12.夏の空に立ち昇る雲。
「待って!」
「結奈、早く……。扉が閉まると、引き返せなくなる」
私の声に振り返った結くんが、真剣な眼差しでそう答えた。
その直ぐ側で列車の扉が時折、ぐにゃりと歪んだかと思うと、また元通りの扉に戻ったり……繰り返している。何度、瞬きをして見ても、それは変わらなかった。
今、列車から降りないと、この歪んだ世界に取り残される──。私は不安に駆られて座席から立ち上がった。手を伸ばすと、結くんの手が力強く私の手に触れて……ぎゅっと握りしめられていた。
「え?」
思いのほか、結くんの手はヒンヤリとしていて。けれども、私の手をぎゅっと握り締めた結くんの手の感触を確かに感じた。朧気で虚ろに見える車内や扉の外の風景とは違う。そう思ってから直ぐ、自分の手が熱くなっていたことに気がついた。
それから──。結くんに手を引っ張られる様にして、あっという間に列車の外へ向かって走りだしていた。
「む、結くんっ?!」
「……いいから。早く!!」
(──リリリリリリ……)
発車を知らせるベルの音が、駅構内に鳴り響く。
急がなきゃいけない──。咄嗟に結くんに手を引かれて、無我夢中で列車の外へ出ようとした。
その時、感じた違和感。
──とぷり。
現実には無い空気の層……みたいな。扉に張られた膜の様なもの。
それをくぐり抜けて、一瞬。駅のホームの点字板か何か、つま先がアスファルトに引っ掛かって転びそうになった。
「きゃっ!」
「結奈!」
結くんが私に振り返る姿が見えた。繋いでいた手が離れた。まるで、プラットフォーム全体が揺れ動いて天地が逆さまに、ひっくり返る様に感じられた。
一瞬だけ鮮明な空の青さが視界に入った後──、私は四つん這いになってアスファルトに手をついていた。膝と手のひらに痛みを感じた。俯いたまま、直ぐに顔を上げられなかった。
「……ハァハァ」
「結奈、ごめん。俺が……」
「ううん。大丈夫。結くんは悪くないよ」
「怪我、してない?」
「平気。それより、何なの? ……この世界」
私がプラットフォームの地面に膝を突いて居ると。私の顔の直ぐ間近で、結くんの声が聞こえた。結くんの息づかいも聴こえる。
……列車が発車して行ってしまった。その後で風が線路から吹き抜けた。相変わらず駅構内は、ぐにゃりと歪んだかと思うと元の現実風景に姿を留めようとしている。……奇妙な世界に唖然とする。
視界には私の髪の毛がパラパラと風に舞って。顔を上げると、風を受けた結くんの涼し気な表情が目に映った。
「立てる?」
「……う、うん。結くんは、平気なの?」
「いや。……心臓の音が」
結くんの呼吸音。話すのが精一杯な感じに聞こえた。私も急いで列車から飛び降りたのもあって……。ドキドキと胸の鼓動を感じていた。
ふと我に返ると、駅構内に行き交う人たちの雑踏が聞こえた。けれども、目にするのは朧気な蜃気楼の様な景色と、入れ代わる様にすれ違う人混み──。ぼやけては鮮明になり、また、ぼやける……。建物や人の影、その形や姿さえも。
それは、まるで、世界が呼吸していて心臓を鼓動させている様にも思えた。
「お怪我はありませんか?」
──その時、私と結くんの後ろから響いた声。女の人だった。何処か透明感のある様な。
私と結くんが、その声に振り向くと……駅員さんの恰好をした女性らしき人が二人。帽子を深く冠り長い黒髪を風に靡かせて立っていた。
二人の駅員さんの内、一人が私の顔を覗き込む様にして屈んだ。良い匂いがする。
地面に膝をついた私に差し伸べられた手には──、白の手袋が嵌められていて。帽子から覗く整った素顔と、真っ直ぐな大きな瞳には目を奪われた。
「あ、はい。結くんも怪我、無いよね?」
「あ、あぁ……」
見上げると、結くんが二人の駅員さんを見つめたまま、立ち尽くしていた。
「どうしたの?」
「い、いや。……何処かで」
何かを言いかけた結くんが、不思議そうな顔をしている。駅員さんで、しかも女性二人っていうのは珍しいとは思うけれど。
「……当駅は虚構と現実が混ざり合い、大変曖昧になっております。元の駅に引き返されるのでしたなら、向かい側の四番ホームにお越し下さい。尚、当駅は境界側に位置する為、お足元が大変不安定になっております。ご注意ください」
それだけ言うと、屈んでいた女性の駅員さんが、私の目の前でスッと立ち上がった。すると、今度はもう一人の女性の駅員さんがスッと私たちの前に近づいて来て声を掛けた。
「……切符を拝見致します」
「は、はい。結くんも」
「あぁ。これで良いか?」
私は立ち上がって結くんと二人、切符を差し出すと、その女の駅員さんが手をかざした。
しばらくすると、切符の上に印字された文字が震え出して、ぐにゃり──。違う駅名になった。
「え? えぇっ?!」
「あり得……ない。どう言うことだ?」
〝鼎神社五年前 駅〟そう書かれてある。──何? こんな駅名あったっけ? 聞いたことない。
差し出した切符の文字が、手のひらの上で変わったことに、私は目を白黒させた。振り向くと、同じ様に驚いていた結くんと目があった。私も結くんもお互いに、切符に改めて印字された文字をマジマジと見つめた。
「これより先は〝過去行き〟になります。次発の列車に乗れば間に合いますが、どうされますか? もし、心の準備がお済みでなければ、引き返すことも……」
そう言った女の駅員さんが、ぎゅっと帽子の先端を握って会釈した。
駅員さん二人の言っていることは、不思議なことのはずなのに──。このプラットフォームから見える曖昧な歪んだ景色が不可思議過ぎて。空も人も……。不安になると言うよりは、何かの道しるべを得た様で……心臓がいつも以上に高鳴っていた。
「行こう、結奈。俺と結奈が元の世界に帰る手掛かりは、きっと──」
「そこに? もしかしたら、私の記憶も?」
「うん。そうだね……」
ぐにゃり──。
不自然に歪むホームのアスファルトに足を取られたかと思うと、また平らな固いアスファルトに戻った。私は手のひらで、膝とワンピースの裾を叩いてから背筋を伸ばした。
「うーん……と。良し。行かなきゃ、だね?」
「あぁ。出来るだけ、急ごう」
「結くん、時間無いんだっけ?」
「この世界の住人には染まりたくは無い。出来ることなら……。それに、結奈も」
「え? 私?」
「いつまでも、この世界には居られない。俺とは違って……」
「そうなの? 元の世界とかって私、記憶……無いんだけどな」
ずっとずっと刻まれていた記憶に、ある日突然、地元の神社で知らない子──結くんと出会って。いつもの学校で、いつもの響くんや鈴に会ったら……。部活が変わってたり、顧問の先生や私のお婆ちゃんが生き返ってたり。信じられないことも、沢山あったけれど。全部が、繋がっていたはずなのに──、知らないことだらけで。皆にも迷惑掛けちゃってるし。鈴との関係も一瞬だけど、拗れちゃったし……。
ふと、俯いていたら足元のアスファルトにポタリ──。私の頬を伝って落ちていた。雨じゃない……。
「結奈? 泣いてる?」
「ううん。ごめん。泣いてない。なんか、ちょっとだけ」
……どうしてなのかな。悲しいっていうか、よく分からない。自分の感情が。あれ? なんでなのかな──。
その時に感じた背中の感触に、一瞬ビクッとした。顔を上げると結くんが、私の顔を見つめていた。そっと私に触れて──結くんの匂いがした。
「結奈、泣いてる」
「ごめん。記憶無くしてて。私って、この世界にどうやって来たのか。分からなくて、なんで来たのか……思い出せなくて。結くんの言うことが本当なら、そう言うことなんでしょ?」
私が結くんの顔を見上げると──。私の肩に、そっと手を添えた結くんが、ぎゅっと瞼を閉じていた。
──ポタリ。何かが、アスファルトに落ちた。
……雨じゃなかった。泣いていた。結くんの頬を伝っていた。自分以外の人の本物の涙って、初めて見た。
「結くん、泣いてる」
「泣いて……ない。けど、結奈ともう一度。……元の世界に帰りたくて」
私とは違う理由。けれども、ずっとずっと結くんの中に押し留められていた感情──。それが、私にも伝わって。私は肩に添えられていた結くんの手に、そっと触れた。結くんの手の温もりをほんの少し感じた。
「気持ちの整理は、つきましたか?」
──しばらく、私と結くんが見つめ合って居ると。
「目的の土地へ、今から行かれますか?」
二人の駅員さんが、それぞれ話しかけて来た。
相変わらず深く帽子を冠り覗くようにして、こちらを見ている。……不思議な人たち。誰なんだろう。ただの駅員さんじゃないみたいだし。結くんの言う様に、何処かで……?
「はい……。けど、貴方たちは、どうして? 一体……」
「駅員さん? ……ですよね?」
「ええ……。案内役も務めております」
「またその内、お目に掛かるかと」
〝──三番乗り場に列車が参ります。危険ですからホームの内側までお下がりください──〟
突然、駅構内にアナウンスが流れた。
振り返ると、白くライトを点灯させた車両がホームに近づいて来て居るのが見えた。ホームの内側に少し下がった後、もう一度、振り返ると──。
そこには、もうさっきの二人の駅員さんの姿は、なかった。
「え? 居ない?」
「……」
「何処に? 消えた?」
「……巫女さんだよ。たぶん」
「巫女さん? え、でも……。こんなことって」
「鼎神社。……不思議な力。縁。深める必要があるって、言ってたんだ」
「うん。そう……だったよね。なんか、不思議。でも、帰れるのかな? 私たち……」
「分からない。けど」
「行ってみなくちゃ、だね?」
「……結奈を一人にさせない」
「傍に居て欲しいじゃなくて?」
「結奈、変わったか? ここに来た時より……」
「んーん。変わらない。いや、変わったかも? 結くんと、出会って? 結くんは?」
「変わった……かも知れない」
「明るくなった?」
「……あぁ」
「あ。響くんや鈴は、どうなるんだろう? この世界のこととか、残された人たちとか……」
「……変わらないよ。きっと。この世界も、元の世界と繋がっているから……」
列車がホームに入って来て、風が吹き抜けた。なのに、何処か静けさを感じる。白いワンピースが揺れて、飛ばされない様に帽子を押さえた。
結くんとの時間──。どうしてなのかな。……いつまでも続けば良いのにって想っていた。
結くんの前髪も風を受けて揺れていた。ホームから見えた空は、確かに青かった。夏雲が白く立ち昇っていた。




