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第十九章 観艦式

 二部はちょっと蘊蓄多めですね、これ何の話?みたいにならない様に歴史上の話を挟んでいるのだけどもしかして邪魔かな?

第十九章 観艦式


 無事に明国との交渉を終えて、帰国する船の中で、義勝、義輔、定李と碩鼎は船尾楼で明国の酒「秋露白」を酌み交わしている。明智勝光、龍造寺胤家の二人も少し離れた所に座って相伴している。

「父上、琉球王と会談した時も感じたんですか明国皇帝も、王侯としては貫禄というか……その情けなさすぎませんか? 皇帝など父上の喝に震えていましたよ、それに比べると大丞相厳嵩殿と胡宗憲将軍はかなりの人物でしたが」

「ふむ、確かにあれが皇帝とは情けないが、まぁそれが明国いや中華の伝統だからな」

「どういう意味ですか?」

「義輔様、私がお渡しした『史記』や『後漢書』『春秋』等はお読みになりましたか?」

と定李が言う

「あ、いえ、あのそれがつい忙しくて……」

「義輔様は、私の所より兄上の所の方が心地良さそうでしたからね、ですが今後はもう少し学問にも励んでいただきたいですね、良いですか……」

「……つまり、そうやって王朝が交代してきたと言う事ですか?」

「そうだ、最初は『武』で中華を統一した王朝も最後は、惰弱な皇帝とそれを操る宦官の跋扈する国となり滅びの時を迎え次の王朝がまた「武」によって立つと言う事だな、明国も今はまだ国として成り立っているが、いずれは滅びるあろうな」

「そうなのですか……あれ?それは前の足利将軍家も同じでは?」

「そうだ、私がなぜ義家や其方に武を学べと言ったがこれで合点が言ったか?」

「はぁ、ですが父上、『武』と言う意味では、失礼ながら、ここにおられる碩鼎和尚も叔父上もそれ程ではありません、ですがお二人共見事な胆力で、大丞相厳嵩殿と渡り合っておいででしたが?」

「良い所に気がついたな、良いか胆力を鍛えるのは『戦い』だ、それは武で敵を倒す事だけでは無い、自分自身と戦うと言う事もまた胆力を鍛える大事な事だ、碩鼎殿は禅僧として日々己を研鑽して居られる、

定李は、こう見えても神事や日々の学問に精進する事道真公の如しだ、良いか商人や公家、職人身分を問わず、日々自分の職と向かい合い研鑽を続けている者達は等しく胆力が備わっておる、だがそれは苦難の道だ、だから己の武を磨くと言う事は実は一番安易に胆力を養う方法なのかもしれんぞ『剣禅一如』と言うしな」

「ほう、『剣禅一如』それは素晴らしいお言葉ですな、さすがは大僧正勝如様、この碩鼎恐れ入ってこざいます」

「(あ、まずい、これは誰の言葉だったか、宮本武蔵?いや確か何処かの坊さんだよな。これではパクった事になってしまう)」

「いえいえ、碩鼎殿、これは私が幼い頃に清州の城に来られた高僧のお言葉なのです、ただ残念ながらどなたかを記憶しておりません」

「そうでしたか、我が先達にその様な方が居たのですね、拙僧もまだまだ修行が足りません」

碩鼎がそう言ったのを聞いて、義輔も納得した様だ

「そうなのですね、では私も更に精進いたします」

「義輔様、学問の方もお忘れなき様に、それと大御所様『こう見えても』は余計です」

と定李が言うと、皆が笑いあってこの話は終わった。


 今回帰国した艦隊は向かい風でも前に進める南蛮船だけだ、他の和船は秋まで待って交易品を積んで帰国する事になる。

「早く、全艦を南蛮船にしないといけないな」

「その通りですね、父上」

 旗艦尾張はそのまま大阪湾に向かい、安土城で将軍義家への報告を行う。

 当然だが、今回の遣明使の派遣を決定したのは将軍義家であり、義輔は国書として将軍の信書を持って言ったに過ぎないからだ、そして明国の返書も当然、将軍義家宛になっている。

 義輔、定李と碩鼎以下、今回の遠征に参加した将兵に対して、将軍からの労いと恩賞の沙汰があり、

 遣明使節団は解散する事になる。


 一仕事終えて、いつもの様に、義勝、義家、義輔、定李は安土城天守で茶を楽しんでいる。

「義家、実恵殿の姿が見えんが、仕事が立て込んでいるのか?」

「は、それが内府殿は、お体の具合が悪いらしく臥せっておいでです」

「何、そうなのか、なぜそれを早く言わん、定李見舞いに行くぞ」

 実恵の屋敷は安土城の西麓、近江本願寺の中にある、今の本願寺の寺主は法嗣証如だが、証如は二の丸の屋敷を使っている。

 義勝が駆けつけると、実恵の嫡男証恵が出迎えた。

「おう証恵殿、内府殿の容態は?」

「は、あまりよろしくはありません、父は大僧正様が明国からお戻りになるのをお待ちしておりました」

「そうか、逢えるか?」

「はい、こちらへ」

 寝ているのかと思った実恵は褥を壁際に寄せて、壁に寄りかかる様にして、書類の山に囲まれている。

明らかに、顔色は悪く、痩せ細っている。 

「実恵殿……」

「これは大御所様、定李殿」

と言って座り直そうとしてふらつく

義勝は慌てて止めた

「そのままで、それで実恵殿どこが悪いのか?」

「薬師の見立てでは膈の症だそうですが、安静にして薬湯を飲む以外ないと……」

「(膈の症? それは確か武田信玄の死因で胃癌だが食道癌では無かったか?)」

と義勝は思った、ハルトが読んだ歴史小説の「武田信玄」だが「徳川家康」だかでそんな記述があった筈だ。

「証恵殿、加持祈祷は行って……」

と言おうとして気がついた、宗門、浄土真宗では加持祈祷をしない事を思い出したからだ。

「すまぬ、気が動転し詰まらぬ事を口足った」

と義勝は証恵に謝る。

「良いのです、大御所様ほどのお方が気が動転するほど気にかけていただき、この実恵感謝の言葉もありません」

と実恵は困った顔の息子証恵を微笑見ながら見つめて義勝に礼を言う

「では実恵殿、気休めに私の祓詞を」

と定李が

「掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神筑紫乃日向乃橘小戸乃阿波岐原爾御禊祓閉給比志時爾生里坐世留祓戸乃大神等諸乃禍事罪穢有良牟乎婆祓閉給比清米給閉登白須事乎聞食世登恐美恐美母白須」

と奉じる。

 いつもの様に空気が清らかになる様なそんな気がする。

「ありがとうございます、懐かしいですね、まだ長島の願証寺に居た頃に良く唱えていただきました」

「そうでしたね、あの頃はまだ大御所様は経をお読みになれなかった」

 その後は三人で色々と昔話しをした。

 もし、義勝が願証寺を訪れず、この実恵と友誼を結ばなければ、当時の斯波家は正史の信長や家康と同様に一向一揆と争う事になり、日の本の統一は後10年以上後になっただろう、もしくはその過程で斯波家は滅んでいたかもしれない。実恵が居たから、尾張や三河、美濃、越前の宗門の衆達がこぞって斯波家の味方になったからだ。

 義勝はその友が死に至る病に苦しんでいるのに何も出来ない無力感に心が痛む。

だが、今の義勝は立ち止まって悲しんでいる暇が無いのだった。

「無理をせず、養生をしてくれ、それと仕事はもうするな」

とだけ言って、実恵の館を後にする。

見送りに出た証恵に

「この事法主様と法嗣様には?」

「もちろんご連絡を差し上げております」

「そうか、何かあったら直ぐに知らせる様に、お父上を頼んだぞ」

と言って、近江本願寺を後にした。

 安土城に戻るあいだにも

「助からんのか」

「はい、多分難しいかと」

「仏法も神道も人のさだめは変えられぬか」

「そうですね、私に出来ることは毎日祓詞を奉じる事くらいしかありません」

「真言の修験道に進んだ者達は、こんな気持ちからだったのだろうな」

「そうかもしれませんね」

「さて、仕事に戻るぞ、参内して帝に明国の事奏上せねばならん」

「はい」

と定李と会話を続けるが、この無力感はどうしようも無い。


 それから数日して、義勝、義家、義輔、定李の四人は京の都の清涼殿に参内して、帝に遣明使の顛末を

報告した、帝は湖心碩鼎が明の皇帝を一喝した話を聞いて事のほか喜んだ。

「そう言えば南北朝の頃、明の使節を切り捨てた親王がいたな、あれは誰だったか?」

「後醍醐帝の皇子、懐良親王殿下でございます」

と近衛稙家が言う

「さすが、稙家は知恵者、物知りだな、所で先程の話の21発の礼砲とはなんだ?朕はその様な事は知らんが、稙家は知っておるか?」

「いえ、私も初耳で御座います」

「恐れながら」

と義輔が稙家の方を向いて何か言おうとすると、帝が

「良い直答を許す」

と言うので、義輔は帝に礼砲の説明をした。

「なんと?、明国で南蛮の礼を使い、非礼を責めたのか?、義輔それはあまりにも無体……いや面白い」

と帝はまた愉快そうに笑う

「は、恐れいりまして御座います」

と答えた義輔も笑っている。

「しかし、その礼砲と言うもの興味がある、朕にも見せよ」

「は、謹んでお受け致したい所ですが……」

「なんだ、何か不都合でもあるのか?」

「はい、あまりにも大音響の為に、畏くも帝の御気分を害するかと存じまして」

「構わぬ、稙家良いな」

 近衛稙家は困った顔をしている。

「恐れながれら申し上げます」

 義勝が言うと帝は頷く

「礼砲とは大筒を持って行うのが作法で御座います、帝におかれましては是非『観艦式』に御行幸いただき、我が海軍を御高覧いただきたく存じます、その節には礼砲をご披露いたしましょう」

「ほう、勝如、その『観艦式』とは何か?」

「は、安土で行いました馬揃え『閲兵式』を船で行う物で御座います」

「船の馬揃えか、それはまた面白そうだ、そうかあの安土の馬揃えからもう十年ほどか、早い物だな、稙家良きに計らえ」


 こうして上機嫌の帝との謁見を終えた一向は京の武衛城に戻り近衛稙家を含めて評議を行う

もちろん話題は『観艦式』だ

「大御所様、突然あの様な事を言われては困ります」

と言うのは義勝の娘婿でもある近衛稙家だ、通常は帝にどんな話をするのかは予め打ち合わせをしてある、だから今回の様な事は異例だった。

「すまぬ、帝にわが国の新たな海軍をお見せする良い機会かと思ったのだ」

「大御所様、そもそも『観艦式』とはどの様に行うのでしょう?」

「そうだな、海の良く見える場所に帝の閲覧席を建てて、そこから陛下に艦隊を観閲していただく、その際に21発の礼砲……皇礼砲と呼ぶか……をご披露すると言う事だな、まずはどこに閲覧席を建てるかだが……」

「そうしますと、やはり大阪湾が良く見える『住吉津』辺りがよろしいでしょうね」

「さすが定李殿は詳しいですね、確かに住吉大社からも海が良く見えます」

「そうだな、『住吉津』なら本願寺にも近い、帝がお疲れになれば直ぐにお休みいただける。それで時期なのだが、大阪で晴れが多く気候の良いのは梅雨明けの文月のあたりかと思う、となれば来年の夏完成を目処に閲覧席を作る場所と選定して、普請にかかると言う事で良いな」

「はは」

「では、義輔、博多に戻り次第、この事を村上康吉に告げて直ぐに訓練に入らせろ、帝に閲覧していただけると言う名誉を忘れるな、それと例の件松浦興信に良く良く申し付けよ」

「は、かしこまりました」

「近衛殿、帝に船に乗っていただく事は可能だろうか?」

「それはちと難しいかもしれません、帝や上皇様が船に乗られたのは、後鳥羽上皇、後醍醐帝、順徳帝と言う感じで……」

「あ、そうかそれは絶対に駄目ですね」

「そうだな、船に乗っていただくのは不吉で不敬になるか」

 そう、帝が船に乗る=政争に負けて流されると言う事を連想されるので、これは駄目なのだ。


 観艦式の起源は、1341年、イングランドとフランスの百年戦争の際にイングランド王エドワード3世が出撃する自国艦隊を観閲したことに始まる

 ちなみに義勝がこの言葉を知っているのは、ハルトの記憶の某アニメの『コンペイトウ鎮守府領海』での『観艦式』と言うネタからだ。


 義勝はこの年、日の本全ての船の旗を統一する事を幕府の令として発布している。

商船や廻船には日章旗(日の丸)、全ての軍船には旭日旗(十六条旭日旗)を船尾に掲揚する事を義務付けた。これにより各水軍でバラバラだった旗が統一されたのだ。ただ、帆に描かれている、商家や水軍の紋はそのままにしている。ちなみに旗艦尾張の帆には「足利二つ引き」が描かれている。


 鎮守府に戻った義輔は直ぐに海軍卿村上康吉に観艦式の事を告げる

「わ、我らを帝が閲覧していただけるですと……、なんと恐れ多い」

村上康吉は真っ青になって震えている(この時代の日本人ならこっちが普通の反応)

「来年の夏までにそれに見合う訓練を頼みます、21発の皇礼砲を一糸乱れの無い様にお願いします、それとできれば今普請中の大型南蛮船を帝にご覧になっていただきたい、頼みましたよ」

「かしこまりました」


「さて松浦殿、大事な話があります」

「はい、なんでしょうか?」

「松浦党とその配下の、明国、朝鮮での海賊行為を今後一才禁止します、琉球、台湾も同様です、例の倭寇将軍にも伝達してください、我らはこれより明国の胡宗憲将軍と共に倭寇の取り締まりを行います、これ以降もし松浦党とその配下の倭寇が命に従わない場合はどうなるかご理解いただけますね」

「は、はいかしこまりました」

松浦興信は村上康吉とは違う意味で真っ青になっている。

「あ、海賊行為は禁止ですが、貿易の方は今まで以上に精を出していただいて構いません、それと南蛮船

特にこの旗を掲げた船は見つけ次第攻撃して構いません、ポルトガルの方は商いをするだけなら問題無いです」

 と義輔は康吉に明国で入手した、イスパニアの船旗を渡した。

「それから、明国の澳門の湊を我が海軍の湊として租借しました、明国の地図でここです、松浦党は直ぐにここにこの湊を使える様にしてください、住居、市場など湊の運営に必要な建物を建て居留して構いません、できればあの『禿げ』にも手伝わせてください」

「は、はは」

 義輔の執務室から退出した、松浦興信はその日の内に、松浦党全員に指示を出す。

一族の存亡と未来がかかっている大仕事だからだ。

 正史では澳門マカオは1557年にポルトガル人の居留が認められ、その後植民地化する。

それより20年近く早く、日本はマカオを手に入れた事になる。


 それから数日後、かねてから療養中だった、内大臣実恵が安土の近江本願寺で静かに息を引き取った。

まだ43歳の若さだった、葬儀は近江本願寺で行われ、帝の勅使を迎えて、将軍足利義家、大僧正円如、権の大僧正勝如、左大臣近衛稙家、右大臣千秋定李、本願寺法嗣証如以下安土在住の各爵卿が参列して

しめやかにに行われた。義勝と定李だけで無く、特に実恵と縁が深かった、将軍義家、法嗣証如、内務卿服部友成、司法卿滝川貞勝、らは肩を大きく落として目に涙を溜めていた。義勝も、円如、証如、証恵と並んで読経をするが、その最中に何度も言葉を詰まらせた位だった。

 そんな中、帝からの弔文を読む勅使の姿を見て、義勝と定李は驚愕して近衛稙家を見る。

稙家は静かに頷いた、この勅使は帝その人だったのだ、当然だが帝が臣下の葬儀に参列した等と言う先例は無い、だが親王時代からの長年の『友』である実恵の葬儀にどうしても参列を希望した帝は自ら勅使に扮して実恵を見送ったのだった。

 この事で皇室への敬意があまり高く無かった義勝は態度を大きく改めて、この帝と皇太子方仁親王に

対して最大限の敬意を払う事になる、当然定李や円如以下の本願寺一門一家も同様だ、特に実恵を恩師と仰ぐ将軍義家と法嗣証如は特別にその思いが強かった。


 葬儀の後、勅使を饗応すると言う口実で、義勝は安土城の茶室で、帝に茶を振る舞い、深々と頭を下げた、帝は

「勝如、そちが本当に経を読むとは知らなかった」

と言ってその場を和ませた後は、あまり言葉を発せずに静かに琵琶湖の景色と茶を楽しんで、京に戻った。

 この後、足利将軍家と本願寺より、それぞれ金1000両が、御所の修繕費用という名目で朝廷に寄進された。空席になった内大臣には法嗣証如が、実恵の嫡男証恵は岐阜『源衛寺』の寺主となった。

 この帝、後に『後奈良天皇』と呼ばれる事になるが、正史では慈悲深く、民の事を常に考え、疾病終息を発願して『般若心経』の奥書を記しす等、明君と言える帝だった、そして学問にも通じ和歌集『後奈良院御集』『後奈良院御百首』、日記『後奈良天皇宸記』を記しユーモアのセンスもあり『宸翰本』の『後奈良院御撰何曾』も記している、更に宸筆(帝の直筆)の書を売るなど、経済面にも明るい。

 義勝も、御所の門に人だかりが出来ているのを見かけ、事情を聞いた所、月に一度堺の商人が来て

帝の宸筆の書が売られる日で、皆それを買いに集まっていると言う話を聞いて感心した程だ。


 秋になり、塘沽に風待ちで残っていた、和船の艦隊が無事に戻ってくる。

この中に、義勝の密命を受けて、明国から技術者達を連れ帰った博多の商人がいる、いつの間にか遣明船の商人枠に入り込んでいた油屋『松浪屋』だ

 義輔は博多の松浪屋の屋敷で当主庄五郎と庄五郎が連れて来た明国の職人と面談している。義輔に同行しているのは明智光綱と工部省参与の林通勝だ、通勝の父は義勝の馬廻り衆だった林通安だ、この通安は文官としても武官としてもあまり能力が無く、出世コースから外れた人物だった、なので家督を嫡男通勝に譲り早々に隠居している、この通勝は武芸の方は今一つだが、当時の山奉行坂井達乗に事務処理能力を認められて代官となり、山奉行所が工部省の傘下に入った事で、参与となった人物だ。

「松浦屋殿、ご苦労であった、この物達が鉄鋳造工だな」

「はい、大御所様のお言い付け通り、職人の親方以下全員を雇って参りました」


 日本と明国は同じ文化圏に属している様に見えるが、実は大きく異なっている部分も多い

『鉄製品』で言えば、日本刀や鉄砲等は鍛造品だ、だが、明国の鉄製品は鋳造品が圧倒的に多い、そのため鋳造の技術は日本より遥に進んでいる、義勝が塘沽から北京までの街道沿いには、巨大な鋳造所が幾つも建っていた、義勝は明国の鋳造技術を日本に伝えて、鉄製の大筒の製造を考えていたのだった。

その為に破格の高給で、明国の鉄鋳造工職人の雇用を松浪屋に依頼したのだった。

博多周辺には日本で独自に進化したタタラ製鉄の職人村が数多くある、義勝はこの村々へ明国式の

製鉄法と鍛造の技術を広めようとしているのだった。

 正史では日本で最初に作られた大砲は慶長十四年1609年 徳川家康が鉄砲鍛冶師「芝辻理右衛門」に

作らせた『芝辻砲』でこれは鍛造した瓦状の鉄の板を瓦張りと言う手法で筒にした物で砲身が曲っていて、実用性に乏しかったと言われている。


 天文九年1540年 排水量750トン級の南蛮船、一番艦と二番艦が竣工した。艤装を終えたこの船には、新たに鋳造された鉄製の大筒が60門搭載されている、艦名は『越前』と『加賀』になる。

 ちなみにこの『トン』と言うのは重さの単位の1トン=1000kgの事では無い。排水量トン数と言うのは、『船が水に浮かんだときに水面下にある船の体積と同じ量の重さ』と言う意味でこの時代は1トンは2240lbという事になる、トンの語源として南蛮で、水を入れていた樽をどれ位水が残っているかたたくと、「トン」(ton)という音がした事から来ていると言う説がある。


 鎮守府総監義輔と海軍卿村上康吉は唐津の湊に浮かぶ二隻の船を見て感動している。

「立派な船ですね」

「誠に、これなら帝もお喜びになられるでしょうね」

「(さて、艦長は誰にするかな、尾張の艦長を転任させるか)」

 尾張の艦長は九鬼水軍の長九鬼隆次の嫡男、九鬼泰隆だ、彼は尾張を自分の船の様に思っているので

もしかしたら嫌がるかもしれない。

「これよりは旗艦を越前に移します、直ぐに慣熟訓練に入ってください」

「かしこまりました」

 現代の役職にすると、海軍卿は海軍大臣、鎮守府総監は海軍総司令と言う事で本来は同格なのだが、

義輔が足利家の者と言う事で自然と上位になっている。

 報告を聞いた義勝は、義輔に

「南蛮には更に巨大な船があると聞く、明国も今は建造していないが、かっては鄭和提督の『大明宝船』と言う全長44丈(=440尺≒137m)と言う超大型船があった、心せよ」

と言う趣旨の手紙を送っている。


 その年の7月 予定通り初夏の晴天の大阪湾に縦列に並んだ「越前」以下「加賀」「尾張」「美濃」「三河」「遠江」「駿河」「伊勢」8隻の南蛮船は停船状態で、帝の閲覧を受け、旗艦越前が21発の皇礼砲を

放つ、この間海兵や水夫達は甲板で整列している。

 帝は後に控えた海軍卿村上康吉から、船の名、大きさ、艦長名の説明を聞き、その都度頷いている。

皇礼砲を放った艦隊は、その後全艦同時に帆をあげて、大阪沖に帆走していく。

「うむ、確かに大きな音だ、それにしても美しい船だな、あれがわが国の海軍か」

と帝はご満悦だ、更にそこに、明智勝光率いる海兵隊鉄砲組100名が行進して来て、今度は鉄砲での皇礼砲を披露する。

 海兵隊は新たに誂えた具足に身を包んでいる、将軍の親衛隊の赤備えに対して、白備えになっていて具足下や袴も白、胴は白い南蛮胴と言う凝り様だ。

「これもまた、見事」

と帝の感想を聞き、義輔は大満足だ、ただ帝に同行して来た公家達は、最初の艦砲で度肝を抜かれて、この鉄砲の轟音で失神しかけている者もいいる。

「勝如、これを明国の皇帝の前でやったのか」

「は、恐れながらその通りでございます」

「それは皇帝も肝を冷やしたであろうな、愉快な事だ」


 こうして日本初の観艦式は大成功の内に終わった、ちなみに帝や公家、各爵卿の『閲覧席」とは別に少し離れた所に有料で一般向けの閲覧席が設けられ、こちらは屋台も出て縁日の様に盛況だった。


 観艦式も終わり、海軍はいよいよ実戦配備に入る、総旗艦越前、尾張、三河、駿河の第一艦隊

旗艦加賀、美濃、遠江、伊勢の第二艦隊が交互に、東シナ海の哨戒に出て、スペイン船の拿捕と松浦党以外の倭寇の取り締まりを行う、松浦党は澳門を根拠地に唐船や和船に海軍旗を掲げて、沿岸の警備を行っている。

 その間にも越前級南蛮船の三番艦、四番艦が竣工、「越中」「能登」と命名された。

 そして義輔は、倭寇の拠点となっていた台湾の北部の湊、『淡水』を占拠した。更に台湾南部の湊『安平』も占拠して台湾から倭寇を一掃する。大筒を持たない倭寇の唐船艦隊では数が多くても、南蛮船と唐船の混成艦隊に勝ち目が無かった、しかも制海権を握った後は、湊町に艦砲射撃をしてこれを壊滅させている。どちらの湊にも松浦党によって、港湾都市が築かれる事になる。もちろんその中には海軍旗をはためかせた『李光頭』とその配下達もいる。彼らは完全に松浦党の配下になる事で、安全と利益の両方を確保する事を選んだのだった。

 この事で琉球は、商圏を大きく失い、首里には日本人商人が多数移住してくる事になる、

そして、義勝は山上吉宗に指示をして『琉球金銀行』を設立して、琉球政府や尚清王に資金を貸し付けて、経済面からも琉球の実行支配を進めて行く事になる。数年後には琉球政府と尚清王、支払い金利が歳入を超える状況になり大幅な債務超過になって行く事になる。

 困窮する、琉球王と「按司」や「親方」達の中で、義輔の愛妾首里の方の実家、地頭安謝親雲上は

その領地内に海兵隊の駐屯地を提供して、貸借料を受け取って裕福になって行く。

 周囲が困窮する中、この村だけは裕福なので当然野盗に目を付けられる事になったが、当初は100名だった駐屯海兵隊は、2000名になっており、野盗は一瞬で返り討ちになる。

こうして、地頭安謝親雲上は周辺の村を統合する『親方』となっていく。


 また同じ頃、対馬の宗将盛から、李氏朝鮮の第11代国王中宗よりの信書が幕府に届けられる。

その内容は、明国と日本の倭寇討伐への参加と、日本への朝貢の申し入れだった。

 将軍義家から報告を受けた義勝は朝貢は許可するが、討伐の参加は断れと指示をしている。

宗将盛から、この国王は愚鈍で優柔不断な上臆病だと報告されていたからだ、更に倭寇に関しては

朝鮮沿岸の倭寇は殆どが朝鮮人であり、朝鮮水軍の者も多いと言う事で信用が出来ないからだ。


 こうして東シナ海の制海権を握った日本海軍は、次の目標南シナ海に向かう事になる。

天文十年、1541年『安平』の湊を母港とした、海軍第二艦隊は加賀、美濃、遠江、伊勢に加えて、越中、能登も配属されて南シナ海周辺海域で、イスパニア艦と交戦する事になる。

 ポルトガルは、オスマン帝国、ムガル帝国のイスラム諸国とインド洋で交戦中で、マラッカの司令官は日本との交戦を望んでいなかった、それは日本側も同様で、やがて現地の指揮官レベルでの合意ではあるが、相互不可侵条約並びに自由通商の保障が合意されて、ポルトガル船は敵対行動を取らないと言う事になった。


 この頃、日本国内では、義勝の三男小三郎と小四郎が元服して、足利義高、足利義禎とそれぞれ名乗る事になる、二人は伯爵として最初の公務に就く事になる。

 尾張と武蔵の南蛮船造船所が稼働し始めて、越前級四隻が新たに竣工して『近江』『飛騨』『丹後』『河内』 と命名される、この四隻は新たに創設された、尾張鎮守部と武蔵鎮守府に配属されて、 太平洋側の防衛にあたる事になる。この二つの鎮守府には総監は置かれずに、副総監として足利義高と九鬼水軍九鬼隆次、足利義禎と伊豆水軍清水綱吉がそれぞれ任命されている。


 そして、天文四年の建立開始から六年の歳月をかけた、博多本願寺の高さ八丈の大仏が完成して、大々的に開眼供養が行われた。この大仏は海に向かって座しており、青銅に金で鍍金され黄金に輝き、海側の大仏殿の扉を開け放つと、日の入り前には夕日を浴びて輝く姿が海から見える様になっている。

 開眼供養に参列した義勝は、海から見た大仏と本願寺、博多鎮守府の錦絵屏風を描かせて帝に進呈している。この錦絵屏風を見た帝は大いに喜んだと言う。

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