15.光の中に。
拝殿──、開け放たれた格子扉の奥。
目の前には、夕日に照らされた五年前の小学六年生の私が居て。四つん這いになったまま……祭壇の上に安置された黒い石の欠片へと手を伸ばそうとして居た。黙ったまま見つめて立って居る少年姿の結くんの後ろ姿が、茜色に染まって居る。
(……どうしよう。声が、出せない──)
黒色の小さな石の欠片が、差し込む夕焼けの光を受けて……虹色の光彩を放って居るのを目にした。……私は立ち尽くしたまま、指先さえ動かせなかった。
その瞬間──。雨上がりの土の匂いと、樹々の枝葉の香りが風になって……私の頬と額を掠めた。前髪が揺れ動くのを感じて、視界の真横から高校生になった今の結くんの背中が、飛び込んで来るのを目にした。
その光景はまるで──。小学六年生の私と結くんの後ろ姿が……高校生になった今の結くんと私と──一緒に重なり合う様だった。
「待って!」
私の心の中で震えていた言葉が、私の口からではなく。目の前に居る、まだ小さな肩を震わせた六年生の結くんから響いて──。精一杯の声が、振り絞られる様に聴こえた。
四つん這いになって居た六年生の私がその声に振り向き、高校生になった結くんの背中が立ち止まった。辺りが静まり返り、小学生だった結くんの口が開く。何かを言おうとして居た。その目に涙が茜色に光るのを目にした。
「いけないよ。結奈。それ以上、近づいちゃ……いけない」
「どうしたの、結くん?」
「なんでだろう。悲しいんだ、とっても」
「結くん、泣いてる?」
「ううん。いや、ごめん。情けないよね、格好悪いよね」
……どうしてなのかな。私たちの声も存在も伝わって居ないけれど。私は小学六年生の結くんが立って泣いて居るのを目にして、涙が込み上げるのを感じた。広く凛とした高校生の結くんの背中が震えて居る。その光景を私と同じ様に見つめた瞳には、茜色の涙が小さく光っていた。私と結くんは、小学生だった五年前の二人を黙ったまま静かに見て居た。
「誰かが近くに居る」
「え? 誰も居ないよ?」
小学生の私が顔を上げて、辺りをキョロキョロと見渡していた。六年生の結くんの言葉にドキッとする。高校生の私と結くんの姿が視えるんだろうか。私は祈る様な気持ちだった。早く二人には、この場から離れて欲しかった。もしも、結くんが言った様に……私が消えて二人が離れ離れになってしまうのなら──。
「ごめん。気のせいかも知れないけど、何かそんな気がしたんだ」
「そうなの? 結くんには霊感とかあって。私を驚かそうとしてる?」
「ち、違うよ。そんなこと、する理由ないよ」
「じゃあ、私を守ってくれる?」
「うん。ここには居ない方が良いんだ。きっと……だから、早く」
今の私と同じ、白のワンピース姿の六年生の私。身長や身体の大きさは、五年前と比べると随分と違うけれど。小学生の私は四つん這いから立ち上がって、脱げていたサンダルを履きながら、手を差し伸べた六年生の結くんの手をギュッと握り締めて居た。まだ、屈託の無い無垢な二人の笑顔に……私の震えて動けなかった気持ちが、身体とともに安堵するのを感じた。
(──ゴゴゴゴゴゴゴ! ドオォォン!!)
その時──。地面が抜け落ちるかと想うほど、大地が揺れて。この鼎神社の境内が全部崩れ去る様な地響きがした。──駆け巡る血が全身を逆流して、総毛立つ程の恐ろしさが脳裏を深く走り抜ける。膝から力が抜けて、私はその場に手をついたまま身動きが取れなくなった。
「……立って居られない。こ、これって」
「結奈! 逃げるんだ! 早くっ!!」
血相を変えた結くんの視線が、私の目を見ていた。差し伸べてくれた結くんの手に私は触れて、揺れがまだ収まらない最中、何とか立ち上がることが出来た。
「きゃっ!」
「危ないっ! 結奈っ!!」
それでも、揺れ動く拝殿の床に足を取られて……。私は結くんの腕に何とか抱き止められた。
結くんの後ろに、お賽銭箱の真下に伸びる階段が見えて──。
──その瞬間、小学六年生の私と結くんが転がり落ちて行くのを目にした。
「痛てて……」
「大丈夫っ?! 結くん?!」
「ゆ、結奈。は、早くここから逃げなきゃ」
「う、うん! 結くん、立てる?!」
「な、何か変なんだ。身体から力が抜けて……怖くて恐くて」
「結奈が守ってあげる! 一緒に逃げなきゃ!」
「どうしよう。……どうしよう、結奈。怖いよ……不安だよ」
揺れが収まらない最中。膝から血を流して泣きそうな小学生の結くんの傍で、両手を突いて結くんの顔を心配そうに覗き込む六年生の私が居た。二人とも身動きが取れ無い──。
私は抱き止められた腕の中で、真っ直ぐに二人を見つめた結くんの顔を見上げた。
「まだだ。 まだ、間に合うから──」
静かに結くんの口が動いて、そう呟いたのが聴こえた。その時だった。
(──コツン……)
何かが、私たちの足元を通り過ぎて。階段に何度か当たって落ちたかと思うと──。それは、膝を抱えて動けなくなった結くんと、六年生の姿をした私との間で止まった。そして、夕闇の光を吸い込んで……黒色の光彩を放って居た。
「石?」
「神……様?」
二人、顔を見合わせた小学生の私と結くんとの間──。直ぐに触れられる場所に落ちたのは、この神社の御神体──小さな小さな欠片の、黒く光りを放つあの石だった。
……この神社を震わせていた揺れが、小刻みに小さくなって行く。
高校生になった私と結くんは、その様子を見つめたまま立ち尽くすしか無かった。結くんから離れてしまうと、二度とは戻れない様な気がした。
「あ……あ……」
言葉にならない声が、結くんの喉の奥から聴こえた。私は息が詰まって、倒れそうになるのを結くんの腕にしがみついて……立って居たのが精一杯だった。
六年生の私と結くんが、その石に手を重ね合わせる様に触れている。それを私は目で追うことしか出来なかった。
小さな石の欠片に結くんが触れて、その手の上に触れる様にして私の手が置かれて。二人の小学生の無垢な表情は微笑ましいはずなのに──。
その様子を見て身体が強張り……震える。背中に感じる結くんの手が鉄の様に冷たくて重い。それを掻き消したくて、私も結くんの背中を強く抱き締めた。
「……もう、戻れないの? もう、やり直せないの?」
私の涙目に映った結くんの憔悴して行く顔を見上げていると……。いつの間にか、そんな言葉が振り絞る様に出て居た。
その時、ハッと大きく目を見開いた結くんの瞳が、夕闇の静かな光を湛えて──。見下ろす様に優しく、私に微笑みかけていた。
「……やっぱり、行かなきゃ」
「え?」
「結奈を此処には、置いて行けない」
「どう言う……こと?」
今まで強く私を抱き締めていた結くんの腕が解かれて……ダランと手首が振り降ろされて居た。けれども、それから手のひらが、ギュッと力強く握り締められて──。
結くんは、俯いた顔を上げて夕闇の空を仰ぎ見て……。私の肩に触れてから、そっと抱き寄せた。
「今まで、ありがとう。……結奈」
「結……くん?」
神社の境内を揺るがす程の大きな揺れが止まって。夕闇が、いよいよ夜になる……。幽かに白んでいた空から光が消え、見上げると結くんの後ろで、星や月が輝きを増しているのが目に留まった。
それは、ほんの一瞬。夜空の様な輝きをした結くんの瞳に、小さな涙の粒が溢れて。……頬を伝って流れ落ちた。星がまるで、光り落ちて消えた様だった。
──やがて、黒い空に風が吹いた。神社の境内を囲む樹々が枝葉を激しく揺らして音を立て始めた。
(──ゴオォォォ……)
落ちていた葉っぱや境内の砂や土埃が舞う。顔の表面にそれが当っては幽かな痛みを覚えた。見えにくくなった視界に、目を凝らして居ると──。小学生だった私と結くんの手の中にあった小さな欠片の石が、黒く黒く……鈍色の灰の様な光を辺りに吹く風と共に撒き散らして居た。
驚いた六年生の私と結くんは、ただただ呆気に取られて……石が嵐を呼んで光るのを見つめたまま固まって居た。
「む、結くんっ?!」
「う、うわぁぁ!! ど、どうしよう。どうしよう……」
まだ、小学生だった二人──。咄嗟に、結くんから離れた六年生の私は為す術も無く……。石の光とともに宙に浮かび上がる少年姿の結くんを呆然と見上げて居るだけだった。
「……いけない」
そっと、抱き寄せていた結くんの手が私から離れた。代わりに私を一瞬見つめたかと想うと──、ふっと笑って背中を見せた。
「俺の……せいなんだ。結奈、楽しかったんだ、あの時も。だから、結奈。結奈のせいなんかじゃ無いから──」
紫電と黒色に輝き満ちた円の中心に光る石の欠片──。それが、石段の直ぐ真上で小学六年生の結くんの手に吸い付いている。結くんの足が地面から離れ、浮かび上がる程に……。静かな境内の夜の宙空へと、ゆっくりと上昇を始めていた。
「……結くん! 結くん!! あぁ……」
気丈に振る舞っていた六年生だった私が、どうしたら良いのか分からなくなって──目に涙を浮かべて叫んで居た。夜空に浮かび始めた結くんを見て、どう仕様もなく泣いていた。
(──私から、結くんが離れて行く……)
今の私の目にも涙が零れた。どう仕様もなかった。まるで、夜空に浮かぶ──お月様が反転したかの様な黒い球体の放つ光に、吸い寄せられて歩く──私と同じ高校生の結くん……。
その背中が、小さく小さく……少しずつ私との距離が遠く開いて、手が届かなくなる。
「待って! 結くん!!」
振り絞っても出なかった言葉は、やがて声になり結くんへと届いたのかも知れない──。
光の中に消え様としている結くんの背中が立ち止まり。ふと、振り向いた……風に髪を靡かせた結くんの横顔が、夜空に浮かび上がる様にして見えた。流れる様な星が結くんの瞳の中に、沢山見えた気がした。
「……もしも、もしもだけど。世界が変わったのなら。もう一度──、探して欲しい。結奈、会えて……良かった」
「──結くん!!」
小学六年生の私と高校生になった私が、吹き荒れる紫電の風に目を凝らしながら、為す術も無いままに立ち尽くして居た。
──五年前の少年の姿をした結くんと重なり合う様にして見える──十七歳の結くんの背中が、小さな石の黒色の光に包まれて居る。
……夜空の向こうに二人が連れ去られてしまいそうになるのを、ただただ目の当たりにして居た。
二人の白のワンピースが、吹き荒れる嵐に剥ぎ取られそうになり──。冠っていた麦わら帽子が、二つ同時に夜空に高く舞い上がった。
刹那の時間──。それは、瞬きするのを忘れる程の。
まるで、今。高校生になった結くんの背中に、翼が生えたかと思う程──。それは高く高く、夜空を飛翔している光景が、月の光を受けた目に焼き付いて離れなかった。
「あっ……」
宙空に浮かび上がった六年生の結くんの手の代わりに──。高く飛翔した結くんの手には、黒色と紫電を放つ……あの小さな欠片の石が握られて居た。
それから、地面に少年の姿をした結くんだけが足元から崩れ落ちる様にして──バタリと倒れた。
「結くん! 結くん!!」
六年生の私が駆け寄った。小さな石の欠片の引力から開放された結くんの元に。
私は夜空を眺めて地面に呆然と膝を突いた。月が光っていた。涙が溢れた。星は、いつもと同じに輝いていた。
……再び私が瞬きをする頃には、高校生になった結くんの姿だけが夜空に消えて──居なくなって居た。
それから、私がもう一度、瞳を閉じると──プツリと電源が落ちた様に……。辺りは、暗闇と静寂に包まれて居た。それは、真夜中に眠りに落ちて夢を見ていたのと似ていて──。
──それから、何も。……見えなくなった。




