8.響くんとのデート。
あの後──。
鈴の後押しがあって。「行って来なよ」……って。「想い出すチャンスじゃん?」……って。鈴に言われて。
断れなかった。鈴と響くんの提案を。
鈴の気持ちを知っているだけに、私は──。
鈴には、「……ごめん」しか言えなくて。何を言って良いのか分からなかった。
それから、そのまま。行く流れになって──。今日になった。
あの時の鈴の顔……。見れなかった。
「結奈?」
「え?」
街の雑踏と車の音が響く、美術館前の歩道。
街路樹の植え込みのあるコンクリートの壁に腰掛けて、自分のチェックの赤いスカートと革靴の足先を見つめていると──。
アスファルトに背の高い影が映って、ボンヤリとした私の頭に声が響いた。……響くんだ。
「ごめん、待った? 待ち合わせより、早く来たんだけど」
「ううん。私が早く来ただけ。何だか、落ち着かなくて」
ルネッサンスの原画展──。どうして、響くんは私が興味持ってたこと……知ってたのかな。
響くんのお洒落な青いネクタイが、夏空の雲を想わせる白のカッターシャツの上で風に揺れている。見上げた空の様に……響くんの笑顔が眩しかった。
「じゃ、行くか?」
「うん」
響くんが、私の前をスタスタと歩く。私は、少し間を開けて──響くんの後ろを歩いた。響くんの歩くアスファルトの上を見つめて……。鈴に申し訳ない後ろめたさがあった。もしも、今……私じゃなくて響くんと居るのが、鈴なら──。
──入口。美術館の黒い重厚な扉が、目に入った。
中に入ると、天井のオレンジ色の照明がポツポツと灯っていて、黒い大理石の様な壁と床を照らしていた。先に入っていた響くんが受付でチケットの支払いを済ませている。後ろに居た私も受付でチケットを購入しようとした。
「あ。結奈。良いよ、これ──」
「え? いやいや、駄目だよ。そんな、お金……払うから」
「良いから、良いから!」
背の高い響くんの笑顔が、私を見つめる。天井のオレンジ色の照明が、私と響くんを照らす。半ば強引にチケットを握らされた私は、次々にやって来る来館者にぶつかりそうになりながら、響くんに手を引っ張られた。
「え……?」
想わず声を出した私を無視して……。響くんは、私の手を離さずに居た。そのまま、入場扉をくぐり抜けて──。私と響くんは、正面ロビーに飾られた一枚の大きな絵画を見上げた。
「す、凄いな……」
「う、うん……」
初めて見た。感動と驚きがあった。けど──。胸が変に高鳴るのは、響くんが私の手を離さないで居たから……そう言うのもあって。
何だか、感情がごちゃ混ぜになる。
響くんが私の手を離さずに見上げたその絵画は──天上界の二人の神様の指先と指先が、まさに触れ合う瞬間を描いたもの。
ふと、手もとを見ると。今……私の手を離さずに掴む響くんの手。大きな節の高い指先。どうしてだろう……。無意識、なのかな。響くん。私の手を離さないで居るのは。
「あ、あの……」
「え? い、いや。悪い。……つい」
響くんが、焦った様に私の手を離した。一瞬、鈴のことが口をついて出そうになったけど。私は口を噤んだ……。
「い、いや。やっぱり凄いもんだよな」
「う、うん。あんなに凄い絵、描けないよね」
まだ、最初の絵を見たばかりなのに、圧倒されてしまう。ふと、隣を見ると、響くんが俯いた様に自分の足元を見つめていた。私は、鈴に悪い気がしているのを、ずっと拭えないでいた。
「あ、あのさ?」
「どうしたの……?」
「い、いきなりだけど。何か、想い出した?」
「え?」
「い、いや。なんか、ほら。前に絵画……ルネッサンスとか好きって、結奈、言ってたからさ」
「そうなの? 確かに、好きだけど。……言ってたのかな」
「憶えてない……?」
「……ごめん。私、響くんに言われてから、絵画が好きだったこととか……想い出して」
「そうなんだ……」
そう言えば──。何処かで誰かと、そんなことを言った。 ……ような気もして。
展示ルートの矢印の表示板に従って、響くんと順路を進む。後ろから来る来館者の人たちに、気を使いながら、ぶつからない様に、ゆっくりと歩いて。
ルネッサンスの時代に代表される絵画の力は、凄くて。けれども、響くんと私には、あまり会話は無くて。つい、鈴のことを想ってしまう。鈴と一緒なら、響くんも楽しかっただろうって。鈴も響くんと一緒なら、楽しかっただろうって。手も……繋いで居たのかなって。
響くんが、ふと。足元を止めて、私へと振り返った。来館者の人たちが、私達の後ろを通り過ぎて行く。私も足元を止めた。
「昔。……って言っても、つい最近のことだけど。よく俺の家に遊びに来てくれたよな。鈴と結奈と、結の三人で」
「そうなの?」
「俺の家。親父が輸入商やっててさ。海外からの珍しいもの、俺と四人で良く見てたからさ。まぁ、レプリカだったけど、結奈がルネッサンスを題材にしたのが好きだって」
「そうだったんだ……」
「なんか、結奈。目、輝かせて喜んでたから。俺は、そんなに結奈が気に入ってるなら持って帰れって……結奈に言ったんだけど。結奈が苦笑いしてたのが、なんか……」
「そうなんだ……。でも、幾ら何でも、お店の物は今の私でも遠慮したと想う。憶えてないけど」
「だよな。結奈のそう言うとこ、俺は……」
「何?」
「いやいや! あ。進まなきゃだな。展示員の人たちが、こっち見てるな」
「う、うん……」
……どうしてだろう。
再び、展示ルートに従って、響くんの後ろをゆっくりと歩き始める。それでも、ポッカリと穴が空いた様に思い出せない。響くんに言われたことを。そんなことが、あったなんて。
それと──。
それなら、尚更。鈴は響くんと来たかっただろうなって想う。
それからは、そんな鈴と響くんに対する想いが、ぐるぐると心の中を回る様にして──。館内の展示ルートに従っては、迷路の様に進んで行く。響くんと二人で。
幻想的な天井のオレンジ色の照明は、黒い大理石の様な壁と床に反射していたけれど、私は俯いて。時々、視界に絵画や展示品は見えても……この時間が私には勿体なく想えた。
けれども、今日は二人に背中を押してもらって、ここに来れた訳だから……。鈴と響くんの気持ちは、無駄にはしたく無かった。
◇
──出口。
展示ルートを辿って、私と響くんは、美術館の正面ロビーに再び戻って来た。少し振り返って、最初に見た大きな一枚の絵画をもう一度見上げた。二人の神様の指先と指先が触れ合う絵──。そんな風に、私の過去の記憶と今の記憶も繋がって欲しかった。
けれども、今、想い出すのは──。
鈴と響くんと私が居た、吹奏楽部のこと。放課後は、割と三人で良く居たこと。……結くんって子が何処にも居ない、学校のことばかりだった。
「結奈、出る? お土産コーナーとかは?」
「ううん。別に、いいよ。あ、響くんが見たいなら」
「俺も良いよ。似たような商品は、家にもあるだろうからさ」
そう言って──。響くんが、美術館の出口の扉を開けた。
夏空の眩しい光が、目に入り込む。館内の空調が効いていたのもあって、蒸し暑い空気と夏の陽射しに、眩暈しそうになった。
「流石に外は暑いよな」
「う、うん。流石に厳しい……よね」
一瞬──。ぐらりと、視界が揺れて……。出口の直ぐ傍にあった小さな階段に向かって、私は倒れそうになった。
「結奈!」
「え?」
なぜだろう……。どうしてかな……。
頭の中で回り続ける言葉。繋がらない、記憶と記憶──。
街路樹の枝葉から見えた青空と白い雲の下で、響くんが私の顔を覗き込んで居る。まるで、抱き寄せられるみたいにして。今度は、手を引っ張られるだけじゃ済まなかった。
「だ、大丈夫?! 響くん……?」
「それは、こっちの台詞だよ。結奈。……立てるか?」
「う、うん。ごめん。……ありがとう」
ぐっ……と、響くんに引き寄せられた瞬間──。今度は、私が響くんに倒れ込む様にして……足元のバランスを崩した。
「きゃっ!?」
「えっ?! ゆ……結奈!?」
美術館の出入り口前で──。響くんに馬乗りになって手をついた私。皆の視線が、私たちに集まる……。
「はは……。怪我は無いか? 結奈?」
「だ、大丈夫……みたい。ごめん」
響くんの顔をマジマジと見つめてしまった。何故か、鈴の顔が浮かんだ。
間近で見る響くんの顔は、妙に生々しくて、綺麗で若々しかった。
倒れても、笑顔を見せる響くんに……あぁ、鈴は好きになったんだなって、想えた。やっぱり、ここに居るのは私じゃなくて……鈴が居るべきなんだ……って。
私は咄嗟に、響くんから離れたけれど。身体を起こして、笑顔だった響くんの表情に、一瞬、電流が走った様な空気を感じた。
「痛っ……!」
「え?! 響くん、肘から血……出てるよ」
「ま、マジか……」
焦った私は、肩に掛けた小さな鞄に手を触れた。
けれど、響くんの血を拭えそうなのは、ハンカチとティッシュくらいしか無いことに気付く。
「え?」
小さな鞄の中を覗いて驚く。中には、少ないけどガーゼや消毒液、包帯や白の紙テープまで入っていた。……私には、入れた覚えがなかった。
(……たぶん、〝魔法〟のせいだ……)
魔法でも何でも。とにかく、響くんの肘の傷を止血して手当てした。大袈裟に見えるかも知れないけれど、ガーゼの上に包帯を巻いて固定しておけば大丈夫なはずだから。
少し、響くんの視線を感じたけれど。今は、気にして居られなかった。
「驚いた。ありがとうな。結奈……」
「べ、別にこれくらい……。それより、大丈夫なの? 傷……」
「そうだな。かすり傷だし。骨には異常無いと思うけど」
「そっか。じゃあ、良かったけど……」
「準備も良いし、手際も良いし。流石だよな、結奈は」
「そ、そんなこと、無いって。……鈴も同じ様に手当てしてくれたと想うよ? 響くんに」
「鈴? あぁ……そうかもな」
そう言いながら、私と響くんは立ち上がった。相変わらず、街の雑踏や車の音が絶え間なく響いている。
けど、立ち上がった瞬間。また、軽い眩暈に襲われて……私は、その場にしゃがみ込んだ。
「……お、おい。結奈の方が、ヤバいんじゃないのか?」
「ごめん。響くん。せっかく美術館まで連れて来てくれたのに……」
「良いって、気にしなくても。俺、家まで送って行くよ。今日は結奈、休んだ方が」
「で、でも。せっかくだし……。そ、そうだ。この後のコンサートは、鈴を誘ってあげて? 今日は予定無いみたいなこと……言ってたから。あ、鈴に連絡しとくよ」
「無理するなよ。結奈。俺が結奈を送って行く。それに、鈴も急には来られないと想うから。それなら……俺が鈴に連絡しておくから」
「ごめん。私、何だか頭の中……ごちゃごちゃしてて。私は一人で、ゆっくり帰るから。でも……そうだね。鈴は迎えに行ってあげて?」
何だか──。鈴と響くんに申し訳無かった。それに、急に眩暈を起こして……。
響くんには、心配掛けるし。鈴には……私の代わりみたいになっちゃうし。
夏の強い陽射しに、フラフラと立ち上がった私──。けど、その手には携帯電話が握られていた。無意識だった。
いや──。私が鈴に電話しなきゃって、想っていた……。
「もしもし? あ、鈴? ごめん。私、急に眩暈しちゃって。夏バテかな。あ、あのさ。鈴、今から来れない? もし、その……良かったらだけど。響くんにも悪いし。え? 平気だよ。一人で帰れるからさ。あ、響くん、今から鈴を迎えに行くって。私のことは良いから……ね?」
私は、一方的に電話を切って。その場に立ち尽くした。これって、私の我が儘なんだろうか。
「……結奈。俺は、家まで結奈を送る。心配だからな。途中で、また倒れられたりしたら、後悔してもし切れないし」
「分かったよ……。でも、鈴は迎えに行ってあげて」
「ん? じゃあ、結も……」
「鈴だけで良いから。多分、結くんは来ないよ。俺は行かないみたいなこと言ってたし」
「そうなのか? けど、まぁ……。休み休み、家に帰るか。結奈?」
「帰るよ。けど、鈴には、もう一度……ちゃんと響くんから、電話するんだよ?」
「あぁ……。分かった」
……身勝手なのかも知れない。私の自己満足なのかも知れない。結果的に、鈴と響くんを振り回してしまっているだけだから。
……やっぱり、身体は、まだ、フラフラする。
けど──。これで幾らかは……。私は真夏の太陽の下でも、真っ直ぐに前を向いて歩くことが出来た。
私は、鈴にも響くんにも……幸せになってもらいたかった。