表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/26

第八章 朝倉滅亡

第八章 朝倉滅亡 


 この頃の朝倉氏は数年前に家督を継いだ十代朝倉孝景が実質的な守護として全盛期を迎えていて、一乗谷には京から避難してきた公家や僧侶、文化人達が集まり『北の京』と呼ばれる程だった、商人や職人も集まり、城下町の人口は10000を超えていたと言う。

 だが、以前の主斯波氏の元で同格だった各地の国人衆を完全に掌握したわけでは無く、その為に三代将軍足利義満の孫足利嗣俊を『鞍谷公方』として名目上の守護として立てていた。現在の公方は『足利嗣知』と言うそうだ。そして、隣国加賀の一揆衆とは休戦状態で有るが、いつまた紛争が起きてもおかしく無い状態だった。

 そんな中での農繁期の、斯波軍の襲来である、事前の情報通り北国街道から攻めてくるとの事で、ほぼ全軍をそちらに派遣した状態で、反対側の美濃街道方面からの斯波の二つ目の本隊の襲来だった、孝景は大野付近の城から逃げてくる兵達の様子からそれを知り、宗滴に急ぎ戻って一乗谷の守りを固める様に使者を出したが、宗滴が戻ってくる事は無かった、数年前から商人に扮して潜伏していた甲賀衆によって使者が途中で殺されて、その使令が届かなかった為だ。

 しかも甲賀衆は、城下町で斯波家襲来の噂を流し、動揺した貴族達が家財道具を持って逃げようと

して、一乗谷の守りの要『城戸』は避難民が邪魔で城門を閉じる事ができないでいた、しかも潜入している甲賀衆によって城戸防衛の将兵達が討たれると言う事態になっている。

 義為は、避難してくる公家や僧、商人達を手厚くもてなして、公家には付近の『西山光照寺』を借りて

「野点」の陣を設営して、実恵が茶を振る舞って朝倉家の情報を入手した。

 その中に、公家とも武家とも見える人物が居て、武家の正装である大紋直垂を着て、紋は義為と同じ足利二つ引紋だ。

「大叔父上、あの者をご存知ですか?」

と斯波義雄に聞いて見るが、心当たりは無いと言う。悠然と実恵の茶を楽しんでいる所を見るとそれなりの人物なのだろう、なので義為は声を掛けて見る事にした。

「失礼だが、貴殿はどなたかな、私は斯波右近衛大将義為と申す」

と言うと、その場にいた公家達が一斉に頭を下げる、官位が義為の方が上だからだ。

「これは武衛殿か、私は足利刑部大輔嗣知、お見知り置きを」

と、茶碗を置き立ち上がって頭を下げた。

「おう、貴殿が『鞍谷公方』殿でしたか」

 と義為は縁台に座り、しばらく公方と話をする事にした。

「なるほど、戦は全て宗滴殿任せだったと言う事ですか」

「その様ですね、なので国人衆からの支持はあまり無い様です、ただここ数年は朝倉領では大きな戦は無いので、領民からはそれなりに慕われている様です」

と言う事で、この後落ち延びて行く当ても無いとの事なので、他の公家達と同じ様に岐阜にくる様に言うと喜ばれた。朝倉家からはそれなりに扱われていたらしいが、実権は何も無く窮屈な生活をしていたらしい。


 その間にも、斯波軍は侵攻を止めずについに一乗寺谷の城下町を占拠、朝倉孝景は朝倉館を捨てて、一族の者と後方の山城『一乗寺谷』城に籠った。

「愚かな、城に籠った所で援軍など来ぬ、やがて兵糧が付き自滅する事が何故わからんのか」

と義為はこの時代の信仰に近い山城依存を苦笑する。

「服部保長、この城と町を灰にしろ、何も残すな」

と指示をした、斯波家の越前支配には山城とその城下町は無用の存在だからだ。

 そして、千秋季光率いる、尾張、伊勢、美濃勢に援軍の下間頼慶の山科勢と門徒衆を加えたほぼ全軍で

金ヶ崎で友成隊と戦っている朝倉宗滴の背後を襲わせた。

 朝倉宗滴は『釣り野伏せ』に乗せられて、既に兵の半数と援軍だった朝倉景職を失い、背後から攻められて敗北を覚悟して、自ら腹を切った。

 これにより、下剋上を最初に起こし守護斯波氏にとって代わった越前朝倉氏は十代で滅びる事となった、義為は『宗滴』の首のみを持ち帰り、熱田の祖父の墓に供えた後に丁重に朝倉家の菩提寺一乗谷の『心月寺』に葬った、だが孝景以下他の一族には興味を示さず、付近の里の者に銭をやり、菩提寺に葬る様に指示をしただけだった。

 

 義為は全軍を率いて、先祖『足利高経』の築いた『北の庄城』に入り、ここを越前の国府とする事にし、武衛家の本貫である越前を取り戻した事で、越前喪失以来失われていた『管領』職に復帰する資格を得た事となる、とは言う物の義為は今の所その地位には全く興味を持っていない。

 そして大叔父斯波義雄を越前奉行として、滝川貞勝に戌山城城代として、新たに大野に城を築き兵を整える様に命じた。

 また、この時から加増は領地では無く俸禄でする様になり、今回の遠征に参加した者はほぼ全員が昇給する事になった。

「朝倉は強敵と思っていましたが、こんなに脆いとは」

と千秋季光が不思議そうだが、

弟の定李が

「兄上、敵が脆いのでは無く我らが強すぎるのですよ」

と笑う

「その通りだ、我が斯波家が尾張を統一した頃なら、朝倉家の方が遥に強かっただろうな、だが我らは

国を富ませ兵を養った、その結果がこれだろう、全て皆の努力のおかげじゃ、亡き祖父も本貫の地を奪い返せた事を大いに喜んでくれていると思う、今宵は宴といたそう、皆存分に飲んでくれ」

義為がそう言うと全軍の将兵から大歓声が上がった。

 戦争に勝つには情報、兵力、武器、練度、士気、兵站の六つが重要とされている。

斯波家は朝倉家に対して、伊賀衆、甲賀衆を動員した情報力、常備兵の兵力で大幅に上回り、武器は弓兵が「四人張」の強弓を持ち、槍兵は全員が三間半の槍を支給されて、兵の打刀も全員支給品だ、常備兵なので日々訓練と鍛錬をしているので練度も高い、更に足軽も含めて赤備えの具足で装備を統一しているので見栄えも良く士気向上に繋がっている、そして兵糧は他国の様に現地調達では無く末端の兵にも充分な食事が提供されているので略奪などが必要が無い。

 この状況ではいくら名将の朝倉宗滴でも絶対に勝てないだろう、斯波家が圧勝したのも当然の事だった。


 義為が、遠征の目的を達して帰還準備を進めていると、下間頼慶と光頼を伴って実恵が戦勝の祝いに来てくれた。

「改まって祝いなど良いのに」

と義為が言うと、実恵は一通り祝いの言葉を述べた後で

「武衛様、実は我らはこれより加賀三山の蓮綱・蓮誓・蓮悟を詰問に参りまする」

と厳しい表情で答えた。

 加賀ではこの時、富樫稙泰が守護の地位にいたが、実権は本願寺八世宗主蓮如の子、蓮綱と蓮悟が蓮誓を補佐役に事実上の国主となる「両御山」体制が敷かれた。加賀三山とは蓮綱の『松岡寺』、蓮誓の『光教寺』蓮悟の『本泉寺』の事で、この三人は実恵の叔父に当たる。

 ただ、現宗主の実如とは折り合いが悪く、蓮誓などは山科本願寺の『親鸞御影』を加賀に移そうと企んで阻止されている、この度も実如の命に従わないばかりか反抗する姿勢を示した為、実恵が詰問に訪れる事になったと言う事だった。

「成程、それは難儀だな、よし私も同行しよう」

義為は即決だ、定李も

「当然、私も同行しますよ」

と手を挙げる。

実恵は

「ありがたい事でございます」

と安堵している、

「定李、皆に告げよ、服部友成、伊賀光就、滝川貞勝の三名は各兵3000を率いて同行せよ、兵は門徒衆のみとする様に、他の者は予定通り美濃に戻る様に」

「かしこまりました」

 赤母衣衆以外の同行させる武将と兵を門徒に限ったのは理由がある、もしこの加賀三山の者達と戦になった場合、他宗の者が居て遺恨を残さない為だ。義為の家中では禅宗に帰依する者が多く次が宗門の徒、そして日蓮宗などその他の宗派の者となっているが、義為は家臣達を宗派で区別した事は無い、実力のみでの評価をしているつもりだ、現にNo.2の定李は神官である。

 

 こうして、義為は実恵と定李と轡を並べて、下間頼慶の先導で北の庄城を出て加賀に向かう

最初の目的地は越前と加賀の国境にある『吉崎御坊』跡だ、ここには山科に匹敵する寺と門前町があったと言う事だが、今は寂れて元の漁村に戻っている。

 それでもかっての御坊跡は広大な敷地で、15000近い軍勢が野営をするには丁度良かった。

この先には加賀三山衆が支配する『大聖寺城』がある。

「友成、貞勝、物見を」

この二人には何も言わなくてもこれで足りるから便利だ、手分けして 西から松岡寺、光教寺、本泉寺や周辺の城や砦、村々の様子を報告してくれる。

 大聖寺城も城とは名ばかりで、今はほぼ廃城状態らしく、本丸に数十人の僧侶と信徒が居るだけだそうだ、そして周辺の村々も貧しく、領民達は痩せ細っているとの事だ

「それにしても、一揆衆100,000以上と言われていたが、何処に消えたんだ?」

「恐らくは兵では無くて領民達だったと思われます、それだけ宗門の教えが広まっていたんでしょうね」

 だが、今加賀の国は領民は疲弊し切っている、年に数回も越中や能登に兵を出していれば農民兵主体の国では、働き手を失った田畑は荒れ、食物に困り、更に無理に年貢を取り立てると言う負のスパイラルに陥ってしまう、今の加賀がまさにその状態だった。

 結局、加賀に侵攻した義為だったが、戦いらしい戦いは無しで……これが越前の朝倉氏が相手なら、加賀の門徒衆は必死に抵抗しただろう、だが今回は同じ宗門の山科の仏旗を掲げた軍で、しかも兵は規律正しく、苦しんでいる領民達には兵糧を分けてくれると言う評判が広まれば農民兵達は召集されても誰も応じ無い、結局、松岡寺の蓮綱、光教寺の蓮誓、本泉寺の蓮悟と戦わずに降伏して、下間光頼によって山科に護送されて、円如による査問と懲罰を受ける事になる。

「どこも、見事な寺でしたね、しかしこれだけ領内が荒れてしまうと後が大変ですね」

と義為は本泉寺の本堂で、実恵と下間頼慶に言う、当然、後は下間頼慶が統治をすると思っているから他人事だ。

 すると頼慶が懐から手紙を取り出した。

「宗主実如様からの親書でございます」

と言って、捧げ持つ。

「定李読んでくれ」

と読ませると、定李は一読して

「うわっ」

と声をあげてから

「失礼いたしました、拝読いたします『茶碗の礼じゃ、加賀一国任せたぞ』です」

「なんだって?」

そう言って、 実恵を見るとどうやら知らなかった様で驚いているが、頼慶は知っていた様で少し笑っている。

「食えないお方だな、とんでも無い物を押し付けて来て、仕方がないとりあえず守護殿に目通りをしよう、話はそれからだ」

と、義為は、名目上の守護富樫稙泰の居城『高尾城』に向かったが、城は既にもぬけの空で、守護富樫稙泰はどこかへ逃亡した後だった。

「これは、もうどうしようも無いですね」

「ああ、諦めて引き受けよう、服部友成加賀奉行を命ずる、前田利春、高尾城城代を命じる」

これを聞いて赤母衣衆の前田利春は驚いている。

「利春には少し早いかもしれんが、良い経験になろう、友成、誰か任せられる代官を見つけて早く美濃に戻って来てくれ」

「は、ありがたきお言葉にございます」

と友成は頭を下げる。

 ここに来て、斯波家の人材不足は深刻だった、斯波の一族は応仁の乱以降の戦乱で、殆どが死亡や断然していて、これは、譜代の家臣も同様だ。筆頭家老格だった甲斐氏は、越前・遠江の両守護代職を世襲する家柄だったが、朝倉に取って代わられて没落し、今は子孫が何処にいるのかもわからない。

 そして、守護代だった織田と朝倉はどちらも斯波に反旗を翻した有様で、譜代の家臣が殆ど残っていないのだ。

 

「私もしばらくここに残り友成殿のお手伝いをしましょう」

と実恵が言ってくれたのは唯一の救いだった、宗門の徒が治めていた国である、実恵の助けはありがたかった。とりあえず、尾張や美濃から余剰米を送って、飢餓に苦しんで居る領民に配る所から始めないと、このままでは加賀と言う国は滅びてしまうのが明確だった。

「前田殿、山科の兵2000置いて行きます、ご自由にお使いください」

と下間頼慶も言ってくれたので、とりあえずの最低の治安維持は可能だろう。

「(頭が痛いなぁ)」

と思いながら、義為は美濃へ帰国する事になる。


 その美濃では、新たに領地が増えた事によって定李以下二人の家老氏家行隆と佐々成宗が毎日死にそうな顔で働いている。

「(これじゃ完璧なブラック企業だよな、早くなんとかしないと)」

と、領国の中から、今度は武芸では無く学問に優れた者を取り立てると布令を出した、一門衆扱いとなった、足利嗣知改め渋川嗣知と大叔父の斯波寛元が試験官を担当する。

足利嗣知が渋川姓になったのは、実は嗣知は婿養子で、元は斯波氏の一族渋川氏の出身だからだ。


 その結果文官として採用されたのは、森可房、岩手重元、明智光綱、蜂須賀正利など十人余りで、これにより義為の領国の事務仕事が大きく捗る事になった、これ以降も、義為は定期的に文官の採用をして、各地の代官として重用する様になる。また一部の者達は武芸にも優れたので、武官としても重用される事になった。


 そして結局、友成と実恵が戻って来たのは、翌年の永正十六年の春になる。この年はハルトがこの歴史の世界に来て義為となってから10年以上の時が過ぎた事になる、17歳の高校生だったハルトは今では何処に出ても恥ずかしく無い武者、領主になっている……筈だ。

 この間一番多忙になっていたのは、家老の他には勘定奉行平手経英、普請奉行丹羽長政の二人かもしれない。

 この頃には岐阜城と源衛寺、岐阜の城下町もほぼ完成して、越前から移り住んで来た公家や高僧などに

よって文化度も上がり、岐阜は京に並ぶ都市になっている。

 義為は尾張、三河、遠江、美濃、駿河、伊勢、越前、加賀の八カ国の守護となり、山奉行坂井達乗によって、新たに領国となった越前と加賀からも金山が見つかって、斯波家は益々裕福になっていった。

 義為も前年に熱田の方との間に生まれた次男『小次郎』が元気に育ち、二男一女の父親になっている。


  そして、源衛寺開山の日を迎える、既に数日前に山科から円如によって、下間頼慶の兵5000で警護され、見事な阿弥陀如来像と親鸞像が運び込まれている、本願寺の式次第に従い、実恵によって開山式が行われ、この時には斯波家中の者だけでなく、周辺国の宗門の徒を始めとして、隣国飛騨からは家督を継いだばかりの『三木直頼』が参列、諏訪からも諏訪頼満 の使者が参列した。

 更に同盟国である北近江の京極高清も参列して、周辺国が大国となった斯波氏を恐れている事の証となる、しかもこの時には落成した、岐阜城の本丸五層天守の威容と、城下町の町家でさえも瓦葺な岐阜の町を見て、全員が驚愕と恐怖を覚える事になる。


 開山の式典やその後の宴席も無事に終了して、義為は「源衛寺」の茶室で、円如、実恵、定李と四人で茶を楽しんでいる、この茶室は以前稲葉山城の山中の館を取り壊した後に建てた物で、

 岐阜城側の襖を開けると、城と城下町が一望できる絶景の茶室になっている。

当然だが、ここを利用できるのは義為とその客だけだ。

「まさに、見事な城、これを見たら父は山科や石山もこの様な城造りにしろと言うでしょうね」

と円如は大いに感銘を受けた様だ、義為は仏像のお礼にと、円如に金200両を寄進しているので、円如も上機嫌だ。

「ありがとうございます、付きましては法嗣様には領内の寺の事でご相談が有るのです」

と話を切り出す、ここで言う『寺』はもちろん宗門の寺だ。

「ほう、なんでしょうか?」

と円如は姿勢を正した、一応どんな話なのか警戒はしている。

「はい、領内の寺全てに『寺子屋』を作らせていただきたいのです」

「はて?寺子屋とは?聞き覚えが無いですが?」

と円如は言う、そこで義為は寺子屋とは

 領内の童達を身分に関わりなく寺に集め、そこで読み書き、数の数え方と計算、武芸等を教える施設だと話した。

「なるほど、童達を……」

円如は、しばらく考えていたが、直ぐにこれが教団にとっても大きな利益になると言う事を理解した様で

「それは素晴らしいお考えです、早速山科でも『寺子屋』を建てて童を集めましょう」

と言ってくれた。

 この時代、宗派を問わず寺では武家や裕福な商人の子を預かり、読み書きや経文などを教える習慣がある、義為の考えはそれを領民全部にも広げると言う事だった、ちなみに歴史上で寺子屋が登場するのは江戸時代になってからだ。

 この頃は子は親と同じ宗派になるのが普通だったが成人して宗派を変える者は多く居る、子供の頃から宗門の寺で学んだ者達は宗門に宗派変えする確率が高くなる、それを大掛かりにすれば武家や庶民の区別無く、将来の門徒が大幅に増える可能性が有る、と言う事に円如は気がついたのだ。

 もちろんこれは義為が領民達や足軽達の中に文盲や数を数えられない者が多数存在する事を悩んで、実恵、定李と相談した政策なのだが、円如が快諾した事で、斯波家の領内では、寺子屋にかかる費用を宗門と折半とする事になった。

 この政策は直ぐに効果が現れる事は無いが10年後には斯波領全体で、投資した以上の経済的効果が

あると義為は思っている。

 

 越前と加賀を手中にした義為は、ひたすら富国強兵政策を取る。

敦賀湊と三国湊、本吉湊を整備して、町並を整え商船の寄港を促す。この三つの湊は熱田や津島と並んで斯波家の大きな収入源になる。富を蓄え、兵を増やし練兵をし、更に備蓄米を増やして戦に備える事を第一とした。

 また兵制を改革して、朱雀隊以下の各隊は、定数を3000の治安維持部隊として、常に各両国の警護と治安維持に当たる事として、その他の兵力全てを義為の直轄とする事にした。

 出陣する際にはこの直轄兵を義為が指名した武将達が率いる事になる。直轄兵は弓隊、槍足軽隊を編成して、兵五名を一組をし、その長を伍長、伍長を二十人率いるのが組頭(百人隊長)、組頭からは騎馬武者となる。組頭を10人率いるのが将(千人将)と言う編成が基本で、将を率いるのが大将と言う事になる。この編成は、ハルトの愛読書だった『漫画のキングダム』の古代中国の秦の兵制を参考にしたものだ。

 

 当面の仮想敵は南近江、若狭、越中と能登で、もし何かあれば直ぐに出陣できる様に準備を整えている、この四国は度々斯波領の国境を侵犯してきているのだ、当然降りかかる火の粉は払う必要がある。

 もちろん自分自身も毎日、道場で鍛錬(筋トレ)を欠かさず、ここの所急速に背が伸びて、逞しくなった京極高延や、義為流の食生活で筋力やスピードがアップして、強くなった塚原高幹などと立ち合いも続けている。 自分でも筋力が前より上がった気がしたので、特注の弓を更に『九人張』と言う強度の物に変えてみた、当然だがこれにより威力と射程距離が伸びて、まさに鎮西八郎並の弓となった。

 また朱槍も今までの物より長さと重さを増やした物に変えてある、古い方の槍は京極高延に与えて

「早くこの槍を使いこなす様になれ」

と発破を掛けた。


 翌年永正十七年、都では新たな騒乱が起きている、切っ掛けは前年に管領代大内義興が領国に帰国してしまった事による。それに乗じた阿波の細川澄元・三好之長が摂津に進出、管領細川高国は窮地に陥る。

 義為は、この騒乱に乗じて、長年斯波家と敵対していた南近江の『六角定頼』を討つ為に出陣する。

この頃には、駿河、三河、尾張、伊勢、の兵力は治安維持部隊を除いても各10000を超えるまでになっていて、これに越前と加賀の各7500を加えて、全軍で出陣すると55000以上になる、これに美濃の義為の親衛隊20000が加わるともう歯向かう事のできる国は存在しなかった。

 義達は、六角を攻めるにあたり同盟国の京極家に出陣を促して、第一陣として千秋季光に三河と尾張の遠江の将兵を与えて出陣させた。

 この時、京極家の家臣でありながら、六角氏に加担した北近江の国人衆『浅井亮政』は居城尾上城を30000の兵で取り囲まれて、勇敢にも一族の者数騎と打って出た、これを迎え撃ったのは、義為の赤母衣衆となった初陣の京極高延だった。高延は義為から拝領した朱槍を使いこなし、敵将浅井亮政を打ち取る大金星を上げて、武芸の育ての親である千秋季光と同じ赤母衣衆で、兄貴分となっていた塚原高幹を大いに喜ばせた。

 南進した季光は甲賀衆の協力で、義為が第二陣の編成をする暇も無く、六角氏の居城観音寺城を落として、逃亡しようとした六角定頼を捕らえてその首を取り、ここに佐々木道誉以来の名門六角氏は滅亡した。またこの時は塚原高幹と京極高延でそれぞれ敵将の首10以上を挙げて、義為の親衛隊赤母衣衆の実力を示した。

 この戦の後、京極家の家督を嫡男高延では無く、溺愛していた次男京極高吉に継がせようと画策していた京極高清は高延の武勇に恐れを成して家督を譲り隠居する事になる、そして義為に気に入られていた、京極高延は、義為が養女とした大叔父斯波義雄の娘を目取り、斯波の一門衆として尾上城城代となった、

この事で、結果的に京極家が斯波家に臣従した形になり独立領主としての京極家はここに終焉を迎えた。

 近江奉行には義為が最も信頼する千秋季光が就任した、もちろん全軍の侍大将の地位はそのままだ、

六角氏と京極氏の間で、蝙蝠の様にどっち付かずだった近江国人衆は、この時全て斯波家に臣従を誓う事になった、国人衆の中でも力が有った浅井氏が簡単に滅ぼされた所を目の当たりにしたからだ、そして甲賀衆は、伊賀衆と同様に、その領地を大きく増やして義為に更に忠誠を近う事になる。また後の剣聖塚原高幹は昇進して赤母衣衆筆頭となった。

 この頃近江では牛の飼育が盛んで、義為はそれを更に奨励して、牛肉の味噌漬けを作らせた。

これによって狩猟に頼っていた、斯波家の食生活が大きく向上した。やっと牛肉を食べられる様になった

義為は、この近江牛を気に入り畜産農家を特別に優遇して食肉用の牛を増やす事にした。

 また近江一国を完全に制圧した事で、義為は宗門の徒である堅田衆を従えて、大津、塩津など主要な湊を抑えて、当時の機内と北陸の運送の要である琵琶湖の水運を支配する事になった。だが、これは琵琶湖の水運で権益を得ていた比叡山延暦寺との争いのきっかけになる。


 以前から、斯波領に領国の北西から南までを取り囲まれる形になっていた飛騨の三木直頼は斯波家の近江獲得をきっかけに、妹を差し出して、義為に臣従をして飛騨奉行となる、三木家に敵対していた国人衆江馬時経と公家で飛騨国司の姉小路済俊は、文官から武官に転じて美濃衆10000を率いた明智光綱によって滅ぼされる事になる、この姫は飛騨の方と呼ばれ、義為の側室となった。

 京では、この話を伝え聞いた帝は、以前にも正五位上右近衛少将で公家の北畠親平を、今回は従五位上侍従の官位を持つ、公家の姉小路済俊も討ち取られた事で

「あの者は公家を道の石の如く扱う、まるで『等持院殿』(足利尊氏)の様じゃ」

と嘆いて恐怖したと言う。


 義為は美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊勢、越前、加賀、近江、飛騨と10カ国の守護となった。

そして、今度は義為自身が美濃と伊勢の兵を率いて、越前に入り越前兵も合わせた30000の軍勢で、若狭の国『武田元光』を攻める。

 そもそもの原因は、武田氏が越前の敦賀に度々侵攻してきた事による、そしてその武田氏の防衛の要が

若狭の国吉城だ、この城は街道の要所『椿峠』を抑える山にある山城だ。当然、武田氏もこの城が簡単に落ちる等とは思ってもいない、だが、斯波軍にとって山城は最早意味を為さないと言う事を武田氏は知らなかった。斯波軍が接近するのに呼応する様に城内から火の手があがり、城は忽ち炎に包まれる。

 既に数年前からこの城には甲賀衆が入り込んでいたのだ、そしてこの城を抜かれると、数に大きく劣る武田軍は全く抵抗する事ができずに、守護館の有る『西津』の町を占拠され、館に火をかけられて、武田元光は自害して果てた。

 義為は伊勢衆の鹿伏兎定好を若狭奉行に任命して、神戸為盛に高浜に城を築かせて城代とし若狭の軍権を任せる事になる。これにより、甲斐源氏の一門だった若狭武田家は滅亡した。

 これだけ軍事力に差があれば、斯波領に手出しする隣国は無くなりそうだが、そうでも無いのが不思議な事だ、冷静に情勢を判断できる、若狭の西の隣国である丹後の一色義幸は即座に義為に戦勝の祝いの使者を送り、斯波との従属的同盟を結んだこれは元々一色氏が、足利一族でも家臣筋だった事もあっただろろう。

 北西の隣国丹波は管領細川高国の領地であり、守護代内藤貞正の元有力国人衆の波多野元清、赤井時家らが納めていて、今の所斯波家に敵対する様子は無かった事から、一度美濃に戻った義為は今度は

 兵を入れ替えて、40000の軍勢で伊賀光就を副将に美濃衆を率いて加賀に向かう、加賀には友成と実恵が建立した『金沢御坊』があり、今は代官『黒瀬覚道』が居る。

 人影もなく放置された田畑が広がっていた村々は、田植えをしている農民の姿が多数見える様になっていた、逃散していた農民達が戻ってきているのだ、斯波領は全て年貢の税率が、三公七民なので一度は他領に逃げた者が続々と帰ってきているのだ。

 一度は国が死にかけていた加賀は急速に国力が回復しつつある、その加賀に度々侵攻してきているのが能登の畠山義総と越中を狙う越後の守護代長尾為景だ。


 能登畠山家は斯波家と並ぶ三管領家の畠山家の分家で、同じ足利氏の一族になる。

この頃の能登は加賀から派生した一揆衆を退けて、七尾の城下町も栄えて『小京都』と呼ばれる様になっていた、一方で越中は守護の畠山尚順から独立を図る一揆衆と守護代神保慶宗に対して畠山から要請を受けた越後の長尾為景が優勢になっている。つまり、共闘している、畠山と長尾に対しての戦いと言う事になる。

「(共闘している敵には各個撃破が鉄則だな)」

と義為はまず加賀から越中に兵を進めて、一揆勢と神保慶宗が籠る二上山城の救援に向かった。

「(なんで、好き好んで山城に籠るかなぁ)」

と義為は思っているが、山麓を取り囲んでいた7500程の越後兵は、長陣で厭戦気分が広がっていた為に

 義為の20000の大軍を見て、城の包囲を解いて越後に撤退しようとした。だが、越後方面には別働隊として、先に布陣していた20000の伊賀光就隊が待ち構えていた。

 挟撃された、越後勢は守護代長尾為景以下、村山直義など武将が討死して全滅した。

主を失った守護代長尾家は、守護上杉家との抗争をこの後、延々と繰り返す事になり、勢力を大幅に失って行く。

 窮地を救われた神保慶宗は、一揆勢が義為の三旒の「名号幟」に恭順を誓った事から、慶宗も斯波家に臣従する事となり、安住城を改修して『富山城』で越中奉行となる、二上山城には越後への備えとして、明智光綱が城代として入り、越中の軍権を任される事になった。

 一揆衆は元々が加賀の者が多かったので帰農を希望する者には、加賀までの兵糧と銭五貫づつを与えて帰国させた、残りの者は明智光綱の指揮下に入る事となる。

 越中を片付けた事で、義為は軍を返し、能登に向かう。

「また山城か」

と義為はうんざりした口調で言う、平地での戦はそれなりに楽しいのだが、山城の攻城は正直言ってつまらないからだ、

「畠山義総に降伏を促してみるか、長尾の援軍はもう来ない、同族として滅ぼすのは忍びないので

降伏すれば命は助けて京に逃してやるとな」

と伊賀光就に命じる。

 だがせっかくの温情も義総には通じなかった様で、小京都と言われた七尾の城下町も山城の名城と言われた七尾城も家臣温井総貞らの裏切りも有り灰燼に帰した。

 畠山義総とその一族は、城と運命を共にした。

「(もうこれで山城に籠る馬鹿が出て来なくなると良いな)」

と義為は思っている、そして能登の統治には臣従した温井総貞を奉行に、軍権は美濃衆の蜂須賀正利に任せて能登の輪島湊、越中の岩瀬湊を斯波家直轄領として、早々に帰国した。

 義為は氷見の寒鰤が食べられなかった事が心残りだったが、それを待っていたら、雪に埋もれて帰国できなくなってしまうので諦めた。

 だが、この越中と能登を所領に加えた事で、畠山本家の畠山尚順、畠山稙長親子、それに将軍・足利義稙と斯波家との対立は決定的な物となった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ