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第四章 政は難しい

第四章 政は難しい


 尾張に戻った義為は、守護職である父と相談の上、この度美濃遠征に参加したし将兵達への論功行賞をした。父は最近、半ば隠居の様な生活を送っている、長年の目標だった遠江奪還を成し遂げた事で、人生の目的を失ってしまった様で、都から落ち延びて来た貴族や文化人達と、茶の湯、連歌、蹴鞠三昧で暮らしていて、政務にも興味を無くしている、なので義為が尾張以下三カ国の全権を委託された状態になっている。

 論功行賞は本城の清州城の対面の間で行われたが、当然義達は出席していない。

「柴田勝達、三河安城城の城代を任ずる」

「佐久間盛通、遠江吉田城の城代を任ずる」

「平手経英、勘定奉行に任ずる」

「丹羽長政、普請奉行に任ずる」

と義為はハルトとしてこの時代に来た頃から馬廻り衆として使えてくれた者達を大幅に昇進させた。

特に武勇に優れた、柴田と佐久間には別途任務を与えた。

尾張で編成した常備軍『朱雀隊』が成功したので、同じ方式で、三河に『玄武隊』遠江に『白虎隊』を組織する様に命じたのだった。

 空席になった馬廻り衆筆頭には千秋季光を任じた。

そして美濃で功績を上げた、服部友成には義為が実恵から授かった名号幟三旒から「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を使った旗指物を使用する事を許可した。

 実恵の字を写した白地に黒文字の旗を見て友成は歓喜して涙ぐんでいる。

「服部友成、お主の領地は西美濃と隣あっている、西美濃の事頼んだぞ」

「はは、この友成命に変えまして」

と、服部友成は平伏して答えた。

 その他の家人達には、俸禄50貫を55貫に、足軽達は1貫500文から2貫に昇給した。

この時代は江戸時代の米本位制と違い、禄米制では無く俸禄制だ、斯波氏の収める三国では貨幣による経済圏が構築される様になっている。


 数日後、いつもの様に、茶と湯殿を目当てに『願証寺』の実恵を尋ねると、どうも様子がおかしい、

この寺には1000名程の武装兵がいるのだが、彼らが殺気立って戦支度をしている、

 顔見知りになった武将に聞くと、出陣の準備をしていると話してくれた

そして、案内された本堂横の館に入ると、実恵までも甲冑を身につけ戦支度になっている。

「実恵殿、そのお姿は、一体何があったのですか?」

「北伊勢の我が宗門の里を『北勢四十八家』の者共が襲ったのです、元々その周辺の里については我らと彼らでどちらに帰属するか争っていたのですが、とうとう実力行使に出た様です、なので我らも出陣して北勢四十八家の者共と一戦交える所存」

と言う。

 この頃伊勢の国は南勢を北畠材親・親平親子が、中勢から北勢にかけて長野藤直や関盛国が勢力を持っていて、願証寺が有る最北部は『北勢四十八家』と呼ばれる国人衆や豪族が緩やかな同盟を組んで群雄割拠状態だった。

 この地域は度重なる洪水により、国境や里の境が曖昧になっていて、度々小競り合いがあった、そして

今回ついに北勢四十八家の雄千種治庸が他家を率いて、願証寺の寺領に攻め込んで来たと言う話だった。

「実恵殿、水臭いですね、なぜ私に一声かけていただけ無かったのですか」

と義為は笑いながら話して

「いつも馳走になっている茶と湯殿の借りを返す良い機会ですね、それに願証寺の寺領は我らの狩場でもありますから」

と実恵に言うと

「定季、早馬を、千秋季光と服部友成に兵3000を率いて願証寺まで来る様に、実恵殿、船を貸していただきますか?」

と押し掛け援軍を申し込んだ。


 翌日、義為は実恵と轡を並べて願証寺から出陣した。

訓練を積んだ常備軍である義為の朱雀隊と国人衆の寄せ集めである北勢衆では勝負になる訳が無く、野戦で敗退した北勢衆は千種氏を始め有力国人達の館を落とされて降伏。

 この戦の結果、願証寺は寺領を倍にして、『北勢四十八家』は尾張斯波家に臣従する事になった。

だが、この事は千種氏の後ろ盾になっていた長野氏を激怒させて、後の紛争の元になる。


 そして、翌年の春に、美濃の様子を探っていた服部友成から、前年の戦いで行方が判らなくなっていた、土岐頼武と斉藤利良が越前朝倉孝景の後ろ盾で美濃に迫っていると言う報告を得た。

 この事を父に告げると、

「朝倉は元々は我が斯波家の家臣、越前奪回は亡き父の悲願でもあった、義為、夢々遅れを取るで無いぞ」

「は、父上、お任せください、直ぐにでも出陣いたします」

と義為は清洲城を後にした、義為の軍『朱雀隊』は常備軍であり、いつでも出陣できる用意が整っている、この時代の通常の出兵の様にまず兵を集めて武具を整え、兵糧を用意してと言う手間が必要無い、義為が明日出陣と言えばそれが可能なのだ。

 勝幡城に戻ると、翌朝には5000の兵で美濃に向かって出陣した、今回は急を要するので、ひたすら早駆けで稲葉山城を目指す。

 

 そして、夕刻には全軍が稲葉山城に到着した。

城には既に美濃の国人衆が集まっていて、今回は2000余りの兵が集まっている。

 評定では、朝倉方は、総大将朝倉景高の指揮する3000兵と土岐頼武と斉藤利良の美濃兵2000、合わせて5000で美濃の『赤坂』に陣を張り、こちらを待ち構えているとの事だ。

 翌朝、美濃勢2000が先発して、義為の尾張勢5000がその後に続く。

「私なら途中の街道で奇襲をかけますけどね」

と言う定李に

「朝倉殿は古風な戦い方を好むそうだ、まぁ楽しみにしていよう」

と一応、家人の中の美濃出身者を物見の兵に出して行軍していく。

「敵は5000、こちらは7000か」

「義為様、我らの5000は他国の兵の10000に匹敵します、なので5000対12000です」

これは誇張では無い、北伊勢の戦いでも明らかだった様に、義為の兵は他国には無い常備兵でほぼ毎日訓練をしている、筋力も練度も農民兵とは全く違うし、既に四人張の強弓を引ける者は50人を超えている、いわばアスリートと一般人が戦う位の差が有るのだ、ただ指揮官クラスは話は別で、敵にも武芸の達人や槍無双の人物が居る可能性がある。だからこそ、義為は、指揮官を狙撃できる強弓隊を重要視しているのだった。


 昼過ぎには赤坂の地に到着して、こちらも陣を張る、義為は会えて敵の正面では無く左翼に自分の本陣を置いた、そしてそこに印と大幟を立てる。これだけで味方の美濃衆と尾張衆の一部の部隊の士気が上がるのだ。

「また敵が減ってくれますかね?」

「そうだと良いけどな、でもどうもこれ『他人の褌で相撲を取っている』様な気がするんだ」

「義為様なんですか、その下卑た『故事成語』は、義為様は源氏の棟梁たるお方、その様な物言いはお控えください」

と定李に怒られてしまった、どうやらこの時代にこの諺はまだ無かったらしい。

しかし源氏の棟梁とは大袈裟だ、それは京に居る誰だかわからない足利将軍の事だろう、と思った。

「あ、始まりましたね」

「うわ、本当に古風なんだな、『悪口合戦』から始まるのか」

と義為は呆れたが、定李は楽しんでいる様だ、

「次男の分際で兄に逆らうのかって言うのはなぁ、それを言うならあんた父に反抗してるじゃないか」

と笑っている。

「義為様、矢合わせですよ、こちらも鏑矢を」

「いや、それは美濃衆に任せよう、それより全軍突撃準備、敵の右翼を一気に突く」

と指示をすると、定李が真顔になった。

 鏑矢の応酬が終わり、美濃衆と敵の間で遠距離の弓合わせが始まった所で、義為は

味方の強弓隊を前進させて、敵の右翼に矢を集中させる、敵が振り返ってこちらを攻撃しようとするが、

正面からは、美濃衆の槍隊が突撃して来るので、その対応にも追われてこちらへの対応が後手に回る。

 ここで、千秋季光と服部友成の槍隊と足軽隊が前進を始める。

 戦場ではこちらの美濃衆と土岐頼武と斉藤利良の美濃勢の間で激しい戦闘になっている、そこで朝倉景高麾下の越前衆が戦闘に参加しようと前進を始めた、だが敵の越前衆の半数程が、交戦を始めた朝倉景高を背後から攻撃をし始めた。

「ほう、始まったな、服部友成、あの寝返った軍勢任せたぞ」

「はは、お任せください」

と友成は自分の部隊1000名を率いて「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号の旗指物を翻して、敵陣に迫る。すると敵陣が開き友成を迎え入れた。

「越前にも宗門の者共もが多い様だな」

「はい、尾張や美濃よりも、遥に多いと聞いています」

定李が答える。

 これによって敵は総崩れになり、美濃衆により土岐頼武と斉藤利良が、そして千秋季光が敵の総大将朝倉景高を打ち取って、美濃尾張連合軍の勝利で戦は終わった、しかし味方も無傷では無く、先陣を切って美濃衆を率いた小守護代長井長弘が討ち死にと言う結果になる。

 義為は自身の本陣で、友成が伴って来た越前の宗門衆を謁見した。

「みな、加勢大義」

と声を掛けると全員が平伏する。

義為は褒美として、全員に銭五貫づつを与え希望者は友成の配下として、残りは兵糧を分け与えて、越前に帰国させる事にした。

『朝倉景高以下は全員討ち死に、彼ら宗門衆は御仏の加護のお陰でかろうじて生きて戦場を離脱できた』

と言う筋書きだ。

この後、彼らから友成を通じて定期的に越前の情報が義為にもたらせる事となる。


 義為はこれで美濃の騒動も終わりだと思い稲葉山城に立ち寄って舅殿に挨拶をしてから、尾張に帰還する事にした、だが騒動はこれで終わりでは無かったのだ、稲葉山城で第二幕が待ち受けていた。


 稲葉山城近くの寺で、美濃衆と共に首実験をしている所に、城からの急報が届く

「先の美濃守護代斎藤彦四郎殿謀反、守護土岐政房様、頼芸様共に御自害」

と言う知らせだった。

「何、舅殿と頼芸殿が……」

義為は一瞬だけ呆然としたが、直ぐに気を取り直して、長井長弘に代わって美濃衆をまとめている氏家行隆に声を掛ける。

「氏家殿、我らはこれより舅殿の弔い合戦に稲葉山城の斎藤彦四郎を攻める、其方らはどうする?」

「もちろん、我らも同行いたします、逆賊斉藤彦四郎許すまじ」

 尾張、美濃連合軍は首実験の儀式を早々に切り上げて、全軍で稲葉山城を取り囲んだ。

稲葉山城は山城で本来は攻めるのがそれなりに困難な城だった、だが、斉藤彦四郎は手勢100名程で、各地に送った増援の使者に答える者は無く、戦え無いと判断した彦四郎は早々に降伏を申し入れ、城を明け渡した。

 彦四郎は、土岐親子に変わり稲葉山城を抑えて朝倉と結び、土岐頼武を城に迎え入れて甥の斎藤利良に変わって自分が守護代に返り咲く事を画策していたのだ、だが彦四郎の誤算は義為と美濃衆が赤坂での戦に短時間で勝利した事と、この時点で既に『守護代家』の権威が失われていた事を認識していなかった事だった。

 

 最盛期には美濃、尾張、伊勢の守護を兼任して、幕府評定衆にも列した源氏の名門土岐家の嫡流はここに滅びる事になってしまった。

 美濃国内には土岐氏の庶流が多くあったが、いずれも嫡流を継げる程の勢力は無く、美濃国人衆の依頼を受けて、娘婿である義為が葬儀の喪主を務める事になった。

 この件を清州の父に早馬で知らせた義為は、稲葉山城に入り、葬儀の準備にかかる事になった。

だが、問題はもう一つ有り、守護土岐氏と並んで守護代斉藤氏もまた滅亡して、小守護の長井長弘も死去した事で、美濃の政務を取る者が不在になってしまったのだ。

 家老格の氏家行隆は健在だが、元々守護代や小守護の影に隠れていた存在なので、美濃全土を納める器量は無い様だ。

 義為は葬儀の段取りは有能な定季に任せて、続々と集まって来る美濃衆、特に土岐氏の庶流の明智氏や肥田氏、多治見氏等を謁見して、土岐の名跡を継げる者が居るのか確認をしている。

 先の美濃入りから義為に従っている北方城主伊賀光就の意見も聞いているが、どうも相応しい人物が見つからない。

「義為様、葬儀の次第が決まりました」

と定季と氏家行隆が、稲葉山城の対面の場に入ってきた。

「定季、土岐の血筋で名跡を継げそうな者を探しているのだが、どうも皆悪い意味で団栗の背比べでな、何か良い知恵は無いか?」

と聞くと、定季は

「はは『団栗の背比べ』ですか、義為様は面白い事を仰いますね」

と笑っただけだ、そこで氏家行隆が変わって答えた

「恐れながら、応仁の乱以降、我が美濃では土岐家、斉藤家共に同族相撃つ争いを続けておりまして、

国人達も今日はこちら、明日はあちらの味方と言う状態で土岐様の御一族も主だった者は皆既に無く……」

と悲しそうな顔をしている。

「まぁ、それは尾張の我らとて変わらぬな、数年前まで、我が斯波家も家督争いや守護織田氏との勢力争いで戦に明け暮れていたのだからな、我が父が尾張の国を纏め上げなければ同じ事だっただろう」

と言う義為の言葉を聞いて伊賀光就が

「右馬頭様、それならいっその事、お父君、斯波義達様に美濃守護をお願いできないでしょうか?」

それに、氏家行隆も賛同する

「おう、伊賀殿それは名案じゃ、武衛様は既に尾張、三河、遠江の守護、それに美濃が加わっても問題はあるまい」

「おいおい、無茶を申すな、三河や遠江は斯波家に縁があるが、美濃は話が別だ、それにそんな事を美濃の国人衆が了承するわけはなかろう」

と義為が笑いながら言うと

今度は定季が

「義為様、それは案外良い案かも知れません、何しろ義為様は先の美濃守護の娘婿、立派に縁がありまする、それに此度の葬儀も義為様が喪主を務める事に意義を唱える者は誰もおりませんでした」

「定季まで言うのか」

「右馬頭様、それなら美濃衆の総意で武衛様に美濃の守護になっていただくと言う事ならよろしいですか?」

と氏家行隆が言うと、伊賀光就も賛同して

「我らで美濃衆を纏めて、起請文を作り右馬頭様に提出させていただきます」

と言う話になってしまった。

 そして舅土岐政房の葬儀の後、稲葉山城の大広間で、義為は不破氏、稲葉氏等、美濃衆の主だった物50名程の名が記された起請文を受け取り、父斯波義達に美濃守護就任の言上をする旨を了承したのだった。


 尾張に帰国する道中でまだ義為が悩んでいると、定季が

「良いではありませんか、労せずして美濃が手に入ったのですから」

「だがな、どうも今度は『火事場泥棒』をした様な気分になるのだ」

「もしかして、義為様、美濃を戦で落としたかったのですか?」

と聞かれて、

「(そうだよなぁ織田信長は美濃を制圧するのに十年以上かかったそうだからなぁ、あれ?すると次は上洛か? いや流石にそれは無いよな)」

と義為の中のハルトは思っている。


 尾張に帰国して清洲城の父、義達に詳細を説明すると

「そうか、わしを美濃の守護にとな、喜んで受けよう、それにしても義為、わしは良い息子を持った」

と父は大いに喜び、美濃守護就任を快諾した。

「美濃の事、お主に任せる、三河、遠江と同じく治めて見せよ」

と全権を委任された、なので義達は、氏家行隆を美濃奉行として『川手城』に入らせて、政務を取らせる事にした、合わせて、伊賀光就を『青龍隊』の隊長に任命して、稲葉山城城代を命じ、尾張式の常備軍を整える事を命じた。

「美濃の事は美濃衆にですか」

「ああそうだな、三河遠江と違い美濃は斯波家には馴染みが無い、家人の誰かを遣わせても争いになるだけだろうからな」

 勝幡城に戻ると、ここも改修工事が進んでいて、水堀、石垣、二の丸、三の丸に、本丸の館と城全体が見違える様になって来ている。

 義為は本丸御殿の美濃殿の部屋を訪れて、帰陣の挨拶と姫の父そして二人の兄の訃報を伝えた。

「姫、舅殿をお守りできなくて申し訳ない、だが舅殿の敵は打ちました」

と頭を下げる。

 父と兄を失った美濃殿だが、気丈にも泣き崩れる事は無く、静かに弔いの和琴を奏でた。

そして、その夜に初めて義為は姫と褥を共にしたのだった。


 改築した本丸御殿には、大工達に義為が指示をして作らせた湯殿がある

これは、寺社にある蒸気浴では無く、檜で湯船を作った風呂だ、ただ湯は外で沸かして樋を使って、湯船に流す方式になった。

 「(はぁ、この時代に来てやっと風呂に入れたなぁ、近くに温泉があれば良いのに)」

と、湯船で足を伸ばして寛ぐ。

 こんな贅沢ができるのも、領地から取れる金と、義為が尾張、三河、遠江の三国で、商業と工業を奨励して経済が発展して、斯波家と義為が豊かになった為だ、もちろん義為に自由に政務を任せてくれたのは父義達の見識によるものだ。その結果、斯波領では三公七民の租税を定め領民は歓喜し経済が更に発展する事になった、この頃は五公五民ならましな方で、六公四民やそれ以上の税を課す国が多かったからだ、当然それは美濃でも同様で税負担が一気に減った美濃の国人衆や土豪達や領民はこぞって斯波家の統治を受け入れている。

 義達は風呂で呑気に『ぬか袋』を使いながら

「(後は石鹸があればなぁ、もう少し真面目に科学の授業を受けていれば良かった)」

とそんな事を思っていた。

 風呂から出て、今夜は側室の「かな」の元にいく。

かなは三つ指をついて、義為を迎えると

「義為様、お話があります」

と真剣な表情だ。

「かな姫、何か問題でも?」

「いえ、あの、子ができた様です」

「え? 本当に?」

 衝撃でハルトがいつも被っている義為の仮面が剥げてしまった。

「はい、ここの所気分が優れず、医師に診てもらった所、懐妊と言われました」

「そうか、それはめでたい、身体を大事にしてくれ、季平殿にはもう?」

「いえ、まず義為様にと思いまして」

「こういう時はどうしたら良いのかな、とりあえず抱きしめる?」

と少し悩んで、義為はかなを抱きしめた。


 春になり、城の改装も殆ど終了して、義為は公私共に充実した日を送っていた、官位も『右馬頭』から一つ上昇して『正五位上 右近衛少将』を拝命する事になった、最も官位の方は父義達が『従四位上 右近衛中将』に昇進したおこぼれの様な物だったが、父は茶湯や連歌で遊んでいる様で、実はちゃんと朝廷や将軍、管領などに政治的工作を行っていたのだった。

 

 そしてそんな義為の元に遠江の佐久間盛通からの早馬が来る。

「今川氏親、伊勢氏綱の軍勢6000、西駿河の味方の城や砦を攻撃中」

との事だ、義為は直ぐに清洲城に登城して、父義達に駿河に出兵をする旨を伝えた

「氏親め懲りぬ奴だ、駿府に引き篭もって居れば良い物を、義為此度はわしも出るぞ」

と父は仇敵の今川が相手だと、急にやる気が出た様だ。

 父は家老の佐々成宗に出陣の指示を出し、兵を集めさせた。同行するのは斯波家譜代の坂井達乗、丹羽達祐らだ。

 義為の方は常備軍が居るが、父の方はまだ、旧来の家人達中心の農民兵が主体だからだ。

なので義為は朱雀隊から兵500を割いて、馬廻り衆の林通安に指揮をさせて父の護衛に回した。

 そして、残り5500を率いて、佐久間盛通が守る、遠江吉田城へ急行する。

もちろん三河安城城の柴田勝達の『玄武隊』3000を出陣させている。

 尾張から遠江までは以前なら七日ほど要したが、義為が街道を整備した結果、通常の行軍速度で5日ほどで到着できる様になっている。

 例によって各地の国人衆や土豪達が、参陣するので、三河を超えて遠江吉田城へ入った時には

朱雀隊、5500、玄武隊3000、白虎隊2000、に加えて父の軍勢が7000の、15000以上の大軍になっている。


 早速吉田城で軍議が始まるが、そこに物見の兵の報告が入る

「敵は曳馬城の東方『木原畷』に陣を張っている様です」

「何、懲りないのぉ、先の戦で大敗した場所にまた陣を張るとは、ではこちらはゆるゆると、曳馬城へ行き、井伊直平殿と合流するとしよう」

と総大将である父は余裕だ。

「誰か伊勢氏綱殿の事を知る者は居ないか?」

と義為が聞くと、元は今川の家臣だった岡部仲綱が答えた

「氏綱殿は、盛時殿の御嫡男で武勇の誉も高く、盛時殿亡き後に家督を相続して、相模の国小田原城を本拠に勢力を持っております、恐らくは此度の戦は今川家の応援と言うよりは盛時殿の弔い合戦かと思われます」

「なるほどな。駿府に引き篭もっていた氏親に戦を起こす気力等無いと思っていたが、これは我が斯波と伊勢との戦いと言う事じゃな」

と言う父の見立ては義為も正しいと思う。

「そうなると少し厄介ですね、援軍では無く弔い合戦なら敵も士気が高いでしょうしね」

佐々成宗が言う。

義為もその考えに賛成だ。

「父上、先に駿府を落としてはどうでしょうか?、帰る城が無くなれば今川勢は動揺しましょう、敵の動揺に乗じて伊勢の者共を討つのが寛容かと」

「うむ、流石じゃな良き案じゃ」

と義達が頷くと、三河の奉行松平昌安が

「そのお役目、我ら三河衆にお任せいただけないでしょうか?」

と手を挙げた。

 斯波家の統治下に入った三河だが、三河内に十家以上ある松平家は宗家である岩津松平家が今川に滅ぼされた後、一族で主導権争いを続けていた、安祥松平家の松平長親が先の戦いで戦死して安祥松平家の勢力が衰え、岡崎松平家の松平昌安が斯波義達から三河奉行を命じられ、弟の松平貞光は義為の馬廻り衆となった事で、松平一族の中では頭一つ抜きん出た立場に居る。

 だから、昌安はこの戦で手柄をあげて、その地位を盤石にしたいと思っているのだ。

「義為どうじゃ?」

「そうですね、三河の玄武隊3000を付けて松平殿に任せましょう」

「は、ありがとうございます」

「では、出陣は明日の朝じゃな、我らは松平殿が出陣した後にゆるゆると参るとしよう」


 翌朝三河衆2000と玄武隊3000を率いて、松平昌安は今川の本拠地、駿府館を目指して出陣した。駿府館までは二日ほどの距離だ、なので、こちらはゆっくりと曳馬城に入れば良いのだ。


 そして曳馬城で三日ほど過ごした時、 松平昌安から駿府館を落としたとの早馬が来た。

「父上」

「うむ、明朝、全軍で出陣する」


 翌朝、日の出と共に総大将斯波義達は古式に則った出陣の儀式を行い、全軍を『木原畷』に向けて

出陣した。

「義為様。大軍に兵法無しですか、つまらないですね」

共に轡を並べて進む定季が話しかけて来た

「むしろ向こうがどう出るかを考えると楽しいと思うぞ」

「そうですね、行軍中は自然に『長蛇』になりますからね、あそこの丘に伏兵を置いて、大将を狙いますか?」

「やはり誰でもそう思うよな、千秋季光」

「はは、お任せを」

と季光が配下1000名を連れて、丘に向かう、すると100名程の敵兵が丘から出てきて、逃走していくのが見える。

「やはりいましたね」

「氏綱殿は真面目な御仁の様だな」

 季光が戻ってきて、

「申し訳ありません、取り逃しました」

と頭を下げるが

「何、構わん、すまんが先行して敵の伏兵が居そうな場所を潰してくれ」

と指示をすると、季光はまた行列の先頭を追い越して、駆けて行く。

「季光殿は本当に戦が好きな様だな」

「はい、槍の修練ばかりして、千秋家の嫡男なのに祝詞も満足に唱えられないと父上が頭を抱えておりましたから」

 ゆっくりと行軍して昼過ぎには木原畷に到着した、ここで陣を張る

陣を張ると言っても総大将の父が居るので、本陣に幕を張るだけでは無く、大工が陣屋を立てたりする大掛かりな物だ。

「いつも思うのですけど、何でここで攻撃してこないんでしょうね?」

「うーん、戦でも最低限の作法があるって事かなぁ?、やったら名誉が地に落ちるって事だな、あ、でもそう言えば先手を取った事ってあまり無いなぁ、次は敵より先に陣を張ろう」

「次は、伊勢ですね」

定季はそう言って仕事に戻った。

「(伊勢か気が早いな、さて、今夜は夜襲でもしてみようかな?)」

と義為は考えを凝らす、朱雀隊は夜間行軍や夜間戦闘の訓練も十分なので、夜襲は効果的かもしれない。

 

 この頃、今川氏の本家筋にあたる吉良家は二系統に別れていて、応仁の乱でお互いに争って以来、不仲になっている、西条吉良氏当主『吉良義信』は京都在住、その嫡男の『吉良義元』は先の今川との戦いで討ち死にしている、東条吉良氏『吉良持清』は三河東条城城主として参陣をしているが、他の三河衆とは行動を共にしていない。

 そんな東条吉良氏の吉良持清が西条吉良氏の家臣大河内貞綱、飯尾賢連、巨海道綱を伴って義為の陣を訪ねて来た。

 飯尾賢連は先の戦いまでは親今川として大河内貞綱と対立していたが、今川の大敗を受けて大河内貞綱と和解している、巨海道綱は貞綱の実弟だ。

「右少将様にはご機嫌麗しく」

と吉良持清が礼儀正しく挨拶をする、

定季が

「東西の吉良の方々がご一緒とは珍しいですね、何のご用でしょう?」

と『この忙しい時に何しに来たんだ』と言う感情を込めて聞くと、

「我ら吉良に夜襲の許可をいただきたい」

と言う事だ、義達が詳しく聞くと、大河内兄弟も、飯尾賢連もこの辺りの地形に詳しく、夜でも何も問題無く敵陣に攻撃する事が可能だそうだ、しかも幸い今夜は一日で新月、夜襲には最適と言う。

 義為は自分が夜襲に出ようと思っていたので、吉良持清の申し出を受け入れた。

「承ろう、吉良殿御武運を」

と答えると、吉良持清は平伏して、退出していった。

「吉良殿も焦っている様ですね」

と定季が言う

「確かにな、元々は吉良殿が松平殿の主筋、だが今は三河奉行は松平殿、遠江奉行は井伊殿、このままでは吉良殿は両家の間に埋もれてしまうからな、それに京の義信殿もあまり状況はよろしく無い様だ、同族で争っている場合では無いのだろう」

「所で敵の夜襲の心配はありませんか?」

「今夜は、友成に命じて警戒させている、大丈夫だとは思うが」

 

 この夜の、吉良持清の夜襲は大成功で、飯尾賢連は敵の副将、伊勢氏綱の弟の『葛山氏広』を打ち取って帰陣した、一方で敵もこちらに夜襲を試みたが、友成率いる朱雀隊に撃退されて逃走している。


「敵兵、かなり数が減りましたね」

翌朝、物見の兵の報告で、当初は今川1000、伊勢5000の6000の軍勢だったが、今川は500未満、

伊勢は4000以下に減っている。

「定季、鶴翼で一気に敵を包囲して殲滅する、千秋季光、服部友成、兵1000づつ率いて敵の後方に回り込め、今度は逃がさん」

と義為も自ら残りの朱雀隊を率いて、鶴翼の中央で攻撃に加わる事にする。

「父上、よろしいですか?」

「うむ、全軍出陣じゃ」

と父の号令で、斯波軍は一斉に前進を始めた。

戦闘開始後、一刻あまりで、圧倒的な数の前に、伊勢・今川勢は後退をしようとするが、後方へ周り込んだ季光、友成の合わせて2000の兵がそれを阻む、しかも二人が率いるのは常備軍の朱雀隊だ、

 周囲全部を斯波軍に取り囲まれて、抵抗を諦めた敵将今川氏親、伊勢氏綱は共に自刃して果てた。


 戦を終えて、本陣に義為が帰陣すると、父が金創医によって手当を受けている

「父上、どうされたのですか」

「何、流れ矢が掠めただけじゃ、かすり傷じゃ大事無い」

と言う事で、義為は安心した。


 戦場の後処理を終えて、斯波軍は駿府へ入り元の今川館で戦後処理を行う。

これで駿河今川氏も滅びた事になり、父斯波義達は、駿河を支配して守護職も手に入れる事になる。

そして、伊勢氏はこの敗戦の結果、勢力を失い関東管領上杉家との争いで相模を失い、伊豆の領地をかろうじて死守する程度の勢力に落ちぶれて行く事になる。

 父、斯波義達は戦後処理を義為に任せて尾張に凱旋帰還した。

長年の宿敵だった、今川氏親を滅ぼした事で、父は嬉しそうだが、少し顔色が悪いのが気になった。


 今川館で行われた論功行賞で、松平昌安は義為から松平衆の統領として認知され、井伊直平と共に加増を受けて、斯波氏の家紋『足利二つ引き』の使用を許された、

 吉良持清は、今川館に入り駿河奉行を任じられる事になった、その他にも参陣した国人衆達にもそれぞれ褒美を与えて、今川の繁栄を支えていた駿河の安倍金山と富士金山を斯波家の直轄とした。

 この二つの金山を抑えた事で、斯波家は他を圧倒する経済力を手にした事になる。

 義為は駿河国内に有る伊勢氏の城『興国寺城』を攻めてこれを落とし、ここに松平貞光を城代として

常備兵の『麒麟隊』を組織する事を命じた。

 そして、尾張に帰還する事になるが、凱旋帰国なので、途中の城に立ち寄って国人衆から戦勝の祝辞を受けて、清州に戻ったのはそれから八日後だった


 「父上、お加減でも悪いのですか?」

清洲城での祝勝の宴で、父の顔色が発熱をしている時の様に赤いのに気づき声をかける

「感冒にでもかかったか、情けない事じゃ」

と父は、小姓に手を引かれて、寝所に下がった。

「武衛様も、長年の胸の痞えが取れて、お疲れになったのであろう」

と宴席に参加している家臣や家人達は楽観視していて、義為も同様だった。


 だが、数日して父の容態は急変する、熱が下がらず、言葉を話す事ができなくなった。

医師の見立てでは、矢傷から毒が入りそれが体に回ったとの事で、薬湯を処方しているが……と医師は言葉を濁した、

「(これはまさか破傷風か、ドラマならここでペニシリンとかを作るのだろうけど、僕には無理だからな)」

とハルトは思ったが、無理な物は仕方が無い。

「父上」

と義為は父の枕元で声をかけるが、父からの返事は無く、数日後に息を引き取った。

 ハルトにとってはもちろん本当の父では無いが、この時代に来て七年余りずっと父と思い接して来た人物だ、その死はハルトにとって辛い経験になった。

 斯波武衛家十三代当主斯波義達、法号を『行業院殿前左武衛一玄』となり、祖父と同じ熱田円通寺に葬られた。

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― 新着の感想 ―
あっさりネームドが死ぬのが逆に面白い 織田信秀と北条氏康と因縁ができてるけどこの主人公なら普通に返り討ちにしそうだ 正妻腹の弟とかかなとの子供とかお家騒動の種になりそうで気になる
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