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第十二章 天下静謐 

二部との整合性の為、一部修正しました

第十二章 天下静謐 


 大永七年は、槌音と共に始まる、安土では白亜の六層七階の天守が姿を現し、本丸御殿、御幸御殿、二の丸御殿と三の丸の道場と重臣達の屋敷、城内の西側山麓の近江本願寺、そして城下町が完成しつつある。 ちなみにこの天守は義勝=ハルトが子供の頃から好きだった、信長の安土城のほぼパクリで、六層は京の『鹿苑寺』の金閣の三層、五層は奈良の『法隆寺東院夢殿』をモデルにした物だ、内部は滋賀の『安土城郭資料館』に有る模型の様な、地階から三層までが吹き抜けになった構造になっている。普請奉行丹羽長政と大工の棟梁岡部又右衛門……熱田神宮宮大工、代々又右衛門を襲名する……に無理だと言われたが、金なら幾らでも掛かって構わんと言い強行した結果、見事な吹き抜けの有る天守となった、ただし信長の安土城に有ったと言われた地階の宝塔は無い、変わってそこは舞台になっていて、ここで演奏をすると吹き抜けによって音が上層に響く様になっている、二層の能舞台の演奏をここからする事も可能なのだった。


 義勝は安土城に正妻美濃殿初め側室達と元服前の息子達、娘達を連れて岐阜から移り住んだ。

岐阜城には留守居役として大叔父、斯波寛元を任じている。

 これにより約10年の間、足利相国家の政治の中心で人口10万を誇った岐阜の町に変わって、足利領の首都となる安土の町は、家臣達や豪商達が移り住んで来た為に急速に発展して行く事になる。

 岐阜の町と安土の町はそれぞれ個別の役割が有る、安土は政庁として岐阜は兵と兵糧を集積する軍事都市として発展していく事になる。


「眺めが良いですね」

 天守六層目の茶室から外を見た美濃殿は、感想を述べた

城の西から北には琵琶湖が広がり、その先は京の方向へ比良岳、比叡山などが連なっている、東は元の観音寺城で今は親衛隊の兵舎としてだけ使用している、南には美しく町割りされた城下町が広がっている。

「どうです姫、岐阜の城も悪くないが、ここはもっと良いでしょう」

と義勝が言うと、相変わらず美濃殿は嬉しそうに微笑む。

「まさに極楽浄土の様な城でございますね」

と、多分これは最高の褒め言葉なのだろう。


 安土での普請が一区切りした事により、京の都でも本格的に再建が始まり、腕の良い大工や職人が全国から集まって来ている。

当然、町は活気づき応仁の乱以降、廃墟同然だった都がやっと人の住める町になって来ている。

もちろん帝の住む御所も義勝は建て直す事にして、清涼殿が新築された。

 京では帝が代替わりした事により、関白近衛稙家は藤氏長者のまま位を降り、太閤となる。

代わって関白となったのは、源姓では歴史上初、武家としても歴史上初の『源朝臣義勝』だ。

 義勝は関白と太政大臣を兼ねて公家の頂点に立った、更に帝より『足利朝臣義勝』として『征夷大将軍』に任ぜられて武家の頂点にも立つ、歴史上関白と太政大臣、将軍を兼任した人物は存在しない、これが義勝達が考案した新しい政の第一歩だった。

 

 義勝は将軍に就任した事で、幕府を近江の国安土に開設した、足利頼氏から始まる尊氏流の十二代将軍では無く、足利家氏から始まる真の足利宗家の初代将軍となったのだ。

 義勝の将軍としての初仕事は、各地の諸侯達を参勤させる事だった。

まだ義勝に臣従していない、奥州や九州の領主や国人達にも当然参勤の命令を出した、これに従わない者は問答無用で討伐される事になる。

 

 この時の為に義勝達は法の整備を終えていた、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗寺院法度、諸社禰宜神主法度の四法度だ、

 更には全国の国割を変更、奥州の出羽と陸奥を分割して七カ国にして、対馬や壱岐等の諸島を近隣の国に編入、特に義勝の最初の所領だった尾張は三河と合わせて一国に、遠江と駿河も合併、美濃と飛騨も合併、更に能登は越中と合併、畿内は摂津、河内、和泉の三カ国を合併、伊勢、志摩、伊賀も合併、山城と丹羽、丹後を合併、若狭は越前と合併、関東では、相模と伊豆を合併、安房と上総を合併、山陰、山陽は、長門、周防を合併、安芸、備後を合併、備中、備前、美作を合併、石見と出雲を合併、播磨と但馬を合併。

 こうして、国を整理して、『県』とし県令を将軍が指名する事、兵部卿のもと、全国に6箇所の鎮台を置き、将軍直轄の親衛隊以外の兵は全て鎮台の管轄とする事などを、参勤した全ての諸侯に伝達し諸侯が50人以上の私兵を所持する事を禁じた。ただし身分としての武家を無くした訳ではない。


 他にも、貨幣を明から輸入する銅銭に頼っていた事から常に貨幣不足に陥いってた状況を改善するために、安土に銅座と金座を設けて、足利銅銭と呼ばれる一分銅銭、更に、流通に便利な高額な半両金貨と一両金貨を造り明銭に変えて全国で流通させる事になる、ちなみに銀貨を作らなかったのは、この頃銀の生産量が増加して、銀の価値が急速に下降し相場が安定していなかったからだ。紙幣も考えたが、適当な印刷機がまだ無かったのでそれは諦めた。


 事前に足利領となり奉行や代官が居る地域では多少の混乱はあったが、県令制への移行はスムーズだった、義勝に忠誠を誓った奉行達がそのまま県令となったからだ。

 なお、足利大樹家の本貫の地越前を始め、美濃、尾張、そして武蔵、京、大阪は天領として義勝が直接統治をする県となる。

 幕府の職制も大幅に変更されて政治は太政官……太政大臣(将軍兼任)、大僧正、左大臣、右大臣、内大臣の合議で行われる事となり、左大臣は公家、右大臣は武家、内大臣は僧侶が基本的に就任する事になるが、これは基本的にこの制度を作った、円如、近衛稙家、定李、実恵、と言う体制そのままだ。

 その下に、大蔵省、兵部省、司法省、工部省、農務省、商務省、宮内省、内務省の八省を設立して、各省の長を『卿』とした。例えば初代大蔵卿は元勘定奉行平手経英だ。

 また、各地の諸侯には幕府成立までの功績に応じてこれまでの官位の他に新たに爵位が与えられる。

爵位は公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となり、官位と違いそれぞれに俸禄が与えられるが、足利家の親族意外の爵位は基本的一代限りとなり子孫に爵位を継がせるには、将軍が認めた功績が必要になる、新田の開発、河川の改修、街道の整備、殖産振興などだ。公爵は足利家の直系親族、侯爵は足利家の一族(婿を含む)とこれまで多大な功績があった松平家、井伊家、千秋家等で伯爵には服部家、滝川家、津田家などだ。また兵部省の参与となった塚原高幹は将軍家剣術指南役として男爵の身分となった。爵位を得た諸侯は安土在住が義務付けられる事になる。

 これらの政策が正史での明治維新の政策に似ているのは、義勝が別の世界でハルトとして高校生だった時受けた最後の授業の内容を少し覚えていたからだ。ただ義勝はアイデアとして話しただけで、殆どの作業は、優秀な円如、近衛稙家、実恵、定李、まだ親王だった今上帝が考えた物だ。

 

 こうして、義勝の家臣達も新たな官職を得て、新生足利幕府が動き始める。最初に行ったのは全国の検地だ、土地の測量や収穫量の計測基準を全国統一で行い、土地の広さや収穫量を正確に把握して年貢の徴収を合理化する必要があったからだ、これに合わせて旧来の荘園は全て廃止された。公家や寺社はそれぞれ、幕府が定めた位に合わせた俸禄制に変わったのだ。

 また、摂津石山御坊は、この時大阪本願寺と改名して新たな城割をして大幅な改築を天下普請で行われる事になる。


 義勝は新築した安土城の道場の杮落としを塚原高幹と上泉秀綱の立ち合いで始める事にした。

道場には千秋季光や京極高延以下、武芸好きな家臣が集まっている。上泉秀綱を連れてきた服部友成は心配そうな顔をしている。

「御所様の御前で塚原殿と立ち会えるとは名誉な事、私が変わりたい位です」

と京極高延は残念そうな顔をしている。

「あの若者は御所様が指名されたそうだ、どれ程の腕なのか興味があるな」

と千秋季光が弟分の京極高延に答える。


 既に剣聖の域に達している高幹と、将来の剣聖秀綱は、其々持てる技全てを繰り出して打ち合う、

その技の応酬に見守っている全員が息を呑む。

「これは強い!見事な剣筋だ」

と千秋季光が言うと全員が頷いた。

 高幹は秀綱の「猿飛」陰之太刀」を受け流し、渾身の「一之太刀」を振り下ろす所で、義勝の

「それまで!」

の一言で木刀を止めた。誰の目にも勝負がついたのは明らかだった。

「両者とも見事な立ち合いであった、上泉秀綱、我が家中一の剣の使い手塚原高幹とここまで立ち会えるとは想像以上だった、そして塚原高幹良くここまで精進をした、まさに剣聖、日の本一の剣豪となったな」

「いえ、全て御所様のお導きのおかげでございます」

「あれからもう10年か、早い物だな」

「は、御所様に手も足も出なかった事を良く覚えております」

「今は、もう其方の方がわしよりもずっと強いであろうな、今後も指南役として指導を頼むぞ、二人には金100両を褒美として使わす」

と言う義勝の声に

「おお!」

と見物の衆から歓声が上がる。

 元々10年前に義勝が塚原高幹に勝てたのは一重に筋力とスピードの違いだ、剣士としての素質は残念ながら高幹に遠く及ばないのは自分でも良くわかっている。

 それでも伝説の剣聖と剣を交えられた事がどれほど幸運か、義勝=ハルトはこの時代に転移をさせてくれた神が居るなら深く感謝をしたいと思っている。

「恐れながら、御所様に申し下げます」

上泉秀綱は平伏したままで大声で声を上げた。

「良い、申せ」

「は、この秀綱、塚原高幹殿に弟子入りしたく御所様にお許しをいただきたく思います」

「そう言っておるが、塚原高幹どうだ?」

「はい、上泉秀綱殿、私の指導は御所様仕込み、厳しいがそれで良いか?」

「は、よろしくお願い申し上げます」

上泉秀綱は10代の若者らしくハキハキとした言葉で返答をする。

「良いか皆の者、我が幕府は武によって立つ、先の室町殿や北条執権殿との違いはそこじゃ、これからも武に優れた者には褒美を与える、それと弓道場にあるわしの弓を引けた者が有ればいつでも申せ、その者にも金100両を使わす」

「おーう」

と全員が騒めいた、四人張の弓を引く者は多数いるが、義勝の八人張りと九人張の弓を引ける者は今の所まだ誰もいないのだ。


 義勝が必要以上に『武』に力を入れるのは理由がある

正史で豊臣政権が崩壊したのは平時になって武断派と文治派が対立した事による。

義勝の政権でもこの後は文官が政治の中心になって行く事は明らかだ、だから武官達には『武』の誉と言う名誉で文官への反感を抑える必要があると思っている。

「(『天下一武道会』、いつから始めるかな)」

と考えている義勝だった。 


 翌年大永八年、参勤の呼びかけに答えなかった、奥州の伊達、南部、九州の島津、大友、菊池に対しての奥州討伐軍と、九州討伐軍が編成され出陣する事になる。

 奥州討伐軍は総監服部友成以下、東日本のほぼ全ての戦力で出陣。

九州討伐軍は総監千秋季光以下、西日本の戦力で出陣する。

 軍監として奥州には服部保長が兵の風紀と治安の取り締まりの為同行、同じく九州には滝川貞勝が軍監として同行する。

 これが新幕府として最初の戦だが、義勝は国内では最後の戦になる事を望んでいる。

何故なら、この後大航海時代を迎えたポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス等の軍船が植民地を求めてアジア各地に来襲する事がわかっているからだ。

 安土の全兵力を送った後で、義勝は、今安土に居るのは出陣していない親衛隊が1000人ほど、謀反を企むなら今かもしれないなと思い、家臣の中に明智光秀がいないか探してみたが、当然ながら見つからななかったが、実は筑前国県令となっている明智光綱の13歳の嫡男彦太郎が正史での後の明智光秀だ。


 奥州や九州の諸侯が新幕府に反抗したのは、畿内から遠く情報が正しく伝わっていなかった為だろう

だから、15万を遥に超える軍勢に愚かにも反抗をする。

 野戦で惨敗して城に籠った所で、援軍など来ないし、すぐに食料が尽きて餓死にするだけだ。

この様な簡単な事も理解できないから滅びると義勝は思っている。

 正史では名前を残した島津忠良(日新斎)も伊達稙宗、南部晴政の父南部安信なども現実を直視できずに滅びの道を選んだ結果になった。

 

 奥州と蝦夷地の一部、九州を平定した事で、義勝は改めて天下静謐を宣言した。この事を記念して朝廷は八月に改元して年号を享禄とした。


 そして、翌年の享禄二年の春、安土で帝の行幸と『閲兵式』(馬揃え)を行う。

 安土城下に特設の閲覧席を設け、帝と公家達を招待して、各地の鎮台総監率いる各鎮台兵の精鋭100人ずつの1400人が騎馬で参加し、北から順に帝に観閲を受ける。そして最後に赤備えの親衛隊赤母衣衆100を率いた義勝が観閲を受けて、史上初めての『閲兵式』は終了した。

 帝と公家達は安土城本丸の御幸御殿……義勝が建て直した京の御所の清涼殿と同じ作りだが、更に豪華な造りになっている……で饗応を受けて、二泊して大いに満足して京に戻った。

 この時義勝は、これまで各地の商人や領主達から送られた大名物と言われる茶器を惜しげもなく使用した、この頃既に足利義政の『東山御物』を上回る数の名品、名物が義勝の元に集まって来ていたからだ。


 帝が臣下の館に行幸されたのは、永享九年室町幕府六代将軍足利義教の花の御所行幸以来92年ぶりで、帝は褒美として義勝に正倉院の天下第一の名香『蘭奢待』の切り取りを許可している、これは寛正六年の室町幕府第八代将軍足利義政の截香以来と言う事になる。


 そして六月、12歳となった嫡男虎王丸が、近衛稙家を烏帽子親に元服、義勝と稙家から一字ずつ諱を得て先祖源義家と同じ名、足利義家となり源氏の正統な後継者と公表されて、更に次期関白・将軍として正五位下左馬頭、公爵となり岐阜城を与えられた。また義家の許嫁だった信濃の諏訪頼隆の息女が10歳になり、約束通り岐阜に嫁入りをしてきた。諏訪頼隆は期せずして、次期将軍の外戚となり歓喜したと言われている。


 この時義勝は自室に義家を呼び、足利家の家紋「足利二つ引き」の二つ引両紋の謂れに付いて義家に教えている。

 引両紋とは、龍を象った文様で「両」は「龍」を象徴して、二匹の龍が天に昇ることを意味する吉祥文様として尊崇と富貴の象徴だと言う事を教える、更に義勝はこの二両の紋の下側は足利尊氏の将軍家、上側が義勝の将軍家と考えていると話した。足利宗家は本来、長男の足利家氏が継ぐべき物、それを弟の頼氏の家系が継いだ事が間違いだと教えたのだ。

 この事は暗に、義家が正統な義勝の後継者で、断じて弟の小次郎では無いと言う事を意味している。

義家もその事を理解して

「父上のご期待に沿い、精進いたします」

と深々と頭を下げた。


 義勝が元服を急いだのはこの頃既に家臣の間で、美濃衆が押す嫡男虎王丸と尾張衆が押す次男小次郎の

勢力争いが始まりかけていて、小次郎の母は義勝の腹心で自他共に認める陣営のNo.2右大臣千秋定李の妹だ、ここに兵部卿千秋季光が加わると、足利家や源氏の悪しき伝統でもある兄弟相剋のお家騒動、内戦になってしまう可能性がある。

 義勝はそれを防ぐ為に、早々と虎王丸を元服させ次期将軍である事を天下に知らしめたのだった。

この時、将軍家の子息の公家との婚姻を禁止する法を内々に定めている、歴代の足利将軍や徳川将軍がひ弱で脆弱になった原因が公家との婚姻によると義勝が考えていたからだ。

 また、虎王丸の元服に合わせて、大僧正円如の嫡男光仙丸も京の青蓮院で尊鎮法親王を師として得度、証如となり義勝から直叙法眼和尚位大僧都の位を贈られて、内大臣実恵から岐阜源衛寺の寺主を引き継ぐ事になった。ただ僧形にはなった物の相変わらず義家と岐阜内の道場で剣の修行に励んでいて、実恵を悩ませている、また、義勝は証如と三女の冨貴姫(三河の方の娘)と婚姻させる事で、宗門との結び付きを強めている。ちなみに長女真希姫は、この時左大臣で太閤の近衛稙家の後妻となっている。


 義勝は堺や博多の商人達を集めて海外貿易を奨励すると共に各地の水軍を束ねて海軍とし、海軍省を設けて初代海軍卿には村上康吉を就任させている。大型の唐船を多数建造して、海軍により運航して交易をさせている、船には護衛の傭兵として鎮台兵を乗船させていて戦闘力もある武装商船と言う位置付けだった、この船は国内だけに留まらず、周辺海域でも倭寇と言われた海賊船の取り締まりも任務に入っている。この海賊は倭寇と呼ばれているが、明国人、朝鮮人、日本人の混成で稀に南蛮人も居たとされる、義勝は海賊は国籍を問わず死罪と言う事で、海域の治安を劇的に向上させた、また交易に関して金、銀の国外への持ち出しは厳しく取り締まり、違反者は死罪と厳罰にしている、これは日本と他国との金銀の交換比率が違う為の措置で、正史では倭寇の密貿易や南蛮船の来訪目的が日本の銀であった事でも有名だ。

 国内から戦乱が無くなり、この頃から人口が増えて農業の生産性も上がってきている。

義勝は、太政官指示として、各地で新田開発、河川の改修工事、街道の整備を三本柱とした国内整備計画を発令させる。

 更に、三河では綿花栽培の奨励、武蔵では畑で桑の葉を育てさせて、蚕を飼い養蚕を奨励、駿河では茶の栽培を奨励している。茶については、元々足利大樹家が斯波家と呼ばれていた頃、京の宇治に『朝日茶園』と言う広大な茶畑が有った、斯波家の勢力が衰えると共に茶畑も衰退したが、今では宇治で最大の茶畑になっている。

 米本位制を取り入れていない為に農民は金になる様々な作物を育てる様になってこれがまた経済の発展に繋がっているのだ。


 義勝は安土城の茶室で、円如、実恵、定李の四人で茶を楽しんでいる、この茶は正史の千家の茶の様な、妙に格式張った侘び寂び茶では無く、気楽に茶の味と会話を楽しむ物で、義勝は『楽茶』と名付けている。もちろん正史の秀吉の様に下品な黄金茶室なども作っていない。

 話は全国各地に普及しつつある寺子屋と医療院の進捗状況だ、こちらもまだ派遣する僧侶が足りなく

僧侶と医師の育成が急務となっている。

 義勝の提案は、鎮台と同じ町に、本願寺を建立して、そこに周辺国の寺子屋から推薦された優秀な子供を集めて、教育すると言う物だ、新たに学校を作れば多大な予算が必要になるが、既存の寺を使って国立大学を作る様な物と義勝は思っている。この元ネタは奈良時代の聖武天皇が各地に建てた国分寺だ。

 今は廃れてしまっている国分寺を本願寺として再建すれば、土地もそれほど必要ないだろうと思っている。まぁ、もしかしたら、大元の奈良東大寺と揉めるかもしれないが、僧兵を禁止した今は東大寺には武力は無い。

 翌、享禄三年、次男小次郎も千秋季光を烏帽子親にして元服をして足利義輔となった、爵位は侯爵で清州の城を与えられた、清州に居た義勝の弟侯爵斯波義元は駿府の城に入る。名乗りの輔は嫡男である義家を「輔る」(たすける)意味で付けられた名で、かって義勝が元服をした際に義介と命名された事と同じである。

 後に徳川家の御三家制度に倣って、遠江の方との子三男小三郎と、駿河の方との子四男小四郎が元服後に足利御三家として、それぞれ侯爵となる、徳川御三家と同じ様に宗家の血が絶える事態になった時の保険である。


 享禄五年、五月、まだ40前の若さで、義勝は関白と征夷大将軍を息子義家に譲り、自身は実恵を戒師として得度して『勝如』と称し、隠居所とし完成した大阪本願寺に入る、義家は岐阜から安土に入った。当然だが隠居をしたわけでは無く政務は太閤、大御所として必要な時に安土に戻り義家の後見をしている。

 もちろん、正妻美濃殿始め側室と元服前の子達は全員大阪に引っ越す事になる。

義勝が隠居所とした事で摂津大阪の町は、政庁である安土、軍事都市岐阜に続く国内第三位の賑わいとなる、義勝は大阪は商都として発展させる事に決めている。そして同時期に開山した東京本願寺を要する江戸改め東京が、国内第四位の町となって行く。

 大阪本願寺には、総黒漆塗の外観の六層七階の天守が建っている。ただしこの天守は豊臣秀吉の大阪城と言うより岡山城の姿に近い物で、外観の装飾も寺院風の天守となっている。

義勝は仮にも『勝如』と称する僧侶だからだ。


 義勝は徳川家康の様に隠居した城で二元政治を行うつもりは無い、政務を取る時には、安土城まで移動する事にしている、そして安土城と大阪本願寺の移動に二人乗りの馬車を使う様になっている、これは街道の整備を進めた結果道が綺麗になった為だ、公家が使っている牛車は一見豪華だが速度は人が歩くより遅く乗り心地も良くない、意外だがハルトは大型自動二輪の免許を持っていて、祖父や父も車好きなので、車やバイクの簡単な整備はできた、だから牛車を四輪にして、鍛冶屋に板バネを作らせてサスペンションを付けた車を作り、これを牛では無く馬二頭で引く様にしたのだ、これだと馬を一人で乗るよりは遅いが、輿よりは遥に早い。大阪本願寺を朝出て、新築された京の「武衛城」に泊まり、翌朝、安土城に向かうという日程だ。

 馬に馬車を引かせながら、御簾をあげて二人並んで乗車している僧形の義勝と妻や側室の方の姿を見送る街道沿いの領民達にはどの様に映っただろうか。


 義勝は公務を終えて大阪に戻った後は、良く有馬の温泉に湯治に出かけている。

妻や側室達と一緒に入浴するのも楽しみだからだ……一応念のために、この時代は混浴が普通だ……だが小牧の方だけは義勝の体を見て、いつも背中に刀傷……本物の義介は背中から切られたらしい……が無いのを不思議がっていて、義勝の事を『天狗様』と呼ぶ様になっている、義勝が『鷲峰山』の天狗の森で倒れていた事から、天狗によって生まれ変わったと真剣に信じている様だ。


 そんな義勝の元に、尾張の千秋季平の訃報が届く、千秋家との関係から義勝は懐かしい尾張熱田神宮での葬儀に参列する。

 太閤や大御所が臣下の葬儀に参加するのはどうかと千秋定李らに言われたが、義勝にとっては季平は恩人の一人だ、周囲の反対を押し切って、尾張の視察と言う口実を入れて参加した。

 神職である季平の葬儀は、当然神式で行われたが、長男で有る千秋季光が着慣れない祭服を着て、

付け焼き刃の祝詞……弟の千秋定李が付ききり教えて、覚えるのに二日かけたそうだ……を何とか無事に終了した。

 この葬儀の後、季光は正式に千秋家の家督を弟の定李に譲ると宣言をして、義勝から許可を得た

「もう、祝詞は懲り懲りです」

と言う事らしい。

 熱田神宮の大宮司を引き受ける形になる定李は

「全く、ただでさえ忙しいのに」

と文句を言っているが、何気に嬉しそうだ。

 そして、故季平の遺品を整理していた定李は『天狗の衣』と記された長唐櫃を発見する。

中を見てみると、不思議な様式の衣と袴、足袋、股引が入っていて、昔義勝から、天狗の森の話を聞いていた定季は、その長唐櫃を持って大阪を訪れた。

「義勝様、ではなくて勝如様、父の遺品を調べていた所、この様な物を見つけましたのでお持ちいたしました、勝如様の物では無いかと思いますが」

そう言って、定季は長唐櫃を小姓に義勝の前に運ばせた。

「義勝のままで良いぞ、面倒じゃ、して何、天狗の衣とな?」

と訝しんだ義勝が長唐櫃の蓋を開けさせると、中には懐かしい20年以上前にこの世界に来た時に来ていた土方の作業着が綺麗に洗われて入っていた。

「確かにこれは私が天狗の森で倒れた時に着ていた物だ、懐かしいものだ」

「やはりそうでしたか、どの品もこの世の物とは思えぬ物ばかりでした、義勝様が天狗に武芸を教わったと言う話は誠だったのですね」

と定季は感心をした様に言う、確かに白の鯉口シャツに薄茶のニッカポッカ、それに地下足袋はこの時代には無いデザインだしシャツの素材は綿だが、織り方もこの時代の物では無い。ニッカポッカや地下足袋に至ってはポリエステルとの混紡だし、ゴム引きのゴムはまだこの時代の日本には存在しない、Calvin Kleinの文字ロゴ入りのグレーのボクサーパンツに至っては、もう完全に未知の製法で作ったとしか思えないだろう。

「父の日記によりますと、倒れていた義勝様がお召しになっていた装束だそうで、泥で汚れていた為に庄屋がお召し替えをさせて頂き、この装束は洗濯をした後で、『天狗の衣』として大事に神社の宝物庫で保管したそうです」

「なるほど、良く取っておいてくれた物だ」

「つきましては、この品、我が神社の『神宝』として御預かりしたいと思いますがいかがでしょうか?」

 と言う事だ、義勝は持っていても仕方が無いのでそれを許可した。

安売りの作業服屋で買った品が『神宝』と言うのは少し奇妙な気がするがまぁ仕方が無いだろう。


 全てが順調に見える義勝の生活だが、やはり政治的な問題は残っている、火種はまた九州薩摩の国だ。

薩摩は排他的な地方で、言葉も訛りが強く潜入して情報を得るのが最も困難な国だ、伊賀衆の変装である修験者も薩摩には入り込めないでいる、唯一成功したのは甲賀衆の薬売りだけだが、それも大した情報収集ができないでいる。

 そんな薩摩は最大勢力だった島津氏が滅びた後は、隣国大隅出身の肝付兼興が県令として任されていたが、これに薩摩の国人衆が反発、国人一揆となり熊本鎮台から官軍が出陣する事になった。

 結局この騒乱は薩摩の国人衆が統制が取れていなかった事、鎮台兵の練度と数が大幅に優った事で

国人衆は、ほぼ全員が討ち死にして悲惨な終焉を迎える事になった。

 だが、結果として薩摩は検知も進み、義勝の思惑通りに、日本の新たな県として再生していくのだった。義勝は更に、蝦夷地の開拓を試みて、屯田兵制度を取り入れる。

これは全国に希望者を募り、蝦夷地での開拓と軍務を行う制度で、元は漢の時代の武帝が辺境地帯を防衛する兵士に農耕を行わせた事が始まりだ。義勝はこの頃余剰になっていた兵力をこの方法で解消しようとしたのだ。


 この大阪本願寺には、他の寺や城に無い施設がある。

その一つが、三の丸の『観覧堂』と名付けられた広い屋内展示場だ、義勝は工業の促進の為にここに商務省を統括する商務卿で元堺奉行の岩手重元に命じて定期的に各地の特産品を集めて品評会をさせている、

 例えば陶磁器なら瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、丹波焼、備前焼を集めて、展示して堺や博多の商人や目利きの公家に鑑定させて優秀な作品には『天下一品の茶碗』と言った肩書きを与えて、作者には金100両を褒美として与える、と言う物だ、これを陶磁器だけでは無く、刀剣、着物、帯、絵画など様々な分野の作品で行い工業の発展を図るのが目的だ。

 この殖産興業政策は、富国強兵と並んで義勝の基本政策の二本の柱である。

品評会が行われる日は、三の丸を解放して門前町の領民達も見学できる様になっていて娯楽の少ない領民達からも喜ばれているし、品評会目当ての商人が大阪に店を出すので、町も賑わう事になるのだ、

 こうして大阪を商都とする義勝の目的は着々と進んでいる。


 そしてもう一つは『武舞台』これが義勝の目論む全国から腕自慢の剣士や槍士を集めて競わせる

「天下一武道会」の会場となる施設だ、これは現代の屋外の屋根付き土俵場を二回り程大きくした物で、

周囲に階段状に縁台を置き観戦しやすく作ってある。

 徳川幕府の幕末に旗本八万騎と言われて、5000人以上いた直参の旗本達が殆ど戦の役に立たなかったと言う事を授業で習っていたハルトは、自身の親衛隊とした20000の赤母衣衆を継続して武芸に励ませる仕組みを作ったのだった。

 

 義勝は普段は大阪御坊二の丸にある道場で、門下生達に指導をしている、ここは『足利流綜合兵法』の総本山でもあるのだ、ハルトだった頃に自分が学んだ小笠原流弓馬術礼法、尾張貫流槍術と柳生新陰流兵法を実戦での経験から再構築して考案した流派だ。ちなみに道場の神棚の下には大きな天狗の面が飾られている。

 この道場では、剣術の修行には職人に造らせた『袋竹刀』と防具……当然赤備だ……を付けての「打込み稽古法」を採用している。型と木刀での稽古より上達が早いからだ。

 ちなみに正史では、この稽古法は新陰流の上泉信綱が考案して江戸時代に広まったとされている。

 門下生の中には、安土を抜け出して二人でやって来る将軍義家と、大僧都法嗣証如も含まれていて

「お主達、いつまでも童の様に遊んでおらずに、職務に専念せい」

と言うのだが、内心では嬉しいのが顔に出ているらしく効果は無い様だ。

 この二人は今では背も伸びて立派な若武者としても成長しており、二人とも四人張りの弓を軽々と弾くようになって、どちらが先に義勝の八人張り、九人張りの弓を引けるかを競っている。

 そして困った事に職務を放り出してここに来るのはこの二人だけでは無く千秋季光、小笠原長棟、京極高延、塚原高幹、上泉秀綱、服部保長、滝川貞勝なども同様で特に服部と滝川は伊賀集と甲賀衆の若者を引き連れて道場にやってきている。

「(全く皆揃って困った奴らだ)」

と思っているが、こうやって道場で教えるのが楽しいのだから仕方が無い。

「(色々あったけど、結局道場に戻って来たんだな)」

と思うハルトだった。


 史実と同じなら、南蛮人渡来まであと10年と少し、それまでに強力な国家体制を整えて置く必要があった。


ハルト君の物語はこれで一応完結かな、第二部の構想はあるんですけど、書くかどうかはまだ未定です。

思ったよりもずっと沢山の方に読んでいただいて嬉しかったです

皆様ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
完結おめでとうございます! 大変楽しませて頂きました。 他の方のおっしゃる通り、とてもテンポがよく、読みやすい作品でだったので、イッキ読みさせていただきました。 第二部を書くかは分からないと言うことで…
第一部完結ご苦労さまでした。 希望としては第2部で南蛮諸国との対応(戦い)を読みたい。多くの戦国転生物は統一まででその後の話はありません。正史の明治維新、第一第二次世界大戦への転生の影響を知りたいと思…
素晴らしいお話をありがとうございます
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