第二章 初陣
第二章 初陣
永正七年の冬、いよいよ遠江に出陣する日になった、
ハルトの斯波義介としての初陣だ、ハルトが指揮するのは、馬周り衆の柴田勝達、佐久間盛通、平手経英
の騎乗の三人と其々の郎党を入れた20名程、千秋定季とその郎党、それに加えて足軽として集まってきた50人程を率いる事になる、全員この数ヶ月一緒に鍛錬して狩りをした仲間になる。
父は、斯波家譜代の家人と守護代織田氏の郎党を合わせた1000名程を率いての出陣となる。
行軍を進めている内に更に尾張の国人衆や豪族、土豪達が合流して、三河との国境付近に差し掛かる頃には3000を超える兵になっていた。
そのまま、国境の『鳴海砦』に入り、そこで一晩を過ごす事になる。
甲冑を脱ぎ、床几に腰掛けた父は
「兵の集まりが良いな」
と機嫌が良い、この時点で既に西三河の国人衆や土豪達が、手勢を連れて参陣している、
その中にはハルトも知識として良く知っている『松平氏』『吉良氏』なども含まれている、この頃三河は守護一色氏の勢力が衰えて、西三河は斯波の、東三河は今川の勢力が強い状態だが、どちらも完全に支配しているわけでは無く、日和見の国人衆も多いのだ、更に松平氏は同族内で主導権の奪い合いをしており、今回参陣したのは、岡崎城主の松平昌安と安祥城主の松平長親と言うらしい。
「(うん、松平も多すぎて誰が誰だかわからないな、清康はまだ居ないのか)」
とハルトは思っている。
そもそも今回の出陣は西条吉良氏の家臣大河内貞綱を中心とする遠江国西部の国人領主達が今川の圧政に対して反旗を翻した事による、義達はこれを好機として出陣したのだった。
翌日岡崎城に入ると、そこで軍議が開かれた
三河の今川方の国人達が、遠江に向かう街道を封鎖して既に陣を張っているとの事で、まずはそれを片付けると言う話らしい。
「父上、敵の顔を拝見したいと思うのですが、物見に出てもよろしいですか?」
とハルトが言うと、相変わらず上機嫌の父が
「うむ、許す、だが無茶をするなよ」
と許可をしてくれたので、ハルトは配下の兵……いつの間にか100名を超えていた……を引き連れて
現代の言葉で言う『威力偵察』に出た。
この辺りに詳しい、岡崎城主の弟、松平貞光が道案内として同行してくれている。
「敵は戸田政光、それに与する牧野成勝と思われますが、どうやら今川の旗を見かけた者もいる様です」
と言う話だ。
街道を速歩で進むと、周囲は刈り入れが終り水が抜かれた田圃が続く景色になる。
「若様、前方の森をご覧ください」
と馬を止めた貞光が言う、ハルトがよく見ると、森を貫く街道沿いに、簡易な砦が築かれている。
旗印を見ると確かに今川の旗が一番真ん中で、旗めいている。
「権二、千代丸 ここで待て」
とハルトは森に向かって馬を走らせた、そして自分の弓の射程30間あまりの所で馬を止めて、弓に矢を番えた。
当然森の砦側からも、こちらが見える筈だが、まだ敵には何の動きも無い、この距離だと手練の弓兵で無いと狙っても矢は当たらないし、単騎に遠矢で矢衾を浴びせても矢の無駄遣いだからだ、
だがハルトの目は、砦の中央で床几に座っている、指揮官らしき男とその左右で立ち上がってこちらを見ている男の姿を捉えている。
「(よし、こういう時は南無八幡大菩薩って言うんだよな)」
とハルトは声に出して唱え、中央の男目掛けて矢を放った。
後で考えると『人』に向かって矢を射るなんて経験は無かったのだが、この時はすっかりそれが頭の中から抜け落ちていた、当然だが今まで普通の高校生だったハルトは人を殺した経験など無い。
矢は放物線では無くほぼ直線で飛び、男の甲冑の胴を貫く、そしてその衝撃で男の体は後に倒れ込んだ。それを見た左右の二人の男は放心状態になっている、ハルトは今度は『取り矢』を使った二連射でその左右の男達も射抜き倒した。
「(矢はあと七本と)」
と自分に言い聞かせて、馬を前に出し走らせながら、砦の前方の兵達を七人倒すと、そのまま後方に一度さがり、家人に弓を渡して弓懸を外して、代わりに大長巻を受け取った。
「続け!」
と声を上げ、砦に向かって馬を走らせると、権次以下騎乗の者五人が後に続き、更に徒士の足軽達が喚声をあげながら続いて来る。
砦の周辺には、500人近い兵が居たが、将を討たれて浮き足立ち、既に後方に逃げ出している者も居る、一時間程の戦闘で、敵はほぼ壊滅して死傷者を置いたまま遁走した、こちらは足軽数名が怪我を負った位でほぼ無傷と言って良い完勝状態だ。
「エイ、エイ、オー!」
と勝鬨を上げた後で、
「松平殿、申し訳ないが城に戻り、父上に詳細を伝えて頂けないだろうか?、それと見分の為に誰か寄越して欲しい」
そう言われた松平貞光もこの合戦で敵兵を五人以上倒している、なので、まだ興奮冷めぬ様で武者震いをしていたが、
「かしこまりました」
と馬上で礼をして、岡崎城目掛けて駆けて行った
「千秋殿、捕虜と怪我人を頼めるかな、敵の怪我人にも手当てをしてやって欲しい」
そう言ってハルトは、馬から降りて、兜を脱ぎ、倒れていた床几を起こして腰を掛けた。
足軽達が、死者を横一列に並べている、一際立派な甲冑を着て、胸にハルトの矢がまだ刺さったままの男もその中に居る。
「これ、誰だろうな?」
「さぁ、我らではわかり兼ねますなぁ」
と権二が、手拭いで汗と返り血を拭いながら返事をした。
牛の助こと佐久間盛通と千代丸こと平手経英の二人は既に街道の反対側に物見を出し、警備を始めている。
しばらく床几に座ってぼんやりと景色を眺めていると、何か騒がしい。
振り返ってそちらを見ると、馬を引いた粗末な着物を着た男達が数人居て、何やら千代丸と話をしている様だ
ハルトと目があった千代丸が、こちらに着て
「若、この近くの村の者が、戦勝祝いにと栗と餅と酒を持参したそうですが、どうされますか?」
「そりゃありがたいじゃないか、貰って何か褒美でもやっておいてくれ」
「はい、ですが村長が若にご挨拶をと聞かないのです」
「そうか、面倒なのは嫌だけど、仕方が無いか」
とハルトは、村長らしい男の所に言って、名乗った
「尾張守護斯波義達が長子、小太郎義介じゃ、者ども大義」
「(こんな感じで良いのかな?)」
と思っていると、村長は
「斯波の若君様とは知らず……」
とモゴモゴと何か言って平伏した後にそのままの姿で後退ると、少し離れた所で立ち上がって、また
最敬礼をしてから街道を東に戻って行った。
「権二、この栗と餅と酒、皆に分けてやれ」
と、だけ指示をして、また床几に腰をかけた。
しばらくすると、岡崎の方から来る騎馬武者達の姿が目に入った。
どうやら松平貞光が城主で有る兄の松平昌安とその手勢を連れて戻って来た様だ。
「若様、お怪我はございませんか?」
と馬から降りた昌安は、片膝を付いてハルトに声をかける。
「家人の足軽が数人怪我をした位です、昌安殿、抜け駆けをした事父上は怒っておいでか?」
と聞くと
「いえ、初陣で天晴れと大いに喜んでおいででした、それで首はどこに?」
「あ、まだそのままなんです、そこに寝かせてあります」
と遺体の方を向くと、昌安は手前から顔を確認して
「おお、戸田政光では無いか、こちらは牧野成勝か、これは若君大手柄でございますな」
と言った後で最後の武将の前で固まった、
「こ、これはまさか、今川一門衆の瀬名氏貞殿では無いのか?」
と言う。
「千秋殿、誰ですかそれ?」
と隣にいる千秋に聞いて見ると、
どうやら駿河守護今川氏親の一族だそうだ
「(へぇ、随分大物だったんだな、どおりで偉そうな格好をしている)」
「若様、この砦は我らの手の者がお引き受けいたします、岡崎城にお戻りください」
と昌安が言うので、
「ああそうだ、そこの森に捕虜と敵の怪我人を集めてあるので、そちらもよろしくお願いします」
と捕虜の存在を教えて全員に帰城の用意をさせた。
馬に揺られて、少し眠気を覚えながら街道を西に向かう。
城に戻ると、どうやら戦果が伝えられていた様で、父が門の前まで迎えに出てきている。
「義介、出来した大手柄じゃ」
と本当に喜んでくれている様だ
「(でもまぁ、ここは一応謝っておく所だよな)」
と思ったハルトは
「出過ぎた真似をして申し訳ありません、敵が油断していたのでつい……」
と頭を下げたが、父は
「戦は勝てば良いのじゃ、次も頼むぞ」
と言う、父と対照的に少し後に控えている守護代の織田逹定は不機嫌そうな顔をしていた。
翌日は、朝から三河の国人衆や豪族の内、日和見をしていた者達が続々と岡崎城に参陣して、
総兵力は6000を超えるまでになった。
この時代は勝ち馬に乗るのが当然と考えられていたから、昨日の街道沿いの名も無い砦での戦いで、今川方の武将、瀬名氏貞が討ち取られたと言う事があっという間に三河中に広まった結果だった。
その軍勢を率いて、斯波義達は全軍を遠江の吉良氏の城『曳馬城』に向けて出陣させた。
そしてハルトは侍大将として500の兵を指揮する事になった。
騎馬武者が50、その郎党が200、足軽250と言う編成で、当然騎馬武者は三河各地の有力な国人衆達で、松平、吉良の一族の者が多い。
「(こいつら勝っている間は味方だけど、不利になったら直ぐに裏切るんだろうなぁ)」
とハルトは思っている。
曳馬城までは、大小の城や砦が点在しているが、 牧野氏の『吉田城』攻城戦はハルトの最初の城攻めとなった、城と言っても館に空堀と土塁を設けただけで清洲城よりは規模が小さい城だ、ハルト率いる弓隊……その内五人は四人張の強弓持ちだ……の一斉射で櫓を落とされ、更に火矢を撃ち込まれて、門を開けて打って出たのは立派だったが、剛腕のハルトの敵では無かった。
「(どうも相手が弱すぎる気がするなぁ)」
とハルトは思った。
そして戸田氏の『二連木城』も1500人に膨らんだハルトの軍勢に落とされて、更にハルトの武名が高まり、残りの殆どの城や砦は戦わずに開城して、参陣する者も多く軍勢は更に膨れ上がった。
岡崎を出て三日目の夕刻に、軍勢は味方の豪族井伊氏の拠点『井伊谷』の井伊谷城に入った。今夜はここで一晩過ごす事になる、ここから浜名湖まではほんの数里だった。
ハルトは、城主井伊直平の館で父や織田逹定兄弟、松平昌安兄弟など軍勢の主だった者達と一緒に宴に出席している。
「(浜名湖が近いのかぁ、この時代もうなぎは食べられるのかな)」
と思っていると、目の前に運ばれた膳に、細めの魚を味噌で煮込んだ料理が乗っている。
「(これはもしかして?)」
と食べてみると、鰻だった。
「(これは美味い)」
と食べていると、徳利を手にした、領主の井伊直平が挨拶に来た。
「おや、斯波の若君様は『宇治丸』をお気に召された様ですな、この先の『浜名の海』で獲れる、『鰻』と言う少し形の変わった魚でございます」
と丁寧に説明をしてくれた。
「これが鰻ですか、初めて食べました美味しい物ですね」
とハルトが言うと、直平は嬉しそうに酒を注いでハルトに一礼してから、隣の席の織田逹定に酌をしに行った。
これだけの大軍なので、ハルト達の様にとりあえず屋根の下で横になって眠れるのは幸運だ、多くの兵達は木の下や、厩の軒先で筵を被って寝る事になる。
翌朝、日の出と共に簡単な朝餉の後、井伊直平の手勢や参陣した遠江の国人衆が加わった総勢7000は出立する事になる、物見の報告によると敵は今川氏親自らが出陣して、曳馬城の東方『木原畷』に陣を張っているとの事で、朝の軍議で織田逹定は
「まずは曳馬城に入り大河内ら遠江の国人衆と合流すべき」
と述べた。
父は
「今川方の兵力は5000と聞いている、ならばこちらの数が多いので、全軍で『木原畷』布陣すべき」
と主張し、しばらく問答が続いた。
そこで、妥協案として松平昌安らが
「兵を分けるのは愚策ではありますが、武衛様と織田殿は曳馬城に入り、後詰として木原畷においでください、我ら三河衆と遠江衆が先に木原畷に陣を張り武衛様をお待ちいたします」
と言う意見を述べ、結局それが採用されたのだった。
「父上、私も松平殿と一緒に木原畷に」
とハルトが言うと、父は
「我が息子ながら勇猛果敢な事よ、天晴れじゃ、尾張の兵2000を其方に授ける我らが着くまで陣を守れ」
と指示をした、ここに居る殆どの者がこれまでの戦いでハルト=義介の戦果を知っているのでこれに異を唱える者は居ない
「若様が合力いただけるなら百人力です」
と松平昌安が言うと、三河衆全員が大きく頷き同意をした、遠江衆の多くはまだ自分の目で見た訳では無いので、『そうなのか?』と言う表情だ。
こうしてハルトは尾張の兵力のほぼ2/3を率いる大将として、三河衆、遠江衆の4000を合わせた
兵6000名を率いて木原畷に向かった。
この時点で、今川方が5000、義介隊が6000、それに曳馬城と尾張の残りの兵2500が加われば
5000対8500で圧倒的に有利だった。
この時代の慣わしに乗っ取り、義介隊は敵から60間程離れた場所に陣を構えて、幕を張り本陣を作る
「井伊殿、敵の陣の左の丘はどうなっているのですか?」
と聞くと、どうやら小さな祠がある位だそうだ、
「伏兵を忍ばせるには最適な場所と思いませんか?」
と聞くと
「確かに」
と頷く、なので急遽、松平昌安も呼び協議をして、尾張兵の内1000名を連れて、丘に向かう事にした。
連れて行くのは当然、自分の子飼いの兵を中心に選抜した精鋭達だ、残して行くのは偶然か織田の兵ばかりになった、この兵達の指揮は松平昌安に任せる事にする。
一度後方に下がり、敵の死角から丘に登ると、思った通り500名程の敵兵が潜んでいる、
敵兵は後から襲われて殆ど抵抗もできない内に矢を浴びて壊滅した。
「この者も立派な甲冑を着ているな、今川の縁者かな」
「その様ですね、伏せてある旗も今川の物です」
ここまでの戦で、義介の副将格になっている千秋定季が答えた
「ではしばらく、ここで高みの見物とするか」
敵が夜襲でも仕掛けない限り、戦は明日の早朝に始まるだろう。義介達は携行食を食べて、一夜をそこで明かした。
翌朝、日の出と共に合戦が始まる、先手は今川勢で、前進して弓隊の一斉射の後、槍隊が突撃をする
それに対して、味方も弓の一斉射で対抗する定石通りの戦い方になった。
「千秋殿、どう見る?」
「敵は魚鱗、こちらは鶴翼、おそらく敵は一度引いて伏兵による攻勢を企んでいるのでは?」
「私もそう思う、なのでその裏をかこうと思うのだが」
「と言いますと?」
「敵の伏兵が出て、本陣が手薄になった隙に本陣を落とす」
「おう、それはまた豪気な、若様らしいですね」
「千秋殿、若様は止めてくれ、義介で良い」
「では義介様、私も千秋殿では無く定季と及びください」
この時代、信州諏訪の諏訪大社上社の大祝を世襲する『諏訪氏』が有名な様に各地の神職は武士と変わらない、熱田の千秋氏も同様で、この千秋定季は教養もある文武両道の人物だった、なので義介は自然と彼を副将として扱う様になっていた。
戦線が膠着状態になると、敵が引き始め、味方は追撃に移る。
「始まったな」
「その様ですね」
敵が30間ほど引いた所で、左右に伏せていた伏兵が姿を現し、味方が守成に回る、敵の本陣ではこちらに向かって盛んに旗が振られている。
そして本陣からも500程の兵が突撃を始めた、それを確認した義介は
「出るぞ、狙うは敵本陣今川氏親の首、槍隊は私に続け、定季弓隊を任せた」
と一気に馬を進める。
敵本陣まで、30間の距離で、矢を番えて、速射で本陣に残る敵の将らしき者達を射抜き倒して行く、
全隊が20間の距離まで近づくと、定季の弓隊が一斉射で、敵兵を倒すが、当然向こうからも反撃の矢が飛んで来る。だがこちらには四人張の強弓を持つ射手が五人もいる、
「そんなヘロヘロ矢が当たるかよ」
と義介は敵の射手を倒して行く、
権二率いる槍隊と足軽達が、更に速度を上げて敵の本陣に突入した。
圧倒的な破壊力で敵を蹂躙して行く
「(よし、勝ったな)」
と思った所で、定季が
「義介様、あちらを」
と敵の後方50間辺りを指した
「くそ、敵の後詰か、あと少しだったのに」
と敵の本陣を見ると今川氏親らしき男が、数人の供周りの兵に守られて後方に逃げて行くのが見える。
「敵将今川氏親が逃げ出したぞ」
と大音声を挙げるのは、牛の助こと佐久間盛通だ、盛道は地声が大きくいつも怒鳴っている様に聞こえるが、こういう時には役に立つ。
それを聞いて、乱戦状態だった本隊がまた攻勢に出る、今川方は総崩れになり、氏親を追って撤退して行く
「邪魔をしやがって」
義介は、最後に残った矢を番えながら馬を走らせて、背中を向けて後方に引き始めた後詰の軍の将を狙って矢を放った。
矢はその将の左肩を射抜いたが、致命傷にはならなかった様だ。
「義介様、引きましょう、これ以上の深追いは危険です」
と定季に言われて、本陣まで戻る。
本陣では、その頃になって、やっと父と織田逹定達が到着していた。
本陣で指揮を取っていた松平昌安と井伊直平の二人が義介を迎えてくれた。
「父上、申し訳ありませぬ、あと一歩の所で今川氏親を取り逃しました」
と父に詫びると、二人が
「なんの、ご覧あれ、若様の横槍の成果でお味方大勝利ですぞ」
と戦場を見渡して慰めてくれた。
「それにしても、忌々しい敵の後詰、あれは何処の誰だ?」
「旗印からすると、今川氏親の伯父相模の伊勢新九郎盛時殿の手の者かと」
と答えたのは井伊直平だ
「伊勢盛時、今川氏親と並んで次は絶対に打ち取ってやる」
と義介は声に出した。
「斯波の若様、天晴れでございます、その時には我ら井伊衆がお供いたします」
「なんの我ら松平衆もじゃ」
と、戦の興奮が冷めぬ者達はまだ戦意が高い。
「父上、勝鬨を」
と義介が声をかけると、父の声に合わせて全軍が勝鬨を上げた」
「武衛様、これで今川は当分兵を興せませぬな、今の内に、我らで今川方の城や砦を攻めましょうぞ」
と言うのは、戦場に間に合わなかった、吉良氏の家臣・大河内貞綱だ。
三河と遠江に分散している吉良氏は元は斯波氏と同族の足利氏で、今川はその庶流になる、だがこの頃は、勢力は衰えていて今回の戦いでも同じ三河衆の松平氏や遠江衆の井伊氏と比べると目立った活躍はしていない、だからここで、戦果を挙げる必要があったのだ。
「まぁ、大河内殿、逸りめさるな、殿と取り敢えず今日の戦果を確認いたしましょう」
と織田逹定が言うと
「遅れて来て偉そうに」
と誰かの声が聞こえて笑い声が上がった。
織田逹定がこの出陣にずっと消極的だった事は皆が周知しているからだった。
この戦いで今川方は、義介が最初に打ち取った三浦氏員を始めとして有力武将が多く討ち死にして
5000の兵はほぼ壊滅している、ただこちらも無傷では無く、混戦の中で、安祥松平家の松平長親やその家臣の酒井広親、宇津忠与が討ち死にしている、同じく三河衆の吉良義元も討ち死に、遠江衆では井伊直平の家臣小野重正らも討ち死にしていた、尾張衆では織田逹定の郎党や足軽が多数討ち死にしている。
その後、父義達は遠江の全域を制圧して、更に西駿河の今川の城や砦も落として遠江や三河から今川の勢力を一掃して曳馬城で論功行賞を行う。
参陣した国人衆には所領の安堵と加増、敵に回った国人衆達からは領地の没収、参陣しなかった国人衆には没収は無いが領地削減と言う仕置きをして遠征の目的を達して尾張に帰還した。
この時三河や尾張の街道沿いでは領民達が出迎えて戦勝を称えたと言う。
尾張に戻った父、義達は早速戦後処理に取り掛かり、まずは将軍に三河と遠江を制圧した事を報告して、今川に奪われていた遠江の守護職を奪還した、そして合わせて三河守護も拝命して、これで尾張、三河、遠江の三カ国の守護となった、三河と遠江には守護代を置かずに、松平昌安と井伊直平を奉行に任命して統治をさせる事にした。流石に越前を守護代に奪われた事で学習をしたのだろう。
そして、尾張本国では遠征の功績で、義介は庶子でありながら嫡男として身分を改めた。
それ程、今回の戦績は多大であったからだ、この時父には正妻の子が生まれたばかりだったがこちらは次男と言う扱いになった。
清洲城での論功を決める会議の席には義介も出席した。
「義介、此度の働き真に大義であった、褒美を取らすが何を所望じゃ」
と父は上機嫌だ
「では父上、津島の湊を頂きたいと思います」
「何、それだけで良いのか?お主は欲が無いのお」
とどこかの城を欲しいと言われる事を予想していた父は拍子抜けした様だ
「お待ちください、津島の湊は我が奉行織田信貞が治めております」
と織田逹定が反論したが、父はそれを一笑した。
「何を申す、そもそも信貞は此度の戦に参陣もしていないでは無いか、それに逹定お主もじゃ、お主はこの義介の半分でも働いたのか?」
こう言われては、達定は反論できない、ほぼ何も働いていないのは事実で、戦場に間に合わなかったばかりに自身の有力武将や郎党を失ったのも事実だった。
一方の義介は、以前からの家人や定季に加えて、一緒に戦った遠江や三河の国人衆の庶子や次男以下がそのまま尾張まで着いて来てしまい、家人として従う様になっていて、直ぐに動員できる手勢は既に守護代の織田達定を凌いでいる。
この沙汰を聞いて激怒したのは、湊の権益を奪われる、織田信貞だ。
清洲三奉行の内織田弾正忠家は津島の湊の権益と熱田神宮と熱田の町の権益で本家の織田大和守家を凌ぐ程に潤っていたのだ、だが、熱田社大宮司千秋季平が義介に靡いた事で熱田の権益を失い、またここで津島湊の権益を無くす事は耐えられない事だったからだ。
信貞は普請途中の『勝幡城』で挙兵し城に立て篭もった、だが堀も塀も普請途中な上に、尾張の国人達が挙って義介側についたため寡兵での籠城になり、千秋季平の取りなしで義介に降伏して、頭を丸め隠居する事で命だけは存える事ができた、産まれたばかりの嫡男の三郎は、尾張の古刹『岩屋寺』に預けられる事になり、織田弾正忠家は滅亡したのだった。義介は父より『勝幡城』を与えられる事になった。
そして更にこの事で父と織田逹定の確執は決定的になり、今度は『小田井城』で逹定が挙兵、公然と父斯波義達に反旗を翻す、だが先の戦で有力な郎党を失い求心力を無くしていた逹定は、弟織田達勝にも助力を拒否されて、義達の手勢に攻められて自害して果てた。「小田井城」を接収した義達は城代に叔父斯波義雄を入れる、この時傅役として義介を幼少より育てた、元尾張守護代織田常勝は、後継者とした甥が主家に背いた事を恥じて、隠居先の『万松寺』で切腹して果てた、常勝の領地や郎党達は遺言で全て義介が相続する事となる、ハルトにとってこの時代の男の義務と責任の取り方を学ぶ良い経験になったと言える。
これで、尾張下四郡を支配した織田大和守家は滅亡した、織田達勝は姓を津田達勝と変えて、父に従い
辛うじて、織田大和守家の血統を残す事になる。そして義達は義介の進言を入れて、守護代を廃し守護親政を宣言する、これに対して上四郡の守護代織田広高は美濃の守護代斉藤氏の助力を得て『岩倉城』で挙兵する。この美濃守護代斎藤彦四郎は守護である土岐政房と争い、織田伊勢守家の援助で美濃の守護代になった人物だった。
だが、彦四郎は援軍として岩倉城に入る事は出来なかった、国境でもある木曽川を渡河しようとした軍勢が対岸で待ち受けていた、義介の兵2000に攻撃されてほぼ全滅して、かろうじて彦四郎と数人が美濃に逃げ帰ったのだった。
義介は一度『小田井城』で兵を休め、父からの援軍1500を合わせた3500の兵で岩倉城を攻撃する。
この時、初めて『攻城櫓』を二基作成して、城の塀の上から昼夜問わずに弓兵が火矢を打ち込み、城内の兵士が続々と逃亡して降伏する様になった。
結局、織田広高も自害して果て、織田伊勢守家も滅亡した。岩倉城には義達の叔父斯波寛元が城代として入った、これにより父斯波義達は名実共に尾張を支配する事になった。
この戦いの後、義介は名を義為と改めた、『介』の字は庶子であった義介が、やがて生まれるであろう斯波家の嫡男を補助すると言う意味で与えられた名だったからだ、自身が嫡男となった事で、源為朝の『為』の字を諱に貰い名乗る事にしたのだ。
更に自身の家人達の軍勢を「朱雀隊」と命名、常勝から受け継いだ遺産に津島と熱田からの潤沢な資金を背景に『赤備え』の具足で統一して、父に独自の軍旗の使用を認めてもらい、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の「孫子四如の旗」を旗指物を作った。
歴史上では、この赤備えは本来は甲斐武田氏の飯富虎昌が始めで、その後真田信繁、井伊直政と続いた物だが、この時代まだ武田信虎による甲斐統一前なので、『赤備え』は義為が考案した事になり、武田信玄もまだ存在しないので、「孫子四如の旗」も義為の考案になった。
更に、軍制を改革して足軽にも、弓隊と槍隊を作る、足軽用の槍は三間半(約6.3m)の数槍を揃えた、これは織田信長が使ったとされる槍の長さだ。
義為=ハルトは密かに心の中で、飯富虎昌や武田信玄、織田信長に
「パクって申し訳ない」
と詫びた。
この義為の「朱雀隊」は所謂農民兵では無く常備兵と言う事で、歴史上では織田信長が行った政策である『兵農分離』を取り入れた事になる、更に『勝幡城』の城下で「楽市楽座」政策を行い、城下町を発展させて、経済的な発展を促す。
そして、父に進言して、滅ぼした両織田家から没収した資金を元に清洲から津島や熱田、更には三河から遠江までの街道の幅を広げ整備を行い荷車が二台すれ違える道を整える事にした。これによって城下町位でしか使われていなかった荷車や大八車が普及して物流が一気に向上する事になる。
もちろん街道工事の普請は、先頃まで織田家に従っていた国人衆に言い付けられた物だが、義為も家人達を率いて参加して、率先して働き効率を上げる。これにより織田に従っていた国人衆も義介に従う事になる、更に三カ国内の関所を廃止して、人と物の往来を自由にした。そして三河奉行松平昌安に命じて、奥三河の砂金の取れる『津具』で砂金を採集させると共に金鉱を探させた。ここを津具金山として斯波家の直轄領にした。この金が斯波家の懐を大いに潤おす事になる。
「(まぁ、戦国時代の話を知っていれば、これ位思いつくよなぁ)」
と思っている義為=ハルトだったが、尾張、三河、遠江の三国は経済共栄圏として、この後更に発展して他国の追従を許さない存在となるのだった。