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外伝2 伊勢新九郎氏綱

外伝2 です、朝倉家にするか古賀公方足利家にするか悩んでいたら、あ、伊勢(北条)氏綱と今川氏親にしようと思い立って書きました。

本編の四章後半の頃の話しになります。


 永正十一年正月、小田原城の伊勢新九郎氏綱はこの年28歳、斯波家との戦で受けた矢傷が悪化して死去した父盛時の跡を次いで四年になる。

 だが氏綱は正月を祝う気にはなれなかった、この間、三浦氏以下の相模の国の国人衆の反乱や、関東管領上杉家との争いで相模の国の東半分を失っている。

 幸いにも上杉家は家督争いが収まったばかりで、当主となった上杉憲房はまだ関東管領職を継いでおらず、全面攻勢には及んでいなかったのが、相模の国の西半分をかろうじて維持できている要因だった。


「検地を急いだのがいけなかったか、しかし今更悔やんでも仕方が無いな」

「兄上、その様な弱気では困ります。玉縄城をなんとか取り返す算段をつけて頂かないと」

と正月から声を荒げるのは、弟の伊勢氏時だ。

 氏時は居城玉縄城を出て、三浦氏の本拠地新井城を攻略している所に、伊勢家に反抗する国人衆達に

玉縄城を落とされてしまっている。

 これにより、父の死去以来何かと反抗的になっている相模の国人衆達が更に離反すると言う結果になっている。これは小田原城に居て、甲斐武田家に備えていた氏綱の落ち度でもある。


「兄上、ここで何とか盛り返さないとこのままではジリ貧ですぞ」

と氏時は言うが、そんな事は氏綱自身が一番良く分かっているのだった。

「兄上、新年おめでとうございます」

とそこに入って来たのは駿河の名門国人衆葛山家の養子となったもう一人の弟、氏広だ。

 葛山氏広は今川家の御家門として、今は筆頭家老の立場にある。

「おう、氏広、なんだ正月早々、駿河の御館様にはもう挨拶は済ませたのか?」

「いえ、御館様は相変わらず自室に引き篭もったままで、我ら家臣の前にお出ましにもなりませんから」

「そうか、氏親殿にも困ったものだな」

 氏綱にとって駿河の今川氏親は歳の離れた従兄弟であるが、父が長年後見をしていた事もあり、

兄弟同然の関係だ、二人きりの時には普通に氏親の事を兄上と呼んでいた位だ。

 氏親は文武両道の優れた武将で、領内の統治についても氏綱が見本にしていた。

だが、その氏親は四年前の敗戦以来人が変わった様になり、昼間から酒を煽り自室に篭っていると言う

この間に、今川家は勢力を大幅に失い、西駿河は最早仇敵斯波家の物となってしまった。

 今の時代なら、この氏親の症状は戦場で受けた心因性のPTSDと言う事で治療方法もある程度確立しているが、この頃はそんな知識はまだ無いから『情け無い奴』との一言で片付けられてしまっている。

 氏親は自分の油断から目の前で父親代わりだった叔父伊勢盛時が盾となり矢に貫かれ、しかもその矢が自分の具足を貫いて背に傷を負った事、そして重傷を推して小田原に帰還すると言い張る叔父を止められずに結果的に死去させてしまった事、戦さに負けて重臣を多数失った事から、四年経った今でも立ち直れないで居る。

 正史では、遠江を制圧して、京の文化を駿府に取り入れ和歌と連歌を嗜み、分国法『今川仮名目録』

を制定して名君と言われた今川氏親だが、この世界ではその片鱗も見る事ができない愚将へと成り下がってしまっていた。

 

「兄上、実はご相談があって参りました」

と氏広は言う

 今川家の重臣達は、このままでは名門今川はお終いだと考えていて、無理矢理にでも今川氏親を担ぎ出して、西駿河と遠江を斯波家から奪還する計画を立てている……との事だった。

 更にここで氏親が立ち直らなければ、家督をまだ生まれたばかりの嫡男『竜王丸』に譲らせて隠居させると言う意見まで出ているらしい。

「しかし氏広、斯波家は今や、尾張、三河、遠江の三国の守護、しかも昨年は美濃も手中にしたと言うでは無いか、今の今川は兵を1000も集められれば良い位では無いのか?四カ国の兵と言えば15000近くを相手にする事になるぞ」

「そこで、兄上にご相談なのです、伊勢の兵を出していただけませんか?、斯波義達は我らが父の敵でもあります、伊勢の精兵なら……」

「兄上、これは千載一遇の機会ですぞ今川に助力して、いやむしろ我ら伊勢が斯波義達を討ちましょう、さすれば、我らに歯向かう相模の国人集達も再び従う様になるはずです」


「うむ……」

 この時氏綱は、全く別の事を考えた。

兄と慕う今川氏親だったが、今のままでは今川家は滅びてしまう、それならいっその事、この戦に乗じて

今川家を乗っ取ってしまえば良いのでは?と考えたのだ。

 現在動員できる最大兵力は伊豆が4000、相模が3000、この全軍で斯波家と戦い、戦況が有利ならそのまま曳馬城を落とせば良いし、もし不利なら今川家を盾にして戦場から離脱してガラ空きになっている駿府を落とすと言う方針を即座に考えた。

「よし氏広、弥生になったら出陣じゃ、我らも全軍で司波に当たろう、これよりわしは興国寺城に入る、氏時、大道寺盛昌に声をかけ、荒木、荒川、在竹、松田に兵を出させて興国寺城に兵を集めよ」

と指示を出す。

 この大道寺以下は父からの譜代の家臣で、七手御家老衆之家と言われていたが、多米家、山中家の当主が討ち死にをしていて、現在は五家になってしまっていた。この時氏綱は一度小田原城を捨てる覚悟で、戦いに臨む決意を固めている。


 そして、その歳の三月(弥生)、6000の兵を掻き集めた伊勢氏綱は、駿府に向かって出陣をした。

これに呼応して、駿府の葛山氏広も兵を集め、今川の残存した重臣達と一緒に今川氏親に膝詰談判をして、出陣を了承させた。

 

 駿府で合流した、伊勢・今川連合軍はそのまま西駿河に侵攻して、今川から離反した国人集達の城や砦を攻めながら西進する。

「なんだ、たわいの無い、ろくに戦わずに城を明け渡すとは」

 西駿河の国人集達には、『攻撃されたら兵糧を持って遠江曳馬城へ逃げ込めと』と言う斯波義為からの指示が行き届いていて、それに従っているだけなのだが、この時の氏綱はそれが見えていなかった。

 それに気がついたのは先の戦いで父が負傷した『木原畷』に陣を張った頃だった。

「妙だな、駿河や遠江の国人衆が誰も参陣してこない」

 この時代は戦さに勝っている方に味方するのが当然なので、ここまで多数の城や砦を落として来た、伊勢・今川連合軍に加勢する国人集が参陣して来る筈だった、それが全く無いと言うのは異様な事なのだ。

 そしてここに凶報が入る。

「なんだと、駿府が落とされただと?」

 松平昌安率いる斯波家別働隊によって、駿府の今川館が制圧されたと言う知らせだった。

ここで伊勢氏綱は自分の立てた計略が完全に失敗した事を悟る。

駿府が落ちた事で、最早後退する事もできず、途中の城や砦の兵糧が空だった事から、食糧は後数日しか持たない、つまり野戦で斯波家に勝利して、曳馬城を落とすしか生き残る方策が無いのだ。しかもその斯波家は別働隊を出してもまだ、15000以上の大軍だった。

 だが伊勢氏綱はまだ諦めていない、設営が終わったばかりの目前の斯波家の陣に夜襲をかける事で、大軍を混乱させて、その隙を突く戦術を即座に考案して、弟の伊勢氏時に精鋭1000の兵を用意させた。

「氏時、頼んだぞ」

「兄上、任せてくれ」

と弟を送り出したが、それから一刻もしない内に

「敵の夜襲だ!!」

と味方の陣が大混乱に陥る。

「(何故だ、敵の方が圧倒的に数が多いのに、なぜ夜襲など?)」

「申し上げます、葛山氏広殿御討ち死に」

と今川家の伝令が伝えてきた。

「(まさか、弟が?、斯波義達とはここまで恐ろしい部将だったのか……、父上は凡庸な武将だと評していたがとんでも無かった、勝てるわけがない)」

と、氏綱は肩を落とした。

 そう氏綱は知らなかったのだ、この戦場を支配しているのは、敵の大将斯波義達では無く、その嫡男で

氏綱より若い斯波義為とその懐刀の千秋定季だと言う事を。

 そしてしばらくして、1000の兵を半分以下に討ち減らされ、満身創痍の氏時が帰還してくる

「兄上、面目ない敵の守りが固く、本陣どころか全く近づけ無かった」

とこちらも肩を落とす。

「良い、今夜はもう寝ろ、明日は早朝から大戦になる」

と氏綱はそう言って、兜を外して床几に腰を下ろした

「(日が登ったら直ぐに撤退を開始するが、どこに逃げれば良いのか、海に向かって海岸で船を徴発するか)」

等と色々と思案している内にいつの間にか机にもたれて眠っていた様で、

「兄上」

 と氏時に体を揺すられて目が覚める、既に朝日が登って居て、味方の陣を見ると兵の数が随分と減っているのがわかる、夜の間に逃亡したのだろう。


 結局、その日の戦闘は圧倒的な戦力差で一刻も持ち堪える事ができず、弟氏時は戦死、いつの間にか後方にも敵が回り込んでいて、完全に包囲されている。

「氏綱殿」

声を掛けられて振り向くとそこには今川氏親の姿があった。

既に甲冑を脱いで、自刃の用意をしている。

「氏綱殿、死に場所を与えてくれて感謝する、先に行くぞ」

とそう言って、氏親は腹を切った。

「兄上、お見事です」

氏綱はそう言うと兄と慕った従兄弟に黙祷を捧げ、自分も用意をして、供の兵に介錯を頼み腹を切る。

「父上、不肖の息子をお許しください」

そう心の中で父に詫びた。


 この戦いで、今川家は消滅した、今川氏親の嫡男竜王丸は、駿府今川館陥落の際に母大方殿(正史での寿桂尼)の手で逝去、大方殿も自刃して果てた、伊勢家は興国寺城に残した松田盛秀が伊豆に逃れそこで、箱根権現社の別当寺『金剛王院』で僧籍であった氏綱の末弟、菊寿丸を還俗させて当主として辛うじて家名を存続させる事になった。











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