第十四章 海の将軍
第十四章 海の将軍
翌朝から、義勝は博多の商人達から『天狗』事南蛮人達の情報を集める事にする。
県庁である月城……小田部城とも言う大内氏の城を改装した城は、規模も小さく博多の市街から少し離れた所にあるので、市街に近い宗門の寺、西教寺を宿舎とした。
朝起きて、読経をしてから庭で剣を振ると言う、大阪本願寺での日課と同じ様にしようと、本堂で朝の勤めである読経を始める。
「勝如様は誠に良きお声ですな」
と一緒に『讃仏偈』を唱えた院主の道南が言う。
そこに読経の声で起きて、本堂に入ってきた義輔が義勝を見て驚いている。
「なんだ、そこに座って経が終わるまで待て」
と言うと義輔は
「あの父上、父上は経をお読みになれるのですか?」
と言うので、義勝は朝から思い切り脱力した。
「義輔、私のこの格好は何だ?『勝如』と言う名は飾りだと思っていたのか?」
と呆れて聞くと
「いえ、その何かの方便かと……経を読まれる所を初めて拝見したので、つい」
と言う事だ。
義勝は今まで多忙で、あまり息子達と過ごして来られ無かった事を少しだけ反省した。
「義輔、飯の前に剣の稽古をするぞ、付き合え」
17歳の頃から毎日続いている、いつもの朝の鍛錬を本堂の庭先を借りてする。
長男である義家の太刀筋は、道場でも良く見ていたが、義輔の太刀筋は『足利流綜合兵法』の物より更に古流よりの千秋季光の物と同じ物だ。
「なるほど、季光に良く鍛えられている、よし遠慮なくかかってまいれ」
と型の鍛錬に使う木刀から竹刀に持ち替えた。
「え、あの父上よろしいのですか?」
「構わん、来い」
どうやら義輔は自分の方が若いので強いと思っている様で、明かに遠慮した打ち込みをしてきた。
「たわけ、もっと真剣に打ち込んでこぬか」
と義勝は肩を狙って竹刀を振り下ろす、驚いた事に義輔はそれを身を捻って避けると、逆に見事な突きを
繰り出して来た。
「うむ、見事な突きだ」
と楽しくなった義勝は義輔と初めて真剣に竹刀で打ち合った
「義輔、良く精進したな、これは季光に礼を言わんといけないな」
と義勝は竹刀を下ろす、
「驚きました、叔父上が良く父上の方がお強いと言っておいでしたが、真だったのですね」
と義輔も嬉しそうだ。
「あと少し精進すれば、お前にも免許皆伝をやれるだろう、これから毎朝鍛錬だ」
「は、父上」
この間義輔の護衛の龍造寺胤家は黙って、軒下で静かに座っていた。
「大御所様、朝から御精励なされますな」
とそこに、 彦太郎を連れた、明智光綱が村上康吉、丹羽長政と共に立っている。
この二人は義勝とは違う寺を宿舎としているのだった。
彦太郎は鍛錬を見ていたのか義輔の方を見て
「(へぇ、なかなかやるじゃないか)」
と言う顔をしている。
その後簡単な朝食……地方の寺なので粗末な湯漬けだ……を済ませて、衣服を整えて本堂を借りて義勝は光綱達と評定を始めた。
「……と書面で知らせた様に、南蛮の者共に備える準備をする、この博多には元寇のおりの砦や石垣が残っているそうだが、今でも使えそうな物はあるのか?」
「いえ、残念ですが、あれを修繕するよりは新たに普請をした方がよろしいかと」
「そうか、では、博多の湊から近く海も良く見渡せる場所に心あたりはあるか?」
「まずは、唐津の湊に近い松浦党の城垣副城、ここからは壱岐の島も良く見えます、そして博多の湊に近い大内殿の城柑子岳城……こちらは廃城となっていますが……の辺りがよろしいかと」
「そうか、丹羽長政その場所を見聞してまいれ、光綱案内を頼む、義輔も同行して長政から良く学べ」
「は、かしこまりました」
「は、父上」
長政達は直ぐに本堂を後にした。
「さて、康吉、南蛮人の事、何かわかったか?」
「は、松浦党の者共の中に、呂宋で確かに南蛮人を見かけた者がおります、奇妙な形の船に乗っていた様です、それと、松浦党と関係がある倭寇の中に、その南蛮人と商いをしている者がいるそうです」
「はて、倭寇と言うのは海賊の事では無いのか?」
「いえ、倭寇には海賊や盗賊の様な輩と、商人……武装した商人ですが……の二種類がおります、松浦党はその商人の方と関係がある様です」
「そうか、松浦党の本拠はどこだ、私が直接行って話を聞こう」
「は、唐津の湊から少し離れた岸岳城です、博多から馬なら二日程でございますな」
「では、その方先に行って、用意をしておけ、私は丹波達が戻ったら、立つとしよう」
「は、かしこまりました」
この倭寇とは明国の武装商人『李光頭』の事だ、この頃、日明勘合貿易が莫大な富を産む事は明の商人達にも知れ渡っており、密貿易が盛んになっている、李光頭はその密貿易を取り仕切る立場の者だった。
午後になり、今度は博多の商人達が義勝を訪ねてくる。
「百地三太夫居るか?」
「は、こちらに」
当然だが、義勝には護衛として、百地三太夫以下の伊賀者が50人程付き従っている。
「すまんが院主殿に頼んで茶室の用意をしてもらってくれ」
「は、かしこまりました」
この様な雑務は本来は、小姓と呼ばれる従者の仕事だが、義勝は僧籍に入って以来自分の小姓や馬廻衆を廃している、なので警護を持ち回る忍び達がその任に当たっているのだ。
神屋宗湛、島井茂久の二人に茶を振舞いながら、義勝は南蛮人との貿易について話を聞く。
「なるほど、天竺の胡椒、明の生糸、日の本からは銀か」
「はい、最近では生糸も絹も、国内の物が出回る様になりましたが、まだまだ量が足りません、銀は我ら朱印状を持つ商人しか取り扱えませんので、南蛮人は生糸と引き換えに我らから銀を買うのです」
「しかし妙だな、明とはその方達が直接取引をしていたのでは無いのか?」
「は、それが今は明国は国を閉ざしておりまして、寧波の湊も封鎖されております、倭寇共の被害が大きくその取り締まりの為と聞いておりますが」
「我が海軍の船はその倭寇を取り締まっているのでは無いのか?」
「はい、そのおかげで我らは安心して商いができるのですが、奴らは我らの船を見ると姿を隠すのです」
「なるほど、海は広いからな」
「所で、その南蛮人はどこを根拠地としているのか?」
「『馬六甲』(マラッカ)と申す湊で、呂宋より更に西だそうですか、我らもまだそこの湊には行った事は
ありません」
「そうか、では最後にその方ら南蛮人の船は見た事があるか?、南蛮人の武器についてはどうだ?」
「彼らの船は我らの唐船とは全く違う形で、『カンィオン』と呼ぶ大きな筒の様な武器が多数あるそうです、そして彼らは剣の他に『アーキバス』と言う棒で武装していると言う話です」
「良くわかった、ではその方等に命ずる、南蛮船をその『カンィオン』と『アーキバス』も付けて、買ってまいれ、金はいくらかかっても良い」
「はは、博多の商人の意地にかけて、その商い承りました」
二人は大商いの好機と見て張り切って、急ぎ帰って行った。
この頃の南蛮諸国では既に大砲『カンィオン』と火縄銃『アーキバス』が戦闘で普通に使われている、義勝が焦っているのは、大砲で武装した南蛮船が複数で来襲したら防ぐ手段が無いからだった、
現に『馬六甲』ではその方法で国が滅ぼされている。
こちらの海軍の唐船は速力は上だが、竜骨が無い為、南蛮で古来から海上戦で使われる体当たりには無力で、当然だが大砲も搭載していない。
つまり海戦になれば勝ち目が無いと言う事だ、沿岸部でなら、関船で取り囲み、決死隊が船に乗り込むと言う戦法も取れるだろうが、それは敵が一隻の場合の戦法で、犠牲者も馬鹿にならない。
応仁の乱で使用された、琉球製の火槍を元に、大阪で鍛治師達に改良をさせているが、まだ実用に足りる物はできていない、なので大砲と火縄銃の実物はぜひ必要なのだった。
「(国内の対応が終わったら、明の寧波に行ってみるかな)」
義勝はそんな事を考えていた。
翌朝も同じ様に読経を済ませ、剣を振るった後で、
「(暇になった、ちと散歩でもするか)」
義勝は博多の街を歩いて見る事にした、堺とはまた違う趣の街で、豪商の屋敷や店が立ち並び、茶屋や廓もある賑やかな街だった。
僧形の義勝だが、着ている物は略装と言われる黒い法衣に輪袈裟、それに紫地の切袴を履き、脇差はさしているが以前の様に太刀は佩いていない、しかし右手に持つ錫杖は仕込み杖で刀身も二尺以上ある。
至って普通の僧に見えるが、生地は高級な絹なので、見る人が見ればお忍び中の高位の僧に見えなくも無いだろう、ちなみに正装の時の法衣は緋色でこれは浄土真宗では法主円如と義勝しか着ることができない物だった。
「良い街だ、次に来るときは誰か(正妻か側女)を連れてくるかな」
と独り言を言いながら歩いている。
するとある店の前に人だかりが出来ている事に気が付く。
どうやら油屋の様で、その油の計り売りの方法に見覚えがあった。
まだ岐阜の城を普請していた頃に、
「油注ぐんに、漏斗を使わず一文銭の穴に通すさかい、よう見とってや、油が一滴でもこぼれたらお代は頂きまへん」
と言うのを口上にして質の悪い油を売っていた油商人がいた、30代位に見えるこの商人も同じ方法で
油を計り売りしていたのだ。
「(ほう、どうやらあの計り売りの商売は真似る者が居る様だな)」
と思い、店頭の油を見ると、かなり上質な油だった。
「(なるほど、これなら文句の付け様が無いか、しかしあの技、どれだけ修練を積めば出来るのだろうか?、剣なり弓なりの修行をした方が良かったのでは無いのか?)」
そう思って、主人の妙技に沸く店の前から立ち去った。
義勝が岐阜の市で咎めた油屋は、松波屋基宗と言い、岐阜から追放された後、諸国を放浪して最後にこの博多に辿りついたのだった。
そこで、また大道芸の油屋を始め、その時に義勝に指摘された『粗悪な油を高値で売る』と言う商売を「上質な油を適正な価格+大道芸で売る」と言う様に改めて、店を構えるまでになった。そして今店頭で芸を披露しているのは30歳を過ぎた息子庄五郎、正史では斎藤道三になるべき男だった。
西教寺に戻ると、本堂の脇に一人の侍が座って義勝を待っていた。
「大御所様、おかえりなさいませ」
と挨拶をする侍に義勝は見覚えが無かった。
「貴殿は?」
「これは失礼いたしました、私は明智弥次郎光安と申します、兄光綱より大御所様のお世話をする様にと申し使っております」
「そうか、それはご苦労」
「丹羽長政様、柑子岳城の視察を終えて唐津に向かわれたとの事にございます」
「そうかでは戻るまでにあと三日程はかかるな、待っている時間が惜しい、私はこれより岸岳城に向かう、その方案内をいたせ、明智殿には視察を終えたら岸岳城に来るように伝えよ」
「は、かしこまりました」
義勝は、騎乗して唐津街道を走り岸岳城に向かう、途中の志摩で日が落ちてきたので龍国寺と言う寺で
一夜の宿を借りたが、明智光安によると、この寺は壇ノ浦で滅びた平家を弔う為に建立された寺だそうだ。
「ふむ、源氏の我らが一夜の宿を借りるとは不思議な縁よな」
明智氏は美濃の土岐源氏の支流なので、当然源氏だった。
ここは禅宗の寺なので、今の義勝からは宗旨違いとなるのだが、元々の足利家の菩提寺は禅宗の臨済宗だし、ハルトとしては実家の菩提寺は曹洞宗だ、なので礼儀は弁えているので特に問題はなかった。
もちろん朝の勤行には参加して、経は読まなくとも御本尊の聖観世音菩薩に手を合わせている。
「世話になりました」
「いえいえ、他宗の方がおいで下さるのは珍しい事です、またおいでください」
とまだ若い方丈は笑顔で見送ってくれた。
ただ、この辺りでは馬に乗る僧侶は珍しいのか、不思議そうな顔をしていた。
岸岳城は山城で、山麓に松浦党の館がある。
「(水軍の当主が山城か、面白いな)」
義勝が館に近づくと既に、連絡が入っていたようで当主松浦興信、自らが平伏して出迎えていた。
義勝によって全ての水軍は、海軍として再編成せれているので、この松浦興信も海軍士官と言う事になる。ただ、松浦党は瀬戸内の水軍と違って義勝とは縁が無かったので、その地位はあまり高く無い。
だから今回の義勝の来訪と南蛮人への対処要請は松浦党としては大きなチャンスなのだった。
「その方等、呂宋で南蛮人を見かけたそうだな」
「は、我が手の者達が、呂宋まで何度も行っております、彼の地で確かに南蛮人と出会っております」
「その南蛮人だが、数はどれくらい居る、博多の神屋宗湛等の話では南蛮人は『馬六甲』と言う場所を根拠地としているとの事だが、誰かそこに行った者はいないのか?」
「呂宋には常に南蛮船が三隻ほど来ております、一隻には300人程の兵が乗っているとの事ですが、
これははっきりとはしていません、『馬六甲』へはまだですが、その手前の『会安』(ホイアン)までなら行った者が居ります、その湊にも南蛮船は良く来ているとの事です」
「それで、その方達は南蛮人と商いをしているのか?」
「は……、その……」
松浦興信は懐から懐紙を出して汗を拭いている。
「良い、此度は商いの是非を糺しているのでは無い、南蛮人が何を求めて来ているか、日の本に来る可能性が有るのか、その辺りを知りたいだけだ」
「は、恐れいってございます、我らも多少の商いは行っておりますが、直接では無く、仲介の倭寇の者がおります」
「その倭寇の者、会えぬか?」
「え?、大御所様が自らお会いになるのですか?」
「そうだ、博多に連れて来る事は可能か?」
松浦興信はしばらく悩んで回答をした。
「三月ほど頂ければ、話をつけられるとは思いますが、博多まで来るかどうかは」
「もしその者が博多まで来るのなら、朱印状をやると言っておけ」
「朱印状でございますか、かしこまりました全力を尽くします」
朱印状があれば銀を堂々と扱う事ができて、今の密貿易とは違い、大きな利益を得る事ができる。
倭寇を影で操っている松浦党として、これを断る理由は無かった。
その後もしばらく雑談をしていると、そこに明智光綱達が視察を終えてやってきた。
「皆の者ご苦労であった、それで首尾は?」
「博多の湊に近いと言う事であれば、柑子岳城が良いかもしれません、ただ大御所様のご要望の50000以上の兵を留める城となると、水の手と土地が足りません、垣副城の方は博多から距離がありますが、唐津の湊を軍船の湊とするなら良いかもしれません、ただ今の城主は松浦党の波多興殿です、波多殿の協力が必要です」
と丹羽長政は見解を述べた。
「丹羽長政、急ぎ垣副城の普請を始めよ、この城を『博多鎮守府』とする、良いか城には安土や大阪本願寺を超える天守を立てよ、これは天下普請といたす、明智光綱、九州の全ての県令と領主達に協力をさせよ。
「はは」
「義輔、其方を『博多鎮守府総監』とする、日の本の海の守りの要じゃ、しかと働け」
「は、父上」
「松浦興信、聞いた通りだ、其方を『博多鎮守府』副総督とする、義輔はまだ若い、其方が支えてやってくれ、普請が終わった城は松浦党で管理せよ、合わせて急ぎ、唐津の湊の整備と町作りをせよ、新しき垣副城は50000の兵が入る城、それを支える町と言う事を忘れるな」
「は、かしこまりました」
と松浦興信は言ったものの顔面蒼白になっている、規模が大きすぎて思慮の範囲を超えているのだ。
「村上康吉、海軍卿として新たな兵を集めよ、鎮台兵とは別に船に乗れて戦も出来る兵が必要だ、そうだな『海兵隊』と言う名にするか、全国から20000の兵を集い直ぐに鍛錬を始めよ、それと船大工を唐津に集めて急ぎ軍船を作らせろ」
「は、はいかしこまりました」
とこちらも声が震えている。
「松浦興信この九州で他に異国と貿易をしている湊はどこだ?」
「は、薩摩には幾つかの湊があり、琉球や台湾と商いをしている様です」「そうか、薩摩か」
義勝は少し考えた結果、薩摩の事は少し後回しにする事にした、義勝はこの世界の日本の史上初めての本格的な『海軍』の育成に一気に舵を切ったのだった。
この垣副城は正史で秀吉が文禄の役の前に作らせた肥前名護屋城と同じ場所になる。
「さて、難しい話はここまでだ、これよりは前祝いの宴といたそう、百地三太夫」
「は、こちらに」
「金100両を持て、松浦興信この金で宴の用意をせよ」
もう松浦興信は何も驚かなくなっている。
翌朝、義勝一行と明智光綱は博多に戻る。
残された松浦興信は村上康吉と丹羽長政に話しかける。
「なんともとんでも無い事になった、それにしても丹波殿、大御所様とは本当に恐ろしい方なのですな」
「何、私はもう慣れました、突然城を普請せよと言われるのももう五回目ですから、ですが大御所様の
先を読む目は確かです、大御所様が作れと言うなら絶対に必要な物なのでしょう」
「そういう物なのですか、村上殿」
「そうじゃな、ワシも水軍を全部纏めよと言われた時には絶対に無理だと思った、だが日の本が一つの国になると、我ら水軍の在り方も変わった、それは松浦殿もご存知だろう」
「恐れ多い質問のだが、総監となられる足利義輔様の御器量はいかがな物なのか、ご存知か?」
「剣の腕なら私より遥かに上、岐阜の鎮台兵達からは御舎弟様と呼ばれて信頼されていますな」
「ワシは船の中で数日御一緒しただけだが、気配りの細やかな若殿らしい器量の方だと拝見した、これから大きくなれる方だと思うな、我ら水軍……いや海軍衆を率いるお方として相応しいと思う」
「なるほど、これは松浦党の総力をあげて気合い入れ直さないといかん」
「では、私は垣副城へ向かいます、「縄張図」を描かないといけませんからな」
「わしも同行しよう、波多興にこの事を伝えないといかんからな」
「では、わしは唐津の湊じゃな、大変なお役目だ」
博多に戻った義勝は明智光綱の屋敷で、古式に則って、光綱の嫡男彦太郎の元服の儀式をする。
彦太郎は義勝が烏帽子親となり、諱の勝の字を授かり明智勝光と名乗る事になる。
この時、介添え役の明智光安を見て、義勝はまだ前の世界にいた頃に祖父と見たNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』の事を突然思い出した
「(光安、光安、確か何とか言うコミカルな役者さんだったな、あれ?その子供が明智光秀だったか、いや甥だった?、と言うことはこの彦太郎はもしかして?)」
正史では明智光秀と名乗った男の別の人生が始まった。
この後、明智勝光は、次男足利義輔の近習となり、『博多鎮守府総監』となった義輔の右腕となって活躍する事になる。
同じ頃、博多の商人達には既に話が伝わっていて、街は右往左往の状態になっている。
大規模な城普請、軍船の建造、街と湊の整備、どれをとっても大仕事で、引き受けた商家は利益が約束さされる商いだからだ、だが今回は規模が大き過ぎる、そこで神屋宗湛、島井茂久の音頭で、緊急の寄合が開催される。
「今度の大御所様の大普請な、話が大き過ぎて、大店数軒でも扱うのは無理や、なのでこの件は博多の商人全体で『講』を作り受けようと思うのやがどうや?」
「それは我らにも商いの機会があると言う事ですか?」
「そうや、材木屋は材木、紙屋は紙と言う風に皆の得意な商いで博多の街全体で仕事を受けると言う事や」
「ですが、それでは買い叩かれたりしませんか?」
「大御所様はそんなセコイ事はせんって、それに今の御領主……では無くて県令さんの明智様の事は皆も良く知っているやろ、元々勘定方のお人や、ワシらの事をようわかってくれてるで」
とどうやらみんなが納得した様だ。
「島井殿それにしても大変な事になったな、ワシはこの度の大普請の入札は見合わせようと思っている、
大御所様直々にいただいた例の件があるからな」
「それは偶然じゃ、ワシも同じ様に考えていた、だがワシら抜きで、この大普請何とかなるのか?」
「そこは、堺の天王寺宗達さんや、津島の大橋信重さんにも力を借りんといけないと思うんや」
「そうですな、それがよろしいかと、しかし大御所様、支払いの方は大丈夫なんやろか?」
と島井茂久は少しだけ心配をした。
義勝の幕府は、正史の徳川幕府と違い米本位制を取っていない、米の相場で四苦八苦して、常に赤字の状態だった徳川幕府とは、経済力が大幅に違う、商業と工業、鉱業を奨励した事で、国庫は大いに潤っている、そして朱印状で銀の海外貿易を規制した事から、銀貿易による利益も莫大な物だった。
豊臣秀吉の大阪城には四億両を超える金があったそうだが、今の安土城の金の備蓄はそれを遥かに上回っていた。
その後数日博多に滞在した義勝は、毎朝義輔と剣を交えて、自分の技を伝授した。
そして、義輔を連れて『太宰府天満宮』を参拝する、600年以上前の、延喜十九年に建立された本殿は傷んではいるが立派な物だった。
「義輔、ここに祀られれいる神はどなたが知っているか?」
「はい、天神様『菅原道真公』ですね」
「そうだ、ここ博多は、平安の昔より異国から国を守る要の地、油断をするでないぞ、これにて義輔に『足利流綜合兵法』皆伝を許す、この脇差は亡きお父上から頂いた物だ、我らが祖、足利高経殿が新田義貞殿を討った際に手にした『鬼丸』を打ち直したと言われている剣だ、これを其方に授ける、源氏の誇りを忘れずに精進せよ」
「は、父上ありがたく頂戴いたします」
と義輔は少し涙ぐんでいる。
この脇差の謂れは父義達から聞いた物だが、義勝は眉唾物だと思っている、だが大事な事はその真偽では無く家宝とする脇差を義輔が父から譲られたと思う事だ、この思いが若者に新たな力を与えるのだ。
博多で必要な指示を全て済ませた義勝は、大阪に帰還する事にした。義輔以下、皆に見送られて、御座戦に乗り込む。
次に博多に来るのは南蛮の者を知る「倭寇」の者が来る時か『博多鎮守府』が落成した時になるだろう、そしてその時までに、南蛮船や大筒鉄砲などが入手できていれば良いと思っている。
大阪に戻って最初に訪れるのは正妻である美濃殿の部屋だ。
博多で入手した、「覇家台織」の帯を土産に持って行く。
「おかえりなさいませ」
と三つ指をつく美濃殿は幾つになっても美しい、
「博多はなかなか綺麗な街であった、次は一緒に行こう」
そう言って帯を渡すと、
「まぁそれは嬉しゅうございます」
と嫁いで来た頃と同じ様に、顔を赤て喜ぶところに実に癒される。
しばらく横になり和琴の音を楽しむと、美濃殿の部屋を後にした。
何しろ、正妻の他に側室が多数居て、その全部を回らないといけないのだ。
熱田の方の部屋では、次男義輔に「博多鎮守府総監」と言う海の将軍とも言う大任を任せた事を告げると『かな』は泣いて喜んだ、正妻の子である嫡男義家と比較して自分の子が冷遇されているのでは、と
思っていたからだ。
「義兄上の二人が義輔を立派に育ててくれた、礼を言わぬといけないな」
「もったい無いお言葉です」
こうして以下、美濃の方、三河の方、遠江の方、駿河の方、飛騨の方
と順に周り、最後は小牧の方の部屋になる。
その前に遠江の方との子で13歳になった三男小三郎と、駿河の方との子で12歳の四男小四郎の様子を見て、少し話をした。
二人共まだ元服まで数年あるので、その間になるべく一緒に過ごす時間を取る様にしようと思っている。と言っても義勝の場合はそれが道場になってしまうのは仕方が無い事だ。
妻妾に順位をつけてはいけないと思うのだが、義勝の中では、美濃殿、熱田の方、小牧の方の
三人が上で、後の四人はそれなりの扱いと言う感じになってしまっている。
そして、なぜだがやはり小牧の方には特別な感情がある様に思える。
小牧の方と会う時だけは、非業の死を遂げた本物の義介の霊が乗り移っているのかもしれない。
一方で博多に残った義輔は、毎日の様に松浦の者と海に出て、海戦を学んでいる。
「なるほど、海の上では潮と風に気を配るのか、だが潮目などどうやって見るのだ?」
「はは若様、ワシらは子供の頃から毎日海に出ています、20年してやっとこの海の潮目がわかる様に
なるのです、ほら、そこの海の色、先程と変わりました、これは潮流が変わる兆しです、そして沖に出れば海流と言うまた別の流れがあるのです」
「なるほど、面白いな、あそこで波が泡立っているのもその潮目か?」
「そうです、若様は目が良いですな」
と言う感じでまだまだ、初めて船に乗った子供と同じレベルだが、こうして毎日船に乗り、松浦党の沿岸警備に参加している内に、彼らも義輔をお荷物では無く仲間として扱う様になって来る。
義輔は「博多鎮守府総監」と言う名の置き物になるつもりは無かったのだ。
そんな義輔を松浦興信と村上康吉が暖かい目で見守っている、二人共今まで何人かの領主達に支えてきたが、船に一緒に乗り皆と同じ飯を食い、同じ様に汗を流す領主やその子息は存在しなかった。
城で偉そうに指図をするのが当然と思っている者ばかりだったのだ、それが義輔は全く違う、率先して
海兵隊として集められた者達と船上の鍛錬に参加して、海の戦を覚えようとしている姿に好感を持ったのだ。もちろん義輔の側には明智勝光と龍造寺胤家の二人がいつも同行している。
「うむ、海の上で矢を射るのは難しいな、的に全然当たらん」
「波で揺れますからな、上がり切った時、下がり切った時に射るのです」
義輔の弓は特注の六人張りの弓だった、父や兄の九人張りには及ばないが、射程も威力も他の者を圧倒している。
「成程、大御所様のお子よな、中々のご器量じゃ」
「そうであろう、だから言ったであろう、我らの旗頭として相応しい若殿だと」
こうして義輔がかっての水軍の頭領達と「海兵隊」の兵達と信頼関係を築いている間にも、陸では、安土城を上回る規模の「博多鎮守府」の姿が少しずつ見える様になり、並行して唐津の湊の整備も始まり、船大工達が新しい大型の唐船を建造する様になっている。




