表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/26

第二十章 呂宋

第二十章 呂宋


 呂宋島はフィリピンを構成する諸島の中で最大の島だ。正史では1521年マゼラン率いるイスパニア船団がフィリピンに到着すると、マゼランはスペイン王への服属、朝貢、キリスト教への改宗を要求して各地の部族長を次々と服従させて行く、だが唯一反抗したマクタン島の部族長に逆襲され、マゼランは命を落とす事になった。正史ではこの後フィリピンは『コンキスタドール』(征服者)と呼ばれるイスパニア王公認の私兵集団を率いるミゲル・ロペス・デ・レガスピによって1571年に東都トンドを占領され、トンドはマニラと改名されて、植民地として蹂躙される事になる。この時植民地支配を主導して広大な土地を占有し、現地人達を奴隷化したのはスペインのイエズス会修道会だ。


 天文十年、1541年の時点では呂宋島の東都トンドは、貿易港として日本、明国、台湾、ポルトガル、イスパニアの商人達で栄えていて、まだ一応の独立を保っていた。だが呂宋をイスパニアが狙っている事は明白だった、なので東都湾を包囲した第二艦隊は、東都湾内の敵対国イスパニア船を拿捕する事に成功する、当然反抗する船は容赦なく撃沈した。そして、捕虜にしたイスパニア人は船と共に全員博多に連行される事になる。

 この頃、ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス率いる、イスパニアの六隻の艦船はメキシコのヌエバ・エスパーニャを出て、ゼブ島を目指していた。正史ではこの人物が、イスパニア皇太子フェリペに近辺の島々を捧げる意味で「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas) 」と命名をする、これが「フィリピン」と言う国名の由来となる。


 太平洋を長期に渡って航海してきたルイ・ロペス・デ・ビリャロボスの艦隊は呂宋島近海を哨戒していた、東都の明国の快速ジャンク船に捕捉される。

 東都に帰還した明国船から急報を得た第二艦隊は迎撃の為に出撃する、呂宋島東の近海でイスパニア艦隊を目視した第二艦隊は風上の南西側からイスパニア艦隊に近づき、縦列陣形を取る。

 日本海軍第二艦隊司令兼加賀艦長村上通康は

「全艦砲撃戦用意、停船旗を上げよ」

と指示をした。旗艦加賀のメインマストにはこの頃南蛮ヨーロッパ諸国で普及しつつある、旗旒信号をが上げられてイスパニアの艦隊に停船を求めると同時に僚艦に対して、砲撃戦用意の旗も掲げられた。

 だがイスパニア艦隊の解答は「No」だった。このイスパニア艦隊は旗艦サンチャゴが200トン級の旧式のキャラック船で大砲の火力も日本艦隊のガレオン船から大幅に劣っている、他の艦船も同様だった。更に、この時『越前級』の南蛮船に搭載された鉄製の大筒は当初の青銅製の大筒より射程が長く口径も大きい。

 停船信号を無視した事で、長期に渡る航海で太平洋を渡って来たばかりのイスパニア艦隊は、練度も休養も充分な第二艦隊を相手に絶望的な戦いをする事になる。

 この第二艦隊は艦隊司令兼加賀艦長村上通康以下、村上水軍の者が多数を占めている、それに対して、義輔率いる第一艦隊は、松浦党の者が多い。東シナ海などの戦闘で松浦党に遅れを取っていた村上水軍の者達は戦意も高かった。


 第二艦隊は縦列陣形を円弧上にして、敵艦を中央に入れる半包囲陣形を取り、殲滅砲撃の体勢に入った。

 艦隊指揮官ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスは

「あれはポルトガルの船では無いのか、なぜ我々を停船させようとする、しかも攻撃体勢を取っている」

「いえ、旗印がポルトガルの物ではありません、しかも見て下さい船首像の意匠、あれは東洋のドラゴンでは無いでしょうか? ここは大人しく帆を下ろして停船……」

 航海士官のこの言葉は最後まで語られる事が無かった、イスパニア艦隊が停船旗を無視した事から、村上艦隊司令が一斉砲撃を命令したからだ。

 旗艦サンチャゴ以下四隻の船が運命を共にし乗員諸共、海の藻屑と消えた、かろうじて沈没を免れた「サンファン・デ・レトラン」は、帆を下ろして白旗を掲げる。艦長以下55人の生存者は全て捕虜となった。

 ちなみに船首像とは南蛮船の船首に取り付けられていた女神像等の事だ、日本海軍でもこの習慣を取り入れているが、海軍ではこれを全て龍の飾りにしていて、その龍は五本の指を持つ龍だ。

 東アジア圏では五本指の龍は中国の皇帝のみに許された意匠で、冊封国の朝鮮や琉球の龍は四本指だ、

日本は正式の冊封国では無かった為に、中国(隋や唐、明)から贈られて来た龍の像や絵画は全て三本指となっていた、義勝はこれをあえて五本指とする事で、あくまでも明と対等な国と言う意思表示をしている。


 同じ頃、義輔率いる第一艦隊と松浦党、明国胡宗憲将軍の連合艦隊は、明国沿岸の倭寇を一掃して、

西進、大越国ベトナムの貿易港『会安』(ホイアン)を一時封鎖して、湾内のイスパニア商船を拿捕

し軍船を撃沈している。この後『会安』は日本と大越国の貿易の中心として大いに栄え、多くの商人が移住して日本人街が作られる事になる。

 

 更に第二艦隊は、明国の胡宗憲将軍麾下の分艦隊と共同で、呂宋島周辺の島々に在る「ビガン」を初めとするイスパニアの拠点とインド洋経由で来ていたイスパニアの艦船を北から順に攻撃していき、イスパニア人をこの地域から追い出す事に成功する、ただキリスト教に改宗した原住民の一部は、イスパニア側で戦った為に、原住民側にも犠牲者が出た。

 この結果、各島々に幾つかの王国や首長国が連立していた、この地域は日本と明国に朝貢する呂宋国として統一される事になる、東都には、海軍の基地が設けられて、第二艦隊の一部が常駐する事になった。

 鹵獲したイスパニア船やその積荷、武器などは、半数ずつ明国と山分けして、日本の分は台湾経由で

博多に移送される事になった。

 こうして、義輔の描いた呂宋とその周辺海域の制圧計画は完了して、艦隊は一度母港に帰還する事になる。


 天文十一年 1542年 

 義勝は将軍義家と並んで、床几に座って、関ヶ原演習場で、鎮台対抗の模擬戦を観戦している、

この模擬戦は最初は100人同士で行ったのだが、あまり実戦的では無かったので、今は各隊1000人の

実戦形式の模擬戦になっている、もちろん鉄砲隊は空砲で、刀は竹刀、槍も練習用槍だし、矢は『神頭矢』を元にした殺傷力の無い矢を使っている。

「今回はどうやら奥州鎮台の勝利だな」

「はい、しかし、親衛隊が早々に敗退したのは問題ですね、もう少し訓練を厳しくしないといけません」

「まぁ、この訓練は勝つ事が目的では無いが、勝に越した事は無いからな、奥州鎮台の指揮官は誰だ?」

「最上義守殿ですね」

「最上義守? もしかして長松丸か?」

「そうですね、我らの遠縁では無いですか?」

「そうだな、これ以降は一族として処遇する様に」

「はいかしこまりました」


 そしてこの年には大阪本願寺で、武舞台で同じく鎮台対抗の武術大会もあった。

現代の剣道や柔道の団体戦と同じ様に、先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の五人制で三本先取で争う。

こちらは、親衛隊の圧勝だった。

「どうも、親衛隊は個人技の方が得意の様だな、連携を訓練した方が良いかもな」

「はい、その通りです」

と将軍義家も納得した様だ、そしてどうしても自分も出場したいと言う顔をしている。


 この頃、国産化した鉄砲も第二世代に更新されつつある。

発火機構を火縄から火打石の火花に変更した鉄砲が量産されている、この方式では火縄が水に濡れる心配をしなくても良いので、雨天や海上の船の上でも鉄砲を使う事ができる様になった。

この第二世代鉄砲は、各鎮守府の海兵隊に優先して配備されている。


 そんな中、義勝は明智光綱から博多に多数のイスパニア人捕虜が到着しているとの報告を受ける、すぐに博多に駆けつける、拿捕した商船は20隻以上、軍船は5隻、艦長以下士官が50人以上、水夫と兵士が200名、商人と乗組員が400以上、そして宣教師が20名と言う大戦果に驚くと共に義輔の指揮官としての手腕に大きく満足をした。

 商船は、博多の商人達に入札させて売り渡し、軍船は旧式のキャラック船3隻は解体処分として、ガレオン船2隻は、普請が終わった敦賀湊の大型造船所に送られて改装工事を施される事になる。この造船所では、新造艦の普請が既に始まっている。

「捕虜のイスパニア人は、どういたしましょうか?」

 この時代には戦時捕虜の扱いを定めたジュネーブ条約など当然存在しない。

義輔に聞かれた義勝は

「海賊行為の責任はとってもらおう、軍船の艦長以下士官は全員処刑、水夫や兵達は博多の商船に乗せてマラッカまで送ってやれ、商人は積荷を没収の上同様にマラッカまで送ってやれ、宣教師共はどうしている?」

「唐津按針殿によると、全員天主教の宣教師ですが、どうやら宗旨が違う者がいる様です」

「ほう、宗旨が違うと?」

 義輔はこの時カソリックの宣教師とプロテスタントの宣教師の事だと思ったが、だが、ドイツ、イギリス、オランダ等のプロテンスタント諸国の船と遭遇した報告はまだ無い。

 興味を持った義勝が宣教師達が纏めて勾留されている寺を訪れた。

「大御所様」

義輔と明智光綱と一緒に寺に入ると、通訳を務めている唐津按針が完全に学習した室町礼法で綺麗な挨拶をした。

「按針殿、壮健そうで何よりだ、造船への協力感謝するぞ」

「もったいないお言葉です、国にいた時には出来なかった設計を好きな様にやらせていただき大変感謝しております」

と言うことで、按針は既に1000トン級の図面を描き終わり、1500トン級の弩級艦の設計にかかっていた。

「なるほど、この者共が宣教師を自称している海賊だな、良い着物を着込んでおる、光綱、この者達の

武器と鎧はどこだ?」

「こちらでございます」

 イエズス会の宣教師達は、海外に布教に行くにあたって武装をしている。マントの下に甲冑を着込み

細剣を腰に帯びている者達も多かった。

「(これはレイピア、いやスモールソードか)」

 ハルトはフェンシングの知識もある、ヨーロッパでスモールソードが貴族や騎士達に本格的に普及するのは17世紀に入ってからだ、この剣はレイピアからスモールソードに移行する過渡期の剣なのだろう。

「(こっちは薄手の南蛮胴か)」

 日本で南蛮胴と言われる物は、西洋甲冑のプレートアーマーの胴の部分だ、この頃は既に多数の南蛮胴が輸入され、具足師によって国産化されている。

 剣も胴も品質の良い高価そうな物で、おそらく高位の聖職者がその護衛に持たせていた物だろう、

剣を手にした義勝はそれを持って、捕虜の宣教師の中で一番偉そうな男の前に立った。

「按針、この者に『贖宥状』を持っているか聞いてみよ、持っているなら銀幾らで売るかもな」

 贖宥状、所謂『免罪符』の事だ、キリスト教会が、カソリックとプロテスタントに分裂したきっかけになった物で、教会はこれを売る事で莫大な利益を上げていた。

「持っているそうです、一枚銀貨一枚との事でございます」

「そうか、では18枚買ってやる、これからお前達を全員火炙りの刑にする為だと言え」

 按針がそう告げると、その中の一人が按針に何かを言っている。

「大御所様、お待ちください、この物は宣教師の長ですが、大御所様と話がしたいと申しております」

「無用だ、お前達の信仰では、神の為に命を捧げるのは尊い事なのだろう、だから私が神の供物にしてやろうと言っている、感謝せよと伝えよ」

「大御所様、罪状は何かと申しております」

「罪状か?神の教えを布教する宣教師を詐称した罪だ、宣教師と言いながら、剣を帯び甲冑を着込み、呂宋の民を襲い虐殺し奴隷にした、貴様らは唯の海賊だ、海賊は我が国の法では全員死罪と決まっている、ああそうか、貴様達の神は異教徒は殺しても良いと言っていたのだったな、ならば異教徒に殺されても文句は言えまい、按針、光綱、この者達の名を控えよ、イスパニア国王は『宣教師を世界中に派遣、布教とともに征服』を国是としている、その為に遠く離れた東洋まで来て領主や民を教化し信徒として、その信徒を内応させて、武力をもって他国を併呑すると言う方策を取っているのは明白だ、そのイスパニアの王とやらに、侵略者の末路を教えてやらねばならぬ」

 そう言うと義勝は、彼らの前で十字を切り

「サンタ・マリア アーメン」

と口にして、次の部屋に向かった。

その言葉を聞いた、宣教師達は唖然としている。

 僧形(異教徒)の義勝から神を讃える言葉が発せられるなど、想像もしていなかったからだ。


 隣の部屋には、二人の宣教師が居て若い方は今までのやり取りを聞いていたのか、震えている。

「按針、この者達は何者だと言っている?身なりが随分と貧しい様だが?」

「は、先程の物達はイエズス会の者です、この二人はフランシスコ会の修道士です」

 フランシスコ会は無所有と清貧を教義とし、カソリック教会の改革派でもある。世俗に塗れた他の

会派と違い『贖宥状』を売る行為はしていないし、教会が植民地に教会領を得る事もしていない。

ただ、純粋にキリスト教の布教活動をしている教派だった、1294年に元の大都で布教、聖書をモンゴル語と中国語を翻訳したジョヴァンニ・デ・モンテ・コルヴィノなどもフランシスコ会の修道士だった。


「お前達も『贖宥状』を持っているのか」

と言う義勝の問いに二人は首を振る、更に、この二人はゴアに着いたばかりで布教の為呂宋行きの船に

乗った所で船が拿捕された、と言う事だった、つまり呂宋周辺の海賊行為には加担してないと言う事だ。 この年配の修道士のフェリペ・デ・トードスの態度が気に入った義勝は、二人を博多本願寺に招いて

本願寺の中を案内し、大仏殿に入れて(彼らの目からは黄金の大仏に見える)見学をさせた。

 そしてこの後、数日に渡って会談をする事になる。

「なぜ、異国の神を我らに布教しようとする?」

「それが我らの使命だからです」

「では、布教をするのに剣を突き付き、領主に宝物を送り、貿易を餌に信仰を買うのは正しい行いなのか?」

「それはイエズス会のやり方です、我々は違います」

……と言った内容で、信仰、布教、国への忠誠心などから文化、食生活など多方面の内容に渡った。

通訳をする唐津按針も、所々意味がわからないのか、双方に質問をして自分が納得をしてから言葉を選んで通訳をすると言う手間がかかる会談だった。

「按針、其の方はこの者達の処分をどうしたら良いと思う?」

 義勝は按針の意見を聞いてみる。

「大御所様、この者達はそもそも海賊行為に加担しておりません、ただ布教に来ただけの者、御寛大な処置をお願いいたします」

と頭を下げた。義勝はその意見を取り入れる。

「よかろう、お前達を釈放しよう、数日後にマラッカ行きの商船が出る、それに他の者達と一緒に乗って帰るが良い」

と、義勝が言うと、フェリペ・デ・トードスは首を横に振った

「大御所様、この者が、博多に留まり布教をする事の許可を求めております」

 フェリペ・デ・トードスがこの事を願い出たのは、按針から聞いて義勝こそが、この国の『王』という

存在だと理解したからだ、

「ほう、二人だけで布教をするとな、この本願寺を見てもまだ心が折れぬとは天晴れだな、良いだろう

博多に住む事並びに博多での布教を許可してやろう。

 こうして、義勝は二人の荷物を返却する為に二人を伴って博多の湊に行く。

そこでは捕虜の水夫や兵達が押収された積荷の仕分け作業をさせられている、義勝は皆が忙しく働く中で

一人だけ、何もしていない若者を見つけた。

「何故この者は働いていないのだ?」

と役人に聞くと、ポルトガル語の通訳が何を言ってもわからないふりをすると言う事だった。

 するとフェリペ・デ・トードスが突然、

「この者はイエズス会の騎士、スペイン貴族のガルシア・アルバレス・デ・トレドと言う者です」

と按針を介して言って来る。

「ほう、貴族か、その貴族が水夫の服を着て逃亡するつもりか、イスパニアには恥とか名誉とか言う

言葉は無いのだな」

 按針から義勝の言葉を聞いたガルシアは激怒する。

「おのれ、悪魔の手先め」

 スペイン語を話せない義勝=ハルトでもdemonioデモニオが悪魔と言う事位は知っている。

「この私を悪魔の手先と言うか、無礼な奴だ、そうだお前達の習慣では侮辱をされたら決闘をするのだったな、どうだこの私と一対一の決闘をするか?、お前が勝てば、このままマラッカ行きの船に乗せてやる、負ければ奴隷として明国に売り渡してやろう」

 この年義勝は48歳になっている、まだ20代のガルシアは楽に勝てると踏んだのだろう、按針の言葉を聞くと、喜んで承諾した。

「按針、この者を預ける、食事を充分に与えて休養を取らせよ、決闘は明日本願寺の門前で行う、そうだ

宣教師共にも見せてやれ」

 義勝はそう指示をして、本願寺に戻る。


 翌日、博多本願寺の門前の広大な広場には、臨時の決闘場が作られて、周囲には桟敷席が作られる。

そして、捕虜となっていた宣教師や、水夫や商人達も桟敷席に座らされている。

 決闘場の真ん中に引き出されたガルシアは、腰縄を解かれて、西洋剣を渡された。

義勝は素手で堂々と、決闘場に入ると両手を広げて構えてみせる。

「どこからでもかかってまいれ」

 相手が素手なのを見た、ガルシアは勝利を確信した表情で剣を突いてくる。

だが、義勝は足捌きだけでそれを躱わす。

 余裕の表情だったガルシアの顔が焦りと怒りと恐怖が混じった表情に変わる

そして、ガルシアの渾身の突きを義勝は躱わしながら、剣を奪い取りそのまま前方に投げ捨てた、受け身を知らないガルシアは顔面から地面に突っ込み、しかも投げに抵抗した為に右腕が折れている。

この技は柳生新陰流の体術だが、現代合気道でも『太刀取り』として同じ様な技が伝わっている。

 義勝は、剣をガルシアの前に投げて、西洋風に手のひらを上に向けて指を自分の方に曲げる仕草で手招いた、これがもう一度かかって来いと言う仕草なのは当然だ。

 右腕を折られたガルシアは今度は、左手で剣を持ち、切り掛かってくる。

義勝は先程と同じ様に、ガルシアから剣を奪い投げ飛ばす、ガルシアは今度は左腕を折られた。

 決闘を見ていた、海兵隊や海軍、役人達から歓声が上がる。

「ふん、つまらん相手だった、誰かこの男をこのまま明国の商船に乗せてしまえ」

義勝はガルシアがそれなりの使い手なら、懐に入れた『鉄扇』で相手をしようと思っていたのだが、それを使うまでも無かったので拍子抜けしたのだ。

 そしてイスパニアの者達は年配の僧が貴族の騎士を素手で軽々と制圧する様子を見て、戦慄して恐怖している。

 この数日後、水夫と商人達は博多の商船に分乗して、マラッカに送られる事になるが、義勝はフェリペ修道士に依頼して、イスパニアとポルトガルの国王への手紙を書かせて、水夫に持たせている。

 その内容は、『この度の東洋各地での海賊行為への断罪と、その首謀者達を全員処刑した事、特にイエズス会の宣教師達は全員火炙りの刑に処した事、今後マラッカ以東への両国の軍船の立ち入りを禁ずる事

、キリスト教の布教に関してはフランシスコ会のみに認める事、非武装の商船は、朱印状を持つ者のみを

マラッカ以東での寄港を許可する』と言う事と処刑した艦長や士官、宣教師達の名前を書き記した物だ。

これは、平和的な通商は歓迎するが、これ以降の植民地支配は一才認めないと言う意思表示だった。


 義勝が処刑したイエズス会宣教師の中にフランシスコ・シャビエルと名乗る者がいた、この者こそ

正史で日本に初めてキリスト教を伝えたとされるフランシスコ・ザビエルだ、シャビエルが処刑された事と、フェリペ・デ・トードスが博多での布教を許された事で、この世界の歴史はまた大幅に書き換えられた事になる。

 マラッカの司令官から、義勝の手紙と合わせて、水夫や商人達からの証言と報告を聞いた、イスパニア国王とポルトガル国王は正反対の対応をした。


 この時のスペイン(イスパニア)王はハプスブルグ家の神聖ローマ帝国皇帝カール5世がカルロス1世としてスペイン王も兼ねていた。

 つまりスペイン王はヨーロッパの大半を支配していたのだ、そんな王が聞いた事も無い東洋の国の言う事を聞くはずもの無く、自らが送り出した宣教師を火炙りにされ、自国の有力貴族の子弟ガルシア・アルバレス・デ・トレドが辱めを受けた事に激怒して、国の威信を賭けた大艦隊を派遣する事になる、王の長男でこの年ポルトガル国王の娘マリア・マヌエラと結婚したばかりのフェリペ王子が自ら志願をしてこの艦隊を率いる事になる。

 正史ではこのフェリペ王子は1556年に即位してフェリペ2世としてスペインの黄金時代を築いた王となる、無敵艦隊を作り、1584年に日本から来た天正遣欧少年使節を迎えたのもこのフェリペ2世王だ。


 一方でポルトガル国王のジョアン3世は、スペインとの間の二つの条約、トルデシリャス条約とサラゴサ条約により、既存の植民地モルッカ諸島で金・銀・香辛料取引を独占して莫大な収益を上げ、インドやマラッカも抑えていた。この為新たな植民地の確保より実利(貿易)を優先する決断をしたのだった。 其の為に日本とは友好な姿勢で対峙する事となる。もちろん敬虔なキリスト教徒としてイエズス会の庇護は行っていたが、それはポルトガル本国と既存の植民地に限る事になる。


 天文十二年 1543年正史では種子島に鉄砲が伝来した年だ、この年ポルトガル王から義勝宛の親書でイスパニア海軍が東洋遠征の準備をしているとの連絡が入る。

 義勝は、各艦隊に出撃準備をさせる。義輔は博多鎮守府総監から、海軍司令総監となり、全海軍を指揮する事になる、そして、この頃には全国五ヶ所の南蛮船造船所で半年に12隻の船を竣工させる事ができる様になっている。中でも排水量1500トンを超え鉄製の大筒120門を搭載する弩級艦の大和級が四隻、一番艦大和、二番艦武蔵、三番艦信濃、四番艦甲斐が竣工されて、慣熟航海に入っている。そしてその前に完成していた1000トン級、大筒80門搭載の長門級艦も一番艦長門以下、陸奥、出羽、扶桑、山城、日向、摂津、丹羽、播磨、和泉、阿波、讃岐、伊予、土佐の十四隻が実働可能になっている。新設された呉鎮守府、舞鶴鎮守府所属の各艦隊と既存の博多、尾張、武蔵の各鎮守府所属の艦隊を合わせると

 第一艦隊 博多鎮守府 総旗艦大和 長門 土佐 越前 尾張 駿河 三河

 第二艦隊 呉鎮守府  旗艦武蔵 陸奥 加賀 播磨 越中 能登 遠江 

 第三艦隊 尾張鎮守府 旗艦出羽 近江 飛騨 阿波 伊勢 美濃 

 第四艦隊 武蔵鎮守府 旗艦甲斐 扶桑 和泉 讃岐 丹後 河内

 第五艦隊 舞鶴鎮守府 旗艦信濃 山城 日向 摂津 丹羽 伊予

1500トン級艦4、1000トン級艦14、750トン級艦8、500トン級艦5、これに拿捕したイスパニア艦を改修した金剛、比叡が加わって33隻の艦隊になる。尾張以下の艦も全て青銅製の大筒から鉄製の大筒に換装されている。


 大筒の製造に大量の鉄鉱石を必要とする事から、博多の松浪屋当主松浪庄五郎は、本拠を呂宋国の東都に移して、天竺インド印度尼西亜インドネシア緬甸ビルマから鉄鉱石を買い付けた、しかも回教(イスラム教)圏であるインドネシアと取引をする為に、自らも回教徒となる程、商売に熱心だった。松浪屋はこの商売で、莫大な資産を築き、呂宋庄五郎と呼ばれる事になる、正史でこの50年後に実在した大商人「呂宋助左衛門」の地位を奪った事になる。鉄鉱石が殆ど取れない日本で鉄製の大筒がこれほど作られたのは全てこの呂宋庄五郎の功績であり、幕府は庄五郎に商務省参与の地位と男爵の爵位を贈りその功績を讃えた。これは商人としては初めての叙爵だった。


 イスパニア艦隊は、希望峰周りでインドのゴアを目指すと予想されている、これに対してポルトガルからの情報は、地中海から陸路でエジプトを通り紅海経由でインドに到達する、こちらの方が数ヶ月速いので、ゴアに快速の明国のジャンク船を常駐させて情報収集にあたる事になる。

 イスパニア艦隊との決戦には、胡宗憲将軍の明国艦隊も参陣する事になっていて、明国でも南蛮船を元にした大筒搭載可能な船を量産していた。

 義勝は更に1500トン級艦と1000トン級艦の増産を指示して、イスパニア海軍を待ち受ける事になる。

 そしてこの頃、日本の商人達はジョホール王国のシンガプーラの湊に進出して、ここに一大日本人町を建築していた、明国と日本の連合艦隊は、このシンガプーラを基地として、ゴアからマラッカに東進してくるイスパニア艦隊をベンガル湾で迎え撃つと言う作戦を取る事になる。

 其の為大量の食料や火薬、砲弾などが博多から商船の大船団でシンガプーラまで送られる事になる。

ちなみに食料は船の中で食べるので、炊飯が必要な米では無く陣中食の『干飯』『炒米』『干し肉』『干物』『梅干し』『味噌』などが中心になるが、この頃には南蛮渡来の乾パンや塩漬け肉を国産化した物もあった。正史での日本と違い、この歴史線では既に普通に肉食が広まっているからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ