1.推し様
「ここで売っている〝まじないの紅茶〟が評判だと聞いてね。一袋もらえるだろうか?」
興味深そうに店内を見回すヒアデスは、硬直したままのラリルを見下ろしながら声をかけた。
「ま、ま、まじないの紅茶ですねっ」
ギクシャクと動くラリルはまるで壊れたカラクリ人形のようで、見つめるヒアデスの緑色の瞳がスッと細まる。
ヒアデスを直視できないラリルはおどおどしながら口を動かした。
「ど、どんなまじないをご希望でしょうか?」
「うーん。そうだな……。君のおすすめは?」
「ぴゃ!?」
急に距離を詰めてくるヒアデスに、ラリルは素っ頓狂な声を上げて後ずさる。
「で、で、で、では、こちらの幸運の紅茶はいかがでしょうか!」
慌てて後ろの棚から紅茶を取り出したラリルは、ヒアデスの顔を直視できずに明後日の方向を見ている。
「うん、いいね。それを一袋もらおう」
「は、は、はい! すぐにお包みします!」
ガチガチに震える手で包んだ茶葉の包装は、それはそれはひどいものだった。
折り目はぐちゃぐちゃ、手汗で心なしか湿った包装紙の悲惨さたるや、ハラハラしながら見ていたイベリコは目も当てられない惨状に溜め息すら出ない。
さんざんな状態の茶葉を受け取り、代金を置いたヒアデスは帰り際に爽やかな笑顔でラリルを振り向いた。
「効果があったら、また来るよ」
パタン、と扉が閉まった瞬間。
ラリルは文字通り崩れ落ちる。
「な、な、な、なんだったの……っ!?」
ヘナヘナと座り込んだラリルは、今起こったことが現実であるのかどうか判別できなかった。
「ヒアデス様が! 私の推し様が! 来たんだけど! 私のこのオンボロ店に! 推し様が!」
「落ち着くでちゅ、ご主人様」
「落ち着けですって!? 落ち着けるわけないじゃない! ねぇ、私これっ、ゆ、夢よね!? 夢を見てるのよね!? 現実なわけないわよね!? お願いだから私を殴ってイベリコ!」
「ちょ、何するでちゅ!?」
むんずとイベリコを捕まえたラリルは、さあ殴れとでも言わんばかりに右頬を差し出した。
「夢だと言って! 夢なら覚めて! いや、覚めないで! とにかく夢だと確信するために私を殴って!」
「いい加減にしてくださいでちゅ! これは現実でちゅ!」
びっしょりと手汗をかいたラリルの手の中で揺さぶられるイベリコは、どうにでもなれと主人の頰を殴った。
「い、痛い……!? え、痛いんだけど、どういうこと!? は、夢じゃないの? へ? 嘘でしょ、マジ、何? なにごと!? 本当にヒアデス様が来たの???」
使い魔であるイベリコの拳の威力にたじろぐラリルは、これが現実であると知り震え出す。
主人のびしょ濡れの手から解放されたイベリコは、自分の体を拭いながら冷めた目を向けた。
「まったく、ご主人様は前世からちっとも変わってないでちゅ。ヒアデス様、ヒアデス様、ヒアデス様って。ヒアデス様の色だからって、緑色の部屋で飼われるハムスターの気持ちも考えてほしいでちゅ!」
イベリコの訴えが聞こえていないラリルは、とうとう腰が抜けてその場に仰向けで寝転んだ。
「ヒアデス様が、私の店に……。あのヒアデス様が。え、ヒアデス様って王子よね? なんでそんなお方がこんなオンボロ店に来るの? なんかの罰ゲーム??」
「ご主人様。現実逃避をしても、ヒアデス様を前にしたご主人様の挙動不審ぶりは取り消せませんでちゅよ」
「いやあああぁーーっ!! さっき私、めちゃくちゃ態度悪くなかった!? あの包み! もう手が震えてそれどころじゃなかったんだけど、ぐちゃぐちゃになっちゃったー! 推し様にお渡しする大事な大事な献上品なのに! てか、私、代金もらっちゃったよね!? なんで!? 推し様が来てるんだからそれぐらいサービスしろよ気が利かない奴だな!!!」
絶叫したラリルは両手で顔を覆い、急に静かになった。
「ご主人様……泣いてるでちゅか?」
おそるおそる問いかけるイベリコが覗き込むと、ラリルは顔を覆った手の隙間からハラハラと流れる涙を見せた。
「無理。無理だよイベリコ。私、ヒアデス様と話しちゃったよ」
「そうでちゅね。ずっとテレビとスマホと本とポスターとアクスタと推しぬいとフィギュアとグッズで拝むだけだった推し様と、会って話しちゃいましたでちゅよ、ご主人様」
「…………心臓止まるかと思った」
「分かりまちゅ。ワタチも、ご主人様の痛々しさに胸が痛んだでちゅ」
イベリコの小さな手に慰められたラリルは放心状態のまま、これまでの人生を振り返った。
死んで生まれ変わり、この世界に転生したラリルは前世を全て記憶していた。
前世で三姉妹の次女として育ったラリルは、成績優秀な姉とスポーツ万能の妹に挟まれて目立った才能がない中途半端な存在だった。
何をやっても姉か妹に負けて、習い事も続かない。そんなラリルに両親は関心を示さなかった。
一流大学を出て弁護士となり医者と婚約した姉と、スポーツ推薦で有名大学に在籍しながらモテまくって男を取っ替え引っ替えしている妹。
三流大学を卒業して三流企業の契約社員として働く前世のラリルは、姉妹と比べられていつも惨めな思いをしていた。
そんなラリルの味気ない人生を変えたのが、アニメ『キングメイト』だった。
腹違いの三人の王子が次期国王の座を争い熾烈な王位継承戦を繰り広げる、心理バトルファンタジー。
真面目で優秀な第一王子ブラキウム、ミステリアスで策士な第二王子ヒアデス、熱血で無敗の剣の腕を持つ第三王子ゾズマ。
メインの王子三人が美麗なビジュアルだったこともあり、女性を中心に大ヒットしたアニメ。
才能ある姉妹の間に挟まれた中途半端な自分に嫌気が差していた時、ラリルはたまたまこのアニメを目にした。
『中途半端で何が悪い。私には兄や弟のような秀でた才能はない。だから何をやっても大成こそしないが、代わりになんでもそこそこ上手くこなすことができる。それこそが兄にも弟にも劣らない、私だけの力だ』
前世のラリルは、アニメの中でヒアデスが発したこのセリフに救われた。
中途半端でもいいのだ。姉にも妹にも勝てなくても、私は私なのだ。
吹っ切れたラリルは、それ以来ヒアデスの大ファンになった。
放映されていた分のアニメを全て制覇し、ヒアデスのグッズを買い漁っていくうちに、ラリルは立派なオタクへと進化していった。
部屋はいつの間にかヒアデスのカラー〝推し色〟の緑で染まり、ヒアデスのポスターやらアクスタやらがあちこちに飾られ、イベントには必ず参戦してコラボカフェもコラボグッズもゲームコラボも全て制覇した。
契約社員の少ない給料を全て推し活に使うラリルに両親は呆れ果て何度も口論になったが、ラリルはその生活を曲げなかった。
そんなラリルの唯一の理解者は、ペットのハムスターだけだった。
『見てよイベリコ、コンビニコラボのヒアデス様スイーツ、神すぎない!?』
ケージも餌入れも寝床も緑色の空間に押し込められたハムスターは、返事もせずにカラカラと回し車を回すばかり。
それでもラリルにとっては、趣味を分かち合える唯一の存在だった。
短い寿命のハムスターが天寿を全うしたあとは、ラリルは誰もいない部屋で独り自分の世界にこもるようになった。
アニメの続編を待ちながら、ヒアデスだけを見つめる日々。
現実の生活はどうでもよかった。
苦手な人付き合いも、陰口と文句と押し付け合いばかりの会社も、大した関心を示してこなかったくせに口うるさい両親も、自分を見下す姉と妹も。
部屋にこもって画面の中のヒアデスを見ている時だけは、全てを忘れることができた。
ヒアデスという二次元の存在に依存しのめり込んでいたラリルはある日、呆気なく事故で死んだ。
そしてこの世界――アニメ『キングメイト』の世界に転生したのだった。