第五章 守護相続
斯波家の家督を相続した義為=ハルトは、次に父や祖父が成し遂げなかった夢に向かって邁進していく。
ハルトの歴史オタクの知識は、果たして役に立つのか?
第五章 守護相続
父を失った義為だが、悲しんではいられない、父の死で今は尾張、三河、遠江、駿河、美濃の五カ国の守護が不在となっているのだ、義為にはまだ幼児の弟が二人と、父の叔父である大叔父達が居るが、斯波家の家督を義達が嗣ぐ事について異議を唱える者は誰も居なかった、既に義為が軍権を掌握しているので、もし反対すれば命が無いからだ。だが、守護職となると別の話になる。応仁の乱以降、辛うじて権威が残っている京都の将軍から任命されないといけないからだ。
とりあえず父が懇意にしていた清州の元食客で先の関白太閤『近衛尚通』に依頼して、京の将軍足利義稙と管領細川高国に斯波家の家督と守護職相続について伺いを立ててみた。
「(まぁ、駄目だったら、守護では無くて国主を勝手に名乗ろうかな?)」
と思う義為だ。
義為は斯波家の家督を相続した事によって清州城に美濃殿を伴い引っ越しをして、勝幡城は城代として千秋季平に任せてある。
清州の城に移ってしばらくして、父の生前に三の丸に普請を始めた建物が完成した。
「『道場』ですか?、はて禅か念仏の道場と言う事ですか?」
一緒に見分にきた千秋定李、季光の兄弟が不思議そうな顔をしている。
『修練道場』と書かれた額が建物の門口の上に掛かっているからで、この頃は道場と言えば仏教の道場を指すからだ。
「いや、そうでは無い、まぁ中に入ろう」
建物の中は、四つの部屋に分かれている、一番左に板敷の部屋、ここには義為が鍛冶屋に作らせた様々な重さの、現代で言うバーベル、ダンベル、鉄アレイが有り、特製の縁台に横になればベンチプレスが出来る、その右側には畳敷の50畳の当時としては贅沢な部屋、次は同じ大きさで板敷の間、右側も同じ作りで、こちらは北側の壁が全面板戸になっていて庭に向けて開け放せる様になっている。庭には30間先には的、10間先には巻藁と二種類の標的が設置してある。
早い話がこの道場はハルトの実家の道場を二回りほど大きくした物だ。
つまり、左側から筋トレ室、古流柔術の道場、槍術剣術道場、右側は弓道場と言う事になる。
槍剣術道場の北側の壁には大工に頼んで製作して貰った、小さな社を設置してある、この時代にはまだ神棚が存在しないからだ。
これがこの世界で最初の武術道場と言う事になる。義為はここで、自分の技、小笠原流弓馬術礼法、尾張貫流槍術と柳生新陰流兵法を家人達に教えようと思ったのだ。
「なるほど、ここは剣術、槍術の鍛錬に使うのですね、雨に濡れずに鍛錬できるの良いですね、向こうは、弓の鍛錬場、しかしこちらの畳の部屋は?」
と壁の木刀や管槍や袋槍を見て納得した季光が聞く。
「ここは組み打ちの技を修練する所だ、千秋季光、組んでみるか?」
「え、は? よろしいのですか?」
「構わん、『冷暖自知』と言うからな」
「では、失礼いたします」
千秋季光は幼い頃から剣術、槍術、体術を学び武芸を鍛えてきた、その分学問は疎かになり、祝詞も満足に読めんと父には呆れられているが、歴戦の武人である。
だが、その季光の組み打ちの技が全く義為には通用しない、腕を掴んだ瞬間に投げられる事を数回繰り返して悟った様だ。
「なるほど、ここが板敷なら私は大怪我を負っていましたね、その為の畳敷きですか」
「ああ、技を教えるのに怪我をされては本末転倒だからな、どうだ学んで見たいか?」
「もちろんです、お願いいたします」
「定李はどうする?」
「私は遠慮して起きます、本陣で軍師が組み打ちをする様な事になったらその戦は負けですから、でも弓の鍛錬場の方は使わせて頂きますよ」
と軍師らしく見事に躱した、まぁそれを言うなら大将の義為が組み打ちなどと言う事態はもっと変なのだが、定李が剣や槍、体術はそれ程得意では無いのは知っている。
「所で、武衛様この社の様な物は何ですか?」
「ああ、神棚と言う小さな社だな、まだ中身は無い、なので定李すまんがお父上にお願いして熱田から御神霊分をして欲しい」
本来なら、道場の神棚はハルトの実家の様に左に「鹿島大明神」中央に「天照皇大神官」右に「香取大明神」と三種の掛軸を掲げるのだが、当然この頃にはまだその習慣は存在しない、熱田神宮は三種の神器の一つである草薙神剣を御霊代とする天照大神が祀られているからそれで問題無いだろうと義為は思っている。
「神棚?はて初めて聞きますが、かしこまりました」
と定李は引き受けてくれた。
この道場が、斯波家の常備軍である朱雀隊以下の武力の底上げに大いに役に立つ事となる。
何しろ、義為自身が、政務は定李に任せて、ほぼこちらに常駐して直接指導しているのだ、兵達も真剣にならざるを得ない。
こうしてこの年と、翌年永正十二年は父の喪に服す事もあり、義為は父から受け継いだ、尾張、三河、遠江、駿河、美濃の国の内部をひたすら固める事に専念した。
父の家老だった佐々成宗はそのまま、大叔父斯波寛元、斯波義雄は一門衆として、父の家臣だった、坂井達乗、丹羽達祐らも義為の家臣になった。
更に新たに千秋定季を家老に任命して、千秋季光は全軍の侍大将、服部友成は同じく全軍の足軽大将とした。
これに勘定奉行平手経英、普請奉行丹羽長政、山奉行坂井達乗、三河奉行松平昌安、遠江奉行井伊直平、美濃奉行氏家行隆、駿河奉行吉良持清、三河安城城の城代柴田勝達、遠江吉田城の城代佐久間盛通、美濃稲葉山城の城代伊賀光就、駿河興国寺城の城代松平貞光、これらの者達が為義の政治と軍事を支える重臣と言う事になる。
その翌年永正十三年の春に清洲城で評定が開かれる。
義為は本題に入った。
「北伊勢より知らせがあり、『長野』の者が願証寺の寺領を侵犯している様だ、なのでこれより伊勢に出陣する、敵は長野とそれに与する者共だ」
この頃の戦は冬から春にかけて行われるのが普通だ、初夏は田植え、秋は稲刈りが有るので、農民兵が主体な兵制では戦ができないからだ。
だが、斯波家は既に兵農分離の兵制改革を行い、農業に関係無い常備兵が主力になり季節に関係なく戦ができる様になっている。なので、晩春の今出陣しても全く問題が無い。
義為は戦支度を済ませると、兵2000を率いて定季を伴い、願証寺の実恵の元に立ち寄った。
いつもの様に茶を馳走になる、実恵もまた戦支度になっている。
「此度は北伊勢を平定するつもりで出陣します、もう二度と寺領を犯させる様な事にはしませんよ」
と実恵に告げた。
「武衛様ありがたい事です、等山の侍大将を紹介いたします『滝川貞勝』です」
と壮年の武将を紹介された、前回の戦いの時には姿を見ていないので、新たに召し抱えた者なのだろう。
「斯波右近衛少将義為じゃ」
と最近使っている名乗りをすると、貞勝は平伏する。
「武衛様、この貞勝は元は近江国甲賀の里の者でして、諸国の事情に詳しく腕も立つので、侍大将として召し抱えたばかりなのです」
「ほう、甲賀衆かそれは頼もしいな、確か望月殿と言う武勇と知略に優れた者がいたが、ご存知かな?」
と義為が言うと、貞勝は僅かに反応をした
「武衛様は甲賀の里に詳しいのですか?」
実恵が聞いてきた。
「我が家は近江とは色々と因縁があるのです、六角と敵対した事もありますしね」
と義為は話したが、実は歴史オタクのハルトが伊賀、甲賀などの忍びについて詳しかったと言うのが真相だ。
翌朝、義為は前回と同じ様に、実恵と轡を並べて出陣する、ただし、今回は尾張、美濃、三河の三国の常備兵15000を動員して、願証寺の兵1000も加えた16000もの大軍勢だ。
途中で、斯波家に臣従した北勢の豪族達が、参陣してくるが、いずれも郎党数人を連れただけの参陣になる、田植えの準備があるので、彼らはこの時期の出兵に困惑している。
「皆の者大義、長野との戦は我らに任せて、その方達は田畑を守るが良い」
と義為が言うと、全員が安堵した表情になり、子息や縁者の者数人を陣に残して領地に戻って行った。
「定季、参陣しなかった者は誰だ?」
「田原、持福、稲生の三家ですね、どうされますか?」
「この三家の領地を没収する、伊賀光就の『青龍隊』に陣に残った北勢の者共を付けて、処理させろ」
「かしこまりました」
従う者には厚く、背く者には厳しくが、義為が父から教わった領国経営の基本だ。
義為の軍は、伊勢の国を南下していく、街道沿いの田では農民達が総出で代掻きをしているのが見える、最初の目標は、関五家と言われる、関氏の五つの城だ。神戸、国府、鹿伏兎、峯、亀山の城とそれを取り囲む様に小城や砦が散在している。一応其々の城に開城して従う様にと言う使者を送ったが、良い返事は無かった。しかし、大軍の前にこの小城や砦は全く無力だ、しかも農民兵達を動員する事もできないので、神戸城が最初に落ち、国府城、峰城と次々と城を落としていく。
城から逃げ出した関氏の者達は、本城である関城に逃げ込んだ、
義為は、関城を大軍で取り囲んで、占拠した国府城の本丸館を仮本陣として、この後の方針を定季と実恵と協議している。
「さて、敵の兵糧はどれくらい持つかな?」
「この時期ですからね、二月程度でしょうか」
「実恵殿、滝川貞勝殿をしばしお貸しいただけますか?」
「構いませんが、どうなさるのですか」
「定季、貞勝殿をここに」
「は、誰かあるか」
しばらくして、警備の朱雀隊の兵が、滝川貞勝を連れてきた」
「滝川貞勝、お召しにより参上いたしました」
と貞勝は片膝をついて、頭を下げる。
「滝川貞勝殿、鹿伏兎城を調略で落とせるか?」
と言う義為の問いに
「容易い事にございます」
と貞勝はニヤリと笑った。
関五家の城のうち、鹿伏兎城は山中に有る山城で、ここを大軍で攻めるのは無理があるのだ、だから義為は貞勝の『甲賀忍び』としての働きが可能か質問したのだった。
「実恵殿、よろしいですか?」
「滝川貞勝、任せましたよ」
「は、お任せあれ」
と実恵の許可を得た貞勝は一礼して、仮本陣から退出した。
「さて、では我らは吉報を待って、ゆるりと戦を続けよう」
この後数日間、義為の軍勢は昼夜を問わず亀山城に嫌がらせとも取れる攻撃を仕掛ける。
味方は交代で休息と睡眠が取れるが籠城中の敵は、休む事も眠る事もできずに消耗していくだけだ。
そんな中、滝川貞勝が鹿伏兎城城主の『鹿伏兎定好』を伴い戻って来た。
「武衛様、実恵様、こちらが鹿伏兎定好殿です、城を明け渡し我らに御助力いただけるそうです」
そう紹介された、鹿伏兎定好は平伏して、
「御尊顔を拝し、恐悦至極にございます、鹿伏兎城城主鹿伏兎定好に御座います」
と挨拶をする。
義為は鷹揚に頷くと
「鹿伏兎定好殿良くおいで下さった、我らの敵は長野通藤、関殿では無いのだが聞く所によると長野殿と関殿は仇敵だと言う話ではないか、なぜ我らに刃向かうのか、まぁ北畠殿あたりが後におるのだろうな、どうだ『関盛雄』殿にこちらに付く様に話してもらえぬか?我が斯波に臣従するのであれば関五家の本領を安堵しよう、もちろんこの城も含めてな、働き次第では長野の領地をその方らに与える事も吝か出ないが」
と提案した。
「一度は武衛様に弓を引いた我らに御温情あるお言葉、感謝いたします、関盛雄を必ず説得してご覧にいれます」
と定好は請け負った。
「さて、滝川貞勝殿、さすが甲賀衆見事な働きだ、褒美としてこの小太刀を遣わす」
と義為は、腰に差していた斯波家伝来の『備州長船盛光』の小太刀を貞勝に与えた。
自分の臣下では無いので、これ位しかできないが、正式な恩賞は実恵がするので問題無い。
貞勝は思いもよらぬ名刀を拝領して感激している、実恵も自分が見出した家臣が褒められて満足そうだ。
「定季、攻撃を中止して、鹿伏兎定好殿と共に千草顕材を使者として書状を持たせ亀山城に向かわせよ」
「かしこまりました」
定季、貞勝に鹿伏兎定好が仮本陣から退出すると、義為は実恵と話を始めた。
「これで関が片付けば楽なのですが」
「そうですね、次は長野通藤ですか」
「ええ、ただ長野を叩けば、北畠が出てきます、そこからが本当の戦いだと思っています」
「北畠?まさか武衛様は伊勢一国を?」
「ええ、そのつもりです、越前を取り戻す為には後顧の憂いを断つ必要がありますからね」
「なるほど、先の先を見通しての出陣でしたか、恐れ入りました」
そこに定季が戻ってきた
「あれ? 何か楽しそうですね、武衛様、使者先程出立いたしました」
「ご苦労、服部友成を呼んでくれ」
しばらくして友成がやって来た。
「服部友成に頼みがある」
「は、武衛様何なりと」
「関五家との戦いはもうすぐ終わるだろう、そこで次は長野氏の城 細野城、長野城の攻略になる」
「はい、我らに先陣をお任せください」
「まぁ待て、長野の城は山城、大軍で囲んでも良いが、それでは時間がもったい無い、それで伊賀の国衆をこちらの味方にしたい、その方伊賀衆と縁があると聞くがどうだろう、私を伊賀衆の長に引き合わせてはくれぬか?」
友成は少し困った表情だ。
「あの、武衛様はなぜ私が伊賀の里の者だとご存知なので?」
「(何言っているのだ、服部なんて伊賀の忍び以外のなんだと言うんだ?)」
と義為は思ったが、口に出してはいない。
「無理か?、何なら私が伊賀の里まで同行しても構わないが」
と聞くと、友成は平伏した。
「いえ、滅相もございません、私が里長に伝えますので、こちらでお待ちいただきたく」
と言う事で、友成は100人程の手勢を連れて伊賀の里に向かった。
「武衛様、伊賀の里の者共とはそれ程の兵力なのですか?」
定季に聞かれて、義為は答えた、
「滝川貞勝の働きを見ただろう、あれが後10人居るとしたらどうだ?」
「それは心強いですね」
「そう言う事だ、味方にしたいが、それが駄目でも敵にはしたく無いのだ」
そして、翌日鹿伏兎定好が関盛雄を伴い国府城の仮本陣にやって来た。
関盛雄は頭を丸めている。
「武衛様に弓を引いた罪、この身で贖いまする、全て長たる私の責任、願わくは我が一族の者には温情ある御沙汰を伏してお願い申し上ます」
と土下座をしてくる。
「鹿伏兎殿、関殿に何と伝えたのかな?」
と義為は
「(頭を丸めろとは言って無いのに)」
と思い、微笑みながら言った。
「は、武衛様は関殿が降れば我ら一族の者の安全は保証していただけると……」
「そうか、まぁ良い、関殿どうやら最初から我らの間には行き違いが有ったようだ、我らは関五家を敵視しておらん、そもそもこの戦は長野の者が、願証寺の寺領を侵した事が原因、我らの敵は長野であり伊勢の国衆では無いのだ、お分かりいただいたかな?」
「はは、誠に申し訳無い事でございます」
「では、関殿、これ以後長野との戦に助力をしていただけるな」
「はい、もちろんで御座います」
「そうか、それはありがたい、では早速だが、長野との戦いに備えて陣を張りたい、どこが良いと思うか?」
関盛雄は少し悩んでから、長野川の周辺の田園地帯を上げた。
「定季、その場所を見分して参れ、良ければ直ぐに陣を張る様に、関殿は案内をお願いする」
今回の戦で義為が考えたのは山城との戦いはなるべく避ける、数を活かして敵を野戦で討つと言う事を基本にしている、なので、どうやって敵を平地に誘い出すかが問題なのだ。
その翌々日には、本陣が出来たと言う事なので、義為は全軍を移動させる。
今回設営したのは兵達にも眠る為の小屋がある本格的な野営用の陣だ、陣の周囲は、木の柵を巡らしてあり、陣と言うよりは砦の様になっている。
ここまで本格的な陣を二日で完成させられるのは、同行している普請奉行丹羽長政が指揮する大工と工兵に特化した部隊のおかげだ、更に勘定奉行平手経英が率いる補給と兵站部隊が控えていて、20000近い軍の兵糧を担っている。
「定季、あの右手の丘……」
と義為が全部言わない内に、
「もちろんあちらにも砦を築いております」
と言う返事が返ってきた。
「流石だ、抜け目無いな、では関殿に頼んでこの付近の村長達を集めてくれ」
「かしこまりました」
義為の前に連れてこられた村長達は、何を言われるのかと戦々恐々している。
既に今の時点で、今年の作付けが不可能になる可能性が高く、そうなれば秋の収穫は無い、当然年貢は払えないし、食糧にも困る事になる、その上に軍役を課せられたら、もう他領に逃げるしか無いのだ、既に
幾つかの村ではその準備をしている状態だ。
「皆、此度の戦では迷惑をかけるな、定季」
「は、皆の者、聞くが良い、武衛様からのお達しである」
村長達は身構えた。
「秋の年貢は免除とする、そして迷惑料として、村人一人に対して二貫を支払う事とする、これが武衛様の約状である」
と定季は村長達に、義為の署名と花押が入った書状を見せた。
それを聞いた、村長達は驚愕しているし、本陣に控える関五家の者達も唖然としているが、実恵だけは
最もだと言う顔で頷いている。
「あの、恐れながら、それは真でしょうか?」
と一番歳上の村長が、恐る恐る聞いて来る。
「この斯波右近衛少将義為、領民に偽りを言う口は持ち合わせていないが」
と義為が言うと全員が平伏をして
「ありがたい事で御座います、我らに出来る事あれば何なりと申しつけください」
と村長達は平伏した。
村長達が、其々迷惑料を貰って退散すると定季は少し不服そうだ
「甘すぎやしませんか、年貢の免除は良いですが、迷惑料とは」
「何、これで周囲の村にも話は伝わる、長野に我らと同じ事はできぬだろう、当然村々はこちらに靡くだろう、領民に背かれれば、長野は孤立する」
「おそれ入りました」
と本陣の者は全員納得した様だ。
そんな中、勘定奉行平手経英が客を連れて本陣に顔を出した。
「平手経英、首尾はどうだ?」
「は、全て滞り無く、武衛様本日は「大橋信重」殿が津島より陣中見舞いにおいでになったのでお連れ致しました」
この大橋信重は津島四家と言われる土豪で大商人でもある、陣中見舞いと言う事は自発的に『冥加金』でも持って来たのだろうと義為は目通りを許した。
「武衛様には御尊顔を拝し……」
といつもの挨拶が続く、
「大橋殿、久しいな商いの方はどうか?」
「はい、お陰様をもちまして」
斯波領と他領の違いは、経済に有る、通常領主が戦を繰り返せば国は疲弊して、領民は重税に喘ぐ事になる、これは歴史上でも甲斐国や越後国で起きた事でもある、だが斯波領では、戦が有ると米の値段が上がり農民達が備蓄米を売って豊かになる、これは斯波領の年貢が低い為だ、そして豊かになった農民は
商人から衣類や道具を買う、更に職人達も武具や武器、道具や衣類を作る事で潤い、当然それを流通する商人達も潤い、経済が発展して税収が増えて斯波家も潤うと言う一種の戦時バブル経済体制が出来上がっているのだ、だから、大橋信重達、津島の大商人は義為に大きな好意を持っている。
「今日は、戦勝のお祝いと、武衛様に紹介したき者がおりまして、お邪魔した次第です」
と信重は述べる。
「紹介?」
「は、桑名「十楽の津」の商人『梅戸貞実』に御座います」
「そうか、目通りを許す」
この頃伊勢の桑名は堺等と同じ様な商人達による自由都市状態だった、だが周辺の北勢の豪族達が全て斯波家に臣従した事と、先頃その中の三家が領地を没収された事などを受けて、慌てて津島の大橋信重を介して面会を要請したと言う事だ。
「……なるほど、『十楽の津』の商人達も、斯波家に従うと言う事だな」
「は、願わくは津島衆と同様にお引き立ていただきたく」
と、梅戸貞実はここで共の者に命じて、持参した『冥加金』を差し出した。
「大義である、その方の申し出、この義為、受けたまろう」
「はは、何か御用がありましたら何なりとお申し付けください」
と二人揃って頭を下げた。
当然、義為はそれが一種の社交辞令で有る事は知っているが、そこでふと閃いた
「そうか、では二人に早速頼みがある……」
それを聞いた二人の大商人は悩みながら退出して、数日後に義為の元に戻ってきた。
「武衛様、お申し付けの品、こちらでよろしいでしょうか?」
義為はそれを見て満足をした。
「二人とも見事な品だ、礼を言うぞ」
「はは、ですが武衛様、この様な物を何にお使いになるので?、差し支えなければお教えいただけますか?」
「気になるか、まぁ二、三日、陣に滞在するが良い、其方達も招待してやろう」
と言われて二人は狐に摘ままれた様な顔で下がった。
本陣の前に陣幕を貼り、縁台を並べて緋毛氈を敷き、朱の妻折傘を置いて日除にする。
風炉に茶釜を置けば、屋外の茶室が完成だ。
これは現代の野点の様式だが、この時代にはまだ無い。
陣幕の前側は開け放たれていて、伊賀へ続く街道と田園風景から山に続く景色が見える様になっている。
「これはまた見事な」
と実恵と定季は感激をしている。
「定季、大橋信重と梅戸貞実を呼んできてくれ、私が茶を馳走すると言ってな」
定季に連れられて、陣幕の中に入って来た二人は、驚愕している
「二人ともそこに座るが良い、茶を建てて進ぜよう」
「武衛様、茶なら私が」
と実恵が言うが
「何、いつも実恵殿には馳走になっているからな、今日は私に任せてくれ」
と、義為は『小笠原流茶道』の手前を披露して、小姓達に茶を運ばせた。
「見事なお手前ですな」
と二人の大商人は感激をしている。
「どうだ、これで会得が行ったか?」
「はは、まさか茶にこの様な楽しみ方があるとは、恐れ入りまして御座います」
二人共、この方法を帰ったら仲間に披露して驚かせてやろうと思っている様だ。
「そうだ、お主達連歌は得意だろう、どうだやって見せぬか」
と義為は発句した
「初夏光る 長野の川を 見下ろせば」
「ほう、これはまた、では拙僧が」
と実恵が続き、定季が第三句、そして最後に大橋信重が挙句で締めた、正式な連歌の会では無いので
これで十分だと判断したのだろう。
「皆、見事じゃな、さてでは席を次の者達に譲ってくれぬか?」
と義為は言って、四人を下がらせた、この茶席は参陣している城代や奉行達、北勢の者、そして関五家の物達を労う為に作った物だったからだ。
席に呼ばれた者達は全員大感激をして茶を味わっていた、当然初めて飲む者もいるのだが、義為は
「好きに飲めば良い」
と言って作法は気にしていない。
実はこの茶会の目的はもう一つ有る、大商人達は各地の商人達とネットワークで繋がっている、
そこに、今回の野点や連歌の話が伝われば、自然と斯波義為の評判が上がると言う事になる。
この時代、武将としての器量の中には文化人としての素養も必要だからだ。
その効果かはわからぬが、翌月には懸案だった五カ国の守護職継承の沙汰が京の将軍から降りた。これで、義為は名実共に父義達の跡を継いだ事になった。
そして、更に数日後、服部友成が服部半蔵と言う老人と服部保長と言う若侍を連れて帰陣した。
「武衛様に置かれましては御尊顔を拝し恐悦至極に御座います、伊賀里長服部半蔵と申します」
と老人が頭を下げると、若侍も一緒にお辞儀をする。
「服部半蔵殿か、よう来られた、友成殿から話は聞いていると思いますが、まぁ固い話はあとにして、まずはこちらへ」
と義為は、先日設営した屋外の茶室に半蔵達を案内した。
既に実恵と定季が茶の用意をして待っている。
「これは実恵様、ご機嫌麗しく」
と、友成が実恵に挨拶をすると、義為は二人に実恵と定季を紹介した
「こちらは伊勢顕証寺寺主の実恵殿、そして隣にいるのは斯波家家老、熱田神宮祭司の千秋定季です、まずはそちらにお掛けくだされ」
と言って席に座らせて、実恵が茶を立てて定季が運ぶ。
「これは恐縮至極にござります、寺主様に茶を立てていただいた上に熱田の社の祭司殿に運んで頂けるとは」
と服部半蔵は大いに恐縮している、老人は坊主と神職に弱いと言うのは時代を問わず同じなのだろう。
末席の友成が茶を飲み終わった所で、義為は本題に入った。
「さて、服部半蔵殿、友成がお伝えした様に、我らは今長野殿と戦の最中でして、伊賀の里の方々には我らに加勢をしていただきたい」
「その件についてですが、一つ確認をしたい、武衛様は伊賀の里をどうするおつもりですかな?」
「加勢いただけるのであれば、本領安堵の上、当然報酬をお支払う所存、また当家に仕官を望むのなら喜んで召し抱えさせていただく」
と義為は低姿勢だ。定季が不服そうな顔をしているのがわかる。
「無礼を承知で重ねてお伺いいたしますが、武衛様は伊賀の里を我が物になされるつもりは無いのですな」
「無論」
「わかり申した、この老骨に対して誠意の籠ったおもてなし、この服部半蔵感服いたしました、伊賀の里総勢300名、武衛様にお味方いたします」
「おう、それはありがたい」
「つきましては我が息子、服部保長をお召し抱えいただけますか、武芸は勿論我が技の全てを仕込んでおります、武衛様のお役に立てると思います」
「それは願っても無い事、服部保長、銭1500貫で召し抱える、依存は無いか?」
と義為が言うと、半蔵も保長も思いがけない高待遇に喜んだ、これは組頭の上、侍大将の下位の待遇だ。
「配下の者で、仕官を望む者も取り立てる、遠慮なく申せ」
と言う事で、伊賀の者が服部保長以下、20名程が義為の家臣となった。
「早速だが、服部保長、長野の城、細野城と長野城を落とせるか」
「は、武衛様、落とした城はいかがいたしますか?」
この保長と言う若武者はかなり頭が切れる様だ
「どちらも不便な山城、燃やしてしまっても構わぬし、伊賀の者が使うならそれも構わん、要は長野の者共を城から追い出し、この辺りに追い込めば良い」
「畏まって御座います、では早速」
と保長は一礼をして、茶の席を後にした。
「服部殿、良い御子息をお持ちですね」
と義為が言うと半蔵は
「何、まだまだ未熟です」
と言った物の嬉しそうだ、義為は半蔵に当座の資金として、銭60貫……馬二頭に積める銭の重さ……を与えて、友成に里まで送らせた。
そして、全軍に野戦の準備をさせて、長野勢が山から降りてくるのを待つ。
三日後、山の方で黒い煙が二箇所から上がるのが見えた、どうやら保長達伊賀衆の城への火攻めが成功した様だ、物見の兵を出して警戒に当たると、予定通り長野勢が、山を降りてこちらに向かって来る。
ここを抜けて南下して、北畠領に逃げ込むつもりだろう。
義為は物見の兵を分散させて、街道から横に配置をして、長野勢に備える。
すると、予想通り北東の山裾を約500程の軍勢が発見された。
報告を聞いて義為は
「随分と減った様だな」
「はい、城を焼かれた事で、徴用した農民兵達は逃げ出したのでしょう、殲滅いたしますか?」
定季が問う
「勿論、一人も逃すな」
この時から義為の戦が変わっている、敵対した者は一族郎党共に殲滅すると言う方針だ、
この事で、斯波に逆らう事は身の破滅になると国人衆達に知れ渡ればそれだけ、無駄な戦いをしないで進むからだ、既に国人衆単独では20000近い兵を動員できる斯波家にかなう筈が無いのだから。
この一方的な戦いで、長野氏は滅亡した。岡五家と周辺の村長の協力で首実験が行われて、
長野通藤以下、細野、分部と言った一族の者や名の知れた武将の死亡が確認された、義為は村長に遺体の埋葬を依頼して、これで、長野氏との戦は終了した事になる、
「関盛雄、此度の助勢感謝いたす、長野の旧領の北半分はしばしその方らに預けておく、しかと治めよ」
「服部保長、伊賀衆に長野の旧領の内南半分を与える、此度は大義であった、お父上に分部の上野城を頼むと伝えてくれ」
その他の斯波家の家臣達への褒美は全ての戦が終わってからになると伝えてあるので、誰も不満を漏らす物は無かった、戦後処理も終え南進する準備をしていると、南方に出していた物見の兵達から報告が入る
『北畠親平』率いる、北畠勢約2000が北上中と言う
北畠氏は南朝を支えた北畠親房の直系であり、公家大名で伊勢国司と伊勢の守、伊勢守護職を兼ねる公家の名門だ、この時北畠親平はまだ14歳の子供であったが、官位も義為と同じ『正五位上 右近衛少将』だ、政務は隠居した父北畠材親が取っているが病の為出陣はできない、北畠一族は木造俊茂、田丸顕晴等が南伊勢各地に分家として点在して、その館は御所と呼ばれている、だが、それでも旧態依然とした農民兵が主力なので、農閑期なら合わせて15000以上の兵を動員できると言われていたが、今はやっとかき集めた2000が精一杯と言う所だ。
この兵力で斯波勢20000と戦うのは無謀だが、おそらく彼らは斯波の兵が常備兵と言う事を知らずに
正確な兵力を予測できていないのでは、と思われる。
義為は、兵を勧めて『雲出川』の手前に陣を張った、ここで北畠勢を待ち受ける、更に伊賀光就の『青龍隊』5000を左翼に柴田勝達の『玄武隊』5000を右翼に伏兵として配置して、更に本隊である朱雀隊も3000を千秋季光に預けて後方に下がらせている。
これで本陣は、服部友成率いる朱雀隊の残り2000と、滝川貞勝の願証寺兵1000、それに伊賀衆が300程と言う布陣にした。
「本隊を少なく見せて、敵を誘い込むのですね」
定季が言う
「ああ、大軍を見せつけたら、敵は戦わずに逃げるだろう、城に籠られたら面倒だからな」
遠目に見ると、斯波と願証寺の旗印、それに関五家と伊賀衆の旗印が見えるので、寄せ集めの混成部隊に見えるだろう。
敵の進路の情報は逐一こちらに伝わっているので、安心して敵を待つ事ができる、
今回の戦はあえて敵に『雲出川』を渡河させて敵が攻撃してくるのを待つと言う受け身の作戦だ。