18.出発の朝。
──一週間後。
今日も、まだ学校は夏休み。けれど、結くんと会えなくなってから、随分と時間が過ぎ去った様に感じられた。
鞄を自転車の籠に入れて、サドルに跨って、ペダルを踏んで──。朝からアスファルトに照りつける太陽の光に飛び込む。いつもと変わらない日常だけど、世界は確実に鮮やかに輝いている様に見えた。……私の記憶の中の結くんも、決して色褪せることは無かった。
「……鼎神社。行かなきゃ。きっと、結くんが待ってる」
自転車のペダルを踏む度、焦燥感や自信の無さが襲う。けれど──。この世界と同じ様に夏の暑さや吹き付ける風の勢いを、結くんと居た世界でも感じて居たことを想い出した。五年前にこの世界から消えた結くんは、確かに私と居たんだって。
あれから、結くんの夢を見ることは無かった。目覚める度、不安に想った。本当は、結くんなんて居なくて……私の空想だったんじゃないかって。そう、想いたくはなかった。
「……今度は一人じゃない。響くんも鈴も来てくれるはずだから」
自転車を漕ぎながら、自分に言い聞かせた。蒸し暑い空気を風に感じて、汗が制服の中で背中を伝い流れ落ちる。
鼎神社に行って、鈴や響くんと一緒に結くんと会えるとか……確証は無いけれど。巫女で神主の葉月さんが、私に来る様に言ってたんだから、何かが起こるはず。いや、結くんをこの世界に呼び戻すんだ──。そう、強く信じて……。
路地裏の細い角を曲がると、参道の登り坂の先に神社の白い大きな鳥居が見えた。樹々が深く生い茂って居て、最初に此処に来た時よりも、随分と神秘的に感じられた。
「きっと、会える……はず。結くんに……」
ゴクリと息を飲み込んで、私は自転車から降りた。
鳥居を見上げると、その先には朝の光が差し込む鼎神社の境内が見えた。私は、そっとお辞儀をしてから自転車を手で押しながら鳥居を潜った。
朝の清々しい空気を吸い込んで──。ご神木の枝葉の隙間から、太陽の眩しい光が目に飛び込んだ。風が吹くのを感じて、ザワザワと樹の枝と葉っぱが揺れた。鈴や響くんとの待ち合わせは、現地集合になっていたけれど、まだ二人の姿は見当たらなかった。
「そろそろなんだけどな……。まだかな?」
私は手首を返して腕時計を見つめた。午前八時ちょうどだった。私は、あっちの世界でも直ぐ時間が見られる様に、今朝は腕時計をつけて来た。連絡用の携帯電話も、いつも通り忘れなかった。
静かな朝の鼎神社の境内──。小鳥たちのチチチ……とさえずる声や、蝉の鳴き声だけが響く。
すると、鳥居の向こうから、聞き覚えのある二人の賑やかな声が聞こえて来た。
「響くん、しっかり! 鼎神社は、目の前だよっ!」
「重い……。ハァハァ。こんなに荷物が必要なのか?!」
「えー? 緊急災害時用の道具に備蓄の食糧に……」
「いや、鈴の荷物もだよ……。そんなに、あっちの世界って」
「もー! 何があるか分からないでしょ!? それに、結奈とか、ほら……結くんって子の分も」
「はいはい。まぁ、そうだよな。けど、しかし、自分の荷物くらいはだな……」
「えー! 私たちの家から鼎神社って凄く遠かったし。それに、朝からこの登り坂だよ? 女の子には無理だよ……」
「あぁ、そうだな。これくらいで参ってたら、男としてどうかって想うよな?」
「流石っ! 響くん!」
「痛いって! ……叩くなよ」
声がする方向を見つめて居ると──。鳥居の下にある石段の脇道から、二人が自転車を押しながら姿を現した。特に響くんは大荷物を背負って居て……。響くんの自転車の籠には、修学旅行で使う重そうな鞄が入れられ、後輪の荷物台には、それより更に大きな鞄が括り付けられて居た。
「……ハァハァ。おっ? 結奈! 遅れて、すまん。鈴が、どうしてもってな。この大荷物……」
「響くん、人のせいにする気? 昨日、何が要るか話し合った結果だよ? あ、結奈! おはようっ! いよいよだね?」
響くんは自転車を押しながら、既に汗だくになって居た。制服のカッターシャツの首もとに、汗が伝い光って居る。鈴も制服姿だったけど、割と涼し気な様子でケロッとした顔で立って居た。
◇
「おーい!」
誰かの声──。何処かで聞いた様な……。
木々の生い茂る森の木漏れ日の奥。鼎神社の境内の方から、人の声が響いた。
私も鈴も響くんも自転車を押しながら、声のする方向へと振り向いた。
遠目に見えたのは、拝殿の直ぐ下の石段の傍で、手を振る四人の人影──。巫女装束を着た女の人が二人と、神主の格好をした男の人が一人。それと……。ティーシャツにジーンズ姿の見慣れない大学生くらいの男の人が居た。
「葉月さーん! それから、えーっと……」
私も手を振ってみたけれど、葉月さん以外は初対面に近くって。知らない人も居るし。いや、何処かで……。
巫女衣装を着た葉月さんは、肩に掛かる髪の毛を風に揺らして静かに佇んで居る。その隣で、声を上げて手を振って居たのは──。
「マニカさん? ……きっと、そうだ。マニカさーん! 結奈です! おはようございます!」
結くんの居る世界に連れて行ってくれた人で、時間と意識の境界駅で駅員さんの姿をして居た人だ。今日は葉月さんと同じ巫女衣装を着ては居たけれど、もう一人──大人びた雰囲気で同じ名前の摩尼伽って人は居なかった。
相変わらずの綺麗な長い黒髪と大きな瞳で。巫女装束の白い着物には、胸の辺りにまで髪の毛が掛かるほどだった。
「結奈? 鼎神社の人と知り合い?」
「仲良いの?」
響くんと鈴が自転車を押しながら、顔を見合わせてから私へと尋ねた。
「いやいや。そう言う訳じゃなくって。ちょっと、お世話になってたから……」
いや。とってもお世話になってたんだって、本当は言いたかったんだけれど。二人には、鼎神社にまで行って私が結くんを探そうとして居たことを、改めて認識されるのが恥ずかしかった。私は苦笑いしながら、参道の枝葉や石ころの凸凹道を、足元を見つめながら歩いて居た。
……それは、良いとして。
葉月さんの隣に居る神主姿の男の人は、きっと旦那さんだ。名前は──。ご祈祷の時に聴いた気がしたけれども、忘れた。
だけど、マニカさんの隣に居るジーンズ姿の大学生くらいの男の人には、会ったことが無かった。
◇
「あ、初めまして。上坂ツナグと、言います」
社務所の前を自転車を押しながら通り越して──。
葉月さんやマニカさん四人と、鈴と響くんと私は合流することになった。
開口一番。直ぐに挨拶をして来たのは、ティーシャツにジーンズ姿の爽やかな格好をした大学生くらいの男の人だった。
私と鈴と響くんは気後れして、自転車を支えながら会釈をした。
「響です。今日は、よろしくお願いします……」
「あ、鈴です。結奈とは同じクラスメートで……」
「は、初めまして。結奈と言います。あ、あの、結くんを──」
語尾が消え入りそうなほどの小声になってしまって……。ちゃんと言えなかった。
それから、三人とも苗字じゃなくって、いつも呼び合って居る下の名前で自己紹介をしてしまった。
自転車のハンドルをギュッと握る手が、夏の熱さと汗と緊張とで……何とも言えない違和感を感じた。それから、その目の前の〝上坂ツナグ〟って人のことを、頭から足元まで──私はマジマジと見つめてしまった。何故か、視線を外すことが出来なかった。
「似てる……かな?」
その人が、首を傾げてその言葉を口にした瞬間──。私は、ハッとして、恥ずかしくなって俯いてしまった。
「結奈ちゃん。実は、この人……結くんと血の繋がったお兄さんなの」
「え?」
葉月さんが俯いた私の目の前で、しゃがみ込んで──。私にヒソヒソと耳打ちをした。驚いた私は、直ぐ様、顔を上げて──。もう一度、頭の先から足元まで……ツナグさんの容姿を確認した。
「似てる……」
呆気に取られた私は、ただただ呆然として。気が付くと、心の声が漏れて居た。目の前に居るツナグさんのその姿を、私は立ったまま自転車から手を離せずに──見て居ることしか出来なかった。
「一応、兄……だから。僕もマニカや葉月から、弟の話を聴かされた時は、驚いたよ……」
「……そう、なんですか」
「あぁ。想い出せたんだ。僕には弟が居たんだって。結って名前も」
「そ、それじゃあ……」
私の固まっていた様に感じられて居た足元が、一歩。前に出て──、自分の革靴が地面の土と砂利を踏む音が聴こえた。
「葉月、ツナグくん。驚いたよね? まさか、ツナグくんが、結くんのお兄さんだったなんて……」
「そう。だから、マニカ……。一週間掛けて離島からアンタたちを呼んだからね。今日は、よろしく」
「おい、なんか素っ気ないな葉月……。お、俺も今日は神主としてだな。初のご祈祷をだな……」
「空也。分かってる。私たちは、マニカとツナグ──結奈ちゃんのサポート役。それに、今回は結くんを探しに、私も空也も〝あっち〟に行くんだからね」
「あ、あぁ……」
「ありがとう、空也、葉月。……よろしく頼むよ。今回は僕もマニカも皆と一緒に──」
それから、ひと仕切り。葉月さん、マニカさん、空也さん、ツナグさんの四人は、久々に同窓会ででも会った時の様な雰囲気で話をして和んで居た。
神社の境内に生い茂ったご神木の枝葉が、ザワザワと風に音を立てて揺れて居る……。
その後で、私や鈴と響くんに自己紹介がされた。私たち三人は、ずっと呆気に取られて居て……。いつ、ご祈祷が始められるんだろうかって、様子を伺って居た。
「なんか結奈ちゃんたちって、可愛いし、懐かしいよね? 高校生の時の私たちを見て居るみたいで」
「マニカ。時間無い。ほら、アンタの鼎さん扱う力が重要なんだからね?」
巫女衣装を着た葉月さんとマニカさんが、話をしながら朱色の袴を引き摺る様にして、拝殿へと登る階段を上がって居た。その後に神主の空也さんと、黒の皮靴を丁寧に揃えて居たツナグさんが後に続いた。
私と鈴と響くんも、その辺りに適当に自転車を停めて、それぞれの荷物を肩に掛けてから後に続くことにした。
「ね、ねぇ、結奈? 私たちって、本当に〝あっち〟?──夢の中で見た世界に行くんだよね?」
「う、うん……」
「大丈夫……なのか?」
「たぶん……」
私たちも、脱いだ靴を揃えて──。拝殿へと登る木の階段に足をのせた。
ギギッ……と軋む。その音が聴こえた後、不安そうな二人の声に私は俯いて答えるしかなかった。
結くんに、また会えるのかどうか。会えたとしても、結くんが生きて居て無事なのかどうか……。
ふと、階段から振り返った夏空は、青くて──。
一瞬、降って来た天気雨の、その雨粒が……風と一緒に私の鼻先にピッと、くっついた。




