9.鈴の部屋。
──次の日。コーラス部の練習は無くって。
学校に行っても鈴には会えないから、私は少し遠いけど、自転車に乗って鈴の家まで押し掛けた。
「で? どうだったの? 鈴?」
「何が?」
「響くんと、あの後……」
「あぁ。行ったよ? そりゃ、もちろんでしょ」
「ふふ。良かった」
「良かったじゃないよ。響くん……部長として、ずっと心配してたよ? 結奈のこと」
「そ、そうなんだ……。なんか、ごめん」
「良いって。それより、大丈夫なの? 結奈、眩暈……」
「あ、大丈夫だよ。美術館に行って、急に何か色々想い出しちゃって。外も凄く暑かったから」
「そうなんだ……。私と響くんのこと、気を使わなくても良かったのに」
鈴の口ぶりが、ちょっと素っ気なくて。鈴は眼鏡を外して、テーブルに置いた自分の指先を見つめて居る。私とは、あまり目を合わそうとはしなかった。
……鈴の部屋。
勉強机の隣には、鈴が吹奏楽部の時に吹いていたクラリネットが、箱に仕舞われたまま置かれてあった。
机の上には、私たちコーラス部──四人の写真。いつ、撮ったのかな……。
仲良さそうな鈴と響くんが真ん中で。私も鈴の隣で笑顔で写って居た。結くんって子は響くんの隣で、澄ました顔をして写って居た。
「それで? 何か、思い出せた?」
「えっと……。やっぱり、吹奏楽部の時のことは思い出せるんだけど。今に繋がる記憶とか……思い出せなくて」
「結くんには、言われなかったの?」
「え? 何を……?」
「……」
自分の指先を見つめて居た鈴が、私とは目を合わせないまま……クッションにもたれ掛かって天井を見上げた。しばらくの間、部屋の時計の音だけが鳴り響いた。
「私。皆で公園に居た夜。聞いたんだよ。結くんの言葉。結奈と響くんには聞こえて無かったかも知れないけど」
「え? そっか……。やっぱり、あの時。結くん、鈴に何か言ってたんだ」
「最初は私、結くんに馬鹿にされているのかと思った」
「そうなの?」
「だって……」
鈴の指先が、テーブルの上に置かれていた眼鏡に触れた。それから鈴は、目を瞑る様にして眼鏡を掛けた。鈴の瞳がレンズ越しに私を見つめる。
「昨日までの結奈は居ない。今居るのは、違う世界の結奈だ」
「え? 何……それ」
「結くんが、言ってたんだよ……。私は言い返そうとしたけれど、響くんが結奈のこと急に誘ったから。何も言えなくなって」
「そう……なんだ」
眼鏡を掛けた鈴が窓の方を向いて、頬杖を突いて。私は俯いて、テーブルの真ん中を見つめるしかなかった。鈴から、目を逸らして……。
「結くんの言葉。信じられなかったんだけど。本当は、どうなの? 結奈?」
鈴の声に──私は、顔を上げた。そこには、真っ直ぐに私を見つめる、いつもの鈴が居た。
「そ、それが……。よく思い出せなくて。いつもと変わらない日常なのに、初めて来た世界みたいに感じることもあって」
「例えば、何? どんなこと?」
「鈴と響くんは、結……くんのこと知っているけど。私は知らない」
「嘘……。いつも普通に話してたのに?」
「それから、吹奏楽部じゃなくて。部活がコーラス部になってたこととか」
「え? いつも私たちと一緒に練習してたのに? やっぱり、記憶喪失……」
「記憶喪失だけじゃなくて。あんまり、言いたくないんだけど」
「何、結奈? 未来が見える……とか?」
「……そうじゃなくて」
鈴に続きを言い掛けて、私は口を噤んだ。それは──。記憶が繋がらない不安より、もっともっと大きなことで。
鈴には聞いて欲しかったけれども、一番、言いにくいことだった。
「あ、あのね。鈴……」
「何? 凄く気になるんだけど?」
「……じゃあ。言うね。生き返った人って、見たことある?」
「えぇ?! な、無いよ。そんな人、居る訳……」
「嘘じゃなくて。瑞穂先生と私のお婆ちゃんが、そうなの……」
「え? い、いや、現実にまだ生きて……」
「信じられないよね。けど……私が憶えている記憶じゃ、確かに」
「それって。やっぱり、結くんが言う様に……結奈は結奈でも、違う世界から来た結奈ってこと?」
「分からないよ。私は、私だし」
私は、もう一度、鈴から目を逸らして──鈴みたいにテーブルの上で自分の指先を見ていた。
けれど、「違う世界から来た」って言った鈴の言葉に、核心めいた何かを感じた。自分でも気が付かなかった。やっぱり、鈴は勘が良いって想う。
「結奈……てさ? 憶えてる?」
「な、何を?」
「実はさ……。結奈、私に結くんのことで良く相談してたんだよ?」
「え?! ええっ?! そ、それって、つまり……」
「そ。結奈、結くんのことが好きだったんだよ」
「嘘……。いや、まさか。全然。そんなこと……」
「だよね? 記憶無くしてるんだもんね。何か、変だと想ってたよ。いつも、結奈って結くんと仲良かったからさ?」
「い、いや。えぇっ?! 嘘だよ……そんなこと」
「あ。一応、言っておくけど。まだ、結奈は結くんに告白とかはしてないよ?」
「そ、そりゃ、そうでしょ……。そんなこと、する訳……」
「じゃあ、響くんのこと。結奈は好きになってたりする?」
「い、いやいや! ま、まさか、まさか!」
「いや、そんなに否定しなくても。まぁ、でも、安心した。けど、記憶を無くしている訳だから、もしかして……」
「な、無い無い! 無いよ……」
「ふふ、油断は禁物だよね? 結奈は可愛いから。結奈に、その気が無くっても……」
「いや。無いよ。私は私のことで……頭が一杯だから」
「そっか。なら、余計な心配かな? けど、響くんは」
「何? 鈴?」
「ううん。何でもない」
いつもの鈴との恋話らしくなって来たかと想えば──。鈴は、響くんのことを言い掛けて、天井の方を見ていた。また、眼鏡を外して鈴は目を瞑った。
「怖くない? ……結奈。無くした記憶や、誰かの気持ちを知るのって」
「そりゃ、まぁ……。怖くは、あるけど」
何だか、急に不安が込み上げて来た。
鈴は知っているけれど、知らない過去の自分が居る。それに、私は鈴の気持ちを知ってても……今の響くんや結くんの気持ちは知らない。
私は買って来ておいたお菓子やジュースを、テーブルの上に置こうとして鈴に尋ねた。
「……食べる?」
「要らない。あ、喉は渇いたかな」
「鈴……」
何か。鈴とは仲が良かったのは憶えているだけに。今の素っ気ない鈴の態度が、ちょっとショックだった。
「何か、あったの鈴? ……響くんと」
「別に? 普通だよ。いつも通り」
「そっか……」
鈴が身体を起こして、買って来たジュースのペットボトルに触れる。「……ありがとう」って、鈴が小さく呟いた。それから、私もペットボトルの蓋を空けて。部屋の窓の方を向いて、少し飲んだ。
鈴の顔を見ながら楽しくお喋りしたかったのに。鈴の顔が見れなかった。
「何か……。響くんの態度っていうか。雰囲気がさ。結奈が記憶喪失になった日から、少し」
「え?」
喉が渇いていたのか、鈴は半分近くペットボトルに入ってたジュースを飲んで。深い溜め息をついた。
「ねぇ? 結奈……私、どうしたら良い?」
「どうしたらって……別に、今まで通り私と」
「違うよ。響くんとだよ……」
「え? あ、うん……」
私も……。何だか悲しくなって来た。部屋の窓を見上げると、西陽が強く射し込んでいる。少し鈴の方を見ると、鈴は眼鏡を掛けていて。下を向いて、いつものお下げ髪を胸のあたりで触って居た。
「部活は、行かないとね……」
「そうだね……」
鈴と私との間に、冷たい空気が流れる。部屋の空調は効いていたけれど、窓から入って来る西陽が強くて眩しかった。
このままじゃ、家に帰れなかった。鈴との間に出来た距離をもう一度、埋めたかった。やっぱり、響くんと鈴に……何かあったんだろうか。
「私は……鈴の味方だよ」
「うん……」
「な、なんか、私が記憶無くしてから、変になっちゃってるよね」
「結奈の……せいじゃないよ」
「……」
「結奈は、どうしたいの? 記憶のこととか、あると思うけど」
「私は──」
どうしたいんだろうか……。そう言いかけて、俯いて口を噤んだ。ギュッとスカートの裾を握りしめる。
正直に言うと、記憶を無くしてから数日しか経ってなかったし……。自分以外のことを考える余裕も無かった。いや、自分自身が、どうしたいのかなんて鈴に言われるまで……考えてもみなかった。
「私は、鈴と響くんには……今まで通り仲良くしてもらいたい」
「うん。大丈夫だよ。響くんとは今も昔も何も変わらない」
「じゃあ……」
「早く記憶、想い出して? ……結奈。それが、結奈にとっても良いし。私や響くん……結くんにとっても良いと想うから」
「う、うん……」
それが、何を意味するのか。私の中にある、どうにも出来ない感情が揺れ動く。
目の前を向くと、いつもの鈴が眼鏡を掛けて……私に笑い掛けて居た。
私は立ち上がって、鈴の傍に座り……寄り添う様に、鈴を抱き締めた。
「鈴っ! ごめん!! うわぁぁん!!」
「な、何? ……結奈」
「私のせいで、私のせいで……」
「……私の方こそ、ごめん。結奈を責めるみたいなこと言って」
「ううん。そんなことないよ……。私の方こそ、ごめん……」
「そんな……。泣かないでよ、結奈。私まで、泣けてきちゃう……」
それから──。どれくらいだろう。
しばらく、鈴と私は抱き締め合って……声が掠れるくらいに泣いたんだと想う。
窓から射し込む西陽が眩しいくらいに、部屋の中に居た私と鈴を照らしていた。
◇
「……だいぶ、遅くなっちゃったよね? 結奈、帰れる?」
「うん。平気。夏だし、まだ明るいからね。今日は、ありがとう。鈴」
「ううん。私の方こそ、ごめんね。ありがとう、結奈」
私と鈴。いつもの二人に戻って、嬉しかった。
部屋を出る頃には夕方の六時は過ぎていたけれど、外はまだ明るかった。
鈴の家の前で、私は自転車に跨ったまま鈴と立ち話。
明るい内に帰らなきゃって想うけど、鈴との仲が戻ったことが嬉しすぎて。ずっと、鈴とこのまま話して居たかった。
だんだんと夕日が沈み、さっきまでの外の暑さが幾分か和らぐ。風が少し吹いて、鈴のお下げ髪と私の一つ括りにした背中の髪が揺れた。
「じゃあ、またね! 鈴!」
「うん! 気を付けて帰るんだよ? 結奈……そろそろ、道が暗くなると想うから」
「なんか、鈴。お母さんみたいだよ?」
「もぅ、同級生だよ! ま、結奈よりお姉さんってことで」
「ふふ。そうだね」
「また、何でも言ってよ。結奈!」
「うん。頼りにしてる」
鈴と私。鈴に笑顔で手を振った後、私は勢い良く自転車のペダルを踏み込んだ。風が流れ、背中の髪の毛が靡く。
鈴の言った通り外は薄暗くなって、道には外灯の明かりが灯り始めていた。
車と人が行き交う中を、自転車のライトを点灯させて走り抜ける。鈴のことを想いながら漕ぐ自転車に風を受けて心地良かった。
(──ルルル……ルルル)
その時。しばらく、自転車を走らせていると、鞄の中の携帯電話が鳴っていることに気付いた。
私は近くのスーパーの駐車場の隅に自転車を停めて、携帯電話を手に取った。
「はい……もしもし?」
「ごめん。結奈?」
鈴や響くんと違って。まだ聞き慣れていない声が、私の耳元で響く。
電話の向こうから響いたその声に、少し私は足下を見て俯いた。
「結……くん?」