第七章 越前朝倉攻め
第七章 越前朝倉攻め
清州に戻った義為は、主だった家臣達を全員招集して、斯波家の本拠を美濃へ移動する事を発表して、
普請奉行丹羽長政と共に作成した川手城に変わる新たな美濃の本城の縄張りを披露した、当然だが平地に作る平城となる。
稲葉山城の西、川手城の北東に新たに城を築く事、城は本丸、二の丸、三の丸からなる輪郭式の城で
二の丸には家臣達の館、三の丸には兵舎、それぞれが石垣と水堀に囲まれた巨大な城で、更に三の丸の内、東側の旧稲葉山城の付近に『源衛寺』を建立する事、そして城外に城下町を整備して、これも外側を水堀で囲む総構えの縄張りだ。
そしてこの城を『岐阜城』と名付ける事、この城下町を『岐阜』と呼ぶ事を告げた。
「岐阜ですか、周の岐山と孔子の曲阜と言う事ですね」
と定李
「それはどう言う意味ですか」
と氏家行隆
「『周の武王、岐山より起り、天下を定む』の『岐』、孔子が生誕の地『曲阜』の『阜』、武衛様がこの乱れた世を正すと言う意味でしょう」
定李は得意げに解説をした。
「これはまた壮大な」
と全員が息を飲む、
「私は数日後には美濃川手の城に入る、そこを本丸の完成までの仮住まいとするつもりだ、皆も丹羽長政の指示を仰ぎ、早急に自分の館を建てよ」
と有無を言わさず宣言した。
この時、清州の城は弟『次郎丸』……正史での斯波義統だが、この時まだ四歳だ……を置き、傅役は千秋季平とする事を告げた、義為には更に父の忘形見となるもう一人の弟、『三郎丸』……正史の斯波義景……が居るが、こちらもまだ二歳を過ぎだばかりなので、そのまま清州に残る事になる、そして服部友成を勝幡城の城代として、新たに『大目付』と言う奉行と同格の役職を設けて領国全ての治安維持に当たらせる事にした。
二人の大叔父、斯波寛元と斯波義雄も美濃に同行する様にと指示をした。
これにより、斯波家の家臣団は領地から切り離されて、知行地制になり代官を通じて収入を得る事となり、これが斯波家による土地への直轄支配となり更に兵農分離を促進する事になる。
もちろん三河の安祥松平家の松平信忠の様に愚かにも反抗をする者も居たが、当然領地を没収される事になる、義為の圧倒的経済力と軍事力の前に反抗は無意味なのだ。逆に積極的に岐阜に館を欲しいと言う者もいる、駿河や伊勢の大河内貞綱や飯尾賢連、鹿伏兎定好、神戸為盛達数十人だ、義為はこれらの者を誉めて褒美を与えている。
家臣達を城下に常駐させることは、家臣を領地から切り離すだけではなく、その家族を人質化する事ができる、これにより義為はより家臣達への支配力を強める事ができるのだ。
「(『朝倉敏景十七箇条』や織田信長の政策のパクリだけどね)」
とハルトは思っている。
この時点で、正史とは大きく異なった歴史の流れになっていて、
まず尾張では、織田弾正忠家が滅びた事で、織田信秀に相当する人物は元服前から禅宗の僧籍になっている、なので、織田信長は歴史から消滅する事になるだろう。
三河では、徳川家康に繋がる松平長親が早々に死去し、その子信忠が反抗した事で安祥松平家は滅びて、徳川家康も消滅した事になる。
駿河の今川は既に滅びて、今川義元が登場する事も無く、相模の伊勢氏も盛時、その子氏綱が死亡した事により、北条を名乗る事無く伊豆にかろうじて残っている。
伊勢は北畠晴具となる人物、北畠親平が死亡して北畠家も滅亡した。
そして美濃、守護の土岐氏が既に無く、守護代斉藤氏、小守護長井氏も滅びている、なので長井氏、斉藤氏と次々家を乗っ取った斉藤道三が登場する可能性も無い。
また義為が本願寺と良好な関係を持っている事で、三河一向一揆や長嶋一向一揆も起こる事は無い。
ハルトが義為としてこの時代に来ただけで歴史がこれだけ変わっているのだ、この先何が起きるのか、全く予想は付かなかった。
そして義為の私生活だが、今は熱田の方と呼ばれている愛妾かなとの間には娘が生まれて真希姫と名付けられた、更に正妻の美濃殿も妊娠中で、大事を取って、二人はしばらく清州に残る事になる。
正妻と愛妾を置いて、美濃川手城の仮館に入った義達だが、家老となった氏家行隆が娘を側室にと差し出して来た。
この頃には家臣達の中で競争心が芽生えて、誰が最初に館を作るか等で皆熱心に働いている時だ。
この行隆の件を聞いた三河奉行松平昌安、遠江奉行井伊直平、駿河奉行吉良持清もこれに続いて、それぞれが娘や妹を側室として差し出す事になり、順に美濃の方、三河の方、遠江の方、駿河の方と呼ばれる様になったのだった。
「(まぁみんな綺麗だし、女性に囲まれるなんて事は無かったからなぁ、これも有りか)」
と24歳になったハルトは思っている。
美濃に引っ越して半月もすると、周囲は凄い勢いで普請が始まっている、
今までの街並みを壊して、全て新たに作るのだから当然だ、この時この時代の日本で初めての下水道を町割りと同時に整備した、長良川から取水した水を暗渠で町を巡らし、木曽川に流すと言うシステムだ。
これの元ネタは秀吉が作った大阪の街だ、ハルトが『歴史文化研究部』で文化祭で発表した内容を記憶していたから出来た物だ。
義為は岐阜の城下を毎日小姓を連れて見回っているが、日に日に街並みや堀、石垣が出来ていくのを見るのが楽しい。
そんな中、先行して築城していた、大垣城が使用できる様になったと言う事なので
義為は見分に向かう。
この城は越前攻めの基地としての機能を重視した為に、城と言うよりは兵舎と言う呼び方が正しいだろう。斯波領の各地から集める予定の常備兵を集結させられる規模になっている。
城の様子に満足した義為は、岐阜に戻ると越前攻めの最初の評定を開いた。
ちなみに越前侵攻について、家中で反対する者は居ない、越前が斯波家の本貫の地で、朝倉はそれを斯波家から奪ったと言う認識を皆が持っているからだ。
「さて、越前の件だが、まず此度は25000の兵で出陣する予定だ、そこでだ美濃街道を行くか、近江へ出て北国街道を行くかの二つになるが皆の意見は?」
「美濃街道はかなりの山道です、ここは北国街道を行くのがよろしいかと」
と定李
「いや、朝倉は全軍あげても15000程、その内、一乗谷勢と呼ばれる精鋭は5000、ならば我らは美濃街道と北国街道両方から進めば良い」
と主張するのは、越前事情に詳しい服部友成だ。
「成程、朝倉勢は15000か、だがそれは秋の刈り入れが終わった頃の話だな」
「その通りでございます、そして越前は雪国、冬は戦ができませぬ故、攻めるなら初夏が宜しいかと」
「それなら敵は半分以下になりますね、ならば両方の街道から侵攻するのも良いかと思います」
「だがそうなると、戦の前に北近江を通れる様にせねばならんな、佐々成宗、京極高清殿に斯波と同盟を結ぶ気があるか確認してまいれ、街道を通過するのを許可してくれるだけで良いとな、その代わりこちらは京極殿が困った時はお助けすると言う事でどうだ、それに金100両を付けてやる」
「おそらくそれで京極殿は首を縦にふるでしょう」
「では次は陣立だ、北国街道は、大将に服部友成、副将に千秋定李、与力、松平昌安、井伊直平、滝川貞勝、柴田勝達、佐久間盛通、吉良持清、松平貞光以下、三河、遠江、駿河勢とする、兵15000で進め、 美濃街道は美濃、尾張、伊勢の衆を私が率いる、美濃の留守居役は平手経英、出立は来春だ、それまで訓練と町作りに励むように」
「はは」
と全員が平伏して、評定は終了した。
その後数日、しばらく練兵の様子を見たり、普請現場の視察をしていると、北近江に行った佐々成宗が戻ってきた。
「御館様、ただいま戻りましてございます」
と元川手城の本丸館だった義為の仮館の対面の間で、成宗は報告をする。
「京極殿、同盟の件非常にお喜びになり、その証として御嫡男京極高延殿を人質として差し出すとの事でございます、これは京極殿からの信書でございます」
「そうか、それは上々、その人質はいつこちらに?」
「は、それが私と一緒に参っております、お呼びいたしますか?」
と言う事なので、義為は人質として送られてきた、京極家の嫡男高延と対面する事にした。
「御尊顔を拝し……」
とお馴染みの挨拶の後、高延の顔を見る、12〜14歳位だろうか、中々にしっかしとした少年だった。
「京極高延か、その方槍は得意か?」
「はい、槍も剣も弓も得意にございます」
「そうか、では学問の方はどうだ、『論語』は読めるか?」
「は、あのそちらの方はいささか……」
とどうやら、この少年は千秋季光型の様だ。
「そうか、良い付いてまいれ」
と義為はこの高延を連れて普請中の岐阜城の練兵場に向かった。
岐阜城では義為の御殿より先に三の丸の道場、練兵場、的場、馬場を整備させたので、侍大将千秋季光は、ほぼ毎日ここで兵達を鍛えている。
「御館様」
と義為の姿を見た将兵達が一斉に跪く。
「良い、そのまま続けよ、千秋季光この者に一手指南をしてくれぬか、京極高延、槍と剣どちらが良いか?」
「は、槍で」
と、二人は稽古用の槍を持って相対した。
「ほう、悪くないな」
「は、誠に、千秋殿が手加減をしていますが、小童にしては良い動きかと」
成宗も関心している。
「そこまで、千秋季光、この者は京極高清殿の嫡男京極高延だ、お主に預ける鍛えてやれ」
「は、かしこまりました」
この頃、季光は斯波家中の少年達を集めて、兵と一緒に鍛錬をさせている、この高延も鍛えれば一角の武将に成長するだろうと義為は思った。
現在岐阜の町は、斯波領や他の国から来た工夫達で溢れている、そんな普請の様子を、義為は元稲葉山城の館があった金華山の中腹から眺めている。
城の本丸、二の丸、三の丸と整地され石垣が積まれて、堀が掘られていく様子は見ていて飽きない物だ、山麓の『源衛寺』の方も、「御影堂」と「阿弥陀堂」が形になりつつ有る。
本丸には、この歴史線の世界で史上初めてとなる天守が築かれる予定で、今はまだ土台となる天守台と石垣を作っている最中だ、ここに地上五層地下一階の望楼式の楼閣が建てられる。
「(まぁ三年位はかかるかな)」
と義為は思っている。
城下町の方は、もうかなり進んでいて、商人街には、津島や桑名等の大商人達、大橋信重や梅戸貞実達が既に店を開店している。
そして、斯波領の特徴である楽市楽座の政策で市も賑わっている。
義為はこの市を愛妾達を交互に連れて散策するのが好きだった。
そんな中、人だかりが出来ている店を見つけた。
「(なんだ、油屋か?)」
その店は荏胡麻油を量り売りする店の様で、店主自らが、油を計る。
ただそのやり方が、変わっていて
「油注ぐんに、漏斗を使わず一文銭の穴に通すさかい、よう見とってや、油が一滴でもこぼれたらお代は頂きまへん」
と言うのを口上にしていると言う、
義為と同じ年齢位の店主が実演をするのは見事な物だが、よく見ると油が濁っていてあまり品質は良くない様だ、しかも値段は高めだ。
今日連れている、三河の方は
「まぁ凄い」
と素直に喜んでいるのだが、義為は気になってその店主に聞いてみた
「店主見事な見せ物だが、お主は商人かそれとも大道芸人か」
との問いかけに、店主は
「商人でございます」
と答えたので、義為は
「商人か、商人なら商品を売り物にするのだな、大道芸で濁った油を高値で売るなど、商人とは言えん」
そう言うと
店主は顔色を変えて
「なんやと、人の商売の邪魔をするんか」
と腰の小太刀に手を掛けようとした、そして直ぐに義為の周囲を常に警護している伊賀衆に取り押さえられる。
「無礼者、御館様に刃を向けようとするとは」
周囲の者達は、
「斯波の御館様じゃ」
と言って一斉に土下座をした。
「御館様、この者の処分はいかがいたしますか?」
「この様な怪しげな商いをする者は我が領内には必要ない、所払いで良い、その方近江でも甲斐でも好きな所に行くが良い、離してやれ」
とそう言って、その場を離れた。
義為は気がついていないが、この油売りの隣で義為を睨んでいた少年が後の斉藤道三となる筈の者だったのだ。
「(人が増えると変な奴も増えるな、服部友成に良く言っておかねば)」
と思って、三河の方に櫛や簪を買ったりして館に戻った。
この頃斯波家が美濃の新国府岐阜で兵を集めている事は諸国に知れており、特に槍や剣の達人は高禄で
召し抱えられると言う話が広まって、畿内や周辺諸国から腕に自信のある若者達が仕官を求めて集まる様になっている。
義為はそんな若者達を、月に二回、三の丸の練兵場に集めて、採用試験を行なっていた。
試験のルールは至って簡単で、弓なら規定の距離から的に当てる、槍や剣は千秋季光、服部保長、滝川貞勝、柴田勝達、佐久間盛通等の家中の豪の者と木刀や木槍で立ち合い、腕を認められれば良いだけだ。。
ただ、実戦と訓練で鍛えた猛者達とまともに相手をできる者は五十人に一人位だ。
義為は毎回、この試験を見物して今回はどんな者が合格するかを見るのを楽しみにしている。
今朝も早朝から、100人以上の仕官希望者の試験が始まる。
「あの者は?」
義為はその中に他の者と明らかに身のこなしが違う者を見て、服部友成に聞いてみた
友成は、手元の帳簿を見て、
「元将軍家家臣、『塚原高幹』とありますね」
と答えた、これが義為の知っている 塚原高幹ならこんな機会は二度と無い
「あの者の相手は私がいたそう」
と、床几から立ち上がり、襷をかけて木刀を手にした。
「御館様、おやめください」
と友成は止めたが、義為はそのまま塚原高幹の前に立ち、服部保長と代わった、保長は友成の方を見たが
友成が『仕方が無い』と首を振ったのを見て後に下がった。
この頃、義為が学んだ『柳生新陰流』はまだ誕生していない、その元となった上泉信綱の『新陰流』が誕生するのも後50年後になる、この新陰流は現代では兵法三大源流と言われる念流、香取神道流、陰流と他の諸流派を参考に陰流を発展させ、新陰流と名づけられたと言われている。柳生新陰流が柳生宗厳によって創設されるのは、更にそれから15年後だ。
そして、この塚原高幹が後の世で塚原卜伝となる人物だとすると、その剣は『鹿島神流』と『香取神道流』の筈だ、後にこの二つを融合させた『鹿島新當流』の開祖として有名になる。
ハルトは『日本古武道協会』の演舞で、『鹿島新當流』の太刀筋を何度も見て知っている。
一礼してお互いに構えると、塚原高幹は『おや?』と言う顔をした。
この時の義為の構えは香取神道流の者とほぼ同じだからだ、そして相手が打ち込んで来るのに合わせて
新陰流奥義、「村雲」で応じた、高幹の太刀筋は凄まじく、もし当たればこの一撃で、頭を割られて即死だっただろう、高幹は自分が負けた事を悟って
「もう一本」
と頼んで来た。
だが、二本目も同じ事で、塚原高幹は何故自分が負けるのか理解できない様だ、
「もう一本」
ここで、義為は「無刀取」から体捌きで高幹を投げ飛ばした。
「参りました」
と高幹は頭を下げた。
生涯無敗と言われた、塚原高幹が初めて敗北した瞬間であるが、それはある意味当然だ、仮に古流の技が互角としても、現代スポーツ理論に基づく筋トレで鍛え上げたハルトは筋力、スピード共に、形稽古と打ち込みのみで修行をした高幹より遥に上だったからだ。
義為と塚原高幹の別次元の立ち合いを見ていた、その場の物全員が、溜息を付いた。
「御館様、お見事にございます」
と服部友成が、膝を着く。
塚原高幹を含む、その場の仕官希望者達全員が、この剣の達人が、領主『斯波義為』本人と知って驚愕の表情を浮かべている。
「塚原高幹、銭1000貫で召し抱えるがどうだ?」
と義為が言うと、塚原高幹は
「ありがたき幸せ」
と頭を垂れた、これは高幹が将軍家から貰っていた俸禄の倍だったからだ。
この頃義為は前田利春ら自分の馬廻り衆や新参の若者達から選りすぐった者で親衛隊『赤母衣衆』を作っていた、塚原高幹はその一員となったのだ。
そして、その年の秋、清洲から早馬が来て、正室美濃殿が男子を無事に出産したとの連絡があった。
義為は直ぐに馬を飛ばして清州の城に向かうと息子と対面した。
嫡男、虎王丸の誕生である、更に嬉しい事に娘を連れて美濃に越していた愛妾熱田の方がまた妊娠したと言う事がわかり、義為の私生活はかなり充実して、翌年の永正十五年正月には新築された岐阜城の本丸御殿で賑やかに新年を祝う事ができた。
新年の祝いと『源衛寺』の進捗具合を確かめに来た実恵は「御影堂」と「阿弥陀堂」、それに建築途中の五重塔を見て満足している様だ。
「実恵殿、実は一つ大事な問題あります」
「はて、なんでしょう、造営は順調かと思いますが?」
「『仏師』の当てがつかないのです、このままでは阿弥陀堂が出来ても阿弥陀如来様が居ない堂になってしまいます」
とこれは本当に困った状態だった
それを聞いて実恵は笑って
「その心配はご無用です、山科から開山に間に合う様に届くはずです」
と言う事だ、ふと見ると、実恵の警護に付いてきた若い武将が、笑いを堪えているのがわかった。
それを見て実恵がその武将を叱った。
「これ、光頼、武衛様に失礼をするでない、武衛様、この者は下間頼慶殿の嫡男下間光頼と申す、お見知り置きを」
と取りなした
「何、私が寺の事を何も知らないのは事実ですからね、気にしませんよ、この寺の造営も山科から来た大工達がやってくれています、私は見ているだけですから」
義為は笑った。
春になり、清州から正妻美濃殿と嫡男虎王丸が無事に岐阜に到着して、本丸御殿に入った。
美濃殿は、自分が生まれ育ったこの地のあまりの代わり様に驚いていたが、周辺の山や川の景色は何も変わっていないので、直ぐに落ち着いた様だ。そして数日後、義為は美濃殿を伴って、舅と二人の義兄の墓が有る、土岐家の菩提寺『禅蔵寺』に墓参りに行く。
土岐の血を引く、嫡男虎王丸が岐阜に入った事で、家臣の中の美濃衆達の態度がかなり好転した事が
はっきりとわかった、国人衆にとって以前の領主の血族はやはり大事な存在なのだろう。
これはこれから、領国を広げて行く上で大事なポイントになると義為思った。
そして永正十五年の四月、斯波領各地で田植えの準備が始まった頃、越前朝倉攻めに出陣する。
北国街道を進軍する服部友成と千秋定李に義為は最後の確認をした、
「この作戦は『常山蛇勢』の陣、無理はするなよ」
「はい判っております、適当に敵の主力を引き付けておきます」
定李は言う
「千秋殿、適当とはあまりにも不真面目」
と友成は苦笑している。
『常山蛇勢』の陣とは『双頭の蛇』の陣だ、つまり北国街道を行く部隊と美濃街道を行く部隊の二つの頭があると言う事で、先に北国街道部隊が敵の本隊を誘き出し、その隙に美濃街道を行く義為の部隊が、敵の本城『一乗谷城』を落とすと言う作戦だ。
朝倉家の二倍以上の兵力を持つ斯波家ならではの作戦だった。
服部隊15000は、美濃大垣から北近江に入り琵琶湖の横を通って北国街道を北上していく。
最初の目標、敵の『疋壇城』をあっさりと落として、そこで野営をする。
「呆気無いですね、これで敵が敦賀の金ヶ崎城付近に大軍で来てくれれば文句は無いのですが」
「敵将は歴戦の勇『朝倉宗滴』早々とこちらの思惑通りにはならぬかと」
この朝倉宗滴は武人としてだけでは無く茶の湯の道にも明るく、名物茶入『九十九髪茄子』を所有していたと言われている、宗門の徒にとっては加賀や越前の門徒を『九頭竜川の戦い』で破った宿敵でもある。
そして服部隊は敦賀に兵を進める。
「やはり、金ヶ崎城と天筒山城に籠っていますね」
「甲賀衆の報告では敵は7500程だと言う、あの手で行くか」
と服部友成と千秋定李が話している。
この『あの手』とは『火計』の事だ、通常は山城に火計で攻めるのは悪手とされている、山が木々で覆われていても、城の周りは伐採されていて、空堀や土塁があり、麓からの火が城には届かない事になるからだ、そして一旦木々が燃えて仕舞えば、攻城側は山の上から丸見えになり、ただの的になってしまう。
しかし斯波軍の『火計』はそれとは別物だ、夜間に城に忍び込み、油を撒いて火を付けると言う忍びの技を利用したゲリラ戦なのだ、大軍による陽動と忍びによるゲリラ戦がこの頃の斯波軍の基本戦術だった。しかも、甲賀衆の者達は、領民や足軽に姿を変えて既に城に入り込んでいる、と言うのがこの作戦の要だった。
そしてその夜の内に二つの城から火の手が上がり、城内の主要施設はあっと言う間に炎に包まれた。
敵将朝倉宗滴は仕方なく、城を捨てて山を下り麓の街道筋に陣を張る事になる。
「計略通りですな」
この火計の指揮を取った、滝川貞勝が言う
「見事なものじゃな、我が伊賀の火計術をこうもあっさり真似られるとは」
と少し不満気なのは服部友成だ。
「いやいや、実に恐ろしいのは御館様です、長野攻めで使った伊賀衆の術を見抜き、山城との戦で使う様に指示されたのですからな」
と貞勝が返す。
「実に」
と忍びの頭領でもある二人は頷いた。
「さて、では私も、少し真面目に働きますか、皆様、順番に敵に夜襲をかけて、少し攻撃して引いて下さい、松平昌安殿、井伊直平殿、柴田勝達殿、佐久間盛通殿、吉良持清殿、松平貞光殿の順でお願いいたします」
と副将兼軍師である定李は指示を出した。
各隊、それぞれ兵は2000ずつで、それが、これからしばらく昼夜を問わず敵を攻撃する事になる。
しかも、こちらの弓隊は今では殆どが強弓隊なので敵より射程が長いのだ、これで、敵が援軍を呼べば作戦目的は叶ったも同様だった。
その頃、郡上八幡城から出て、美濃街道を進む義為率いる本隊15000は、風光明媚な街道の景色を楽しみながら、既に越前の『大野』に近づいている、
元々10000の軍勢の予定だったのが、山科から下間頼慶が兵4500で応援に来て加わった為だ、実恵の護衛として来ていた下間光頼の500と合わせて5000の兵で今回の出陣に加わっている。
行軍中のいつもは千秋定李の定位置の義為の右隣には、実恵が居る、そして今回は以前祖父と一緒に越前で朝倉と戦った大叔父斯波義雄も同行している、曽祖父斯波義敏の晩年に生まれた子なので祖父とはかなり歳の離れた弟でまだ40代で亡き父並にはも武勇も教養もあった。
こちらも伊賀衆を先行させて周囲の村や砦、城の様子を探っているので、伏兵に会う事も無くここまでは楽な行軍だった。
この大野は元々は斯波氏の庶流だった曽祖父斯波斯波義敏の所領だ、そして小さな山城がいくつもあるのだが、どこも守備兵は数百と言う事で、義為は使者を送り
「開城して逃げよ」
と告げると、どの城も守備兵たちは城を捨てて逃げて言った、みな地元の里から徴兵された農民兵なので
当然の結果だ。
そしてこの大野から朝倉家の本拠一乗谷までは僅か半日の距離なのだ。
「さて、城主の朝倉景職殿は『戌山城』には居ないのだな」
「は、この辺りのほぼ全軍を連れて、金ヶ崎へ出陣したとの事です」
「この城は確か、斯波義種殿が築城した城だな、また山城か、開城の使者を送り、歯向かうなら燃やしてしまえ」
と副将の千秋季光に指示をした。
「武衛殿、よろしいのか?」
と大叔父が聞いて来た。
「余計な城など残しておいても邪魔なだけですからね」
と義為は答えた。
「(信長や秀吉、家康も余計な城を破却させたからなぁ)」
と歴史オタクのハルトは思っている。
結局大野の町は殆ど抵抗らしい抵抗を受けずに占領する事ができた。
「下間頼慶殿、斯波の兵は『乱妨取り』を禁止しています、山科の兵もそれを守っていただきたい」
と高札を立て『一銭切り』令を出した。
これは、兵が領民から例え一銭でも奪ったら、その兵を死罪にすると言う令だ。
斯波家の兵は全員棒録制なのだが、他国の兵達は原則農民兵なので、食料の配給も無く戦地での掠奪が報奨になるのだ。
今回の遠征では、山科の兵にも斯波兵と同じ食事と報酬を提供する様にしているが、略奪に慣れた兵は簡単に言う事を聞くとは思えない、これは義為が実恵と行動を共にした伊勢の戦での教訓だった。
斯波義為と実恵が町に入った事により大野の町には周辺の隠れ門徒達が武器を持って集まる様になった。加賀門徒衆との戦いを繰り返した朝倉家は、領内の国人衆や領民に宗門を禁止して、門徒を追放したのだ、だが多くの門徒は信仰を隠して……阿弥陀仏を御本尊とする宗派は他にもある……暮らしていたのだ、義為と実恵、山科の旗を見て、続々と駆けつける事になり、直ぐにその数は2000を超えた。その中には以前美濃赤坂の戦いで斯波勢に加勢した者達が多数居る。
「伊賀光就、この者達を任せるぞ、それとあの筵旗は辞めさせよ品が無い、下間殿から山科の旗を借りて持たせよ」
と指示をする。
これは金ヶ崎の服部友成の方も同様で、友成の「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号旗を見た、隠れ門徒達が詰めかけて、こちらは3000近い兵が集まっている。
「なんか不公平ですね、私の熱田神宮の神旗を見ても誰も集まって来ないのに」
「いやそれは神旗では恐れ多いからじゃ」
と友成と定季は冗談を言い合うほど余裕がある。
「朝倉景職率いる、敵の援軍約2500が近付いているそうです」
と甲賀衆からの報告を受けた滝川貞勝が言う。
「少し後退して、『釣り野伏せ』と行きますか」
と定季が提案する。
友成が了承して、友成の伊賀衆に門徒兵、それに滝川貞勝の甲賀衆が囮となり、敵に突撃を仕掛けて
撤退をする、これが『釣り』で、そのまま味方を左右に伏せて置いた場所まで誘導して敵を一気に殲滅する、これが『野伏せ』と言う戦法で、斯波軍はこれに近い戦いを何度かしている、そして伊賀衆も甲賀衆も敵を挑発しながらの撤退戦は得意としている、その上に朝倉家に取っての仇敵一揆勢を加える事で敵を誘き出す事が可能だと定季は判断した、この作戦は以前義為から教わって、一番難しいのは敵を誘い出す事だと言われていたからだ。
敵は主力の一乗谷勢……これは斯波家と同じ常備兵だ……と、無理やりにかき集めた農民兵の混成部隊なので名将朝倉宗滴でも完全に部隊を指揮する事が困難だろうとの読みもある。
こうして友成隊が予定通り敵を引き付けている間に、義為隊は朝倉家の本拠、一乗谷に接近しつつある。