24 帽子屋、登場
ここで少しまた、時間を戻そうと思う。
「よーし、今日もたんまりもうけるぞお」
にかっと笑ってハンチング帽のつばをいじる、大きな横掛け鞄を二つ左右に持った二十歳そこそこのこの青年。実は彼は、夜の国を定期的に訪れる唯一の商人である。彼の名前はミッツ。とはいっても、いつもは『おい』とか『お前』とか、『商人』とか『帽子屋』とか呼ばれているので、自分の名前は忘れつつある。魔族は名前にあまり興味はないようだ。あと別に帽子は売っていない。
これはチビの歓迎パーティーが開かれる、少し前のお話である。
***
ミッツはいつでも宵の風が止まるときに間に合うように、夜の国の扉の前にねぐらを得ている。近くの村の気の良い老夫婦を騙して、部屋の一つをタダで借りているのだ。
粗末なベッドは背中がごわごわするので寝心地が悪いし、開けっ放しになった窓からは子どもの遊ぶ声がきゃっきゃと響いてとてもうるさい。思わずベッドの上に寝っ転がりながらミッツは長くため息をついてしまった。
「ぜってぇいつかふわふわ、もっふもふな豪華なベッドで寝てやるぞ。こんなしけたベッドでなんて、一生寝ねぇ、はちゃめちゃに素敵な生活を手に入れてやる」
そのためだけを夢見て、脱いだハンチング帽をくるくると指先で回して遊ぶ。そのときである。
「帽子屋さーん!」
飛び込んできたのは、くるくる髪の女の子だ。間借りしているこの家の孫である。ミッツは慌てて飛び起きた。
「はいはいお嬢ちゃん。なんですか。でも部屋に入ってくるときはノックしてねぇ」
「あのねー、あのねー、帽子屋さん。私、新しい帽子がほしいの! 可愛いの、売ってるかなぁ?」
「俺は帽子屋じゃないので売ってませんよ」
「え!? 帽子屋さんなのに!?」
「そうなんだよぉ」
「みんなそう呼んでるのに!? 売ってないの!?」
「そうなんですよぉ」
いつの間にか魔族以外にも帽子屋と呼ばれていることは解せないが、別に村の人間と関わりたいわけではないのでいつも適当に流している。女の子は、「ふ~ん……。なーんだ」とつん、と唇を尖らせて、「今度お母さんたちとお出かけするから、おしゃれしたかったんだけどなぁ」と自分の髪をくるくるといじっていた。
「はいはい残念だねぇ。お出かけ先でいいお店があったら教えてちょうだいね。俺も仕入れしにいくから」
「はーい! そうだ、帽子屋さんもお出かけするなら気をつけてね。最近へんな風邪が流行ってるんだって。元気がない人はすぐに死んじゃうらしいよ? 帽子屋さんっていっつもごろごろしてるもん」
「帽子屋さんはごろごろするのもお仕事なの」
もちろん買い出しのための独自ルートを手に入れるための調整や、持っている品の確認などもあって忙しいが、この部屋でできることはなるべく中でしているので小さな少女からすれば父母よりもまったりしているように見えるかもしれない。
「そんなこと言ってないで、ちゃんとお外に出るんだよ?」
「はーい、はいはい」
へらへらと笑って返事をすると、「もう!」と彼女は頬を膨らませた。そのときである。窓辺に吊していた鈴が、ちりんちりんと大きな音を鳴らす。ミッツの部屋だけではなく、村の至る所でその音は鳴っているのだろう。ばたん! ばたん! と窓が閉まる音がする度に、鈴の音が小さくなる。ミッツも慌てて窓を閉めた後、窓辺に結んでいた鈴の紐を引き抜き鞄を持つ。
機敏な動きで準備を続け、最後にハンチング帽をすぽっとかぶる。「帽子屋さん、気をつけてね!」と神妙な顔をする少女に、頷くだけで返事をした。
「魔王様に、失礼をしちゃだめよ! いってらっしゃい!」
少女の言葉を背に、ミッツは部屋から飛び出す。片手ではちりちりと鈴が鳴り、ミッツを呼んでいる。玄関ドアから転がるように表に出ると、先程まではあれだけうるさかったはずが、どこも人っ子一人いない。風もないのに窓辺に吊した鈴の音が大きく鳴る意味を、みんな知っているのだ。
ひょるるるる……
子どもが口笛を吹いたような、下手くそな音がどこか遠くからやってくる。どんどん大きく、幾重にも重なり、ずんずん近づく。その音を聞いていると、空はからっとした晴天なのに、まるで夜を必死に駆けているような焦燥感が湧いてくる。
ミッツはあらん限りの速さで村の中を通り過ぎ、草原へと走り出す。宵の風が止まるのは、だいたいひと月に一度と決まっているのだが、たまに時間が前後するし、それよりも多いときもある。だから気が抜けないのだ。ちりちりちり、と鳴っている鈴の音を目印に、「ここか!」と、勢いよく飛び込んだ。
『扉』と呼ばれる世界の隙間が、こちらに口をあけるかのようにぬうっと地面に開く。ミッツ以外にも、貢ぎ物を送りに来た各国の使者たちがあわあわと突如できた『大穴』に木箱を次々に投げ込んでいる。穴の中は真っ暗闇だ。夜の国に行くには、この穴を通り抜けなければいけない。
幾度通ったところで、身の毛がよだつようなこの感覚には慣れない。
ひゅっと口から漏れ出た息を、無理やり呑み込む。帽子が吹き飛ばされないように片手で押さえて、どこまでも深い大穴を落ちていく。
『……魔族相手に、よくやるよ』
同業者には、何度も馬鹿だと呆れられた。魔族なんて、商談相手になりやしない。身ぐるみ剥がされ、食われて、死んで、それで終わりだ――。
「ひひっ……」
ごうごうと足の先から風を感じる。風ではなく、ただの空気の壁と知りつつ、本当に夜の国に入ることができるのか毎度胸がひやりとする。ときおり崩れそうになるバランスを、足をばたつかせてなんとか持ちこたえた。引きつるような表情をこらえようとしたら、口元が勝手に笑ってしまった。
――まったく馬鹿なやつらだ。
魔族はまったく最高の商談相手である。姿は人間に似ていても、根本的にどこかが違う。価値観が人と違うのだから、そこを理解すればいくらでもこちらの『得』に変換できる。
「ぜってぇ、俺は魔族を利用して、のし上がってやるぜぇ!」
足元はどこまでも、真っ暗だ。まるで終わりなんてないように感じる。ぞわぞわと本能的な恐怖が背筋を駆け上がる。口の端を噛み締めた。息を止めた。とても暗い。黒を塗りたくったような、真っ暗な夜が近づく。
けれども、きらめくような星が見えて――。
***
「次に門が開くまでに、子ども用のドレス、調味料、あとパーティーのマナーについて書かれた本を、最低十冊は用意して」
「え、あ、は、え……? じゅ……?」
「問題なければさっさと帰って準備してくれる?」
べちっと、おかっぱ頭の少年から生えた鱗の尻尾が地面に叩きつけられる音がする。ひゅ~……と、ミッツの口から変な音が漏れた。何度見ても尻尾に鱗があるぅ……とミッツは視線を遠くして考えた。