32 生贄少女と、小さな魔法
それはあまりにも一瞬のことだった。
「無事、か?」
チビを片手で抱き上げたアザトが、もう片方の手をシトラに向け、アザトの魔法が、シトラの氷を破壊したのだ。
チビは目を大きく見開いてアザトを見上げた後に、問いかけられたことに遅れて気づいて、慌ててコクコクと何度も頷く。ちらりとチビに視線を落としていたアザトは、わずかに口元に笑みをのせた。すぐにまたシトラを鋭い眼光を向ける。
チビは、ぱっと頬を染めた。
チビの髪に飾られたニアの花が、ちらちらと月明かりを反射して、わずかに風で揺れている。
「魔王様ァ!? も、ももも、申し訳、申し訳ございませんんん!!!」
「大事ない」
魔族たちの誰かが反応するよりも早くシトラの魔法を破壊したアザトは、淡々と返事をする。フォメトリアルはあわあわと両手を動かし、ついでに頭を押さえてそのままぶんぶんと上半身を揺らしている。動揺しているらしい。
魔法を破壊されたシトラは、怒りをあらわにするかと思いきや、震えるように自身の手を持ち上げ、瞠目した。中庭の惨状を見回して把握し、顔をひきつかせる。まるで、泣き出す一歩手前のような、そんな表情のように見えたが、彼はすぐにうつむき顔を覆ってしまったので、チビにはよくわからなかった。
「…………」
シトラはただ無言で、両手で顔を覆った。
アザトは、何も言わない。チビはシトラとアザトを何度か見比べるように視線を移動させて、アザトの服を引っ張り、地面に下ろしてもらった。
パーティー会場は、すっかりぐちゃぐちゃになっている。飾り付けは風に飛ばされてどこかに消え、カンテラの炎も消えてしまったのでとても薄暗い。さらにアザトに砕かれてしまったとはいえ、シトラが作り出した大きな氷が、いたるところに地面から生えてテーブルをひっくり返し、細工を彫った細い棒が、草の上に転がっている。
「……シトラ」
しん、と誰もが口を閉ざしていた。その中で、カシロは落ちた細い棒を拾い持ち上げ、目を伏せるように静かに自身の手元を見つめた。そして顔を上げ、シトラの名を呼ぶ。
けれどシトラは、カシロの声などまるで聞こえていないかのようにぴくりとも動きはしなかった。
「本当は、俺が出ていくべきなんだ…」
「シトラ」
「ほ、本当は、わかってんだ。ここは、魔王城で、俺がいていい場所じゃねぇ。俺の場所だと、言うのは間違ってるって。でも、カシロを、奪われて、馬鹿にされて、全部を奪われたと思うと、カッとなっちまって……」
「……シトラ」
「だから本当は、カシロ、お前じゃなくて、俺が森から出ていくべきだったんだ! こ、こんな、自分の魔法も、まともに使えない俺なんかよりも!」
「シトラッ!」
びくんっ、とシトラが飛び跳ねるように顔を上げる。カシロと見つめ合った。幼い子どものような表情で、自身の兄を見つめる。
「俺たちは、城のやつらは、お前を馬鹿にしたわけじゃない。これは人間の『パーティー』ってやつで、宴みたいなもんだ。飾り付けて、食事を並べて、お前の歓迎の祝いをしたかっただけなんだよ」
「…………」
ぴんと張り詰めた糸のような空気は、すぐに四散した。カシロは手に持っていた二本の棒を広げて見せて柔らかく微笑む。
「これは、『箸』というものらしい。最近、人間の商人とちょこちょこと取引をしててな。国によっては、フォークやスプーンの代わりに使うこともあるんだと。コツがいるから、使えないやつの方が多いんだが、せっかくだしと食堂に置いてたんだ」
おはし、と小さな声を出してチビも落ちていた細い棒を拾った。どうやって使うんだろうと想像したが、難しくてやっぱりわからない。
「そしたら、シトラ、お前が持っていったというから。……何に使うのかも知らないんだろうなと思ったが、チビがくれたお前の彫り細工を見たら、嬉しくなっちまってな。今日も勝手に並べちまった。……悪かったな。馬鹿にしたわけじゃ、ねぇんだよ」
「…………!」
シトラはくしゃりと表情を崩した。
今すぐに泣き出してしまいそうな、そんな顔だ。目を瞑って、苦しそうに唸る。「俺……」いいや、本当に泣いているのかもしれない。「また、勝手に……こんなに、ぐしゃぐしゃにしちまって……」
せっかくの気持ちを、無下にしてしまって。
そう、彼が言おうとしているのがわかった。「ち、ちがう!」そしたら勝手に自分の口が叫んでいた。魔族たちの視線が一斉に自分に集まるのを感じて、チビはぶるりと身震いしたが、すぐに首を勢いよく横に振って、もっと大きな声を出すべく力を入れる。
「だいじょお、ぶ! まだ、なんとか……なる!」
「なんとかって……」
「料理、ぶじ!」
ビシッとチビが勢いよく後方を指差すと、シトラがぎょっとした顔をする。するとチビが指をさした場所の魔族たちが、『イエーイッ!』と声を合わせて返事をした。みんな両手にはテーブルから落ちたはずの鍋や皿や酒を掲げている。うむうむ、とチビが頷く。「とても、よし!」と褒めるのももちろん忘れず。
「気持ち、げんき!」
今度は両手を広げた。先程までの流れからか、さらに大勢の魔族たちが『ウイーッ!』とそれぞれの声で返事をして夜の空を揺らめくほどの大声を叫ぶ。シトラはぽかんと目を丸くしている。
「い、いやでも、こんな、俺の氷でぐしゃぐしゃになっちまってるし……。自分で出した氷を溶かすことができても、水にすることしかできねぇから、あとはびしゃびしゃにするしか……。俺、こんな、全部を台無しにしちまっ」
チビはシトラの言葉を力強く手のひらを向けて制止させる。「ふっふっふっふ……」そしてなぜか黒々しいオーラを感じるような、とても怪しげな笑いで口元を歪めている。チビが何を話し出すのか、誰にも予想がつかないためか、魔族たちはちょっと引いてチビの様子を窺っている。
「氷! まかせる!」
そう言って突き出したのは、なぜかシトラが細工を彫った、『箸』である。
「これ、すてき。みんなで氷も、彫る。きらきら、素敵なパーティー、なる!」
「彫る……? さっきは魔王に砕かれちまったけど、あんなこと、普通の魔族はできねぇぞ……? かといって、出した氷を柔らかくするなんて器用なことは俺にはできねぇし……」
「だいじょお、ぶ!」
今度はさっきよりも元気な『大丈夫』でチビは主張した。
――なんせ、チビは魔法を持っている。
それは小さな明かりを生み出すという、チンケな魔法。
生まれた国では役立たずだと嘲られた、無意味な魔法だ。
けれど、この国なら。
この、夜の国なら。
「氷、ちょっとだけ、とかすくらい、できる!」
チビの手から生み出された光は、魔族たちに、優しく温かな光が降り注いだ。
おおお、と感嘆の声がさざなみのように広がっていく。
――とてもちっぽけな明かりは、少しだけ温かくなるだけの頼りない輝きなのに、どうしてこんなにも柔らかく胸に響くのか。
暗い夜空を背景に、シトラは小さな少女を見つめる。
にかっ、と少女は笑った。星屑のような輝きをまとって、白いワンピースを風の中で揺らした。きらきらと、シトラの瞳の中で、きっとたくさんの星がこぼれていた。




