外伝4 坂東武者
外伝4話目です、FF14がナギ節に入ったので、また色々と書き初めています。
(FF14については僕の別の小説で触れています)
そして、新作の小説もUPし始めました、そちらは中世ヨーロッパの話になってます。
お暇な方はどちらも読んでいただけると嬉しいです、そして外伝はあと一話位で終わる予定ですが、
まぁその辺りは気分と言う事でw
「そもそも奴らは何で争っているんだ?」
と義勝に聞かれた定李は頭を掻きながら
「ちょっとお待ちください、どこかに纏めて書き留めた物が有るので持って来ます」
岐阜城の義勝の私室での会話である。
「えーとですね、古河公方ですが、元々は足利高基殿と先代の公方足利政氏殿の親子喧嘩が原因ですね、
喧嘩の原因はどうやら上杉家の跡目争いの様ですが、それでその際に御舎弟の足利義明殿が御父上と兄上を見限って、独立して小弓公方を自称、それ以降両者で争っていると言う事ですね、ちなみに義明殿の方が武勇に優れ人望もある様ですね」
「なるほどね、まぁ親子喧嘩や兄弟喧嘩は尊氏殿の御血筋の伝統だからな、それで上杉の方は?」
「上杉の方は、簡単に言うと、山内上杉家が宗家と言う事で、代々関東管領の地位を継承していました、扇谷家はそれが不服で、反抗をしたと言う事ですね、まぁ途中で古河公方や堀越公方や、伊勢盛時殿との関係が入り組んで、現在に至ると言う感じですね」
「なるほどね、しかし愚かだな大した理由も無くお互いに争って『惣無事令』に逆らうとは」
「はい、誠に」
その頃、坂東(関東)の地、古河の公方館では、足利高基が関東管領上杉憲房に対して怒りを表していた、足利高基はこの年40歳を超えて、父から無理やり受け継いだ古河公方の地位に着いて12年以上経っている、だが勝手に独立して小弓公方を自称している弟の義明を誅する事もできず、今だに悲願だった関東の平定すら出来ていない。そんな時に左大臣足利義勝の花押入りの書簡が上方から届いたのだ。
一読した高基は上杉憲房に書簡を渡すと
「面白くない事ばかりじゃ、なぜ我らの方が兵が多いのに弟の兵の方が強いのじゃ?、しかも斯波の小倅が『足利義勝』だと?分家の分際で足利を名乗るとは片腹痛いわ、大体何故わしの官位が正五位下民部大輔なのに、分家の小倅が正二位左大臣で右近衛大将を兼ねるとはどういう事だ、そもそも将軍が14歳の義晴と言うのが間違っているとは思わぬのか? 帝は気でも触れたのか、細川の者共は何をしていたのじゃ」
足利家の本家、分家の件は斯波武衛家と他の足利一族とは考え方に大きな隔たりがある。
斯波家はあくまでも足利姓を称する足利別流と言う立場で、二代将軍義詮の頃に執事(管領)就任を打診された足利高経は執事は家臣の役目で、宗家と同格という意識からそれを断っている、結局執事の地位が幕政に参与する有力守護大名の長である、と言う認識から四男義将が高経の後見で職務を行うと言う形で
執事となりそれはやがて管領職に姿を変えて行く。
そして武衛家と称される様になり、自ら斯波姓を名乗るのは越前を喪失して管領の地位を追わた義勝の祖父の時代からになる。
つまり、斯波武衛系はそれまではあくまでの足利宗家の別流であり、分家の関東(鎌倉)公方家や家臣の
吉良系などは格下の家格と言うのが斯波家側の見解で、それに対して他の一族は、足利高基の様に斯波家は遠く鎌倉の時代に別れた分家で他の家と同じ宗家の臣と言う認識があった。
正史では、織田信長の庇護下に入った最後の斯波家当主、斯波義銀がこの事を理由に吉良義昭と席次を巡って争ったと言う話が伝わっている。
閑話休題
八つ当たりの被害者上杉憲房は溜息を吐きながら答えた。
「公方様、お気持ちはお察しいたしますが、問題はこの『惣無事令』でございます、従わなければ朝敵として討伐すると書かれていますが?」
「ふん、そんな脅しに乗るか、大体朝敵がなんだ、我が祖『長寿院公』(足利尊氏)は朝敵とされたが、それを跳ね除けて幕府を開いたのじゃ、もし義勝が討伐に来たら返り討ちにしてくれる」
上杉憲房はそれを聞いて
「(ふん、無能な神輿の分際で偉そうに、だが当分は利用させてもらおう、早速……)」
憲房は古河公方、足利高基と関東管領の連名で、
『幼少の将軍を誑かし、左大臣を詐称する奸臣斯波義勝を討つ』
と関東全域に触れを出して、諸侯を集め兵を募った。
これに呼応したのが、下野の宇都宮忠綱、常陸の真壁家幹らだが、それ以外の有力な国人領主達は
日和見か、早々に恭順を表明した小弓公方足利義明と扇谷上杉の上杉朝興に従うか、小田原の義勝軍の松平昌安、上野に侵攻した服部友成の元に参陣する者も多かった。
これは初戦で、松平昌安と服部友成が圧倒的な武力を見せつけた結果でもある。
「憲房これはどう言う事じゃ、なぜ我らが坂東の地で負けているのじゃ、えいお主には任せておけぬ、わしが直々に出陣して、上方の者共を蹴散らしてくれるわ」
と言う高基に、真壁家幹が媚を売るように賛同する。
「源平の昔、富士川の戦いでは70000の平氏側に足して、源氏は40000に満たない兵でこれを壊滅させたと言いますからな、上方の兵など恐れる事はありません」
高基はそれを聞いて大いに喜び、早速出陣の触れを出す。
「(愚か者共め、史実も知らんのか、まあ良い、一度痛い目に合えば少し大人しくなるだろう)」
そう思った憲房は高基の好きな様にさせる事にした。
足利の兵5000と真壁の兵7500で意気揚々と出陣した高基は、古河の南西に有る、上杉朝興側の城
を囲む、しかし城主の上田政広が持ち堪えている間に、上杉朝興の兵5000と松平昌安麾下の三河衆に率いられた兵20000の援軍が押し寄せて来て、高基と家幹は戦う前に囲みを解き古河に撤退した。
「おのれ、上杉朝興、わしに従わぬ所か歯向かうとは」
と、古河に逃げ戻って来た高基は怒り心頭で、酒を呷っている。
この時上杉憲房は足利高基を見限っている。
「(見誤った、高基殿では無く義明殿を神輿に担いでおけば、もう少し戦い様もあったかもしれん)」
と思うが既に後の祭りだ。
そこに、京の将軍、足利義晴の名で沙汰が届く。
「なんだと、関東公方の職を廃するだと? 見よ憲房、お主も「関東管領職」と武蔵守護を剥奪すると書かれているぞ」
この時憲房は自分達の負けを認めざるを得ないと認識した。
そもそも、関東の諸侯を率いて兵を集める根拠は、高基が関東公方で憲房がそれを補佐する関東管領職に在ると言うのが前提だからだ、その地位を失えば諸侯を従える大義名分が無くなってしまう、それでも
高基や憲房に人望があれば、関東の諸将も従ってくれるかもしれない、だが今の状況ではそれは不可能な事だったのだ、当然この事は既に関東の諸将にも広く公知されているので、将軍からの使者を斬り、この沙汰を無かった事にする事もできない、これ以降陣から抜ける国人衆も多くなるだろう。
憲房自身も所領の上野を失った今、残っている武蔵の国国鉢形城に籠城して、時を稼ぎ少しでも有利な条件で講和をする以外生き残る策は無いと考えて、密かに手勢を連れて国鉢形城に入った。
これを知った高基は激怒した、
「おのれ卑怯者の憲房めが、許さん、わしが自ら成敗してくれる」
それを止めたのは、義兄弟でもある宇都宮忠綱だ、忠綱は仇敵の常陸の佐竹氏と幾度も争い勝利をした勇将であり、戦で鍛えられた兵は精強だった、高基陣営で最強の忠綱に止められて、高基は正気を取り戻した。
「敵が憲房殿を攻めている間に我らが背後に周り武蔵松山城を落としましょう」
と言う忠綱の進言を高基が受け入れたのだ。
だが、この忠綱の作戦は実現しなかった、予想より遥に早く、上杉憲房は支城の御嶽城などを落とされて、居城国鉢形城も落城、忍城へ向かう途中で追撃されて討ち死にした、との報告が入ったのだ。
「敵の将服部友成と言ったか、恐ろしい男だ神速とはこの事か」
と忠綱は天を仰ぐ、忍びの者達を率いる服部友成にとって城攻めは最早、お家芸とも言える域に達している事を忠綱は知らなかった。
そこに更に伝令が入る、敵の本隊、約60000の大軍が、小田原を発して古河に向け進撃中との事で
総大将足利義勝の姿と、官軍の証である『錦の御旗』と足利将軍家の象徴『武家御旗』の二旒の旗が確認されたと言う。
「何、錦の御旗と武家御旗だと、おのれ小倅、どこまでもわしを愚弄しおって」
と高基は更に激怒している。
更に追い討ちの一報で、忍城を落とした服部友成も、約60000の大軍で古河に向け進軍を開始したとの報だ。
「公方様、敵が合流したらこちらに勝機はありません、何、数が多くても敵は上方の烏合の衆、我ら坂東の精鋭の敵ではありません、全軍で出陣して先に足利義勝、失礼斯波義勝を迎え撃ちましょう」
と言う宇都宮忠綱は消極策ばかりだった、上杉憲房と違い耳に心地良かった。
高基はその策を取り入れて20000の全軍で出陣して、下総国『境根原』に陣を張った。
この策は半分だけ成功する事になる。
先行していた上杉朝興が、後続を待たずに突貫して宇都宮勢に討ち取られる事になったからだ。
「忠綱、見事じゃこの戦の後で、恩賞は望み次第じゃ」
と喜んでいた高基だが、直ぐにその喜びは糠喜びだった事を思い知らされる。
上杉朝興と5000の兵を失った松平昌安だが、50000の精鋭は健在だ、邪魔な国人衆達の援軍を
後方に下げて、鶴翼の陣で包囲殲滅戦を敢行、形勢不利を悟った忠綱は、高基を連れて『水海城』まで引く。
「ほう、敵にも中々の戦上手が居るな、無理に追うな、一度陣形を建て直す」
と歴戦の勇、松平昌安は兵を止める。
伏兵を配して勢いに乗って追撃する敵の数を減らすつもりだった、忠綱はここで初めて
「これは勝てないかもしれない」
と悟り、早々に水海城を捨てて、古河まで撤退をする。
勝てない以上、負けない戦で講和に持ち込むしか無いからだ、これは
奇しくも上杉憲房が取った策と同じだった。
歴代の古河公方の墓所が有る徳源院付近に陣を張った忠綱だが、20000の味方は討ち死にしたり逃亡したりして、既に5000を割っている。
忠綱は既に万策尽きた事を悟り、最後に一戦して降伏して、なんとか高基の命だけでも救おうと思慮している。
だが、そんな忠綱の心情を知らずに、高基は本陣の床几に腰をかけて、昼間から酒を呷る醜態を晒している。
「(あの時、義明様を立てていればこんな事にならなかったか)」
と悔やんでも仕方が無い、ただその義明が再度出家して『空然』として鎌倉に隠棲すると聞いて少し安堵した。
それから数日、100000を超えた敵は攻める気配も無く、陣を張り不気味に沈黙をしている。
だが翌朝、忠綱は驚愕する事になる。
四騎の武者を従えた、敵の将らしき男がこちらの陣の目前に現れたからだ。
供の武者の背には『錦の御旗』と『武家御旗』「足利二つ引」の大金扇の差物が翻っている。
「(まさか、足利義勝殿か、いやそんな筈は)」
と思っていると、一人の武者が前に出て、大音声で足利高基を罵り始めた。
高基を見ると、盃を叩割って激昂し、
「誰か、あれに答えよ」
と叫んでいる。
真壁家幹が前に出て何か言い返しているが動揺して声が小さく、何を言っているのかわからない
そして、敵の武者が最後に
「我が主人、今鎮西八郎足利左大臣義勝公の弓、しかと味わえ」
と言うと足利義勝らしき武者が弓を番えて、鏑矢を……
「(何、何故鏑矢を水平に射つ?)」
と思うっている間に、爆音を立てた鏑矢が、本陣奥の高基の具足の胸を貫いた、いや鏑矢なので
貫く事は無く、着矢の衝撃で、高基が後方に弾き飛ばされただけだ。
「公方様!」
直ぐに駆け寄り、高基を助け起こすとなんと具足の胸の部分が割れている。
「(何とも恐ろしき弓の腕、まさに今鎮西八郎じゃ)」
この一矢で、最早敵と交戦しようと思う者は一人も居なくなってしまった。
「(我ら坂東武者として、これ程の将と相見えた事、末代までの誉か)」
茫然自失して、全く動かない高基を見て、
「(同じ足利の御一族とはいえ、ここまで器が違うとは、初めから敵うはずも無い)」
と忠綱は自分の兵に指示して旗を巻かせて、槍の穂先に傘を付けて敵に合図を送る
忠綱は既に物の役に立たなくなった足利高基の代わりに副将として、降伏を決断したのだった。




