2 生贄少女、魔王様のお膝へ
夜の国が、一体いつできたのか。そんなことは、もう誰も知らない。
きっと、夜の国は世界の中心にあるのだ、と誰かが言った。
でもその誰かというのも、わからないほど遠い昔のこと。
身体のどこかが、はたまた身体すべてが獣と人を足したような姿の者たち。見た目は人と変わらずとも、魔法という恐るべき力を持った種族。そんな者たちのことを、人々は魔族と呼ぶ。
陽の光も届かないほどの、人の世界の壁を通り抜けた恐るべき夜の国には、恐るべき魔族がいる。魔族に怯えた人間たちは、いつしか各地から貢ぎ物を送り届けるようになった。定期的に送り届けられるたくさんの木箱には、舌がとろけるほどの甘美な実や、喉が焼けそうなほどに美味い酒。七色に輝く美しい絹など、様々な品が入っている。
しかし今回、入っていたものは人間、それも痩せこけた幼子であったことに、城中の魔物たちはたいそう困惑していた。
「……魔物が人を襲って食うなんてものは、あちらが勝手に作り上げたおとぎ話なんですがねぇ。まったく何を勘違いしたのだか……しかも、こんな手足が棒のように細い子どもを送ってこられたところで、私たちにどうしろと……まさか生贄のつもりでしょうか……?」
フォメトリアルが若干肩で息をしつつ、生贄として送られてきたらしい子どもの首根っこを掴んで、ぷらんぷらんと宙で泳がせている。子どもはしかめっ面のまま不本意そうな表情をしている。
その足元では、テジュが「ふわあー」と声を出しながら子どもの顔を覗き込んでいた。
「テジュ、近いぞ。そんなにまじまじと見てやるな。人間が怯えるだろ。人間というのは俺たちよりもずっと柔い生き物なんだぞ?」
「だってさあ、カシロ。こいつ、すっげえ汚れてるけど、ほら、髪の毛は銀髪だし、目が真っ青だ。青っていっても、いろんな青が混じったみたいな……うわあ、角度によって色が違うぞ。宝石みたいだ。こんな瞳の色なんて見たことねぇよ」
「この子どもはイリオルル国に住む王族なのでしょう」
フォメトリアルが掴んでいた子どもを自身の目の高さにまで軽々と持ち上げる。子どもはじたばたと両手両足を動かして抵抗していたが、もちろんびくともしない。
「イリオルル国の王族は人間にしては珍しく、ちんけな魔法を使用すると聞きます。魔力を多少なり持つがゆえに、髪や瞳の色が変異しているのかもしれません」
じいっと子どもと見合った後で、「……王族にしては、ぼろっちい服を着ていますが」と最後に顔をしかめて説明する。そんなフォメトリアルを「……ヘンッ」と子どもはまた鼻で笑う。フォメトリアルのこめかみにバシッと血管が浮き出た。あんまりよくない組み合わせかもしれない。
場の空気を読んだらしき虎の魔物、カシロが、「と、いうことはあれか? 今回はいつもの貢ぎ物がない代わりに、自分のところの子どもを送ってきたってことか?」と、声を上げて尋ねる。
「ええ~!?」とテジュが驚きとともに耳をピン、と立てた。
「ひっどくねぇ? それ。親が子どもを手放したってことだろ? っていうか、貢ぎ物はあっちが勝手にしてることなんだから、無理なら送ってこなくていいのに、ばっかだなー」
「その通りですが、あちらは私たち魔族を恐れていますから、こちらはよくても向こうはそうは思わなかったのでしょう。せめて我が子なら貢ぎ物の代わりに……とでも考えたのでは?」
「もとの場所に返してやることはできないのか? さすがの料理長の俺でも、人間は調理できないぞ。どうせ食ってもまずいからな」
まずくなければ食うのか、という人間めいた問いかけは誰もしない。魔族は人とは思考回路が少しずれている。よくも悪くも単純なので、まずいものなら食わない、というただそれだけの話である。
カシロの疑問に対して、フォメトリアルはふん、と鼻から息を吹き出した。
持っていた子どもはぽい、と投げ捨てる。
「当たり前です。我らの土地には人間を住まわせる場所などありません。しかし残念ながら、知っての通り人間の国との道が繋がるのは、月に一度。宵の風が止まったときのみです」
投げ捨てられた子どもは、したんっと両手両足を使って床に着地した。なかなかの運動神経である。
おお、とテジュが目を輝かせるが、子どもはつまらなさそうな顔をしている。その様子を横目で見た後、フォメトリアルはぷいと顔を背けた。
「業腹ですが、次に宵の風が止まるときまで、この子どもを突き返すことができません……仕方がありませんね。魔王様、かの人間にしばらくこの国に滞在する許可をって、オッ、エーーーーーーッ!?」
「おお……子どもがめちゃくちゃ魔王様の膝の中にいる……?」
「ま、魔王様がぴくりとも動いていらっしゃらないぞ……? なんという冷静さ! さ、さすが我らが魔王様だあー! すっげー!」
フォメトリアルが魔王を向いた先には、生贄としてやってきた子どもがちょこんと魔王の膝の中にいた。常に平静な顔つきをしている魔王は玉座に座ったままぴくりとも動いていない。おおお……と周囲にいる下級の魔族たちまでざわつきながら恐れ慄く。
「ま、魔王様ッ! いや貴様、なぜそこに、いやほんとになぜそこにっ! 魔王様、こんなときくらいは声を荒らげてくださってもっ、いえ魔王様に不満をお伝えしたいわけでは……コラァ! 子どもォ! そこをどけェ! 貴様ばっちいぞォオオオオ!!!!」
「…………」
「むふーっ」
むふん、とどこか誇らしげな顔をして鼻から息を吹き出す汚れだらけの子どもと、子どもを膝に乗せたまま無の表情で玉座に座る魔王。そしてわたわたと両手を動かす側近という謎の状況。
彼らのみではなく、下級の魔族たちも子どもが落とした泥を総出で掃除をすることになり、いつもは静かな城も、どうにも騒がしくなるばかりであった。