27 虎と、虎
赤い小さな炎が、ちらりと見えた。「あれは……」と、闇の中で、白い影がうごめいた。気のせいだろうかと白い影は、目をすがめる。ちらり、ちらちら……揺れるような炎が、ときおり消えて、また明るく周囲を照らしている。
見間違いでは、ない。
吐息のように、小さな声が白い影から漏れ出た。
「カシロ、か……?」
***
「むふん……」と、どこか満足げな顔をしている銀髪の少女、チビ。彼女はとっても楽しそうにぱたぱたと足を揺らしてこの国の王――アザトフィプスの膝の上に乗っていた。アザトはチビの存在を気にすることなく、ペンを動かし、書類の確認を続けている。
チビがこの国に来てからというもの、もう三ヶ月。ぼろぼろの服を着た薄汚れた姿の少女だったが、今は清潔な服を着て、つるりと健康な肌をしている。
この国に来て、たくさんのことがあったような気がする。
王族の双子の妹として生まれ、明かりを生み出すという魔法しか持たないがために無意味な存在だと扱われたチビは魔王の役に立つべく夜の国に潜り込み、滞在することを許可してもらい、いつしかチビと呼ばれ、たくさんの魔族と出会い、パーティーを開いて、ついでに話したこともない兄と話す機会まで得てしまった。
本当にたくさんのことがあったんだな、と改めて思い出して、チビはびっくりした。
自分の髪にさした赤い花飾りをちょいちょい、と指の先でいじる。これは、ニアの花というらしい。ギギという大きな木の魔族にもらったものである。
「チビ、あなたはまた魔王様の邪魔をして……」
「むふん……」
ノックをして入ってきたフォメトリアルが、アザトの膝に座るチビを見て顔をしかめている。フォメトリアルは小脇に抱えた本を持ち直して、「まったくあなたは」とため息をついた。
「私は、構わない、が」
「むふーっ!」
満足げを通り越して、チビはだんだん自慢げな顔になっている。「魔王様がそうおっしゃるのでしたら、問題ございませんが……」とフォメトリアルは区切って、「ではそのままで失礼しまして。魔王様、少し横に書類を横にずらしていただいても?」と、片手で持っていた本を掲げる。
『はじめてのごあいさつ ~たのしいことば1~』
明らかに幼児用、かつ人間の知育絵本である。しかもシリーズものである。
アザトはフォメトリアルの言葉通りに、机にのせていた書類を静かに移動させる。その場所に、さっと絵本が差し込まれた。
「ではチビ。そのままで結構です。お勉強の時間といたしましょう」
「ぬ、ぬぬぬ!?」
この男、どんどん柔軟になっている。
そんなまさかと右に左にと視線を見回して、さらに上を見てわたわたするチビを、フォメトリアルは「ハッ!」と嘲笑うかのごとく嬉しそうに眼鏡を動かす。
「魔王様が大好きなあなたです……魔王様の膝は離れたくない……けれども勉強はしたくない……さあどちらを選びますか! いいえ選べないでしょう! ならばそのままお膝の上でぬくぬくしておりなさい! 私が朗読して差し上げます。『こんにちはァ~。わあウサちゃんおへんじが、おじょうずねェ~。見てェ、これ! こんにちは、の【は】こう書くのよォ~』」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ、フォメーッ!」
「これぞ強制的なお勉強ッ! アーッハッハ!」
「…………」
一周回ってとても楽しそうな二人を、無表情で、けれども心の中はほかほかとさせながらアザトは少しだけ書きづらい体勢でペンを動かし続ける。そのときである。
魔王城に、爆音が響き渡ったのは。
「…………ひゃう!?」
「なんでしょうか、一体。謁見の間に近いように感じましたが」
「……見に行こう」
「お供いたします、魔王様!」
黒の外套を翻し、すぐさまアザトは立ち上がった。その後ろをフォメトリアル、ついでにチビが続く。爆音は、断続的に響き、謁見の間に近づくごとに大きくなり、ときおり城全体が揺れる。アザト以外の魔族も駆けつけ始めたらしく、もはやなんらかの騒動が起きていることは明白で、鈍い打撃音や叫び声の他、ときどき謁見の間から城兵役の魔族が吹っ飛ぶ。暴れる何かを、魔族たちが抑えようとしているのだろう。
チビたちが謁見の間にたどり着いたとき、最後に骨の下級魔族がチビの横っ面をかすめて吹っ飛んで背後の壁に激突し、体中の骨をバラバラにさせて落下した。「…………」さすがのチビもぎょっとした顔をして地面に散らばった骨を見下ろす。これって大丈夫だろうか、と骨の魔族の生末を案じてしまう。
「……何事だ」
アザトの声は、奇妙なほどによく響く。
彼のその言葉一つで、広間は静寂に満ち、しわぶき一つも聞こえない。
「申し訳ございません、魔王様! 侵入者を捉えるのに手こずってしまい……!」
魔族の一人が、慌てて敬礼しアザトに謝罪する。
カタカタカタッ! とチビの足元で転がっていたしゃれこうべも、顎をかくかくと動かして返事をしていた。よかった。大丈夫だった。
件の騒動の主は多勢に無勢で取り押さえられたらしく、猿ぐつわを噛まされ、さらに後手に縛られて、ふごふごもごもご転がりながら暴れていた。その姿を見て、チビはあれ? と瞬いたが、それよりも広間の様子も心配だった。
今や取り押さえられている魔族は随分暴れまわったらしく、謁見室の壁はところどころ穴があいているし、天井のシャンデリアも割れて足元に散らばっている。どうやったのか、床はびしょびしょに濡れている。しかし壁の穴はギギと呼ばれる木の魔族が自身の腕を伸ばしてゆっくりと修復し、モヤモヤたちが転がるようにやってきて、床をお掃除している。大変大変、と言っている声が聞こえてきそうだ。チビの頭の上にいたフワフワも「フワワッ!」と叫んで、お手伝いしますよ! とばかりに気合が入った顔で飛び降りる。
城の修復はとってもスピーディーに終わりそうだが、「フグーッ! フゴーッ!」暴れ回っていた魔族は抑えつけられているのもなんのその、ジタバタと動いてまだまだ元気そうだ。
そしてその姿を見て、アザト、フォメトリアルはチビと同じ感想を抱いたのだろう。「お前は……」とアザトは片眉を寄せ、呟くように話す。
「シトラ!? お前、何やってんだ!?」
広間に飛び込んできたのは、虎の魔族、カシロである。彼は黄色と黒のしましま模様をしたもふもふの虎である。カシロは珍しく焦った顔をして速歩きで捕らえられた魔族のもとへと向かった。対して、シトラと呼ばれた魔物も――虎。ただし、白の毛並みに、わずかな黒模様。
「おなじ、とら……?」
ぽつりとチビが言葉を落とすと、カシロはハッと振り向いた。チビと目を合わせて、なんともいえないような表情をした後、「あ~……」と言い淀み、視線を逃がす。「フグーッ! フゴゴーッ!」侵入者はまだまだ暴れている。
「まあ、そうだ。こいつはシトラ。俺の……弟だな」