、わけもわからず心が揺れる。アザトも、同じように笑っている。大声で、青い空の下で。みんながみんな、笑っている。