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第十八章 朝貢

第十八章 朝貢


 天文六年 1537年、 本格的な国産南蛮船の二番艦が竣工する。

義勝は、この船に『尾張』と名付け、復元作業が終わった「サンタ・アントニア号」には『三河』と命名する、「尾張」を旗艦として「美濃」と「三河」の南蛮船三隻と大型の唐船五隻からなる艦隊の初仕事を義勝は命じる事になる。


 安土に呼び出された博多鎮守府総監足利義輔と海軍卿村上康吉、筑前県令明智光綱、博多鎮守府副総監松浦興信の四人は、将軍義家よりこれまでの働きを労られて、官位と爵位の昇進と俸禄の昇給の恩賞を与えられた。

 その上で、義輔は将軍義家から初任務を与えらえる。

琉球に行き尚清王に面会をして将軍の信書を渡す事、及びその信書の返書を受け取って来るという任務だ。

 その信書の内容は将軍義家に対して『朝貢』をする事、首里に公使館を置く事を認める事、首里に海軍の駐留地を設ける事と認める事と言う物だ。

  

 つまり、最新鋭の南蛮船を含む軍艦八隻で琉球に行き、こちらの要求を了承させると言う『砲艦外交』をしてこいと言う事だ。 

 琉球は義勝の調査で、常備兵は殆どおらず、国防は巫女と明国だよりと言うどこかの九条教お花畑論者の政策を実現した様な国だという事が判明している。

 首里の湊に侵入した義輔の艦隊は、尾張、美濃、三河の三隻が単縦陣の戦列で並んで、舷側の砲門を開き、いつでも合計60門の大筒で首里を攻撃できる状態で停泊している。湊に停泊している明国から貸与された軍船は、同型の唐船二隻に両舷から接舷されて、既に拿捕されている。

 義輔は、正装して鉄砲隊1000人を含む海兵2000人と一緒に小早船で上陸、そのまま首里城を目指した。

 義輔は

「弱い者苛めをしている様で、あまり気が進まないな、大人しくこちらの要求を飲んでくれれば良いが」

と苦笑している。

 湊から首里城まで、義輔の隊列を妨げる者は誰もいなかった。全ての武器は城の倉に収められていて、琉球士族達は弓も槍も刀も所持していなかったからだ。

 流石に二つある城門の警備兵は槍を持っているが、わずか数人の警備兵では、1000丁の鉄砲の一斉発射に怯え、何も抵抗できずに開門をした。

 明国風の王の玉座に座った尚清王は、義輔の琉球語の口上を黙って聞き、将軍からの信書を受け取って震えている。宗主国の明国に救援を要請する事もできず、組織的な抵抗もできずに尚清王は義輔に要求を全面的に受け入れる事を表明して、国書に署名する事になる。そして朝貢の使者として、王弟尚鑑心を安土までこのまま同行させる事も了承した。

「(これが王なのか、何と情けない)」

 王宮から引き上げる義輔は、沿道に詰めかけた首里の民たちの中に、義輔に頭を下げる山上屋吉宗と

島原屋の八助を見て頷いた。


 艦隊は博多に帰還する、王弟尚鑑心は甲板から右手に見える、白亜の六層の鎮守府の天守と左手に見える、博多本願寺の漆黒の巨大な五層の大塔(天守)を見て唖然としている。艦隊は唐津に帰港するが、旗艦「尾張」はこのまま単艦で大阪湾に向かう、尚鑑心はここでも大阪本願寺の威容に驚きを隠せない、そして義輔と尚鑑心はそこから馬車で、京を経由して安土に向かう。義輔は尚鑑心を捕虜では無く賓客として扱い、京の武衛城でも豪華な食事で歓待した。食事の席には洛中の廓から美女達を呼び、尚鑑心にあてがう。義輔は既に尚鑑心は無能な割に虚栄心が強く強欲な男だと言う事を知っているからだ。

「(『隣国からの使節が無能ならば大いに歓待せよ』と昔から言うからな)」

と指示をしたのは当然義勝だった。

 安土で将軍と会見した尚鑑心は二の丸に屋敷を与えられて、そこで軟禁される事になるのだが、本人は毎日宴会三昧で、これが軟禁とは全く気がついていなかった。


 義勝と義家、義輔の三人は安土城の天守の茶室で三人で楽茶を楽しんでいる。

「流石はお父上、見事な差配でした」

「義家も見事な将軍振りになったな、そして義輔も良くやった」

「はい、ありがとうございます」

「父上、次は明国ですね、強敵ですな」

「ああ、大事な事は『文』の内容だ、我らは明国の敵では無く、共に倭寇と南蛮に備える友邦と言う事、我らの海軍力を当てにして欲しいと言う事だな、そして義満と違い、我らは朝貢はしても冊封は受けんという事を明言する事が大事だ、隣国として明国を敬うが、臣下にはならんと言う事だな、その為には南蛮船があと四隻は必要だ」

 信書については内府実恵が、公家や高僧の識者を総動員して、内容から書体まで吟味した物を作成中だった。

「明国に朝貢する品はもう選んでいるか?」

「はい、銀10000両の他に、ビードロの皿と茶碗、金細工を施した鉄砲など色々と用意しております」

「それで父上、明国に湊の租借を申し込むと伺っていますが、何処をお考えで?」

「うむ、地図はあるか?」

 義家は小姓に地図を持って来させて、広げる。

「ここだ、『澳門』(マカオ)だ」

「うまく行くと良いですね」

「あ、うまく行かせたい物だ」

「そうだ、忘れぬうちに、義輔、その方の嫁取りの日取りが決まった、来月小笠原の姫が輿入れをしてくる、安土で祝言を挙げた後は、安土の屋敷でも清州の城でも博多でも好きな所に置いて構わん。ただ責任は果たせ」

「は、かしこまりました、では」

 義輔は、義勝と義家に礼をして退出して、博多に戻った。

「父上、私は義輔が少し羨ましいです」

と二人になった時に義家は、義勝に本音を漏らした。

「其方も外に出たいか?」

「はい」

「すまんな、其方が虎王丸に後を譲り、大御所となる時まで待ってもらう事になるな、それまでは政務と子作りに励んでくれ」

「はい、これも嫡男の勤め仕方が無いですね」

「次は、尾張と武蔵に鎮守府を作らないといけない、東の大海を越えて来る者がやがて現れるからな」

「はい、心します」 


 日本は海に囲まれた島国だ、ただ東側は広大な太平洋だ、だから今までは外敵は日本海側からしか来なかった、だが大航海時代を迎えた今、太平洋側の防衛も大事なのだ、防衛用の海軍と、遠征用の海軍両方の整備をしないといけなかった。 

「(イスパニアの無敵艦隊は確か100隻以上の軍艦と20000以上の兵がいた、なんて話を読んだ覚えがある、まだまだ先は長い)」

と思う義勝だった。


 博多に戻った義輔は、博多本願寺の普請現場で陣頭指揮を取っている、腹違いの妹の婿本願寺法嗣証如を訪ねた。手には父が琉球で購入した泡盛の古酒が入った瓢箪徳利をぶら下げている、

「証如様、陣中見舞いに来ました」

と徳利を掲げると、証如は

「これは義輔殿、かたじけない」

と笑顔になる。

 血族的に言えば、 義輔の方が若いが義兄と言う事になる、だが公的な立場としては証如の方が上なので証如様と自然に呼ぶ事になる。

「海から本願寺を拝見いたしました、何とも見事な物ですね、早く大仏様の完成した姿を見たいです」

「大御所様と父上からは鎌倉や東大寺の大仏様よりも大きくて立派な物を建立せよと言われておりますからね、中々苦労いたします、いやこの酒は美味い!」

「琉球の酒です、父上の倉から拝借をいたしました」

「それはそれは、義輔殿は琉球に行かれたのですよね、どんな所でしたか?」

「はい、それが……」

「成程、私も一度、行ってみたい物ですね」

「それでしたら、琉球の都……首里と言うのですが、そこに本願寺を建ててしまえば良いのでは?それなら証如様も堂々と大手を振って琉球に行けますね」

「確かに、それは良いかも、山科の父に相談してみましょう」

「琉球に行く時には、私が南蛮船でお送りいたします」

「それは良い、あの船にも一度乗ってみたいと思っていました」

 その後取り止めも無い話をして、持参した泡盛が無くなる頃に、義輔は博多本願寺を後にした。

「(あ、肝心の事を聞き忘れた、正妻はどこに置くのが良いのか教えていただきたかったのに、まぁまた来よう)」

 奈良東大寺の大仏は10年かけて完成したと言われてる、だが技術の進歩で5年以内に完成するのでは無いかと予測されている。

 

 義輔は鎮守府本丸の自分の屋敷に戻ると愛妾の首里の方に、正妻を迎える事になったと話をした。

首里の方は一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、すぐにいつもの顔に戻る、そして二人が出会ったきっかけになった王弟の尚鑑心が安土で軟禁されていると聞いて嬉しそうに笑った。


 そして天文七年 1538年、国産南蛮船の三番艦『遠江』四番艦『駿河』が相次いで竣工する。

更に呉の南蛮船造船所でも、五番艦『伊勢』六番艦が竣工して、唐津まで回航されてきた、

 ここに、旗艦「尾張」以下「美濃」「三河」「遠江」「駿河」「伊勢」南蛮船六隻を有する艦隊が

出来上がった事になる。

 六番艦は、これまで練習艦として使用されていた「博多」に変わって「筑前」と命名され練習艦になった。博多は、艤装を全て新装されて、新たな大筒を搭載される。

「総監、博多はどの様な用途でお使いになるのですか?」

「あれは、貢物にする予定だ、綺麗に磨いて置いてくれ」

と義輔は松浦興信に答えている。

 この後、各造船所ではこの尾張級南蛮船より更に一回り大きく、大筒が60門搭載可能な排水量750トンの大型船の建造に取り掛かっている。


 この年博多の商人島井茂久の商船が、高僧『湖心碩鼎』を正使とした遣明船として『寧波』の港に到着する、湊を封鎖していた寧波だが、正式な勘合符を持ち幕府の信書を携えた湖心碩鼎を追い返す事はせずに信書を受け取った。

 信書には将軍の弟で公爵博多鎮守府総監足利義輔が、正使として北京を訪問して皇帝に拝謁し朝貢を希望している事、朝貢品の目録、そしてその際には義輔の船を北京から近い湊『塘沽』に遣わす事などが記されていた。

 信書を受け受け取った寧波の役人は当然即答などできずに、お伺いの使者を北京まで送った。

そして、しばらく寧波に滞在していた湖心碩鼎は明国政府から歓迎すると言う返答を貰い、博多まで帰還する。これにより幕府はいよいよ本格的に明国の首都北京にへ遣明使を送る準備をする事になる。

 この頃の明国の皇帝は日本では嘉靖帝、廟号は世宗と呼ばれる皇帝で、傍系でありながら先帝の正徳帝が後継者を残さずに崩御したので皇帝に即位した人物で、道教、特に修仙(仙人になる修行)に深く傾倒して政務を顧みなかった皇帝だ。


 翌年 天文八年1539

義勝の足利幕府として初めての正式な遣明使が博多を出航する事になる。

 正使 足利義輔、副使兼通訳湖心碩鼎、副使 千秋定李、顧問として権の大僧正勝如、それに博多の商人達に通訳が多数同乗すると言う人員の使節団だ。

 旗艦尾張、美濃、三河、遠江、駿河、伊勢の六隻の南蛮船と、大型唐船20隻に献上用の小型南蛮船(旧博多)と言う艦隊で海兵は鉄砲隊2000を含む4000名が乗船している。

鉄砲隊を率いるのは明智勝光、残りの海兵を率いるのは龍造寺胤家だ。

 艦隊は対馬海峡から、朝鮮沿岸を通って黄海に入り西に進んで塘沽に入った。

明国の軍船は、沿岸警備に数隻の軍船を残しているだけで主力は南支那海側で倭寇や南蛮船の取り締まりに従事していた、なので、突然東方から現れた南蛮船の艦隊に塘沽の湊は大騒ぎになる、直ぐに天津に知らせが入り、『京衛』(都防備隊)の軍が派遣される、その頃には艦隊の六隻の南蛮船は、旗艦尾張を先頭に悠々と単縦陣の戦列を組み、陸地側の舷側の砲門を開けて砲撃準備ができている。

「礼砲用意、撃て」

義輔の号令で、六隻から合計21発の空砲が発射されて轟音と硝煙に包まれた。

ちなみにこれは南蛮の習慣なので明国で意味が通じるのか分かっていないが、もし19発の空砲が返ってくれば意思は通じた事になる。

「やはり、通じ無いな、上陸準備」


 この時明国側では、当初はポルトガル船の襲来だと思い、『京衛』が臨戦体制をとっていた。

「申し上げます、あの旗は倭国の旗です」

と言う所に砲撃があり、一部の将兵が逃げ出すなどの事があったが、直ぐに空砲だと理解された様だ、

ただ礼砲に礼砲で返礼すると言う習慣を知らないし、その準備も無いので何もしなかったと言うのが明国の事情だった。

 当然だが、明国にも大砲はあるし鉄砲も既にポルトガルから伝わっている。


 義輔達一行は明国の兵の前に堂々と、小舟を乗りつけて、上陸をする、そしてピストン輸送で海兵を上陸させた。

 通訳の湖心碩鼎が倭国からの朝貢使節であり、皇帝に拝謁する為に来た、許可は降りていると

明国軍の指揮官に話すと、京衛の指揮官は一瞬悩んだが、2000の鉄砲隊を相手にする勇気は無かった様で、明国の都、北京まで先導してくれる事になる。

 義輔達は唐船で運んできた、二台の二頭引き馬車に分乗して、整然と北京に向けて行進する。

ゆっくりと進んで二日の距離だ。

 北京に入り町の中を進み、外城の門を抜け、内城の門「承天門」で義輔達は馬車から降りる。

他国の王宮を訪問するのに、馬車に乗ったままと言うのもどうかと義勝が言ったからだ。

 ちなみに明国側は外城の門に入る際に馬車から降ろそうとした様だが、鉄砲隊の圧力に阻まれた。

鉄砲隊を指揮する明智勝光は、無礼が有れば遠慮なく撃てと命じている。

 『牛門』を抜けて、更に北に進み『皇極門』を抜けようとすると、門番の指揮官が、その先は兵士の立ち入りを断ると言って来た。だが、勝光の一声で2000丁の鉄砲を向けられて、真っ青になりながら、城門を開けた。

 皇極殿前の広場を更に進み、御殿へ続く石段の前で、一同は整列する。

「礼砲用意、撃て」

再び義輔の号令で今度は鉄砲隊が順に21発の礼砲を撃っている、もちろんこれも空砲だ。

血相を変えて、弓を番えた警護兵達に向かって湖心碩鼎が大声で

「明国では礼砲の意味も知らんのか、こちらは国際慣例に基づき皇帝陛下に対する最大級の礼を表すのに二十一発の礼砲を撃っている、それに対して一発の返礼も無いとは、国使に対して無礼千万」

ともちろん明国の言葉で怒鳴る。

 ちなみに明国側の作法としては、朝貢に訪れた使節は、この広場で『五拝三叩頭の礼』をして、その後に御殿の中に案内され、更に皇帝の前でもう一度『五拝三叩頭の礼』して、持参した朝貢目録や献上品を渡し、皇帝からありがたいお言葉を頂き、回賜の目録と一部の品を下げ渡すと言うのが通例だ。


「義輔」

義勝が声をかけると、義輔はそのまま前に進み、石段を登り始める、もちろん義勝、湖心碩鼎、千秋定李も一緒だ、そしてその後方には貢物を持つ兵達が続く、そして勝光が、

「鉄砲隊100名、私に続け、あとはそのまま待機」

と命じて石段を登る、慌てた衛兵が止めようとするが、直ぐに1900丁の鉄砲を向けられて引き下がる。


 皇帝の前で、一行は『抱拳礼』をして日本風の立礼をする、すると皇帝の左側に並んでいる文官の宦官が

「無礼な!」

と怒鳴る、義勝は右手の錫杖の「棒尾」を床に打ち付けて、その宦官を一睨みする。

宦官は小さく悲鳴をあげて後ずさった、皇帝の左側に居る武官達の中には刀に手をかけている物もいる。

 湖心碩鼎が落ち着いた声で、

「我らは塘沽の湊に入港して以来、皇帝陛下に最大級の礼を表している、湊での21発の礼砲、またこの宮殿での21発の礼砲、そして今、明国式の礼『抱拳礼』で更に敬意を表した、その我らに向かって無礼とは何事か、何の礼も返さないそちらが無礼では無いか、我らは友邦として、朝貢の品を持って参った

それもこれも、今我らを共に悩ます倭寇と名乗る海賊共と、無礼な南蛮人達に共に対する為だ、その旨は

前回の国書にて明記してある、これは貴国からわが国に伝わった尊き教え『五倫』にある『朋友の信』にももとる振る舞いである、ご返答は如何に?」


 これは実は思い切り喧嘩を売っているのだ、明国には中華思想と言うのがあり、明国皇帝は世界の中心である、他国は全てその徳を慕う臣下であると言う思想だ、だから自分で自分の頭を地面に打ち付ける卑屈な『五拝三叩頭の礼』を当然の様に要求してくる。

 ちなみにこの風習は史実では清の時代に更に悪い方に進化して『三跪九叩頭の礼』になり、冊封国である琉球では、冊封使を迎えるためにわざわざ『守礼門』を作り琉球王は首里城でこの三跪九叩頭の礼を冊封使にする事になる、同じく朝鮮では『迎恩門』や『大清皇帝功徳碑』を建てて、朝鮮王は門まで冊封使を出迎え三跪九叩頭の礼をしていた。

 義勝としては、そんな礼に従うつもりは全く無いので、明国には無い習慣『礼砲』で先手を取ったのだ、つまり、ここまでは全てこちらの思惑通りだ。


 当然、明国側はその態度を皇帝に対すて不遜で無礼だと認識している。そしてついに忍耐の限度が来たのか、若い武官が剣を抜き、湖心碩鼎に斬りかかろうとしてくる。

 義勝は、もう一度錫杖の「棒尾」を床に激しく打ち付けて臍下丹田に気合いを入れて、その武官に向かって『喝』と大音声をあげて睨みつけた、武官は剣を落として腰を抜かした。

 先程と同じ場所を突いたので、硬い「金磚」の床石が割れている。

「(未熟者め)」

義勝はその武官をもう一瞥もしない。

 

 沈黙が支配している中、義輔は一歩前に出ると、腰の刀を外し、自分の右側に置きながら、右の片膝をついてもう一度『抱拳礼』をして頭を下げる、これも実は南蛮の騎士の作法だ。

 そして何事も無かった様に話始めた。

「皇帝陛下、こちらが献上品の目録と、その品でございます、ビードロの茶器と皿、黄金造りの太刀、黄金造りの鉄砲、銀10000両、15年熟成させた安土の焼酎、南蛮船一隻は塘沽の湊で役人にお渡ししています、全てわが国で作られた品物です。ぜひご高覧ください」

 それを湖心碩鼎が明の言葉で告げると、千秋定李が兵達に命じて、一番手前に居る文官の前に献上品を運んだ。文官達はそれを皇帝の前に運ぶ。

「(さて、太刀か鉄砲か茶器か?)」

と義勝が思っていると、皇帝は太刀にも鉄砲にも見向きもしないで、ビードロの茶碗を手に取ると嬉しそうにしてから、左側に一番偉そうにしている宦官に耳打ちをした。

 「皇帝陛下は見事な品に大変満足をされている、遠路大義であった、倭国の足利義輔その方の望み全て

了解した、今後はこの丞相と話を進めるが良い」

と仰せである、と言う事らしい。

 明国側としては『五拝三叩頭の礼』をしない事は気に入らないが、義輔が跪いて礼をした事で、渋々と納得、と言うよりは、それ以前に献上品の方に興味があったと言う事だった。


 その後場所を変えて、茶を飲みながら大丞相厳嵩との間で、琉球の件、明国海軍との共闘、『澳門』(マカオ)の租借、勘合商船の寧波入港許可などを千秋定李と湖心碩鼎が両国間の公文書として纏めて実務者会談は終了した、もちろん厳嵩には献上分とは別に銀5000両が贈られている。

 仕事の後に宴席になるのはどこの国でも同じだ、

宴席は厳嵩の巨大な屋敷で行われて、万界の珍味と酒が振る舞われた。

「(酒池肉林とはこの事か)」

と義勝は少し呆れているが、

「これはまた見事な酒ですな」

と義勝は出された明の酒「秋露白」の味を楽しんでいた。

「先程倭国の焼酎を頂きましたが、あの酒も美味ですな」

「ありがとうございます、この酒ほど雅で洗練されてはいませんが、お気に召して光栄です」

 この程度の社交辞令なら義勝でも言える、それにこの「秋露白」が美味いのは確かなのだ。

だが、厳嵩の方はお世辞では無かった、今後寧波に入る勘合商船には必ず焼酎を積む様にと要請(命令)されたのだ。

 『宦官』は完全去勢を施された官吏をいう、中国以外にもメソポタミアやエジプト、ペルシャ、インド、古代ギリシャ、ローマ、東ローマ帝国などにも同様の習慣があった。

 そして宦官は直接的な性行為が不可能な為にその分衣食住に快楽を求める様になる、つまり美食家が多いのだ、厳嵩も当然そうだった。

 義勝が目で義輔に合図すると義輔は二つ返事で了承した、酒で友好関係が築けるなら安い物だ。


 義勝と義輔は厳嵩の相手を定李と碩鼎に任せて、先程からこちらを見ている、武官の方に向かった。どうやら定李と厳嵩は色々と話が会う様なので任せて置いても大丈夫だろう。それに簡単な通訳をこなす物は他にも何人か連れてきている。

 この武官は、先程は皇帝の右側に居た人物で倭寇の討伐で功績がある『胡宗憲』と言う明の将軍だそうだ、将軍は自分の通訳を連れていて、

「御坊のあの胆力、名のある武将とお見受けする、まるで『魯智深』の様だと部下達が言っている」

と言う、義勝は笑って、

「花和尚魯智深ですか、梁山泊の英雄ですね、私もあの話は大好きです」

そう言うと胡宗憲も嬉しそうに笑う、自国の文学を好きだと言われて嫌な気分がする者はいない、

ただ、義勝の思う梁山泊の話はハルトとして子供の頃に読んだ横山光輝作の「水滸伝」と言う漫画だ。

「通訳殿は倭国の方だな、どこの国の方か」

「私は管領代大内義興様の家臣『原田興信』ともうします、明国に留学をしていたのですが……」

「そうか、そうすると私は、貴殿の主君の仇と言う事になるな」

 興信はしばらく考えて

「まさか、貴方様は左大臣足利義勝様ですか?」

「ああ、今は隠居をしてただの勝如という坊主だ」

 この話を通訳で聞いた胡宗憲は立ち上がると改めて抱拳礼をして頭を下げた。

そしてしばらく戦の話などをして、義輔と胡宗憲は、倭寇討伐や南蛮船対策の話が進んでいる様だ。


 翌日は、皆で北京の観光をする

「しかし見事な物だな、この規模、雄大さ、京の都が如何に小さいか良くわかる」

「そうですね、これは凄い」

 定李は来て良かったと言う顔をしている。

「義輔、この度は明国の意表を突けたので色々上手く行った、だが侮ってはならん、明国には一億以上の民と三百万の兵が居ると言う、如何に鉄砲があれどまともに戦っては勝ち目は無い」

「はい、心得ております」

 義勝は心の中で『井の中の蛙』と言うのは恐ろしいと思った、秀吉も明国の実態を知っていたら無謀な『唐入り』等を行う事は無かっただろうと考えたからだ。


 そしてその日の夕刻は、今度は『胡宗憲』の屋敷での宴席になる、流石に厳嵩の屋敷ほど巨大では無いが、立派な屋敷で、宴席で出された料理や酒もまた美味かった。

「どうも、明国と比べると、安土の城の館でも見窄らしく感じるな」

「はい、父上、残念ながら」

 昨日の宴は文官が九割武官は一割ほどだったが、今日は全員が武官だ、文官と武官の仲があまり良く無いのは何処の国でも同じらしい。


 胡宗憲将軍は昨日通訳の原田興信から義勝の事を色々と聞いた様で、特に弓の話に興味を持った様だ。

「客人にこんな事をお願いするのは礼儀に反すると思うが、ぜひ弓の腕を拝見したい」

と頼んでくる。

 義勝は自分の弓を……当然だがどこに行く時も従者役の兵に自分の弓と矢を持たせている……を持ってこさた。

「これが噂に聞く倭国の弓」

と実物を見た将軍は感嘆している、明国の弓は上下対象で、和弓より小振りだからだ。

「的は何が良いですか?」

と義勝が聞くと将軍は、部下に明国式の鎧を持ってこささて、外廊下の先に置いてある壺に被せた。

距離にすると40間位だろう、義勝にはなんともない距離だ。

 明の武官達も興味深々で集まってくる。

「(あの鎧、西洋のチェーンメイルの様だが、明国にも有るのか)」

そう思い義勝は弓に矢を番得て、鎧を射抜く。

 矢は簡単に鎧の前面を貫通して、壺を破壊し後方の柱に刺さる。

「失礼した、あの壺が高価な物では無い事を望むが」

 将軍以下全員が声を失っている、明国の弓では、あの鎧を貫く事ができないからだ。

「それだけの威力のある弓があるなら、倭国には鉄砲など必要ないのでは?」

と将軍に真面目に聞かれて、義勝は

「この弓を引ける様になるには、童の頃から修行をして15年以上かかります、義輔」

「は、父上」

と義輔は弓を受け取ると、今度は先程矢が刺さった柱を狙って弓を射る。

 矢は義勝の矢の少し上に深々と突き刺さる。

「我が息子義輔もこの弓が引ける様になったのは三年ほど前、弓兵を育てるのには時間がかかります。

だが、鉄砲なら一月も訓練すれば、誰でも撃てる様になります、明国でも一般の兵には弓では無く弩弓を持たせているのではないですか?」

と言うと将軍は納得した様だ、すると将軍の部下でどうやら弓の達人らしい者が前に出て、弓を引かせて欲しいと頼んで来た。

 義勝が頷くと義輔はその男は顔を真っ赤にして試してみたがダメだった。

ある意味当然なのだが、明国の弓は上級者向けの強弓でも、四人張りの弓と同じ位の張力しかない。

九人張りの弓を引くには、腕力と呼吸法が必要なのだ。

「まさに『后羿』の様だ」

と将軍が呟いたのを興信が通訳すると

「いや、それは勘弁していただきたい、私は太陽を射抜く事はできないし、妻にも裏切られたく無い、せめて馬朱離殿が良い」

と義勝が言う。

「確かにそうだ」

とその場の明の武官達は全員が笑ったが、こちら側は定李と碩鼎だけしか笑わない。

「(やはり外交には教養が大事だ)」

としみじみ思う義勝だったが、義勝が后羿や馬朱離の名を知っているのは漫画のおかけだった。

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