11.境界線のある場所。
太陽が眩しく。街の風景がはっきりと光と影に分かれて見えた。駅のロータリーに設置された時計台の針が正午ちょうどを指している。風は凪いでいて、アスファルトからジリジリと照り返す蒸し暑さに……眩暈しそうになる。
私は麦わら帽子のつばをぎゅっと握り締めて深くかぶり直した。
──足元で白のワンピースが揺れる。裸足に厚底のサンダル。凪いでいた風が、私の肩と背中に優しく吹くのを感じた。
「結奈……」
足元にもう一つの影。
昨日、待ち合わせと列車に乗る約束をした不思議な声の持ち主。その声が、麦わら帽子の上で響いたのが分かった。
「……結くん?」
私が顔を上げると──。
スラッとした黒のズボンに白の半袖のカッターシャツ姿で、ポケットに両手を入れた結くんが突っ立っていた。
「学校じゃないよ? 普段とあんまり変わらない格好だね?」
「え? まぁ、その……。何着て良いか、分からなくて」
「ふぅん? やっぱり彼女居ないんだ? そんなんじゃ、モテないよ? 響くんを見習わないとね?」
「関係ないよ。それより……」
「列車。乗るんでしょ? 楽しみ。何処行くの?」
「……そんな良いものじゃないよ。昨日も言ったと思うけど」
結くんがくるりと私に背を向けて、待ち合わせのロータリーから駅の改札口を見つめて居た。
私も深くかぶっていた麦わら帽子のつばを上げて、同じ方を向いた。
まだ、夏休みの昼間だけど、それなりに学生の子たちも居るし……。ザワザワと、街の人たちの行き交う姿が目に留まる。何の変哲も無い夏の日常風景。
「……この世界のことが分かる。だったっけ? 私には、いつもと変わらない様に想うけど?」
「あぁ……。今はね。行こうか」
強い陽射しの中、結くんがポケットに両手を入れたまま俯いて歩く。駅の改札口の屋根の下に着くと、少しヒンヤリとした日陰に涼しさを感じた。それから直ぐに、蒸し暑い風が駅構内を吹き抜ける。私は肩に掛けた赤いポーチに触れてから、黙ったまま結くんの後ろを歩いた。
◇
「この場所まで行くの?」
「あぁ。街を出る必要が……あるから」
結くんから手渡された切符に記された駅名。私は切符の表と裏をひっくり返して、まじまじと見つめた。……何の変哲も無い、ただの切符だった。
「あの、お金……」
「良いよ。要らない」
「え? そう言うわけには」
「想えば、その通りになる。この世界じゃ当然なんだ」
「ん? 言っている意味が、よく分からないけど?」
「魔法……。結奈も使えたはずだけど?」
「えっ? いや、鞄の中から急にペットボトルが湧き出たりとか。あ……」
「結奈がこの世界に馴染むまで……知らない振りしてた。記憶喪失とか混乱してたみたいだったから」
「そう……言われても」
結くんが改札の機械に切符を入れると。当たり前の様に改札の扉が開いて、すんなりと通ることが出来た。それから、私も当然の様にして切符を機械に通して改札口を通り抜けた。
──正真正銘の本物の切符。さっきだって、結くんは券売機にきちんとお金を入れて切符を二枚購入していた。なのに……。これの何処が魔法なんだろう。
「ねぇ?」
「何?」
見上げると、一人分の幅しか無いエスカレーターが、プラットフォームの屋根の下まで続く。青空が見える。
私は手すりを持ち、何段か空けて結くんの直ぐ後ろに乗った。
尋ねると、結くんがプラットフォームを見上げたまま、私へと返事をした。
「もしかして、結くんって手品師? 何も無いところからお金出したの?」
「出したって言うか、あったって感じ」
「お財布の中に?」
「あぁ……」
エスカレーターがプラットフォームまで昇りきり、結くんがエスカレーターから降りる。コツンと厚底のサンダルがあたって、躓きそうになりながら私も降りた。
「結くんて、もしかして一人暮らし?」
「いや。母親が居るよ。本物みたいな……幻みたいな」
「え……?」
顔を上げると──。ちょうどそこには、新快速列車が黄色い点字ブロックの停車位置ちょうどに扉を開けて停まっていた。
蒸し暑い夏の風がプラットフォームを通り抜けて、自分の髪の毛が顔にあたった。
結くんが黙ったまま横掛けの座席に先に座ろうとしている。車内はヒンヤリとしていたけれど、外の空気と混ざり合って直ぐに暑さを感じた。
夏休みの昼間とあってか、思いのほか人は少なくて。私も黙ったまま、結くんの隣に少し間を空けて座った。
「……幻って。どう言うこと?」
振り向いて尋ねた私の目に、隣に座る結くんの顔が映る。北側の車窓から窓越しに駅の様子を見つめて。
車内の天井に設置された空調の風に、結くんの前髪が額に揺れている。
結くんの返事よりも先に、プラットフォームに駅員さんの吹く笛の音が鳴り響いた。扉が閉まった。
「これから、少しずつ分かるよ。この街から離れる度に」
「え?」
「人や……風景の流れ。この車内。どれも全部──」
──ガタン、と。列車の動き始めた揺れに重なる様にして、私と結くんの身体が横に揺れた。今は車内の様子は日常と変わらない。目を瞑って座っている人や、携帯電話を見ている人が居て。
……新快速列車が、次第に加速して行く。
車窓には未来都市計画の一環で、建設途中のショッピングモールが鉄筋とコンクリートを剥き出しにしたまま建てられていた。その影は、隣接する旧い建造物や工事途中の道路を覆うほど大きくて。
それでも、夏空が青くて眩しい。白い雲を何処までも連れて行く。街が遠ざかる度に、田んぼや川の流れが国道沿いに広がっていた。
「ねぇ? 何も変わらないよ?」
「今は……ね。まだ、市外に出ては居ないから。けど、兆しが見えてる。境界線の駅があるんだ。……その場所に近づくと」
「結くん? ……震えてる?」
横掛けの座席に座ったまま手を組んで俯く、結くんの表情が優れない。まるで、額に冷や汗を掻いている様にも見える。心なしか、ガタガタと膝が揺れているほどに。顔や腕の肌の色が昨日の公園で会った時よりも、くすんで見える。
「だ、大丈夫っ?」
「結奈は何とも無いのか? 俺も、あの時以来だけど……まさか、こんなに」
「あ、あの時……って?」
私は急いで何か無いかと想って、膝の上に置いた自分の赤いポーチを開けた。
……もしかしたらって、淡い期待。
魔法──。響くんの時みたいに、救急セットとか、都合良く出て来てくれはしないかな……って。
「え?」
鞄の中──。そこには、〝鼎神社守護〟と書かれた小さな木札が、しっかりと入れられてあった。
直ぐに顔を上げて結くんの顔を見ると、さっきよりも幾分か表情が落ち着いている様に見えた。
苦笑いした結くんが、組んでいた手を私に広げて見せると──そこには、私と同じ〝鼎神社守護〟と書かれた小さな木札が何故かあった。
「最初から、持っていたの?」
「いや……。さっき、不安に想っていると、突然」
私も恐る恐る赤いポーチの中から、御守りの木札を取り出して結くんに見せた。
結くんが私の手のひらの上に置かれた御守りにコンコン──と、指先で触れると。……肌の血色や艶が、いつもみたいに戻った様に想えた。
「……本物。やっぱり、俺の──この世界で出来た御守りとは違う」
「そうなの? 何も変わらない様に思えるけど……」
「触って見たら分かるよ」
そう、結くんに言われて──コツン。指先で結くんの手のひらの上に置かれた御守りに、軽く触れてみる。
……それは。何処か、砂を水で固めた様な脆さで。崩れはしないけど、折り紙で作られた様な形だけの儚さを感じた。けど、鼎神社の御守り? どうして……。
「え? 質感? 少し軽いって言うか、何だろ……」
「朧気……。この世界と同じ。結奈は元の世界と繋がっているから。俺は──」
そこまで言いかけた結くんが、腕組みを解いて顔を上げた。私は別に泣いては居ないのに、視界が少しボヤけて霞んで見えた気がした。
「見てみなよ」
「え?」
「列車の中と外。駅を離れてから五分ほど経つ。それだけなのに、もう……」
信じられなかった。目が霞んで見えていたのは気のせいじゃ無かった。
まるで、車内の様子が夢の中か水中に潜った時の様に、所々、はっきりと鮮明に像を結んで居ない。現実には、あり得ない。焦点の合わない朧な空間が、真夏の蜃気楼の様に揺らぐ。そんな部分が疎らに存在していて──そこに流れ込む景色や人が、絵の具が溶けた様に混ざり合う。まるで、それは……写実画の世界に無理矢理、抽象画を描いた様な。
「きゃっ! う、嘘……。こんなのって」
「これが、この世界の本当の姿だよ。想いは形作る……けど。元の世界とは違う」
──私と結くんは無事だった。もと来た街の方向に振り向けば……まだ、現実に見える景色を留めていた。人も、窓の外の風景も。
けれども、進行方向へ振り向くと──写実画の世界に溶けた絵の具で描かれた……像の結ばない抽象画の様な空間が、疎らに点在している。
「あ、あの揺らいだ空間に触れると、どうなるの?」
「たぶん、身体に負荷が掛かると想う。身体は存在しようと必死だから」
「もしも、この先に行ったとしたら、どうなるの?」
「眠りに落ちるのと同じ……。疲弊した身体を置いて、夢を見る様にこの世界を彷徨う」
「ねぇ、結くんって、もしかして……」
「あの時……。結奈が消えた時。気がついたら、この場所に居たんだ。最初は何が起きたのか分からなかった。境界線のあるこの先の駅に……いつの、間にか」
「そうなんだ。いつの、間にか……か」
車内や窓の外の風景を眺めながら、私と結くんが話をしてると──。停車駅に近づいたのか、車内アナウンスが流れた。
車両に居た人たちが席を立ち始める。人の姿を幽かに留めた人、黒い影みたいな人、半透明の様な輪郭だけの人……。それは、まるで、この世の人たちじゃない様に想えた。
「ね、ねぇ。あ、あれって……」
「あぁ。想いの姿だよ。俺と結奈も想いの世界に居る。元の世界から生まれた──想いが形作る世界」
「じゃあ、でも、なんで? 元の街は現実と変わらないのに。どうして、此処は……」
プラットフォームに入り、ゆっくりと列車が停車した。扉が開くと、暑くも冷たくもない空気が流れ込んで来て、肌の表面を流れる。私の隣に座っていた結くんが、横掛けの座席を立った。
「行くの?」
「あぁ。この駅で引き返さないと、帰れなくなるから」




