第九章 畿内動乱
第九章 畿内動乱
年が改まった永正十八年正月、畠山贔屓の京の将軍足利義稙は正式に、斯波義為の能登、越中の守護職就任を認めないと言う返答を送って来た。
この時将軍は前年に摂津で細川澄元・三好之長に敗れた細川高国を切り捨て、細川澄元へ乗り換えている。
これにより、義為は京の将軍家と完全に袂を分つ事になる、管領の地位を失った細川高国は各地を転々とした挙句に、近江の観音寺城に逃れて、千秋季光に救援を要請した。
季光によって岐阜に連れてこられた細川高国は、岐阜城天守や義為の御殿を見て腰が抜けた様になっている、五層の天守最上階の茶室で茶を振る舞われて
「武衛様、何とぞご尽力を」
と土下座をする様に頼み込んでくる。官位で言えば義為は従三位右近衛大将、高国は従四位上右京大夫と義為の方が上だからだ。
高国を本丸内の客室に下がらせた後、義為は同席した定李と実恵に以前上洛して将軍と会見した時の事を話した。
「覚えているか定李、あの時管領だった細川高国は我らを無視して一言も口を聞かなかった」
「そうですね、管領代大内義興殿はわざわざ屋敷にまで招待してくれましたね、感じは良く無かったですけど」
「そもそも我らの上洛は大内殿の計らいだったと言う事だっからな、そして我らを無視した高国が助力とはな」
「助けますか?」
「ああ、まぁ気は進まないが、今恩を売っていてば何か良い事もあるだろう、定李、高国にその旨伝えてくれ」
「かしこまりました」
「実恵殿、上洛したら山科にご挨拶に伺いたい、よしなに」
「はい武衛様、宗主も法嗣も喜ばれるでしょう」
と言う事で、義為は高国の要請に応えて、五月に50000の大軍を率いて上洛、京の都の東郊外の『如意ヶ嶽』に陣を張り、高国の家臣丹波守護代の内藤貞正率いる4000人の軍と呼応して、三好之長の軍5000を打ち破った。
この時赤母衣衆筆頭の塚原高幹は戦場から逃亡しようとする三好之長の首を取っている。
細川澄元は播磨経由で阿波へ逃走したが、その地で病死した。
三好家は三好元長が、澄元流細川家はその子晴元が家督を継いだ。だが勢力の大幅な後退で阿波の国に
引き篭もる事になる。
将軍足利義稙は反高国、反義為の立場を取った事に加えて、山科本願寺と斯波義為の寄贈によりやっと行える事になった帝の即位式に欠席した事から、京を追われて淡路に逃げ失意の内に没する事となる。
細川高国は管領に復帰して、十一代将軍足利義澄の嫡男で12歳の亀王丸を新たな将軍足利義晴として擁立して、8月に年号を大永と変更する。
この動乱で斯波義為は、戦功により能登、越中の守護職を得て美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊勢、越前、加賀、近江、飛騨と合わせて12カ国の守護となり、かって11カ国の守護として「六分の一殿」と呼ばれた山名氏を凌ぐ事になる、しかも山名氏は総領と兄弟にその子で11カ国だったのに対して
義為は一人で12カ国だ、動員可能な全兵力はこの時点で100000を超えている。
その為高国は、以前大内義興が名乗っていた管領代の地位を義為に送り、更に帝からは正三位大納言の官位を得た、この時点で将軍はまだ正五位下左馬頭、細川高国は従四位上右京大夫と官位では義為の方が上だったので、幕府の実権を掌握する事は可能だったが、義為は管領代の地位は断り、商業都市堺を直轄領とする事だけを求めて代官として、斯波家屈指の事務処理能力を誇る岩手重元を送りんだ。
この頃の義為は基本的に、自分の領国の経営にしか興味が無い、今回高国を助けたのは少しだけ恩を売っておけば、この後の領国運営に何かプラスになる事があるかと思ったからだ。
畿内の動乱をおさめて一息付いた義為は定李と実恵を伴って山科を訪れた。
京の町の寂れ具合と対照的に、山科の町は門前町と言うよりは城下町として大きく発展して、本願寺も
水堀と石垣を備えた立派な城になっていた。そして目についたのが巨大な五重塔だ、
「あれ、天守ですよね」
定李が言うと
「いえ、五重塔です」
と実恵は笑っている、なんでも岐阜城の天守の話を聞いた宗主が、山科にも作れと無理を言ったらしい。
寺に入ると、出迎えてくれた円如に、そのまま宗主実如の寝所に案内された。
ここしばらく実如は具合が悪く、ずっと床に伏せっていて、今日義為が訪ねて来ると聞くと久しぶりに起きたと言う事だ、だが起きたと言っても床で横になったままだ。
「宗主様、大変ご無沙汰をしております」
と義為は短く声をかけた。
「斯波大納言、近こう」
と実如が言うので、少し膝を進めると更に手招きされて、枕元に控える形になった。
「大納言殿、我が子円如と甥実恵の事よろしくお頼み申す、其方が側に居れば本願寺は安泰じゃ」
と実如は掠れた声でゆっくりと話した。
「(これは遺言か)」
と義為は理解して
「は、この斯波義為、命に変えて法嗣様と実恵殿をお守り致す」
と平伏した。
それを見て、実如は満足そうに頷いてから手を振った。
その後茶室に案内された義為はそこで、下間頼慶から実如からの書状を渡される、
「宗門の兵権を全て斯波大納言義為に委託する」
と書かれてある。
「頼慶殿、これは一体?」
「宗主の御意志です、我ら宗門の兵これよりは武衛様の下知に従いまする」
と言う事らしい。
「法嗣様、どういう事か説明を頂けるとありがたいのですが」
と円如に聞くと、元々実如は本願寺の門徒が一揆を起こす事について否定的だった、ただ蓮如上人以来
比叡山延暦寺の弾圧や各地の領主との抗争で寺に兵を養う必要があり、現在の状況になっている、
だが、斯波領となった越前、加賀、能登、越中では宗門も一揆を起こす事も無く、仏の教えを説く寺本来の役割に加えて、先頃の寺子屋の件で大いに感銘を受けた、なので今後の争い事への対応は全て義為に一任したいとの事だ……
「これはまた、とんでも無いお話ですね、頼慶殿、他の坊官の方々はこれを納得されているのですか?」
「正直に申して皆が納得している訳では無い、だが武衛様の宗門に対する敬意は我らが一番良く知っております、ぜひお引き受けいただきたい」
義為はしばらく考えて、円如に返事をした
「法嗣様、一つお願いがあるのですが、聞いていただけますか、それを条件にお引き受けしたいと思います」
と自分の考えを話した、寺子屋を建てる為に領内各国の各郡に最低でも一箇寺を必要としている
なので、それに全面的に協力をして欲しい事、そしてその寺には、寺子屋の他に医療院を併設したいと思っている事、なので山科では今後、医師や薬草園の育成に力を入れて欲しい事を話した。
これにより本願寺は仏の教えを広めるだけでは無く、教育や医療の為の教団に変革をして欲しいとの要望だった。
「その為になら本願寺に敵対する者は全て、私が滅ぼしましょう」
と義為は宣言をした。
円如も、実恵も頼慶も無言で目を閉じて考えている、話があまりにも荒唐無稽に聞こえたのだろうと
義為は思った、だが、ハルトとして知っている歴史上の一向一揆の本山としての本願寺の姿は、正しく無いと思えるのだ、今の実如や円如、実恵の姿の方が本来の物だと思える、なのでこの提案をしたのだった。
結局この日は、提案をしただけで、義為は「阿弥陀堂」で『夕事の勤行』に参加する
この頃には「正信偈」だけでは無く、実恵に習って「浄土三部経」も読誦出来る様になっていて「御文章」を拝読した後で、円如や実恵と共に読経をする。
「(我ながらこの三人で読むと見事なハーモニーだ)」
と思っていた義為だったが、そこに自室で臥せっていた筈の実如が現れて、読経に加わった。
その読経の声の荘厳さは義為が一生忘れられない程素晴らしい物だった。阿弥陀堂やその外で読経を聞いていた坊官や信徒達はみな感動して涙したと言う。
翌朝、義為は実恵を残して山科を後にして、定李と共に帰国した。
また床に戻っていた、実如は、前日の円如と義為の協議の話を聞き
『我、事を成した』
と涙を流して喜んだと言う、そして円如によって、義為の要請が叶えられて行く事になる。
この事で歴史が変わり、本願寺の一向一揆はこの世界から姿を消した。本願寺は仏法、教育、医療の本山として朝廷からも認められ、後に門跡、勅願寺となった。
本願寺第九世宗主実如はその後も病床から指導を続け数年後の大永5年示寂した。
正史では法嗣円如は既に亡くなっていて、孫の証如が本願寺第十世を継いだ事になっているが、歴史が変わったこの世界では円如が生存していて、本願寺第十世となる。
岐阜に帰国した義為を待っていたのは凶報が一件と吉報が二件である
義為が留守の間に、清州に残していた弟次郎丸を擁して家臣の一部が反乱を企て、大目付服部友成の手の者に拘束されたと言う事だ、主犯は次郎丸の母方の祖父に当たる山口教房、この山口は実は大内氏の一族で、大内から何らかの働きかけがあった様だと言う、その証拠に大内家家老陶某からの書状が見つかっている。計画は次郎丸の傅役千秋季平を仲間にしようとして失敗、季平の届けによって未然に防がれたと言う事だ、更に詳しく調査を続けた服部友成がとんでも無い事実を見つけて来た。
「武衛様、生駒親重と言う人物をご存知ですか?」
「確か小牧の者では無いか?」
「はい、清州の奉行だった織田信貞と関わりの有る者です」
「その者が何か?」
「此度の騒動、この生駒親重の企みによると、山口教房が自白をしましてございます」
「直ぐに生駒親重を捕えました所、なんと親重は恐れ多くも武衛様を一度弑逆しかけた事があるとの事で……」
服部友成の話は続く、元々生駒家は武家であり商人でもあった、染料用の灰と油を扱い、更に馬借として成功していたらしい、親重は後ろ盾としてこの頃大幅に勢力を伸ばしていた織田信貞と繋がっていて、信貞に請われて絶世の美女と誉高かった娘、楓姫を差し出す予定だった、所がこの楓姫の美貌に目をつけた当時の義介が、清州の部屋住みの分際で姫に手を出したそうで、計画を台無しにされて怒った親重は清州の城を抜け出して、姫の部屋に忍んで来た義介を捉えて半殺しにし、簀巻きにして木曽川に流したと言う事らしい、だが何故か義介は死なずに熱田の天狗の森で発見された、幸か不幸か義介はその事を何も覚えていない様で、それ以来姫の所に来る事も無く、姫は出家して尼寺へ、その後織田信貞の織田弾正忠家は取り潰しになり、後ろ盾を失った生駒家は衰退したと言う話だ、そしてこの娘、寿義尼が、尼寺で次郎丸の生母円通院と知り合いになった事から、義為を恨む生駒親重と円通院、山口教房が企んで義為を排除して、弟次郎丸を立て、更に『岩屋寺』に居た織田信貞の嫡男三郎によって織田弾正忠家を再興させると言う計画だったと言う事だそうだ。
「(成程、だから織田信貞は熱田で初対面の時からあんなに仏頂面でそれ以後も私を敵視していたのか)」
と納得が言った。
「織田の三郎か、幾つになった?」
「は、確か11歳かと」
「その者は此度の事は承知なのか?」
「はい、寺を出て生駒屋敷に居る所を一緒に捕らえております」
「せっかく命を助けてやったのに、愚かな事だな、構わん全員死罪とするが良い」
「は、あの生駒の姫寿義尼はいかが致しましょうか?」
「そうだな、一度会って見よう、勝幡城が良いな」
「かしこまりました」
そして
「(そうか、本来の義介はもう死んで居るのか、どこかで生きていれば会ってみたいと思っていたけど)」
と、義為は顔だけは自分に瓜二つだったと言う不幸な義介の冥福を密かに祈った。
「(でも、これで義介君失踪の謎は解けたけど、何故僕がこの時代に来たのは分からないままか)」
と思う義介だ。
翌日勝幡城の茶室で、義為は寿義尼と面談をした、絶世の美女と言われただけ会って、27歳の今でも全くその美貌は衰えていない。
「(これは義介君や織田信貞が夢中になるのもわかるな)」
と義為は思った。
「寿義尼、いや楓、久しいな」
と義為は言ってみたが、当然ハルトとしては会った事など無い女性だ。
「若様、お久しゅうございます、なんと凛々しくなられて……」
と寿義尼は目に涙を浮かべている。
話を聞くと、義介が父親に連れ去られて以来、ずっと義介の事を思い、仏に安泰を祈り続けていたそうで、出家したのも父の罪を償う為だったとの事だ。
「父があの様な事をした以上若様には二度とお目にかかる事はできないと思っておりました」
と涙ながらに言う寿義尼をそのままにする事は義為にはできなかった、思わず抱きしめると、寿義尼から沈香の良い香りが漂ってくる。
「沈香か」
「はい、若様がお好きな香でしたので」
「(悪いな義介、この姫俺が貰うぞ)」
と心の中で亡き義介に詫びて、義為は寿義尼を押し倒した、寿義尼も待っていたかの様に体の力を抜いて目を閉じた……
義為は衣服を整えている寿義尼に
「姫、その方還俗して私に仕えよ」
と言うと、寿義尼はまだ上気した顔で、涙を流して喜んだ
「本当によろしいのですか、私はもうこんな歳で本来なら「お褥御免」となる身ですのに」
と控えめに言う寿義尼が堪らなく愛しいと思えるのは何故だろう、正妻である美濃殿も側室熱田の方も他の側室もみんな愛おしいと思うのだが、なぜがこの寿義尼に対する感情だけ別なのだ。
「姫には一つ言わなくてはいけない事がある、其方の父の事、此度の事に以前の事もあり許す訳にはいかぬ、打首とする所だが、せめての情け腹を切らせてやろう、それで構わぬな」
寿義尼は
「全て若様のお心のままに」
と言って平伏をした。
義為は姫に輿を用意してそのまま岐阜に連れ帰り、本丸御殿内に部屋を与えた、寿義尼はこれ以降は小牧の方と呼ばれる様になる。
そして、義為は山口教房とそれに与した物全員を斬首、ただし生駒親重は約束通り切腹を申しつけた。次郎丸の生母円通院は、奈良の中宮寺に送られ、二度と尾張に戻らない事を約束させた。
当然ながら、織田三郎も斬首になり、正史での織田信秀は歴史に名を残す事無く退場した。
弟、次郎丸に関しては本人が全く関知していない事が判明しているので、処分は行っていない。
ただ、家内の改革を急速に進めすぎて、取り残された家臣達が不満に思っていると言う事はわかり、家内統制を更に厳しく進める事にした。
吉報の一つ目は山奉行坂井達乗よりもたらされた物で、越中と能登でも金山と銀山が発見されて、越中の方はかなりの埋蔵量が見込めるとの事だった。
そして、二つ目は、圧政の為領国紀伊から追い出された畠山稙長が大和国人衆、筒井順興、越智家栄らを率いて伊勢の霧山城へ兵5000で攻撃を仕掛けて、津田達勝に返り討ちにあい逃げ帰った、と言う物だ、義為は直ぐに伊勢、尾張、三河の将と兵50000で大和に攻め込む、義為は伊賀経由で20000の兵で、伊賀光就は残り30000を率いて霧山城を経て大和に入る。
「久しぶりにまともな戦ができるかな?」
と千秋定李に聞く
「どうでしょうね、あ、伊賀衆が来ました」
百地三太夫が率いる500の伊賀衆が加勢に来る。
「筒井城は、後に使いたいので、火攻めはしたく無いな」
「では、先に越智家栄の貝吹山城を攻めますか、こちらは山城です」
義為は伊賀衆によって味方となった、大和の有力国人宇陀三将(秋山氏、芳野氏、沢氏)が治める
宇陀の地で伊賀光就と合流して、伊賀光就の軍が貝吹山城を取り囲む、そこに救援に来た筒井順興を
野戦で打ち取り、その間に伊賀衆が筒井城を占拠、そして例によって山城の貝吹山城は火攻めと言うのが
大まかな作成だ。この時「大和四家」と言われた国人衆の内、十市遠治のみが義為に恭順して本領を安堵されている、
そしてこの作戦に見事に嵌った筒井順興は3000の兵が20000で包囲され逃げる事も出来ずに討ち死に、越智家栄は援軍として籠城した大和四家の箸尾為時と共に、自刃して燃える城と運命を共にした。
更にそのまま河内に兵を進め、畠山稙長の高屋城を50000の兵で取り囲むと畠山稙長は潔く腹を切って自害をした。三管領家の一つだった畠山氏はここで滅びる事になる、義為は畠山攻めに協力した河内守護代木沢長政を河内奉行に、同じく守護代の家系だった遊佐順盛を高屋城代とした。
ここに斯波家の者を配置しなかったのは、阿波の細川や三好がいつ攻勢に出てくるか分からなかったからだ。
ただこの仕置きの結果、畠山領だった紀伊の国人衆がこぞって斯波家に臣従した為に、義為は一兵も動かさずに紀伊を手中にする事となった。
義為は国人衆のうち宗門の徒で、最大の勢力を持つ雑賀衆の頭領「鈴木孫一」……この名前も伊賀衆と同じ様に代々世襲される名前だ……を紀伊奉行に任じて統治に当たらせる、更に根来衆を率いる津田算行も仕官を希望したので、こちらは銭1500貫で召し抱える。根来衆は忍びとして有名で、雑賀衆も根来衆も天文十二年(ここから20年以上後)に鉄砲が伝来してからは鉄砲衆として勇名を轟かす事になる、
紀伊を雑賀衆に任せたのは、何しろ全く馴染みが無い土地なのでそれ以外に思いつかないからだ。
これ以降は臣従を誓った領主や国人衆を積極的に奉行に登用して統治に当たらせる事が増えていく。
この頃大和には明確な守護職が存在しない、5000もの僧兵を有した興福寺が事実上の守護として君臨していたからだ。義為はまず興福寺を全軍で取り囲み、 別当、関白九条尚経の子経尋を大乗院に訪ねた、この時境内に居た僧兵達の中には昼間から酒を飲み遊女を侍らしている者もいて、義為の怒りを買った、戒律が緩い宗門の寺でもそんな僧侶や坊管は存在しなかったし、斯波家の菩提寺であり戒律が厳しい禅宗の寺にもそんな僧侶は居ない、つまり守護という世俗の権力を持った興福寺が堕落をしたと義為は解釈をした。なので義為は圧倒的武力を持って、奈良法師と言われた僧兵の武装解除と放逐を要求した。そして興福寺の寺領の検地を行い『荘園』の殆どと税の収受権も没収、更に矢銭10000貫を要求して、従わなければ全山を焼き払うと通告をした。
興福寺別当は関白九条尚経の子経尋で、大軍に囲まれては反抗する事も出来ずに、義為の要求を全て受け入れた、この際大乗院を訪れた義為に無礼を働いた僧兵二十人ほどが、義為と警護の塚原高幹に切り捨てられている。
後のこの事を九条家から聞いた帝は更に義為の事を恐れる様になったと言う。
大和で権勢を振るっていた興福寺が全面降伏した事で、他の寺院もそれに倣い、義為は大和守護として
この地の統治を行う事になる。服部保長を奉行に任命して、郡山城を改築する様に命じる、その資金は
興福寺から召し上げた10000貫だ。
これで畿内五カ国の内、大和、河内も斯波家の領地となり、他の三カ国は山城と和泉は細川高国が、摂津は細川氏と国人領主達が入り乱れた様子になっている。
更に大和の隣国伊賀はこの時、守護仁木氏が追放されて守護が不在だったが、伊賀衆と他の国人衆の総意で、義為が守護を引き受けることになった。義為は伊勢奉行の伊賀光就を伊賀奉行を兼任させる事にした、光就の伊賀姓はそもそもが代々伊賀守を自称していた事によるからだ。義為はここまでの伊賀光就の働きに答えたのだった。
義為は本拠地岐阜に戻ると、領国の経営に専念する事にした。
この年の秋、定李から信濃の諏訪頼満からの同盟要請があると報告があった。
この頃の信濃は守護小笠原氏、守護代大井氏の力が衰え、諏訪氏、河内源氏の末裔村上氏、信濃源氏の井上氏、越後長尾氏の縁戚高梨氏、平氏の仁科氏、関東管領山内上杉氏の傀儡海野氏等が群雄割拠の状況になっていた。
そこに数年前に甲斐国内を纏めた武田信虎が、佐久郡平賀城にを攻撃した、その後武田と村上の争いとなり、大井氏・平賀氏・依田氏や関東管領山内上杉氏も参加して混戦状態になっていた。
そんな中、諏訪頼満は関係の悪化した武田信虎に備える為に斯波家に同盟を持ちかけて来たのだ。
「信濃か……」
ハルトの記憶では信濃は武田信虎の子武田信玄の時代に武田領になったはずだ、そして守護の小笠原氏が、ハルトの学んだ小笠原流弓馬術礼法の宗家に繋がっている。
また、仁科氏、木曾氏、村上氏、海野氏、は将軍足利義尚の命で近江守護六角高頼征討に参陣した祖父とは縁がある。
諏訪氏と同盟を結ぶと後に武田氏と争う事になるのは確定する、逆に今から諏訪氏を取り込んでおけば、信濃と甲斐を手中に収める事ができる可能性が高いと言う事だ。
「(戦国最強と言われた武田信玄と戦えるかもしれないのか)」
と思うと少し楽しくなった。……時代が違うのでその可能性はほぼゼロだが。
「それで同盟の条件は?」
「はい、頼満殿の嫡男、諏訪頼隆殿の姫を、武衛様の御嫡男の室にどうかと言う事です」
「なるほどそう来たか、五歳の虎王丸に嫁か、その姫は幾つなんだ?」
「確か三歳とか」
「良いだろう、姫が十歳になったら輿入れをさせよ、それまでは化粧料として毎年金五十両を遣わす、これで同盟を結んでやると伝えよ」
「かしこまりました」
ちなみにこの頃には義為には他の側室との間に、三男、四男、次女、三女、四女、が生まれている。
息子や娘は他の領主や有力な家臣達との絆を強くする強力な道具になるのがこの時代の常識だった。
仕事が一段落すると、義為は源衛寺に行き、実恵と雑談をして茶を飲むのが日課になっている。
境内に新しく建造された医療院『薬師堂』には医師が常駐して患者を見ている。
「法嗣様のおかげで領民も喜んでいます、ありがたい事です」
と実恵と話していると茶室から見える中庭の松の木を木刀で叩いている子供の姿が目に入った。
「実恵殿、あの子供は?」
「法嗣様の嫡男光仙丸様です。私が教育の為に預かっているのですが、どうもヤンチャで困っています」
と実恵は目を細めた。
義為は庭に降りて声をかける
「光仙丸殿、経を読むのはお嫌いか?」
「誰じゃ、わしは経より剣の方が好きじゃ」
とどこかの神官の様な事を言う。
「では、私が剣を教えてしんぜよう」
と義為は、庭に落ちていた箒を拾った、どうやら光仙丸は掃除を命じられてサボっていた様だ。
箒で二度、三度と打ち込みに合わせると、どうやらこの子供には剣の才能があるのがわかる、
義為が見せる隙に正確に打ち込んでくるのだ。
「実恵殿、これは勿体無いですよ、ちゃんと剣を教えた方が良いと思います」
「叔父上、この方は誰です?」
「これは失礼した、斯波大納言義為じゃ」
と義為は光仙丸に名乗った
大納言?と聞いてしばらく考えていた光仙丸は
「あ?」
と言う顔をして、片膝をついて頭を下げる。
「失礼をいたしました、私は……」
「良い良い、お立ちくだされ、法嗣様のお子なら、私にも甥の様なもの」
と言って光仙丸を立たせた。
「光仙丸殿、もし剣を学ぶ気があるのなら、城においでなさい、朝の読経をちゃんと終えてからなら実恵殿も許してくださるだろう」
「叔父上、よろしいですか、ちゃんと読経もいたします」
と言う事で、義為は光仙丸、後の証如に城の道場で剣を教える事にした、師匠役は家臣の中で一番の使い手塚原高幹だ、剣の修行は自分が修行するだけでは無く人に教える事で、学ぶ事が多い、特に才能のあるものに教えるのは自分の修行の為にもなるからだ。義為自身も、塚原高幹や京極高延は剣の弟子だと思って接している。
「武衛様、お手柔らかに」
と実恵は少し心配をしている。
光仙丸は義為の嫡男虎王丸とほぼ同じ歳だ、二人はこの後学問の師匠実恵と剣の師匠塚原高幹によって厳しく指導されて、兄弟同然に育って行く。
「今年は、少し静かに過ごせるかな」
義為は定李とそんな話をしているが、他国はこれからが戦のシーズンだ、どこかの斯波領にまた余計な手出しをしてくる者が出る可能性があるので、甲賀衆、伊賀衆には周辺国の監視を強化させている。
そして、やはりその予想は当たり甲斐の武田氏が、混戦状態の打開の為に諏訪に侵攻してきた。
この軍事行動にはもう一つの理由が有る、長年の内乱とそれが治って直ぐの外征によって、甲斐の国は
凶作から飢饉状態になっている、本来秋に収穫される筈の作物が収穫できていないのだ、元々甲斐は土地が痩せているので稲作に適していない、大豆や雑穀などの作付けを奨励しているとはいえ、飢饉になれば近隣諸国から奪う意外に方法が無い、だから隣国信濃へ進出する必要があった、佐久郡に侵攻したのもその為だ、だが佐久の戦況は思わしくない、だから今度は諏訪に矛先を向けたのだ。
この知らせを聞いた義為の動きは早い、井伊直平らに命じて、駿河、遠江、三河の将兵30000を一斉に甲斐に侵攻させたのだ。そして自分は尾張と美濃の兵40000を率いて、飛騨を経由して諏訪に向かう。信濃に入った所で、各地の国人衆達がこぞって参陣してその場で臣従する者も居る、既に周辺国では『斯波義為が侵攻してきたら従え』と言う、共通認識が出来上がりつつあった。
義為が諏訪に入った時には軍勢は60000近くになり、既に武田軍は撤退した後だ、だが武田信虎は甲府に帰る事ができなくなっていた、駿河から侵攻した井伊直平によって甲府に武田信虎が建設した躑躅ヶ崎館は落とされていたからだ。
開戦からわずか半月あまりで、武田信虎は諏訪から攻め降りて来た義為軍と甲府から登って来た井伊直平によって『韮崎』で挟撃され扇子平山城へ逃走しようとして、果たせず討ち死にした。
これを聞いた、甲斐国人衆や領民は悲しむどころか歓喜の声を上げたという。
またこの時、躑躅ヶ崎館の詰城「要害山城」に籠っていた武田の一族は城と共に運命を共にした、その中に嫡男太郎が居た事が後にわかり、ハルトは憧れていた武田信玄に会えなくなった事を密かに嘆いた。
この戦いの結果、信濃と甲斐の領主や国人衆や斯波家に臣従した事により、義為は信濃、甲斐共に領国とする事になった。
信濃の統治は元守護の一族小笠原長棟を奉行にして、国人衆を纏めさせて斯波家の領国法を徹底させる。飢饉に陥っていた甲斐は、渋川嗣知を奉行として躑躅ヶ崎館へ入れ、美濃と尾張の備蓄米を運び領民達に分け与える、そして信濃と甲斐の金山銀山は斯波家の直轄地として、山奉行坂井達乗が管理をする事になる、国人領主の一部にはこれに反抗する者も居たが、瞬時に鎮圧されて、反抗すれば一族郎党揃って命が無くなると言う事が直ぐに知れ渡った。
この頃岐阜の山奉行所は、50人程の与力が働いている。平手経英の勘定奉行所と並び斯波家の重要な政治所となっていた。
そして、この後甲斐の奉行、渋川(足利)嗣知の所には、関東で骨肉の争いを続けている、関東管領の山内上杉憲房、扇谷上杉朝良、古河公方足利高基、小弓公方足利義明らからの助力要請が相次ぎ、義為の指示で斯波家はどちらにも加担しない、ただし攻撃された場合には容赦無く反撃すると言う事を伝えている。
翌年大永三年の正月は、義為は岐阜城の大広間で、家臣一同や諸国の使者からの年賀の挨拶を受ける。
この時、興福寺から連れて来た酒造職人達に岐阜で作らせた『僧坊酒』を振る舞った、この僧坊酒は「諸白造り」と言われる製法で作られた酒で、それまでの『濁酒』とは違い現代の清酒に近い透明で澄んだ酒だった。
この酒は大好評で、特に裕福な公家達は高値でも良いから譲って欲しいと言い出す程で、斯波家の新たな財源となった。
更に義為はこの『清酒』を元に、『焼酎』を作らせる
ただ、こちらは飲用では無く、消毒用のアルコールとして使用する為だ。
戦場には『金創医』と呼ばれる現代の外科医の様な者が同行して、矢傷や刀傷の治療にあたるが、
消毒と言う知識はまだ無い、水で傷を洗い流す程度で、義為の父義達が亡くなったのも戦場で受けた矢傷から破傷風になった為だ、清酒が量産できる様になった事で、消毒用の焼酎もまた少量ながら生産できる様になったのだ。
ただ、この焼酎は大酒飲み達の間で直ぐに強くて美味い酒として噂が広まってしまい、一時は飲む事を禁止する事態になった。
「(全く、いつの時代も酒飲は仕方が無い)」
と義為は呆れている。
義為は本丸御殿の美濃殿の部屋で、酒を飲みながら和琴を聴いている。数えで20歳になった美濃殿は
それは美しく、義為にとって小牧の方と並んで美濃殿と過ごすこの時間が一番寛げる時間になっている。 美濃殿は現代の女性とは違い、義為の側室達を嫉妬する事も無く、家中を纏め上げて、更にその子供達の教育にも気配りができる理想的な正妻になっていた。
「姫と居ると心が和む」
「まぁ、またその様な事を、もう姫と呼ばれるのは恥ずかしゅうございます」
と言う美濃殿だが、嬉しそうだ。
「私ももう30を超えてしまった、時の経つのは早い物だ」
とハルトはしみじみ思う。