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外伝5 朝倉宗滴

 越前朝倉氏は、元々は斯波氏の家臣である、甲斐氏、織田氏と並んで守護代となった家系だった。

だが、七代当主の朝倉孝景の頃に、守護代甲斐常治と共に当主斯波義敏と対立、長禄元年に義敏を破り

義敏を京の東山東光寺に蟄居させる事に成功する、両者が和解したのは翌年になるが、その間に越前では義敏派と甲斐派が争い、その結果義敏は家督を嫡子松王丸(斯波義寛、義為の祖父)に譲らされて、周防の大内教弘の元に追放される事になってしまう。この後朝倉孝景・甲斐敏光(病死した常治の嫡男)は計略で幼少の松王丸に変わり斯波家の家督を斯波の分家渋川義鏡の子である斯波義廉に継承させる事に成功する。

 その後文正元年、義敏は将軍の差配で武衛家の家督を取り戻し尾張・遠江・越前3ヶ国の守護に復帰するが、既に越前の実効支配力を失っており、応仁の乱の際に将軍足利義政と管領細川勝元から「一代限りの守護権限行使」の約定を取り付けた朝倉孝景に越前を奪われる事になった。孝景はこの際に甲斐氏も越前から追放する事に成功している。

 その後越前では、朝倉氏と斯波氏との争いが続き、文明十三年、孝景の嫡男氏景の頃に越前からほぼ完全に斯波氏の勢力は駆逐されている。この時、朝倉氏景は越前支配の大義名分を得る為に旧敵斯波義廉の子を擁立して、足利義俊と名乗らせ、足利将軍家の連枝として鞍谷公方を継がせ、名目上は越前を鞍谷公方の領国としている。

 その後九代朝倉貞景の頃には一族の朝倉景豊、朝倉景総などが相次いで反乱を起こしたが、それを伯父

朝倉教景(宗滴)の協力で鎮圧、その後永正三年には越前は加賀、越中、能登の一向一揆勢が20万といわれる大軍で侵攻してくるが、朝倉宗滴はこれと戦い撃退している。この後、越前は仮初の平和な時代を迎える、貞景は永正九年に死去、嫡男孝景が後を継ぐ。

 この孝景は若い頃は京の将軍の要請で、近隣諸国に出兵して成果をあげ、一向宗の門徒とも取り敢えずの和睦をするなどして一族の悲願だった越前守護の地位を得た優秀な領主だった、だがその後、朝廷や幕府との関係が深まるにつれて、京風の文化に染まり、京の都から逃亡して来た公家達に影響されたのか、風体も武士から貴族風に改めるなどして、本拠地一乗谷は文化的には大いに発展したが、軍事面は一族の朝倉宗滴、朝倉景高に任せる様になり、今では政務も満足に取らずに、蹴鞠、連歌、茶の湯三昧になっている状態だった。


「孝景殿は今日も蹴鞠か?」

「はいその様でございますな、評定へ御臨席頂ける様にお願いをしたのですが『良きに計らえ』との事でした」

と聞いて、朝倉宗滴は肩を落とした。

 この評定は尾張、三河、遠江、駿河、美濃、伊勢の六カ国を有して、勢力を大幅に伸ばして、着々と軍事力を蓄えている斯波義為への対応を協議する予定だった。越前をめぐる斯波氏との争いは40年近く前宗滴の兄氏景が当主だった頃に決着がついていて、宗滴としては何故に今更と言う思いだが、斯波が攻めてくる準備をしているとの報告があれば、それに対応するのは当然だった。

「和平の望みは無いのだな?」

「斯波家から見れば、我ら朝倉は臣下の分際で国を乗っ取った反逆者と言う事になりますからな、それは有り得ないですな」

「では戦うしか無いか、しかし解せん斯波家の先代義達殿の頃には尾張一国も治められぬ状況だった筈だが……」

「当代の義為殿は確か御館様と同い年の筈ですね、身の丈六尺を超え八人張の強弓を引き、京では今鎮西八郎と言われています、商人達の話では政にも商にも通じているとか」

「そうか、どれ程の器量か、一度会うて見たかったがそれも叶わぬな」

と宗滴は今の一応の主君である、朝倉孝景と比較してため息をついた。

 孝景は幼少の頃は文武に優れていて才もあり、曽祖父である『孝景』の名を継ぎたいと言った時には

宗滴は『その意気や壮!』と将来を期待した物だった、だが今では『小器夙成』の見本の様になってしまっている。

 越前の守護として、徴兵の準備、兵糧の確保、関係が良好な越後の長尾や若狭の武田と連絡を取り合い情報収集と援軍の手配などをしなければいけない事は山の様にあるが、全く興味を持たないのだ。

「全く、亡き父上が『孝景条々17か条』を残したと言うに、当主があれでは国の将来が危ういわ」

と不出来な又甥を嘆くが、嘆いている暇は無かった。

「それで、斯波の兵は我らの精鋭一乗谷勢と同様と言うのは真なのか?」

「は、全軍で50000以上、全てが常備兵と言う話です、なので斯波軍は、その季節に関係無く兵を動かせるとかで、農繁期も関係無く攻めてくると言う事です」

 宗滴も農民兵に頼る兵制に限界を感じ、常備兵として精鋭『一乗谷勢』を育成していた、だがその数は

5000に満たない、そして越前では秋の刈り入れが終わった状態で、全兵力をかき集めても15000、多くて17000がやっとだった。

 兵力で敵わない以上、守りを固めて隣国からの援軍を待つと言うのが定石だ、敵の動向を探る間者からは、斯波家と北近江の京極家が同盟を結んだと言う情報が入ってきている。

つまり斯波家は北国街道から攻めて来ると言う事で、それは恐らく来年の春、田植えの時期だろう

 この頃に朝倉領で農民兵を徴兵するのは、ほぼ不可能になるからで、もし仮に無理矢理に徴兵をすると田植えができずに秋の収穫に大きな影響が出て一揆や反乱につながる恐れもある。

「まずは、金ヶ崎城と天筒山城の修理と改築を急がせよ、兵糧米の運び込みも忘れるな」

と宗滴は指示を出して、この事を当主である孝景に報告しに行く。

 だが、朝倉館の茶室に居た孝景は、興味なさそうに話を聞くと

「大叔父殿、戦の事は全てお任せして有るはずです、私はこれから連歌の会で忙しいのです」

と言うと、茶室から出て行ってしまった。

「(兄上、すまんな、あれが当主では朝倉家はお終いかもしれん、若い頃に厳しく育て過ぎたか……)」

と茶室で一人、孝景の祖父である兄に詫びた。

 茶室の床に『茶入飾り』として飾られている大名物の茶入れ『九十九髪茄子』を見つめた。

これは三代将軍足利義満が所持していたと言われる茶入れで、宗滴が苦労して入手した物だった。

「(そうか、金が足りんな、これは質に入れるか)」

 と茶入れを持ち帰る事にした、この茶入れは金400貫になり、兵達の武器や具足の購入費用の足しになった。


 そして永正十五年の四月、宗滴の下に斯波軍が美濃から出陣という一報が入る。

「敵の先鋒、20000以上、旗指物から服部友成殿が先鋒の将と思われます、他にも熱田神宮旗が確認されています」

「『疋壇城』は今どうなっている?」

「兵1000と近隣の百姓が籠っていますが」

「兵達には、兵糧と共に金ヶ崎城まで引かせよ、百姓どもは村に帰り、おとなしくしている様に伝えよ」

武田殿と長尾殿に伝令を急げ」

 宗滴の立てた作戦は斯波軍を金ヶ崎城と天筒山城に引き付けて、後方から援軍の武田軍に攻撃をさせて

更に、援軍の長尾軍が到着したら、本隊が出陣して、街道沿いで斯波軍を挟み討ちにすると言う物だった。

 この時斯波家の情報統制は完璧で、別働隊が美濃街道を進むと言う事を宗滴は全く気がついていない、更に、朝倉領に入り込んでいる甲賀衆によって、若狭と越後に向かった伝令が途中で討ち取られる事も

知らなかった。

 

 こうして、北国街道を下がって来た斯波軍を宗滴は自ら出陣して、金ヶ崎城と隣接する天筒山城に立て籠って迎え撃つ事になる、この時朝倉家には大戦を任せられる大将が存在しないのだ、副将格の朝倉景高は武勇には優れるがそれだけで大軍を率いるのは無理だった。

 だが初手から宗滴の作戦は躓いてしまう、金ヶ崎城で深夜に火の手が上がったのだ。

「パチパチ」と言う音と共に部屋の外が赤く明るくなり、煙の匂いが漂ってくる。

「火事だ〜」

と言う兵の声が聞こえてくる

「火の手はどこだ、急ぎ武器庫と兵糧庫を確認せよ」

目を覚ました宗滴は取り敢えず具足を付けて城の庭に降りる、火の手は一箇所では無く、櫓、倉、兵舎と、本丸のあちこちから上がっている。

「おのれ、火計か、だがどうやって?」

「各々、武器をとれ、手の空いている物は兵糧を持て、城を捨て天筒山城に向かう」

と指示をする。

「敵の将、服部友成と言ったか、もしや手の者を城に忍ばせていたのか?」

と一番危険な可能性を考えたが、それよりも城から脱出するのが先だった、そこに更に悪い知らせが入る

「殿、天筒山城も既に火に包まれております」


 結局両方の城に居た味方7500は、火に追われる様に山から降り、7200程に数を減らして山麓の街道筋周辺に陣を張る事になる、城に蓄えていた武器や兵糧も持ち出せたのは半分以下だった。

「急ぎ、『戌山城』に早馬をだせ、朝倉景職に後詰の兵と兵糧、矢を持てと」

そう指示をする。


「大丈夫だ、この街道は細い、大軍が一度に攻める事はできぬ、まだこちらが有利、やがて武田の援軍が来る」

 宗滴はまだ自分の作戦に自信があった。

だが、その後斯波側は、その街道が細いのを逆手に取って、2000程度の兵が攻撃しては引くを繰り返していく。

「何、敵の矢は届くが、こちらは届かないだと?」

 風向きは横風で、条件は同じはずだ、考えられるのは敵側の弓兵の方が練度が高いと言う事だろう、

しかも、敵は数刻攻めては引き、違う部隊に変わると言うのを、まるで嫌がらせの様に日夜問わず繰り返しているのだ、これでは兵の気力が持たなくなる。そしてここに来て宗滴は最悪の可能性に気が付く

「(まさか敵は我らをここで足止めして、本隊は美濃街道から来るのか?)」

だが、この状態では引く事はできない、

「大丈夫だ一乗谷の防御は鉄壁だ、例え数万の敵でも簡単には落ちぬ、それにもう長尾の援軍が到着するだろう」

 そう思っていたが、数日後に後方から黒い煙が登っているのが見える、

「おいあれは、館の方では無いのか?」

兵達に動揺が走り、本陣に混乱が起きたその時、今までとは違い敵が一斉攻勢に出てくる。

宗滴はその敵の旗が一向宗の物だと見て、

「応戦せよ、全軍突撃!!」

 長年一向一揆と戦ってきた宗滴だ、一揆衆の戦術は数を活かした包囲殲滅戦だと言う事を熟知している

だが、所詮は百姓一揆、宗滴が自ら鍛えた精鋭部隊の攻撃には脆く、今までも数で勝る一揆衆を何度も

打ち負かして来たのだ、だから今回も敵を蹴散らす戦術を取った。

 その戦術は功を奏し一揆衆は崩れて、敵は後退して行く

「今のうちに敵の数を減らす!!」

その様に兵全軍に檄を飛ばして、宗滴は自ら騎乗して先頭に立って敵を追い敵を蹴散らして行く。

だが、少し開けた場所で後退していた敵が止まり、左右には伏兵が居る。

「しまった罠だ、敵に誘い出された全軍戻れ!」

と言うが、もう遅かった

「朝倉景職様、御討ち死に!」

との報告が入り、並走していた朝倉景高の姿も既に無く、更に、後方一乗谷の方から、敵の別働隊が迫って来ると言う物見の兵からの知らせが届く。

「一乗谷が落ちたか、もはやこれまで」

戦意を失った宗滴は馬を降りると、供の者に介錯を命じて、潔く腹を切った。

朝倉家を二代に渡って支えた名将、朝倉宗滴は42歳の生涯をここで終えたのだった。


 斯波義為は、名将の誉れ高い朝倉宗滴の死には、最大級の敬意を持って接して、勝者として熱田の祖父の墓に首を供えた後、朝倉家の菩提寺である一乗谷の『心月寺』にその首を丁重に葬った。

これで外伝は一旦終了です、近々二部を再開しますので、よろしくお願いいたします。

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