21 少年王子、考える
一体、ここはどこなのだろう。
アレクシスは気を抜くとがたがたと震えてしまいそうな体を両手で抱きかかえて真っ暗闇の中で座り込んでいた。
「……おい! 誰かいないのか!?」
もう何度目かわからない声を上げると、「おーい、だれかいないのかー」と気味の悪い声に変わる。自身と似たような、けれども違うのっぺりとした不快な声。
アレクシスはその声を聞くことが耐えられなくて、今度はぎゅっと手を耳に当てる。それでも、かすかに声は聞こえる。聞こえ続ける。
初めは、誰かが助けに来てくれたのかと思った。けれども耳に届く声が自分の声に似せたまがいものだと気づいたとき、ぞっとした。
空を見上げると、ぽっかりとあいた丸い穴が見える。いつまでたっても変化のない暗い空は、時間すら忘れさせる。一体どれくらいの間、自分はこうしているのだろう。ほんの少しのような時間な気がするし、反対に何日もこうしているような気もする。
陽の光が差すことのない夜の国。言葉ではわかっていたつもりだけど、こうして外に出て、やっと実感として伴ってくる。
(あいつは、スペアは。どうしてこんな国にいるんだ……?)
やっと声が聞こえなくなったから、こわごわと耳を塞いでいた手をどけた。握りしめていた手を、ゆっくりと開く。すると月明かりの下で小指ほどの欠けた石が照らされる。チビが、スペアが首から下げていた、見窄らしい石の欠片だ。
「なんで、こんなものを……」
化け物に聞かれぬように、自身の口の中だけでぽそりと呟く。何度見てもただの石ころのようにしか思えない。そんな石ころを眺めながら、アレクシスはこの国に来たことを思い出していた。
***
『夜の国の王から、我が国の立ち入りが禁じられました……!』
悲壮な声を放つ使者の声が、イリオルル国の謁見室にて響く。
その言葉の意味をアレクシスはよくわからなかったが、アレクシスの父であるイリオルル国王は、悲鳴を上げ震えるように玉座にもたれる。
『ああ、なんということだ……! 夜の国は魂が返る場所だ。その立ち入りを禁じられるとは、輪廻を否定されたと同じことではないか……! どうすれば……どうすればよいのだ……!』
自身の頭をかきむしり、子どものように嘆く父の姿など見たことがない。『父上……?』不安に思い問いかけたアレクシスの言葉は耳に入っているのだろうが、聞こえないものとして、父と使者は話し続ける。
『なぜこんなことになってしまったのだ……!?』
『私にもまったく見当がつかず……! なぜ、夜の国の王がああまでお怒りになったのか……! そうだ、スペアがおりました。どうやらスペアは自身の意志で夜の国の留まっているようです』
『スペア……? なんのことだ……?』
『王よ、お忘れですか。アレクシス様の妹君のことでございます』
『……はて、あれはそんな名であったか? 存在することも忘れていたというのに……。いや、そんなことはどうでもいい! ああ、これから我らはどうすればいいというのだ……!』
怯えて震える父の恐怖を、まだ幼いアレクシスは理解することができなかった。ただ、恐ろしいことが起こっているということだけはわかった。
じわじわと、城の中では悲鳴の連鎖が続いていく。一瞬にして、世界が変わってしまった。まるでべたりと塗りたくった油絵の具の中に放り込まれてしまったかのように。
人の仮面をもぎとり獣のように嘆く大人たちはただただ恐ろしかった。
けれども、それ以上に、アレクシスは驚いてもいた。
(スペアが、自分の意志で、夜の国にいる……?)
あのスペアが、と考えるほど、アレクシスはスペアのことを知らない。いいや、意識したことがない。一度姿を見たことがあるような気がするが、頭の隅にも留めていなかった。自分と姿がよく似た『何か』。そんな認識しか持たなかった名も知らないその存在に『自分の意志』があるということに、心底驚いたのだ。
スペアは、自分と同じ母から生まれ、同じようにこの世に存在する。そして、意思を持って生きている。そんなのまるで――と、まで考えたところで、はたと気がついた。そうだ、『妹』なのだ、と。
同じような、ではなく、同じなのだ。血を分けた、たった一人の妹であり、アレクシスと同じ『人間』。
なぜ、今まで考えもしなかったのだろうと自分でもわからない。
物心がついたときから、スペアは誰からもいないように扱われ、人として存在してはいなかった。周りがそう扱うのだからと思い込んでいたといえばその通りだ。
一つきっかけがあれば、するすると紐解けて、見る視界も変わってくる。
スペアは夜の国にいる。父や、部下たちがあれほど恐怖を感じる国に、一人きりで生きているのだ。大丈夫なのだろうか、と不安と焦燥が溢れた。
今まで見向きもしなかったのにと自分でも奇妙なことだと思うが、見えなかったものが、唐突に見えるようになったような、そんな不思議な感覚が、幼い彼を突き動かした。
とにかくいてもたってもいられなくて、アレクシスは貢ぎ物の中に潜り込んだ。父は夜の王を恐れて、さらに多くの貢ぎ物を贈るように指示したから、入り込むことは簡単だった。崩れた荷の中に埋もれてしまい、流されてしまったが、夜の国にたどり着くまではなんとかトントン拍子だったと感じている。
ああ、でも――。結局、うまくいかなかった。
暗い穴底にいることを思い出し、アレクシスはさらに小さく座り込んだ。スペアに会ったら、すぐに連れ帰ろうと思っていた。それなのに、全然うまくいかない。
――スペア! お前のせいで父上は夜の国の立ち入りを禁じられたと、毎日も夜に眠れず、憔悴しているんだ!
(私は……なんで、あんなことを言ってしまったんだろう)
会って、連れ帰って、本当は――。
ぎゅ、と唇を噛み、手の中にある石の欠片が食い込むほどに握りしめる。
(申し訳なかったと、伝えたかった……)
たった一人の妹なのに、アレクシスは彼女の存在を無視し続けた。意思のある、アレクシスと同じ人間であるなどと、浅はかにも考えも及ばないで。
夜の国に来てからというもの、スペアはアレクシスと会話をすることを避けた。それでも、これほど近くにいれば彼女は人の形をした何かではなく、きちんとした人間なのだということくらい、嫌というほどにわかった。
どうか、許してほしいと願う。
ひどい扱いをした自分を。愚かなことをした自分を。
辛かったに違いない。苦しかったに違いない。
なんで、想像ができなかったんだろう。
どうして、わからなかったんだろう。
「どうして、みんな、あんなひどいことを……」
憤るように呟く。そのときだ。
「……え……?」
この気持ちが伝わればいいと、強く、強く願ったとき、アレクシスが握りしめていた石の欠片が、木漏れ日のような柔らかな灯りを紡ぎ出した。
***
「間違いないぞぉ、この穴だ!」
「ぬっ!」
テジュの背に乗るようにして、チビは大きな穴の中に飛び込んだ。底すらも見えない深い穴は、ひょおう、ひょおう、とどこからか風が生まれ、テジュとチビの全身を叩きつける。ばさばさと髪が翻り、ときおりふわりと体が浮く。「ちゃんとくっついとけよぉ!」「ン!」ぎゅっとテジュの首元を抱きしめる。「フワワッ!」と一緒にフワフワもチビにくっつく。
どこまでも深い穴に、二人で一緒に落ちていく。
怖い――とは、思わなかった。けれど不思議に思うほど穴は大きく深く、見渡す限りに真っ暗で底すらもわからない。よくよく目をこらすときらきらと周囲は輝いていて、まるで夜空の海を潜っているみたいだ。
一体、どこまで沈んでいくんだろう。
それにこんなに深くて、アレクシスはどうなっているのだろうと不安に感じたとき、「大丈夫」とテジュは温かな背中をこちらに向けたまま教えてくれる。
「ここは世界の穴なんだよ。夜の国には、ときどきぽっかり大きな穴があいてる。そこに闇フクロウは巣を作るんだ。でも、世界の穴は本当にあるわけじゃなくて、ただの歪なんだよ。おれたちは穴を落ちているように見えて、本当は落ちてない」
「…………?」
「つまり、ぜーんぶただの気の所為ってこと!」
本当だろうか。今もチビの体にはどこまでも真っ直ぐに落下しているように感じるのに。
チビの頭の上で、フワフワも叩きつけられる風に煽られてぶるぶると震えている。
「じゃあ、どこに、いる?」
「あの人間のこと? さあ。おれにもわかんないな。この穴にいるのは間違いないけど、穴のどこにいるのかは知らない。チビはどう?」
テジュがわからないのに、ただの人間であるチビがわかるなんてことがあるんだろうか。
そのときだ。テジュを抱きしめていたチビの手の中が、温かく明滅した。ちぎれたネックレスを落とさないようにと大事に握りしめていた手の中で、星の光が瞬いている。
「ほし、の石、が……」
どうしてだろう。
呼んでいるような気がする。何かが、チビの体にとぷりと流れてくるような。
呼べ、と。そう、聞こえた気がした。
「――アレ、ク!」