14.記憶の欠片。
(──ザァァァァァァ……)
雨雲が立ち込め、山の樹々が風にざわめいている。その中で大きな白い石造りの鳥居が、天にそびえ立っている。時折、地鳴りがする様な音がゴロゴロと、雨空に立ち込めた雲間から頭に響く程だった。
私は怖くなって、隣りに居た結くんの横顔を見つめた。傘の下で結くんの顔が雨に濡れている。……真っ直ぐな眼差し。
バスの停留所から二人で傘を差して歩いて少し──。私は傘を差す結くんの手に触れてから、その手を離すことが出来なかった。
(……結くんの手の温もり。感じる)
鳥居から斜面を流れる雨水の勢いが増していた。傘に当たる雨粒の音が激しい。サンダル履きの私の素足はびしょ濡れで、結くんの足元も靴やズボンの裾が雨で重くなっているのが分かった。
「結くん、結くんは今ここに、現実に居るんだよね?」
「あぁ。ここは現実じゃないけど、確かに。結奈もここに居る」
「そうだよね。……何か、不安になる」
「俺も……そうだな。結奈がまた、消えやしないかって」
ジャリ──。雨水で荒々しく削られた地面に、足を取られそうになった。ちょうどその時、鳥居を潜った辺りで神社の境内が見えた。……雨が降りしきり、周囲には誰も居ない。
そのはずが、右手側に佇む拝殿から小さな話し声が聴こえた。
「雷、怖いよ。……結奈は平気なの? 雨も凄いし」
「大丈夫だよ! こんなの直ぐ止むし。私が結くんのこと守ってあげる!」
「そうなの? 結奈ってこう言う時、結構強いよね」
「そうかな? じゃあ、結くんが私を守って。もうすぐ中学生になるんだから、ね?」
「う、うん。頑張って……みるよ」
傘越しに──。拝殿の屋根の下に座る、二人の人の気配を感じた。さっき私が目にしていた子どもたち……。その輪郭が、雲間に時折走る閃光に映し出されていた。
そう想いながら、呆然と見つめていた矢先──。
──光っていた雲間から、突如として轟音が鳴り響いた。
「きゃっ!」
「結奈。……大丈夫」
「ご、ごめん。結くんは、雷……怖くないの?」
「俺は……雷より、結奈を失うことの方が怖い」
「え?」
落雷──。ここは山の中だからか、物凄く近くに落ちたんだと想う。空が割れるほどの光だった。地震の時の様な地鳴りを足元から震えるほど感じた。
私は気がつくと──、結くんの胸に顔を伏せていて。いつの間にか私を追い越して、背が高くなっていた結くんの眼差しを……下から見上げていた。
「小学六年生の時とは……私と結くん、立場が逆転しちゃったね?」
「俺も……色々あったから。結奈を守れる様に」
「結くん……」
濡れた前髪を掻き上げた結くんの瞳が、私を見てから真っ直ぐに神社の拝殿の方を見つめていた。私も結くんの傘を持つ手に触れたまま──。拝殿の屋根の下に佇む、私たちよりも小さな人影に目をやった。
(……二人、居る。私と結くんが小学六年生の時の姿──)
まだ降り止まない雨粒の音が、傘にぶつかり合って激しい。
時折、ゴロゴロと鳴り響く雷鳴の音を気にしながら、私は結くんの歩幅に合わせて、サンダル履きの足を動かした。
少しずつ、少しずつ……歩いているのが分かる。結くんも、私を気にしてくれて居るんだろうか。
ふと目をやると、私より結くんの肩の方が、随分と濡れているのが分かった。
そんな風に想っていると──。また、小学六年生の私と結くんの話し声が聴こえて来た。
「ねぇ? 結くん。今日はあっちの大きな鼎神社の方でお祭りなの、知ってた?」
「あぁ。あっちは、兄貴が居る方の地元だから……」
「あ、ごめん……」
「いいよ。兄貴はお父さんと元気にして居るんじゃないかな。五つ歳上だけど。今年は、お神楽舞いに出るって」
「お兄さんって、巫女さん? 男の人なのに?」
「ううん。笛吹くんだって。お神楽舞の」
「ふぅん。そうなんだ……。こっちって、誰も居ないよね。小さいけど同じ鼎神社なのに。なんで?」
「さぁ。分からないよ。僕には……」
拝殿の石段を昇ると、木で出来た階段がある。更にその階段を昇ると、お賽銭箱や鈴緒──綯われた縄と鈴がぶら下がっていて。
ちょうど、その真下辺りに二人が座って居るようだった。
ザッザッ……。ゆっくりと歩きながら結くんと傘を差して、二人が居る拝殿の正面まで近づいた。私と結くんは顔を上げて、夕立ちの雨が少し小降りになった最中、傘の下から二人の姿を見つめていた。
「……居る。五年前の俺と結奈だ」
「気づいて……なさそうだけど?」
「そうみたいだな。確かに、あの時は誰の気配も感じなかった」
「私と二人……」
「あぁ……」
(──サァァァァァァ……)
夕立ちは、さっきまでの大雨から急に小雨になって……。黒い雲が風に流されて、雲の隙間からは、夕焼けの眩しい橙色の光が差し込んでいた。
その光に照らされて──、それまで朧気だった小学六年生の私と結くんの姿が鮮明に見えた。
少しの間、何か冗談みたいなのを言い合っていて、二人は笑っていたようだけど。パチンと小学生の私が手を叩いたかと思うと、隣に座る少年姿の結くんに、何かを想いついた様に話し始めた。
「そうだ!」
「何? どうしたの? 結奈?」
「今日は大きな方の鼎神社のお祭りだから、ここから手を合わせてお祈りしよ?」
「うん。けど、どうして? 結奈も、あっちのお祭りに……行けば良かったのに」
「結くん、居ないから」
「え?」
「だって、結くんが居ないと、結奈楽しくないもん……」
「そう……なの? なんか、僕のせい……みたいだよね。ごめん。あっちには、なかなか、お母さん連れて行ってくれなくて」
「私は、ここが良い。結くんと一緒が良い。気にしてないんだから……ね?」
「……結奈と、こっそり行けば良かったかな」
「そんなことしたら、結くんのお母さん心配しちゃうよ? 校区外で遠いんだし。帰りは夜だし暗いし。もしも、自転車のタイヤがパンクしちゃったら……」
「うん。……分かってる」
半袖姿の小学生の結くんが、唇を尖らせて俯き加減に膝を抱えて座って居た。隣に座る六年生の私は、結くんの俯いた顔を覗き込む様にして背中を擦っていた。
──雨が止み、夕焼けの光が神社の境内を包み込む様に眩しかった。
傘を降ろした結くんの手から、私の手が離れた。……もう少しの時間、重ねて居たかった。
「二人を止めないと……。また、同じことを繰り返してしまうから。結奈を失うのは……」
「え? けど、干渉出来るの? ここは、五年前の世界だから」
「分からない。けれども、今、現実に雨や風が吹くのを感じられたから。もしかしたら」
「そうだね……。行くしかない」
「あぁ。今まで、どう足掻いても、どうにもならなかったから。今、この偶然に賭けるしかない」
結くんの強い眼差し──。私よりも背が高くなった結くんの横顔を見て、私も決心した。
雨上がりの湿った空気を乗せて風が吹く。この山の神社を囲む樹々の匂い、土の匂い。結くんの髪と私の髪の毛が、運ばれて来た匂いとともに、風にサラサラと靡いていた。
五年前の世界だけれど、それは本物。きっと、きっと、どうにかなる……。どうにかしなきゃ。
雨が止んだ後、夕焼けの光を浴びた六年生の私と結くんが、拝殿の方を向いて立ち上がるのを目にした。結くんが持っていた虫籠と網が、足元に置かれていた。それから、小学生の姿をした私と結くんが、何かを話し始めた。
「結くん、ここの鼎さんって、見たことある?」
「鼎さん? 無いよ? 神様でしょ? 結奈には見えるの?」
「ううん。聞いたことあるだけだよ。とっても、とっても小さいんだって」
「へぇ……。小さいんだ。子どもの神様かな」
「結くん。夕焼けの光。ここの鼎さんに、見せてあげなきゃだね? 大きな大人の鼎さんはお祭りなのに、可哀想だよ」
「大丈夫なの? 僕らが勝手に開けても大人の人に怒られないの?」
「大丈夫だよ。ここの扉を開けてあげるだけだから」
「鍵、掛かってないの?」
二人の話し声が、石段を昇る私にもはっきりと聴こえた。
(……なんて言って話し掛けようか。五年前の自分自身に声を掛けるだなんて。想像出来ない──)
けれど、躊躇っていた私の視界に──。
一歩、前へ出る結くんの後ろ姿を見た。力強く石段を昇る結くんの足取りとその背中には、微塵も迷いが感じられなかった。
今、確かに目の前に居る五年前の私と結くんの幼い姿──。後ろから結くんの顔は見られないけれど、その姿に私は胸の真ん中で、ぎゅっと両手を握り締めた。
けれども、六年生の私はお賽銭箱の向こう側にある拝殿の格子扉を開けようとして居て──。
私は石段を昇り切った瞬間、あることに気づいて……ハッとした。
(──ひょっとして、私の……せい? 私が開けたから、結くんが居なくなって……)
私の身体から、全ての力が抜け落ちて──。まるで砂時計を逆様にした時の様に、心の中に穴が開けられて……サラサラと崩れ落ちてしまうのが分かった。
隣りに居た結くんの足元だけが視界に見えて──、私は……私は。
「結奈! 大丈夫かっ?! しっかり、しっかりしろ!!」
「ハァハァ……。もしかして、もしかして私が、五年前に此処の──目の前にある、この扉を開けてしまったから……」
「結奈……?」
「だって、結くんを違う世界に飛ばしたのは、五年前の私のせいなんだよっ!」
「違うっ! 結奈! それは、俺が……俺がっ!」
お賽銭箱の前で私が、ぐらりと膝をついて倒れそうになった瞬間。結くんの手が、私の肩に触れて──立つ力さえ失くした自分の身体が、結くんに抱き止められて居るのを感じた。
段々と思い出される記憶──。
抱き止めてくれた結くんの腕の中で、小学生の私が拝殿の格子扉を開けてしまうのを目にした。……思い出したくは無かった。
「結くん、開いたよ?」
「うん。あ、見て結奈。……あそこ」
「え? 何かがキラキラしてる?」
「鼎さん? ……なのかな? 小さい神様?」
「何かの、小さな石の欠片?」
一歩、一歩……。
白いワンピースを着た六年生の私が、濡れた麦わら帽子をそっとその場に置いたまま……。まるで、吸い込まれる様にして四つん這いになってから、その小さな欠片に近づこうとして居る。履いていたサンダルが、私だった少女の素足からゴトリと音を立てて落ちた。
「お願い……。行かないで! 行かないでっ!!」
祭壇の上には、敷かれた純白の布があって。私は、その様子を目に涙を浮かべながら、声を上げて震えて見ることしか出来なかった。そして、更にその布の上には複雑な模様が施された金色の台座があって。結くんの腕の力が、ぎゅっと私を強く抱き寄せるのを、不安に呑み込まれる最中に感じた。黒色の小さな欠片ほどの石が、その台座の上に置かれてあって──。静かに、虹色の光彩を放って居た。




