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第十一章 関東制圧そして山陽、山陰へ

第十一章 関東制圧そして山陽、山陰へ


 小田原城での評定で、義勝は松平昌安から詳細な説明を受けた。

「なるほど、降伏をするにしても一度は戦わないと気が済まんと言う事か」

「はい、権威に従うと言うよりも、実際に戦って負けると言う事で主従関係がはっきりするのが坂東の習慣の様です、なのでどんな大軍で攻めても戦わずに城や砦を明け渡すと言う言がありません、それが、関東攻略が思う様に進まない原因です、我らだけで無く、上野の国を落とした服部友成殿からの文にも同じ事が書かれていました。

「そうか、服部友成は今は北から武蔵を攻めているのだな」

「は、我らは南から攻め登る事になります」

ここで昌安は地図を広げ、上杉朝興側の城に白石を置いて行く、

「ふむ、江戸城、河越城、松山城が主な城か」

「はい、これに真里谷殿、里見殿、千葉殿が我らのお味方と言う事になります」

「敵の古河公方は、古河を本拠として、下野、下総、常陸を抑えております、関東管領、上杉憲房は上野の国を失った事で大きく勢力を落とし、武蔵の国鉢形城に籠城中との事です、上杉側の城は忍城、御嶽城が健在です」

「なるほど、とりあえずの目標は、忍城、御嶽城などの周辺の城を落として、鉢形城を攻めるか」

「は、その後に古河公方に向かいます」

「定李、何か意見は?」

「北から服部友成殿が降りてきているのであれば、先に国鉢形城を取るのもありかと思いますが、そこで

服部殿と合流して一気に上杉憲房を葬ってしまいましょう」

 と評定をしていると、そこに服部友成からの伝令が届く、松平昌安宛てなので、昌安が目を通して

皆に告げた

「服部殿、御嶽城、国鉢形城を落とし、上杉憲房を討ち取ったとの事です、これより忍城に向かうとの事」

「ほう、先を越されたな、では我らは一気に古河を落とすか、その方が面白そうだな」

「は、それが良いかと思います」

「では明朝、全軍出陣する目標は古河、我らは後を行くので、松平昌安は先行せよ」

「は、受けたまりました」

「それと、服部友成に使いを出せ、古河で待っているとな」

 ここで家臣の功を奪う様な真似はしたく無いと思った義勝だ、戦は松平昌安の東海道方面軍に任せて

定李、実恵と戦後処理を考えながら、後方を進む事にした。

「望月本実、居るか」

「こちらに」

「先程の風魔衆はどうしている?」

「城外の寺に入っておりますが」

「では頭領の風魔小太郎を呼んでまいれ」

「は、直ちに」

 やって来た風魔小太郎と話をして、風魔衆が仕官を望んている事を確認した義勝は、風魔衆の頭領風魔小太郎を金1500貫で召し抱える事とした。

「早速だが、その方らに古河までの道案内を頼みたい、江戸の城も見てみたいのだが」

と言うと、風魔小太郎は

「かしこまりました」

と平伏した。

これで義勝は、伊賀衆、甲賀衆、根来衆に続いて風魔衆も臣下にした事になる。

「(なにしろ、忍びの者は役に立つ)」

と思っている義勝だ。


 この頃は江戸を起点とする本街道としての東海道はまだ存在しない、東海道を街道として整備したのは

江戸に幕府を開いた家康だからだ、扇谷上杉家の家宰太田道灌が築いた江戸城は武蔵野台地の東端、麹町台地にある平山城で、目の前は日比谷入江と言われた海で、農村と漁村が広がる寂れた場所だった。

 義勝が江戸城を見たいと言ったのは当然、現代の東京を知っているからで、江戸を足利左府家の直轄地として、将来の町を作ろうと思ったからだ。

 

 江戸に着いた義勝は驚いた、あまりにも何も無いからだ、城の周囲には太田道灌が勧請した神社はあるが、他には何も無い、もし義勝が東京を知らなければ、素通りしただろう。

「左府様は、なぜこの様な城に立ち寄られたのですか?」

定李が疑問を口にする。

「あの小山を崩して、この入江を埋めたてる、そうするとどの様な町になると思う?」

義勝が指さしたのは神田山だ

「なるほど、清州を凌ぐ程の町になるかもしれませんな」

定李は分かりが早い

「しかも武蔵の国は作物も良く取れる」

「誠に」

 満足した義勝はその夜は江戸城で過ごして、翌朝出立した。

急ぐ必要は無いので、普通の行軍速度で途中休憩を取りながら古河に向かっている、春日部の辺りの利根川の手前で陣を張り野営する事にする。その間にも、戦況は甲賀、伊賀の者から続々と入ってくる。

 松平昌安軍は、周辺の国人衆を吸収しながら70000の軍で、下総国『境根原』で20000の古河公方足利高基軍と激闘、敵を撃破して、逃走した足利高基を追って『水海城』を落としなお前進しているとの事だ、更に忍城を落とした服部友成も、古河に向けて進軍中との事だ。

「(優秀な家臣に恵まれているなぁ)」

と義勝は満足しているが味方も無傷では無い、なんと功を焦った上杉朝興が単独で突出して討ち死にしてしまったと言う。

「(全く、せっかく武蔵野の国を任せようと思っていたのに)」

と義勝はまるで犬死となった上杉朝興を憐れんだ。

「上杉朝興には子が居るのか?」

と聞くと、上杉の重臣、難波田憲重と太田資頼も討ち死にしてわからないと言う事だ、

なので、風魔の者を上杉の本城河越城へ派遣して、多分居るであろう上杉朝興の妻子の保護を指示した

もしも息子が居るなら、上杉の名跡は残す事ができると思ったからだ。


 そして、翌日の昼過ぎに、古河公方ゆかりの徳源院付近で、5000に減った足利高基軍と対峙している

味方の陣に入る、この時には味方は130000程に増えている。

 まるで仮館の様に作られた本陣に入ると、松平昌安、服部友成以下の武将達が義勝を待っていた。

服部友成には、これまで足利左府家に臣従を誓った上野の長野業氏以下国人衆達を紹介される。

「者共大義」

と鷹揚に挨拶をした後で、一人の目付きの鋭い若侍に目が止まった。

「服部友成、あの者は?」

「は、上泉城の城主上泉秀綱です、若いですが中々の剣の使い手、左府様のお許しがあれば、私の与力にと

思っております」

と言う事だ

 義勝は戦が終わったら、岐阜に戻って道場で一番弟子である塚原高幹と上泉秀綱の立ち合いを見る楽しみができたと密かに喜んだ。

 この上泉秀綱こそ、義勝が習った柳生新陰流の源流『新陰流』の開祖『上泉信綱』だからだが、この頃はまだ剣豪では無く若武者と言う立場だった。


本陣で床几に着席した義勝は

「状況は?」

と聞く。

「足利高基方には下野の宇都宮忠綱殿が味方して依然健在です、こちらには常陸の佐竹義篤殿の名代として佐竹義信殿、下野の芳賀高経殿が国人衆を率いて参陣しております、総勢130000の兵で完全に包囲しております」

とここまでを松平昌安が話すと服部友成が引き継ぐ

「足利高基殿は敵とはいえ左府様の御同族、総攻撃をするのは容易い事ながら左府様の御下知をいただきたく、御着陣をお待ちしておりました」

 仮にも足利尊氏の血を引く一族だから皆が配慮したと言う事だろう。

「皆の者大義である、所で、誰か声のでかい者は居るか」

「我が家臣に」

と松平昌安が連れて来たのは本多忠正と言う三河の土豪だった。

「悪口ですか、私が考えましょうか?」

と定李が楽しそうに言う

「いや、今回は節度の有るやつにしようと思う」

「では拙僧が」

と今度は実恵

「いやいや、実恵殿では難解すぎて、本多忠正では読めないでしょう」

と松平昌安

本陣のみんなが笑いに包まれるが、今回初参陣の長野業氏、佐竹義信、芳賀高経は唖然としている

 足利左府家の主従関係は他家と違い堅苦しく無いのが理解不能の様だ。

「殿、流石にそれは」

と言われた本人の本多忠正は憮然としているが、そこに松平昌安麾下の石川忠輔が

「ほう、本多殿、其方『正信偈』は読める様になったのだな?」

と言うと、本多忠正は下を向いて無言になった。

この二人は同じ宗門の徒として古い知り合いなのだが、石川忠輔は三河宗門徒の総代と言う立場にいる。

正史では二人の一族が、三河一向一揆衆として家康に反抗している。

「まぁ良い、では文は定李が考えよ、それを実恵殿に品良く添削していただこう」

と義勝が言うと皆が納得したが、今度は定李が

「それでは私が品が無いみたいでは無いですか」

とまた皆の笑いを誘う。

「長野業氏殿、佐竹義信殿、芳賀高経殿、驚かれたであろう、これが我が家の家風でな」

と義勝が三人に声をかけると三人は恐縮して平伏する。


 それから半刻ほどして、格調高い悪口が出来上がり、本多忠正は一生懸命に暗記をしている。

「どれ、では行くか、井伊直宗、前田利春、塚原高幹供をせよ、本多忠正良いな」

 直々に呼ばれた面々は、大役に嬉しそうだが、松平昌安と服部友成の二人は慌てて、義勝を止める

「お待ちください、左府様が自らお出ましになる事はありませぬ、我らにお任せあれ」

と声を揃えた。

「何、其方達の戦を後で見ているのもつまらんのでな、久しぶりにわが弓の力を足利高基殿にお見せしようと思ってな、我儘を聞いてくれ」

と言って、愛用の九人張の強弓を手にして、背の矢筒には特製の鏑矢とこれも愛用の七寸五分の鏃の矢を入れて、本陣を出る。

 この時、井伊直宗には『錦の御旗』前田利春には『武家御旗』塚原高幹には「足利二つ引」の大金扇の馬印を持たせている、本多忠正を加えた五人は、騎馬で敵の陣から40間の辺りまで進み、馬を止めた

「本多忠正」

「は」

忠正は見事な大声で、敵の大将足利高基を罵り始めた。

当然、敵も同じように返してくるが、声が小さい様で、何を言っているがわからない。

「我が主人、今鎮西八郎足利左大臣義勝公の弓、しかと味わえ」

 これは本多忠正のアドリブだ、義勝は騎乗のまま数歩前進して敵陣中央の奥に居る足利高基らしい将目掛けて鏑矢を放った、鏑矢は一直線に独特の音を響かせて飛び、将の具足の胴に当たる、その将は衝撃で床几から後に転がり落ちるが、鏑矢には鏃が付いていないのでただ打撲をしただけだ。

 後方の味方から大歓声が上がり、敵は矢合の鏑矢を打ち込んで来る事も無く沈黙している。

武に長けた坂東の武者達だから、義勝の強弓の威力がどれだけの物か良く理解できたからだ。そしてそれに対抗できる者も存在しないと言う事も、そうなると話は早い、すぐに敵陣の旗が巻かれ、槍の先に傘が付けられて振られた。この時代の降伏の合図である。

「(こんな手が通用するのもここが坂東だからだな)」

と義勝は思っている、上方なら直ぐに敵から反撃の矢の雨が降ってくる筈だ。

 義勝は、四人を伴って悠々と皆の大歓声を浴びながら、本陣に帰還した。

それから一刻、髻を切り旗を巻いて、足利高基、長尾憲長、宇都宮忠綱他数名の武将達が本陣にやってきた、全面降伏と言う事になる、義勝は改めて関東公方職の廃止を宣言して、足利高基には切腹を、長尾憲長や宇都宮忠綱以下の武将達には打首を宣告した。高基の子、亀若丸、賢寿王丸は捉えられて鎌倉に送られ出家させられる事になる。

「切腹ですか?」

と松平昌安は驚いている、今までの義勝なら命は助けていたからだ。

「心得違いをするな、この者達は私に刃向かったのでは無い、帝の命に刃向かった朝敵、命を持って罪を償うのは当然の事」

と義勝が静かに言うと、全員が納得をして頭を下げた。今までの戦とこれからの戦の意味の違いを納得したのだろう。

 これにより、鎌倉公方以来の関東足利氏は滅亡した、更に結果的に両足利家、両上杉家が消滅して、関八州は義勝の物となった、坂東の国人達は、この仕置きから義勝には絶対に逆らわない事を肝に銘じたのだった。

 この後の古河公方館に入った義勝は関東の各国の奉行を任命していく。

安房 里見義豊、上総 真里谷信隆、下総 千葉昌胤、上野 長野業氏、下野 芳賀高経、常陸 佐竹義信、そして武蔵には甲斐から転じて一族の渋川嗣知を任命した。甲斐奉行は国人衆の小山田信有とした。渋川嗣知には河越城に入る様に指示をして、残った上杉朝興の家臣達を纏めさせる。


 そして、今度は陸奥と出羽の領主や国人達に改めて天下静謐『惣無事令』に従う様に、反抗した古河公方、関東管領やそれに従って処刑された者達の事を添えて、使者を送る。

 特に足利左府家と同族の奥州斯波氏の斯波詮高、大崎義直、最上義守、天童頼長には下野の国『足利の荘』の『鑁阿寺』で先祖の法要をするので参列する様に命じた。

 古河で東海道方面軍 松平昌安、北陸道方面軍 服部友成には帰国を指示し、集まった国人衆には本領安堵と褒賞を与えて解散させ、義勝は上野の国『足利の荘』に向かった、ここで『足利学校』に金100両を寄進して保護をして、『鑁阿寺』にも金100両を寄進して、法要の準備をさせる。

 この法要の目的は、北条得宗家によって廃嫡された、足利泰氏の嫡男家氏の家系が本来の足利宗家であり源氏の嫡流であると言う事を武士達に周知させる為だ。

 斯波の一族に加え、近隣の国人衆達も参列した法要は、述べ50000人以上の参列者を記録して鑁阿寺の真言宗の僧だけではなく、ほぼ全ての宗派の僧侶を招いて三日三晩行われた。参加した僧侶の数だけで300人以上でそのお布施だけでもとんでも無い金額になる、その様な法要を行える、足利左府家の財力と権威を関東と奥州の領主や国人衆達に見せつけると言う意味もあった。

 特に、まだ幼児の最上義守の名代として参加した『伊達稙宗』に対しては、義勝は厳しい態度で接した。この頃の奥州では、伊達が勢力を拡大しつつあり、斯波の一族の最上氏を傀儡にする等、天下静謐『惣無事令』に従わない可能性が高かったからだ。だから義勝は幕府の役職『奥州探題』『羽州探題』を関東管領職と共に廃止すると宣言して、伊達稙宗の陸奥守護も返納させる事も合わせて伝えた、出羽には元々守護職が居ないので問題無いが、伊達稙宗は本来幕府に対して奥州探題の地位を要求して断られて陸奥守護に任じられた経緯がある、その陸奥守護も返納しろと言う事で、その心境は怒髪天を衝く状況だった、だが義勝の挑発に乗って、反抗すれば伊達家は消滅する、稙宗は不肖不承受け入れて陸奥に戻って行った、当然義勝は風魔衆に指示を出して、稙宗を厳重に監視させる、少しでも反意があれば即座に討伐するつもりでいたからだ。


 こうして関東と奥州の仕置きを終えた義勝は、一度江戸城に戻る。

江戸で、武蔵の奉行渋川嗣知と実恵に、江戸城を『東京御坊』とする計画を話す為だ。

「東京、東の京ですか」

実恵は考え込んでいる、この頃は関東では宗門はまだそれほど普及していない、鎌倉幕府による念仏弾圧の結果でもあった、だが

「山科本願寺よりも更に立派で大きな御坊を建立したいと思う、そしてこの普請には関八州の全ての奉行と国人衆達を参加させる、天下普請とする」

と言う義勝の意図を察して、頷いた。

「わかりました、山科に戻り次第円如殿に取り計らい対処をいたします」

「よろしく頼む、定李、丹羽長政と計り、駿府から小田原、江戸、甲府から江戸までの街道の整備を急がせよ」

と指示を出しておく。


 義勝一行は小田原まで戻り、東海道をゆっくりと上って岐阜に戻った。

そして、義勝は岐阜で数日を過ごして、近江に行き安土の町と城の進捗具合を確認して山科に入った。

 安土の城下町にも岐阜と同じ下水を流して、琵琶湖の水を取り込み汚水を薄めて瀬田川に流す様にしてある。


 山科で山陰と山陽方面の戦況の報告を受ける。

山陰では反抗した尼子経久を滝川貞勝が本拠地出雲の月山富田城で討ち、尼子家は滅亡した。この際、伯耆の守護で尼子氏の傀儡状態だった山名澄之は恭順を示し尼子討伐に参加、山陰軍は石見の国で、大内義興勢と対峙中と言う事だ。月山富田城は堅牢な山城だったが、この戦でも足利左府軍に対して山城は無意味だと言う事が証明された事になる。

 山陽は、播磨の赤松晴政は恭順を拒否、守護代浦上村宗と共に反抗したが、千秋季光の軍と小寺則職ら播磨や美作の国人衆達によって室津城を追われ、備前に逃げた挙句に三石城で討ち取られた。その後、山陽軍は、備中で大内義興勢と対峙している。


 「これは大内義興殿との争いは避けられぬか」

と義勝は思う、大内義興とは最初に入洛した時に会っていて話もしている、土産に打刀も貰っているので、義勝としては、できれば争いたくは無かった。この時大内氏は筑前、豊前、長門、周防、安芸、備後、備中、石見と八カ国を抑えている。だが、安芸では毛利元就が大内氏に反抗、同じく独立を図る安芸武田氏の武田光和と三つ巴の戦いを繰り広げていて、山陰道、山陽道共に天下静謐『惣無事令』に従わせるのはまだまだ時間がかかりそうだ。


 義勝は山陰軍を出雲まで、山陽軍を美作、備前まで後退させた、国境警備の兵を各5000残してほぼ全軍を撤退させる事にする、秋の刈り入れが終わりそろそろ大内側も兵力と兵糧の余裕が出る時期だからだ。そんな時に戦をしても味方の損害が増えるだけとわかっているからだ。


 全軍の将兵が帰還したのを確認して、義勝は山科で、今回の遠征に参加した将兵達の論功行賞をする、各奉行達には官位と加増、兵達にも加増をする、当然加増と言っても領地では無く、俸禄の加増だ、例えばこの時点で滝川貞勝は俸禄20000貫で、正史の石高制に換算すると50000石の大名と言う事になる。

 義勝の統治方法は、守護として全ての土地の徴税権を足利左府家が持ち、公家や寺社の荘園には石高相当の、家臣達には俸禄として銭で与えると言う方法になっている。これにより、領地より俸禄と言う考え方を家臣達に自然と教育する事になる。


 この年の11月、京では呆れる出来事があった、将軍足利義晴が数名の小姓を連れて御所から逐電したのだ、山科に報告に駆けつけた大舘尚氏によると、朝、将軍が出仕してこないので、不思議に思い小姓に様子を伺いに行かせようとした所その小姓も居なくなっていたとの事で、行き先はおそらく義晴が数年前まで過ごしていた播磨の赤松氏の『置塩城』では無いかと言う、だが赤松晴政は既に死亡していて、置塩城には小寺則職が入っている。

「小寺は赤松の敵、そこに赤松を頼った者が行けば命が危ない」

「は、左府様、どうしたらよろしいでしょう?」

「誰かあるか?」

「は、藤林保豊ここに」

と跪くのは交代で義勝の身辺警護をしてる伊賀衆の頭領の一人藤林保豊だ

「藤林保豊、将軍様が小姓数人と播磨置塩城に向かったらしい、おそらく徒歩だろう急ぎ伊賀衆を動員して探してくれ」

「は、かしこまりました」

と藤林保豊は直ぐに捜索にでた。

 そしてこの日の夕刻、室町幕府十一代将軍足利義晴は、洛外の廃寺の跡で、二人の小姓共々変わり果てた姿で発見された、野党に襲われて、身包みを剥がれて遺体はそのまま放置されていたと言う。享年16歳、室町幕府の最後の将軍としては余りにも悲惨な最後だった。

 葬儀は義勝の手でひっそりと行われて、足利家の京の菩提寺『等持院』に葬られた。

「(そうか、義晴が子供のまま亡くなってしまったから、足利義輝には会えないのか、剣豪将軍に会って見たかったなぁ)」

と思う義勝だった。

 

 将軍が不在になったが、政務は既に義勝が山科で執っているので、特に何も混乱は無かった。

翌年大永六年、義勝は官位を従一位太政大臣に進め、これ以降は足利大相国と呼ばれる様になった。

この地位は、武家としては、平清盛と足利義満以来の物だ。

 義勝は一月置きに岐阜と山科を行き来して自虐的に

「(これ参勤交代だよな)」

と思っている。

 この間に義勝は、前管領細川高国と大内義興が明国の寧波で起こした騒動によって中断していた明国との貿易を再開、日本海側の敦賀を母港として丹後水軍を活用して、足利大相国の名で遣明船を送り大内義興から虎の子の交易財源を奪取する事に成功している。

 更に千秋定李に命じて、周防の大内義興、安芸の毛利元就、武田光和達とその配下の国人衆に恭順を促す文書を送っている、最初に応じたのは、毛利と大内の連合軍に居城佐東銀山城を囲まれている武田光和だ、義勝は佐東銀山城救援の為、官軍として『錦の御旗』と『武家御旗』を持たせた滝川貞勝の山陰道方面50000、服部友成の北陸道方面50000の100000の兵を送る。

 そして、山陽道でも同じく官軍として『錦の御旗』と『武家御旗』を持たせた千秋季光の山陽道方面軍50000、伊賀光就の南海道方面軍50000を出陣させる、更に熊野水軍、九鬼水軍、伊予水軍、村上水軍を動員して瀬戸内海の制海権を確保、海上輸送を封鎖して、長門や周防と備中、備後の補給路を遮断した。


 出雲から石見に入った山陰道の官軍は御旗の効果もあり、守護代問田興之、有力国人衆の高橋元光と益田宗兼、吉見頼興らが一斉に大内義興から離反した。

 この結果、佐東銀山城の包囲網が崩れ、毛利元就は居城吉田郡山城に引いた。

山陰道の官軍はそのまま長門の国に入ると国人衆高森正倫、津原膳勝、津田興輝などが恭順を表明して

官軍に従い、長門の守護代内藤興盛は居城且山城に籠った。

 ただ、内藤興盛は文武両道の教養人としても知られていて、官軍の御旗に反抗する事潔くせず、頭を丸めて勝山城を開城したあと、主君大内義興に詫びる為に自刃して果てた。


 山陽道軍は、備中に入ると、備中松山城の上野頼氏、鬼邑山城の上野信孝 鶴首城の三村宗親らが早々に官軍に降り、大内義興側の国人衆猿掛城庄為資を攻めて、これを討ち取った。


 官軍は、そのまま備後に侵攻する、この時備後では2年前の戦いで但馬・備後守護山名誠豊が滝川貞勝、千秋季光らに討ち取られて以来守護不在で大内と毛利の草刈り場になっている、守護代山内直通は大内側、毛利方は和智豊郷、古志為信 杉原匡信等で、この内毛利方だった国人衆達が官軍に恭順して、山内直通の甲山城を落として、山内直通は自刃した。

 更に官軍は安芸の国に侵攻して、毛利元就の吉田郡山城を囲む、安芸国の国人衆達は毛利の親族以外はほぼ官軍に恭順を誓ったが、頭崎城の平賀興貞は大内側に着いている。

 そして山城の吉田郡山城は伊賀衆、甲賀衆の手により主要施設が炎上、毛利元就と毛利家は滅亡した。

後にその報を聞いた義勝は

「(早々に降伏してくれれば、命は助けたのに)」

と心の中で思った。

『毛利の三本の矢の逸話』が事実か知りたかったのだ。

最もこの話は毛利元就の晩年の話と伝わっているので、あと50年近く経たないと真偽は聞けなかっただろう。


 安芸が落ちた事で、本州の大内氏の領国は本貫の地、周防だけになった。ここで大内義興は致命的な間違いを犯す、周防から九州の領国筑前に逃げようとして長門を抑えられている為に、直接海路を選んだのだ、だが海路は官軍が押さえている、なので防府の湊から危険な夜間に海に出て、上潮に乗ったまでは良かったのだが、水ノ子島周辺で座礁、海の藻屑となってしまった、同乗していた嫡男の大内義隆、周防の守護代陶興房も運命を共にする事となった。

 源平合戦の源範頼以来、九州で兵を集めて攻勢に出ると言う戦略は何度か繰り返されて来た、なので

この大内義興の選択は間違いでは無い、ただ既に制海権を官軍に握られていたと言う事がこの悲劇を生んだのだろう、これにより、西国の雄で一時は管領代として政治を司った大内氏もこの世界の歴史から姿を消す事になる。


 義勝は、水軍衆に命じて、千秋李光とその軍を筑前に上陸させて博多湊を抑えさせて、大内義興の九州の所領、筑前と豊前を接収した。博多の街は堺と同じ様に豪商達の自治都市となっていて、豪商の代表として、神屋宗湛、島井茂久が李光と面談し、戦勝祝いとして矢銭10000貫を差し出す事と義勝が送る代官を受け入れる事を条件を了承した、彼らは既に堺だけでは無く津島や十楽の津の商人達から義勝の商工業優遇政策を聞いていたので話は早かった。

 また、筑前宗像大社の大宮寺である宗像正氏は千秋李光の熱田神宮旗を見て、義勝が神職を優遇していると確信して義勝に臣従を申し出ている。

 筑前は商業都市博多を有し豊かな地域なので、豊後の大友氏が虎視眈々と狙っており、千秋李光の報告を受けた義勝は、甲賀衆100と文武両道の明智光綱を博多に代官として送り込む。

 安土の城と街の建築によって、必要が無くなった近江奉行の地位の代わりに千秋李光は筑前、豊前、長門の奉行職を得る事になり、俸禄は36万貫を超えて家中一となり官位も神職として従四位下神祇伯となった。

 本人は

「祝詞も唱えられない神職だからなぁ」

と官位の方は辞退しようとしたが、父季平、弟定李の反対で渋々ながら受領した。

 また義勝が烏帽子親となり諱を与えた15歳の嫡男季義には義勝の次女「菖蒲姫」(氏家行隆の娘、美濃の方が生んだ娘)が嫁ぐ事になっている。

 千秋季平の官位は代々紀伊守を自称していたが、鈴木孫一が正式に紀伊守に任命された事で

従五位上掃部頭になっている、弟千秋定李は従四位上右京大夫だ。

 ちなみに俸禄で言えば家中二位は、加賀奉行の服部友成で、関東の戦の功績で加増を受け、僅かに少ない35万貫、従五位上加賀守だ。以下松平昌安、井伊直平と続く。

 ただしこの俸禄は一代限りで、嫡男が家督を継いでも引き継がれない、義勝は臣下には家柄では無く実力主義を取り入れているからだ、ただ婚姻で親族になった家にはそれなりの特例があるが。

 とりあえず、山陰と山陽の各国には国人衆から抜擢した奉行を置き、各地の湊と金山、銀山を直轄地として、仕置きを終えた。

 九州と東北制圧については、まだしばらく様子を見るつもりでいる。


 そして、京の都の再建にもやっと取り掛かった。焼け跡を整備して、帝の御所の周囲の空き地に公家の館をを配置、義勝の許可を得ないで武家が洛中に屋敷を持つ事を禁止して、現存する全て武家の屋敷を接収して室町の御所も取り壊した。そして、旧武衛陣の跡に『武衛城』を建築する……モデルは当然家康の二条城だが、天守は徳川家の城の特徴の所謂ハリボテ天守では無く御殿造りとした本物の天守にする……、ここは義勝の京での居城兼、京都奉行の奉行所、京守護職の守護所も兼ねる事になる。

「いつまでも山科に居候するわけにはいかないからな」

と義勝は定李と実恵に告げている。

 新設された京奉行には家老と兼任で千秋定李が就任して、朝廷や公家達との交渉に当たる。都の治安維持を担当する京守護職は摂津奉行と兼任で京極高延を任命した。これは京を基本的に帝と公家と寺社、商人と職人のみが住む町とする事で戦乱に巻き込まれない様にするのが目的でもある。もちろん帝の御所の修繕も忘れていない。

 だが帝は、京の都と御所の再建を見届ける事無く、聖寿63歳で崩御された。

『心だに 西に向はば 身の罪を 写すかがみは さもあらばあれ』と言う歌を読んだ、敬虔な仏教徒だったと言われている。

 代わって践祚したのは、第二皇子知仁親王で、親王は円如、実恵、定李、近衛稙家と一緒に新しい政の在り方を考案した同志であった。当然先帝の葬儀費用と、帝の即位式の費用、金1000両は全て義勝が寄進した。これにより帝の即位式は、久方ぶりに践祚と同時に豪華に執り行われた。


 そして、この年の閏11月義勝の腹違いの弟次郎丸が元服して斯波義元を名乗る事となり清州の城代になっている、ただ当分は引き続き傅役の千秋季平が後見をする事になる。


 こうして多忙だった、大永六年は終わり、義勝は岐阜で新年を迎える事となる。

「(今年には、安土に引っ越す事になるな、岐阜の正月もこれで最後か)」

 と年始の客を捌きながら、考えている。

 この時、定李達と考案していた新しい政の雛形がやっと出来上がりつつある、義勝としては歴史上の織田、豊臣、徳川の政権の短所を極力無くした案を作ったつもりだが、こればかりは実際に運用してみないとわからないだろう。

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