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第六章 伊勢、そして上洛

想像していたよりずっと多くの方に読んでいただいて嬉しいです。


 父や祖父が果たせなかった夢に向かってまた一歩前進した義為ことハルトです

京の都は彼の目にどの様に映るのか、また新しい出会いが今後彼にどんな影響を与えるのか……って感じです。


第六章 伊勢、そして上洛


「申し上げます、北畠勢およそ2500、『雲出川』を渡り陣を張りつつあります」

物見の兵から聞いて義為はほくそ笑んだ。

定季は少し呆れて

「背水の陣を敷きましたね、武衛様の作戦通りですね」

と言っている。

「さて、では作法通りに悪口合戦でもするか、誰か居ないか?」

「林通安がよろしいかと」

「敵は公家だからな、品が無い方が良いか、よし任せよう」


 通安の悪口が余程気に触ったのか、北畠勢は弓合わせも早々に全軍で突撃してきた。

服部友成の朱雀隊が予定通り敵を迎え撃ち、後退する素振りを見せる。

「定季、狼煙をあげよ、服部保長、混戦になったら敵の将首を取ってまいれ」


 しばらくすると伏兵とした左右と後方の部隊が参戦して、敵は一気に取り囲まれ、なす術もなく壊滅していく。

「少し可哀想ですね」

「北畠は名門と聞いたが、こんな物なのか?」

と余りの呆気無さに、義為も驚いている。

「敵将、討ち取ったり」

と誰かの声が聞こえて、北畠勢は逃げようと必死になるが、雲出川まで辿り着ける者は居ない、戦闘開始からわずか数刻で2500の北畠勢は壊滅した。


 本陣に続々と届けられる『田丸具忠』ら敵の武将の首を見分していると、保長が

「北畠親平の首に御座います」

と持ってきた、その首を見て義為は驚いた

「なんと、子供では無いか、まさか初陣だったのか? これは可哀想な事をした」

「武衛様、例え子供といえ、元服して家督を継げば『将』に御座います、情けは北畠殿の為になりません」

と実恵に言われて、考えを改めた。

「そうですね、これは私が心得違いでした」

と素直に謝る。


 南伊勢には北畠の本城『霧山城』や『多気御所』の他に、『田丸城」を始めとする多数の御所や城が無傷で残っていたが、この戦いの結果、主人を失った御所や城は戦わずして開城して、残るは『多気御所』とその後の山城『霧山城』を残すだけになった。

 その多気御所もあっさりと陥落して、中から切腹して息絶えていた僧形の男性が発見された。

どうやら北畠家先代で親平の父、北畠材親だと言う事だ、

「『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり』か」

と義為は呟いた

「『娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす』」

と定季が続いて

「『驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ』」

と実恵が締める。

「実恵殿」

「心得ました」

 と実恵は、『正信偈』を唱える、義為もそれに唱和すると、周囲の服部友成や伊賀光就、それに宗門の門徒達が後に続いた。

 そして、読経が終わると、定季が祓詞を奉じた。

全員が何故か心を洗われた様な清々しい気分になった。


 「では城の見分をするとしようか?」

『霧山城』は、清掃されて履き清められた状態で、家人の一人を残すのみの状態だった。

 義為はこの家人に銭100貫を与えて北畠親平の首を渡して、多気御所の北畠材親の遺体と共に弔う様に命じた。

 霧山城で数日を過ごし、戦で田植えの準備ができなかった村々への補償をして、評定を行なった、

霧山城は山城だが、伊勢街道沿いの交通の要所だ、城下町も有るので、無人にして置くわけには行かない

なので、津田(織田)達勝を城代として、朱雀隊から兵1000を付けて守らせる事にした。

 津田達勝は織田氏滅亡後も父斯波義達に良く使え、更に義為の傅役だった常勝(織田寛村)の甥として

幼い頃は義為と兄弟同様に育ったと言う経歴(ハルトはその事を経験していない)からの抜擢である。

 そして伊賀光就を伊勢奉行に指名して、『田丸城』で政務に当たらせる事にした。

更に安濃津の湊を斯波家直轄領とする事を指示して、一応の戦後処理を終わらせた。

 ここで初めて、義為は斯波家の本拠を尾張から美濃に移す事、美濃の『川手城』付近に新たな城を作り本城とする事を皆に告げた。そして重臣達も尾張に残る様に指名された者以外は美濃に移り住む様にと宣言した。

「なるほど、武衛様、いよいよ越前朝倉ですね」

と定季は理解が早いし、次の大戦の為なので、反対する者は一人も居なかった。


 義為は主だった者を率いて『伊勢神宮』に向かう。

「武衛様、私はここでお持ちしています」

と実恵は『神宮寺』で一行と別れて「僧尼遥拝所」に向かった、伊勢神宮には僧侶は神域に入れ無い掟がある為だ。 

 

 義為一行が参拝を終えて、実恵と合流すると、伊勢神宮祠官、荒木田守秀が宇治・山田の両門前町の神役人達と待ち構えていた。

「これは武衛様、まずは戦勝をお祝い申し上げます」

と言う事で、どうやら好意的な様だ。

「定季」

 神職には神職の方が話が早かろうと、以後の話は定季に任せる事にした、斯波家の家老が熱田神宮の神職だと知ると彼らは安心した様で、色々と話し出した。

 どうやら、伊勢の門前町と北畠氏は長年に渡って権益を巡って争っていた様だ、なのでその北畠家を滅ばした斯波家には好意以上の物を持っており、相談事もあるとの事だった。

 荒木田守秀が言うには、伊勢神宮では二十年に一度『式年遷宮』という社殿等を作り変える行事があるのだが、応仁の乱以降、朝廷や将軍、公家などの援助が無く資金難で、50年近く行えない状態だと言う

なので、援助を頼みたいとの事だが、その金額が銭1000貫だそうだ。

 義為は快く了承して、その1000貫と更に斯波家からの寄付と言う事で追加の1000貫を払う事を約束した。


 伊勢神宮の参拝を終えた義為一行は、途中で領民達の歓迎を受けながら、尾張に帰国する。

義為と定季のみが、願証寺に立ち寄った。

「実恵殿、頼みがあるのだが」

「それは奇遇ですね、私もです」

と言う事で、まずは実恵の話を聞く。

「伊勢が平定されて、当山も安心して仏の教えを説く事ができる様になりました、武衛様には心からお礼を申し上げます、つきましては、滝川貞勝以下、当山に集まった者共を斯波家で召し抱えていただけないでしょうか?」

と言う事だ、周囲を斯波領に囲まれて、もう寺領を侵犯される危険が無くなったので願証寺には1000人もの兵は必要が無くなったと言う事だろう。

 義為にとっても願証寺の兵達は何度か一緒に戦った事もあり、狩の勢子を頼んだりして、旧知の者も多い、有能な滝川貞勝が率いれば大きな戦力になるので、心良く了承した。

 甲賀衆滝川貞勝は伊賀衆服部保長と同じ銭1500貫で義為に従う事になった。

「では、実恵殿、私からの頼みなのだが、一緒に美濃に来ては貰えないだろうか?、寺を建立して差し上げる、実恵殿には開山をお願いしたい」

「それはまた突然の事ですね、しかし美濃に寺を建立していただけるとは悪い話では無いのですが、宗主に許可を頂かないといけないので即答はしかねます」

と公式の立場を述べた後で、

「私自身も、この度の戦に御一緒出来て色々と学ぶ事が有りました、武衛様とは今後とも末長く良い関係でお付き合いしたいと思っています、この話は私にもありがたい事です、一度山科に行き宗主に許可を頂いて参りますのでお待ちいただけますか?」

と言う事だ。

「もちろんです、わがままを言って申し訳無いが、私も実恵殿とは長き友として付き合いたいと思っている、他にも何かできる事があれば遠慮せずに申して欲しい」

と言って、いつもの様に茶を馳走になり、清州に戻った。


 清州に戻ると、留守居役の大叔父斯波寛元が待ち構えていて、

戦勝祝いの言葉もそこそこに、

「武衛殿、京の帝と将軍家より連名で上洛の要請が有りました、どうされますか?」

「大叔父上、まことですか、しかし何用なのでしょうか?」

「太閤様によると、将軍家の方は武衛様が尾張、三河、遠江、駿河、美濃、伊勢と六カ国を押さえた事により無視する事はできなくなった、との見立てですな、 将軍足利義稙殿も管領細川高国、管領代大内義興殿も我ら斯波の力を当てにしているやも知れません、将軍家と管領、管領代殿はどうも良い関係とは言えなくなっている様ですからな」

「父上は先の管領細川政元殿とは懇意であったと聞いておりますが、管領代殿は細川殿と敵対関係にあったそうですね」

「うむ、都の政情は複雑故、わしも良くは知らんのだがどうも何やらきな臭い様じゃ」

 この大叔父は武人と言うよりは完全に公家の様な人物で、義為は父の代から清州に居座っている公家や

文化人達の相手をさせていた。

「大叔父上、それで帝の方は何用なのでしょう?」

 この頃の帝は後に『後柏原天皇』と呼ばれる帝だが、非常に貧窮していて即位の費用が無く即位式が挙げられないと言う事態が長年続いている、大叔父は

「そちらは簡単じゃ、伊勢の神宮の『式年遷宮』の費用を斯波家が立て替えた事を聞きつけて、寄進を

ご希望なのだろう、太閤様は、帝は『従三位 右近衛大将』を下さるおつもりだと文に書いておられた、名誉ある事じゃな」

要は金の無心と言う事なのだ。

 とにかく義為は美濃への引っ越しを一時中断して上洛をする事になった。

「上洛するとなると土産が居るな、銭だと嵩張るから金で持って行くか、あ、そうだついでにその山科の宗主様とやらにも挨拶に寄ってみるか、実恵殿はまだ願証寺に居るのだろう、知らせを頼む」

定季は

「かしこまりました、それで誰を連れて上洛いたしますか?」

「都だからな、定季は当然として、警護は季光、服部保長、滝川貞勝と言った所か、戦をしに行く訳では無いからな、兵は500も居れば良いだろう」

と言う事にして、支度を始めた、その間に、美濃から奉行氏家行隆を呼び、斯波家が美濃に本拠地を移す事を伝え、

「氏家行隆を家老とする」

と奉行から昇進させて、その準備に当たらせる事にした。

「急ぎ、大垣と郡上八幡に城を築け、稲葉山城の資材を使って構わん」

 と当面の敵になり得る隣国との備えを優先させる。


 当時尾張から京への道は、美濃から近江、そして京と言うルートと伊勢から大和路と言うルートがある、義為は伊勢からのルートを選んだ、危険な山道も味方となった伊賀を通るので安全だからだ、装備を新調した赤備えの兵に守られた義為は普段着である肩衣で馬に乗っている、隣の定季はいつもの浄衣姿だ。旗指物は「孫子四如の旗」三旒の「名号幟」、「足利二つ引」の大金扇の馬印、それに千秋家の熱田神宮の神紋で青字に白抜きの「五七桐竹紋」の旗が並んでいる。

 誰が見ても斯波義為の一行だとわかる旗だ、そして大和の国から、伏見街道に入った所で、待ち受けていた10数人の武者達に呼び止められる。

「何者か?」

と誰何する季光の後で既に保長と貞勝は太刀を抜き臨戦体勢になっている。

 武者達は、跪いて一礼するとその中の僧形の武将が

「山科本願寺の坊官、下間頼慶と申す、斯波の御館様をお迎えに参上いたしました」

「山科の方々か、それは面倒をかける、我らは道に不慣れ故先導をお願いする」

と義為は馬上から礼を言う。

「先に、帝や将軍に挨拶をと思っていたが、順番が変わったかな」

と定季に言うと、

「下間頼慶殿と言えば、実如殿の家老の様な方ですね、武衛様、歓迎されている様ですね」

と答える。

ここで義為は

「(あれ?今、山科本願寺と言わなかったか? しかも下間? もしかして宗門って一向宗の事なのか?

って事は、願証寺ってあの長島一向一揆の寺なのか)」

とやっと気が付いた。


 山科の町に入り山科本願寺を見た義為は驚愕した。 

「(これが本当に寺?)」

二重の土塁と堀に囲まれた本丸と二の丸、三の丸が有る輪郭式の城と同じ作りだったからだ。

 左右の櫓に守られた山門を入ると、実恵が出迎えてくれる、義為は下馬をして、実恵に挨拶をした。

「実恵殿が手配してくれたのですか、助かりました」

「いえ、法主も早く武衛様にお目にかかりたいとの事でしたので、迎えの者を使わしたのです.

まぁ取り敢えず湯殿で旅の埃を落としてください」

と言う事で、実恵に湯殿に案内された。

 同行するのは定季と数人の荷物持ちの小物だけで、季光、服部保長、滝川貞勝と警護の兵達は二の丸に当たる、内寺内に宿舎が用意されている。

「なんか懐かしいな」

「そうですね、もう五年以上になるんですね」

 狩の後に、願証寺に立ち寄り初めて実恵に会ってから随分日が経った物だと義為は思った。

湯殿から出ると、小物達が着替えを用意して待っていた。

 そして、実恵に本丸にあたる御本寺の「御影堂」に案内された、隣にはほぼ同じ大きさの「阿弥陀堂」がある。


「(これはまた素晴らしい)」

と義為は感嘆する、現代の寺社を知っているハルトの目から見てもそれは素晴らしい瓦葺の建物だった。

内部には親鸞聖人の木像らしき物と、多分歴代の法主の木像にお馴染みの名号が飾られている。

 その前の大広間は全て畳敷きで、清洲城の本丸御殿の大広間より立派だった。

その一番奥に座っているのが、第九世宗主の実如だ、一段下がったところには本願寺法嗣で実如の嫡男円如も同席している。義為は室町礼法に則って実如に礼儀正しく挨拶をした。実如は官位が大納言なので当然義為が下位になるからだ。

「御尊顔を拝し恐悦至極にございます、斯波右近衛少将義為にございます」

と平伏をする。

「こちらに控えますは我が家臣千秋右近衛将監定季にございます」

とついでに定季も紹介する。


「面をあげよ、我らは武家では無い、硬い挨拶は抜きじゃ」

 と実如は結構気さくな人物の様だが、その眼力と迫力は並では無い、ハルトが一度だけ会った事がある

実父の友人で、合気道九段の多田宏師範を思い出した。

「(これは敵わない)」

と義為は早々に諦める。

「これはつまらない物ですが」

と、円如とは反対側の一段下がった所に座った実恵に向けて、持参した紫の帛紗に包まれた木箱を差し出した。

実恵はその箱を受け取ると実如の元に持っていき、そこで帛紗を開いて箱を開けた。

「これは、まさか『東山御物・玳玻散花文天目茶碗』では」

と箱の中身を見た実恵が驚愕している、

「父の遺品の中にあった物です、この度の上洛の折に宗主様にご挨拶をとの予定でしたので持参いたしました」

と簡潔に述べた、足利将軍家の全盛時に集められたこれらの茶碗は現代では国宝級の茶碗だが、当時はまだ他にも同じ様な茶碗等が有った様だ、斯波家は祖父の代で没落する以前は管領として栄華を誇っていたので、父や祖父がこの様な宝物を所持していてもおかしくは無かった。


 贈り物を受け取った実如は上機嫌で話を始めた。

「斯波武衛殿、甥の実恵から話は聞いておった、伊勢の事、礼を言うぞ、また此度は我らの仇敵でもある朝倉の討伐を企てているとか、頼もしい限りじゃ。 所で武衛殿は『正信偈』を唱えるそうだがどうじゃ聞かせてはくれぬか?」

「恐れ多い事でございます、私のは実恵殿の見様見真似でして、宗主様にお聞かせできる様な物ではありません」

『米津玄師』の前で、『lemon』を歌う様な物だとハルトは思って、辞退したが、

「では武衛様、御一緒に」

と実恵が言うので、諦めて唱和する事にした。

驚いた事に途中から円如も唱和に加わって来た、テノールの実恵、バリトンの義為にバスの円如が加わると、見事な男性混成合唱になった。

 最後に『唯可信斯高僧説』と唱え、義為は実如に平伏した。

「実恵は相変わらず良い声じゃな、だが武衛殿の声も良い、武家にしておくのは惜しいの、どうじゃ『得度』を受けぬか?」

と進められた、得度とは他宗の出家と同じ意味だ。

「ありがたい事でございますが、この先まだ多くの戦に出る身、いずれ隠居をしたら実恵殿にお願いしようかと思います」

と答えたが、どうもハルトとしてこの雰囲気に既視感がある、少し考えて、道場にいる祖父の元に、高校の合気道部の主将を連れて挨拶に行った時の祖父の態度と似ているのに気がついた。

 祖父は孫が連れてきた友人を値踏みしながらも歓迎したが、実如も甥が連れて来た義為を値踏みしていたと言う事なのだろう、そして実如は義為の事を気に入った様だ。

「そうか、それもそうじゃの、ところで、美濃に寺を建立すると聞いたが何処に建てるつもりじゃな?」

「はい、稲葉山城を取り壊し、その跡に建立したいと考えております」

「何、稲葉山城を取り壊すとな?確か守護代斉藤氏が築城した堅牢な城と聞いておるが」

「恐れながら、堅牢な山城でも、大軍に囲まれればいずれは落ちます、不便な山城は無用の物と考えています」

 と義為は自分の考えを述べた、歴史オタクのハルトの知識では、戦国期の山城は結構な確率で落城しているのだ。

「なるほど、では落ちない城はどう作るのか?」

「この寺は城と言って良い程見事な物です、ですが私なら堀は倍の幅にし水堀にして、土塁は石を積み石垣にいたします、石垣ならその上に櫓を置く事ができますので、ですが落ちない城を作るのでは無く、城を攻撃させない戦をするのが最も重要です、常に敵より大軍を備えておき、野戦で敵を殲滅すれば、城で無く館でも落ちません、城に籠って援軍を待つと言う戦い方もありますが、それは国境の小城などでは有効でしょう、でも本城では城は囲まれたら終わりです」

と素直に自分の意見を述べると、実如は大いに感心した様で

「なるほど、若いのに見事な見識じゃな、これは実恵が気に入る訳じゃ、実恵、美濃の件許可を致す、良い寺を作れ、名は『源衛寺』と付けるが良い」

と、実如は機嫌よく言うと、席を立った。


「はぁ、緊張した、凄いお方だった」

と義為は姿勢を崩して実恵と定季を見る。

「確かに私等は恐ろしくて、一度も顔を上げられませんでした」

と定季が言う

「宗主様は、今日の様にご機嫌がよろしい事は滅多に無いのです、余程武衛様を気に入った様ですね」

と実恵が言ってくれた。

 そしてここで改めて円如と話して歳も近く、実恵と同じ知的な宗教家と言う感想を覚えた。

「先程の城の話は大変興味深かったです、武衛殿には色々と御教示願いたい」

と円如は腰も低く共感が持てる態度だった。


 若者四人がそんな話をしている時、その実如は自室で、下間頼慶以下の坊管達と密談をしている

「あの者は使えるな、なかなかの胆力と見識持った若者だ、実恵も良い者を連れて来た物じゃ、この後我らの役に立とうぞ、下間頼慶、斯波義為から目を離すで無いぞ、朝倉討伐と美濃の寺建立には最大限の協力をしてやれ、そうじゃ加賀の後始末もあの者に任せる様に手筈をせよ、それとこの山科の城、直ぐに改築する様に、石山御坊も同様じゃ」

と先程までの好好翁ぜんとした表情とは別物の厳しい表情で指示をする。

 ここで言う加賀の件とは加賀では宗門の門徒達が一揆を起こし守護を廃して門徒領国となった、だが

その後に蓮綱達一門宗を送って統治に当たらせた所、圧政を敷いた上に、隣国越前の朝倉との戦に敗れて領民の信頼を失いしかも宗主である実如の命を聞かない状況になっているのだった。

 つまり実如は仇敵朝倉と反逆者達を義為に合わせて討伐させようとしているのだ。


 そんな実如の思惑を他所に、翌朝、義為は山科を離れて京に入った。

「これはまた酷い有様だな」

「そうですね、話には聞いていましたが、ここまでとは」

 京の街は応仁の乱の後も将軍や管領達による政権争いの戦乱の結果、全く復興していない。

そんな街を、義為の一行は進んで行く。

「なんやあの旗は、本願寺さんかいな?」

「良く見いや、二つ匹紋や、将軍様やないの?」

「将軍様がこんな立派な具足の訳ないやろ」

 500名程とは言え赤備と名号旗はやはり目立つ様だ、一行は京での宿舎に予定している、斯波家の京屋敷『武衛陣』が有る室町の勘解油小路に入った。

 だがそこは焼け野原で小屋すら無い

「見事に何も残って無いな」

「取り敢えず、ここに陣を張りますか?」

「いや、近くの寺に寄進をして泊めてもらおう、どうせ二日程だ」

と言う事で、京の街に詳しい滝川貞勝の案内で『相国寺』に入る。

ここも戦火の後がまだ残っていて、復興作業の最中だったが、銭500貫を寄進すると告げると、喜んで境内を貸してくれた。

 ここで義為は衣服を改めて、定季を伴いすぐ近くの室町御所に向かう、御所には事前に今日訪れると連絡をしていたので、管領細川高国、管領代大内義興も同座して、将軍足利義稙と「御座之間」で対面する事になった。

「(これはまた質素と言うか見窄らしい)」

 六代将軍義教の頃は広大な敷地に立派な館と庭が有り『花の御所』と言われた様だが、ここも戦火で消失して以降はかろうじて館が在る様な状況だ。

 そして、将軍足利義稙、父が健在だった頃の清洲城に食客として寄生していた公家達と殆ど変わらない

ひ弱な人物で太刀を抜けるのか、弓が引けるのかも疑問だった。

「(これが源氏の棟梁?)」

と大いに失望した義為である、ただそれでも礼儀は守り、新たに所領とした伊勢を含む六カ国の守護に

任命してくれた礼を言って、将軍家に金250両(銭1000貫に当たる)の寄進をして朝倉攻めの許可を取り付けた。

もちろん、将軍は良い顔をしなかったが、金250両の前には無力だ。

 対面を終えて、帰ろうとすると、管領代大内義興に呼び止められて、六角油小路に在る大内義興の館

で会談をする事になった。

「斯波殿、先程は勘解油小路の館跡を見て来られた様だな」

「ええ、見事に何も無かったですけど」

「どうだろう、京屋敷を再建して、しばらく京に滞在しては如何か?」

と突然言われて驚いたが、

「いえ、実は本城を尾張から美濃に移すので、物入りでしてそんな余裕はございません、明日、帝に拝謁した後は帰国して朝倉攻めの準備に掛からないといけませんので」

と断った。

 大内義興は周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の七ヶ国の守護で、明国との貿易で財を蓄えている、だが、その領国経営は旧態依然としたままで農民兵が主体の軍に、領内の物資の移動を妨げる関所等はそのままで、領国の生産性は低いままだ、つまりGNPで言えば斯波家の五カ国と同等だが、GDPでは半分以下に落ちると言う事になる。

 そんな大内家なので、京に居る兵達や国人衆には脱走する者も多く、現在対立状態にある将軍足利義稙や管領細川高国との政争に斯波家を巻き込もうとしている様子が良くわかった。

「ではこれにて失礼を致します」

と早々に帰ろうとすると、義興は土産だと言って、打刀を一振り差し出した、

 この頃、畿内では太刀に変わって打刀が主流になっていて義為がまだ太刀を差料にしているのを見て

内心では田舎者と嘲笑っていたのかもしれない。

「拝見いたします」

と義為は刀を受け取り、銘を確認した。

「無銘ですが、備前長船兼光でしょうか、見事な逸品ですね、有り難く頂戴いたします、そうだ御礼に

将軍家に献上しようと持って来た尾張の弓を差し上げましょう、先程将軍にお目にかかって、この弓を

差し上げるのは失礼かと思ったものですから」

と言うと、義興は少し意外そうな顔をする、義為に打刀の知識が有るとは思わなかったのだろう。

 そして義為が、小者に言って、熱田神宮に奉納された弓とほぼ同じ四人張りの強弓を持って来させ、それを献上する。

 義興は

「ほう、これは美しい弓じゃ」

 と弓を手に取り……当然だが、大内義興では弓は引けないし、後に控えていた数人の郎党達も同様だ。

「この弓は一体?」

と聞かれたので

「我が家の弓隊で使用している四人張りの強弓『重籐弓』に装飾を施した物です、失礼いたします」

と言って、弓を郎党から受け取り、義興の目の前で軽々と弓を引いて見せた。

「ではこれにて、管領代様もご機嫌麗しく」

と弓を郎党に渡して、一礼をして帰る。

「やりすぎたかな?」

「いえ、我らを馬鹿にしていましたからね」

と定季は笑っている、既に美濃・伊勢・駿河の刀工達は打刀を量産しているのだ、義為が太刀を愛用しているのはその方が格好が良いと思っているからに過ぎなかった。


 翌日は父と懇意だった太閤近衛尚通の案内で参内して……帝の住む御所も酷い有様だった……事前の話の通り『従三位 右近衛大将』を拝命して、お礼に金250両を寄進して退出する。

 当然だが帝と対面と言っても御簾越しの対面で、現関白の鷹司兼輔とも直接会話をする事も無かった。

義為としては、将軍と拝謁する以上に無意味だと思った経験だった。

 義為がこの時代の人物なら、大感激をしたのかも知れないが、ハルトは現代の青年だ、皇室に関しては

神社仏閣と同じ様に尊重はするがそれだけだった。

 この時、近衛家にも礼として金100両を渡しているので、近衛家とは今度も父同様良好な関係を保つ事ができるのが唯一の収穫だろう。


 一度宿舎にしている相国寺に戻り、窮屈な参内様の服を着替えてから、定季以下数人を連れて、京見物に向かった、目的地は蓮華王院の本堂通称三十三間堂だ、ここはこの時代でも外廊下で弓を射る『通し矢』で有名だ。

ちなみに、三十三間と言われているが、実は長さは六十六間ある。

「やってみたいな」

「怒られますよ」

「廊下を使わなければ良いのでは?」

と定季と子供の会話の様な事をしていると、いつの間にか見物人が増えて来た。

 すると誰かがどこからか的を持って来て、外廊下の反対側に置いた。

「(これはもうやれと言われている)」

と思った義為は、共の者から愛用の八人張の弓と7寸5分の鏃の矢を受け取り、弓に番えた。 

 通常の射手ならこの距離だと矢を斜め上に向けた放物線の射線で射るのだが立射だと、廊下の屋根の天井や梁に当たってしまう、なので座って射る事になるのだ、だが義為の強弓なら放物線の角度を小さく出来るので立射が可能だ、放たれた矢はほぼ一直線に飛び、向こう側の的の真ん中に見事に命中した。

 見物人から大歓声が上がる。

こういう話の大好きな京童達だ、直ぐにこの事は洛中に広まり、京では義為の事は『今為朝』とか『鎮西八郎右大将』等と呼ばれる様になる。

 満足した義為は、的に一礼をして、共の者に弓を渡し、その場を去ろうとして声をかけられる

「武衛様」

振り向くと、中年の武将がそこに居る。

「初めてお目にかかる、京極飛騨守高清と申す、見事な弓をお持ちだったので、的を用意させていただいた、実にお見事な腕前、この飛騨守感服いたした」

との事で、

「これは、お恥ずかしい所を、斯波右近衛大将義為です」

と義為も挨拶をする。

 京極高清は美濃の隣国北近江の領主で、京極氏はかっては出雲、壱岐、飛騨の三カ国の守護でもあった、先祖は初代足利将軍尊氏の盟友、近江源氏の佐々木道誉だ、この頃は以前の斯波氏と同様に各地の守護職を失い、同族の六角氏と近江の覇権をかけて争いながら、更に京極家内の争いをやっと鎮めて上洛した所だった。

「では、またいずれ」

と挨拶をしてその場は別れたが、この人物は後に斯波家と関わって来る事になる。


 更に義為達は戦火を免れた寺を数軒見て回って、相国寺に戻った。

寺に戻ると、商人や行者、国人衆らしい者達が滝川貞勝と共に義為の帰りを待っていた。

「滝川貞勝、この者達は?」

と聞くと、全員が甲賀衆で、『甲賀二十一家』の頭領達が全員揃っていると言う。

しかも全員が義為に仕えたいと言う

「その方達は六角の家臣では無いのか?」

と聞くと、家臣では無く雇われて協力したに過ぎず、更に現当主の六角氏綱は病弱で、隠居した先代の六角高頼が死去したら、先が見えない、なので斯波家に仕えたいとの事だった。

 義為としても断る理由が無いので、全員を滝川貞勝の配下としてそれぞれ銭500貫を与え、近江の六角、京極、越前朝倉とその周辺国の情勢を探らせる事にした。

 これにより、義為は伊賀衆と並んで甲賀衆と言うもう一つの『目』を持つ事になった。


 この翌日、義為一行は相国寺を出て、摂津に向かい、普請中の石山御坊を見学して、堺に入り、そこで

商人達と誼を通じてから、また伊賀経由で伊勢、尾張と帰国の途についた。

 途中の伊賀では、出迎えた服部半蔵に、百地三太夫と藤林保豊を紹介された、この者達も半蔵と同じ様に代々同じ名前を襲名する伊賀衆の頭領だ、二人とも服部家が斯波家に従って、北伊勢の領地や伊勢上野城を手に入れたのを見て、義為に臣従する事を選択した様だ、義為は二人を歓迎して銭500貫を与え、二人に細川や大内をはじめとする畿内の領主達の動向を探る様に指示をして、更に半蔵には、内密で斯波領内の各奉行や城代達の動向も監視する様に指示をした。

 この時代、敵の動向を探るのと同様に、味方の情勢を探る事も重要だった、他家の例でも味方がいつ裏切るかは予想ができないからだった。

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