空っぽの幸せボックス
遠征も残すところ二日という、カザフ領の最西端の、森の入り口近くに設営された騎士団の白テント。
今回の遠征は、『想定外の事態』という特殊な状況を想定した訓練で、その総指揮を執るのが、騎士団副団長のメドナ。
カザフ領には木々が鬱蒼と茂る森や、絶壁の崖があり、崖の向こうには青く広がる海がある。自然豊かな土地で、安定しない足場を想定した戦いや、遊撃戦に対抗するための訓練に適した場所でもあるのだ。
「イーサン。本当に、無茶するのはやめろ」
イーサンと同じテントを使っている同僚のバルトは、連日怪我をして帰ってくるイーサンにお小言中だ。
何が気に入らないのか、無理に突っ込んだり、隊列を崩したり、あり得ないミスばかりを繰りかえしている。それに下手をすれば大怪我になりかねないような失敗もしている。
そのせいで、イーサンはペナルティとして訓練後の片づけや、備品の手入れなど、入団一年目の新人がする仕事を毎日のようにする羽目になっているのだ。
普段のイーサンならありえないミスに、皆首をひねるばかりなのだが、その中でバルトだけはその理由を知っていて、こうして夜な夜な溜息をついている。
バルトは、毎晩マットに寝転がったまま一点を睨みつけては吐く、イーサンの大きな溜息が耳障りでならない。
「お前にはわからない。一週間会えないだけで、瞳を潤ませるような婚約者から、毎日手紙が送られてくるお前にはな」
「ひがむのはやめろ」
「ひがんで悪いか?俺は、浮気の現場を見られた上に喧嘩したままここに来たんだ」
「全部自業自得だよ」
「わかっている!」
しかも、自分以外の男と親しくしていたなんて。
まさか、いい加減嫌気がさして、婚約の解消を突きつけられるのではないだろうか?イヤ、自分のこれまでの所業なら婚約破棄が妥当だ。それほどひどいことをしてきた自覚はある。
それに、本当にマリアが怒っているのなら、それはそれでうれしいわけで……。イヤ、そんな呑気なことを考えている場合ではないのだが。
離れているこのあいだも、あの男と仲良くしているのかと思うと、イライラするし不安になる。
イーサンは何度目になるのかわからない大きな溜息をついた。
「本当に、お前煩い。幸せが逃げる」と、バルト。
「……幸せってなんだ?」と、イーサン。
「溜息をつくと、その数だけ幸せが逃げるんだよ」
「それなら、俺の幸せボックスはとっくに空っぽだよ」
先日、マリアとデートをして溜めこんだ幸せは、その日のうちに全部逃げていった。
「自分が悪いって自覚があるなら謝ればいいじゃないか」
「謝ったよ。……気にしていないってさ」
「……それは、完全に」
「俺に興味がないんだ」
「そうだな。……でもお前、浮気ったって……」
「うるさい!」
マリアが自分に興味ないことなど知っている。なぜ改めて言われなくてはならないんだ。
「もう寝る」
イーサンは横に丸めてあったシーツを手と足を使って広げた。
「ああ、寝ろ寝ろ。そして、明日こそしゃんとしろ!」
バルトは励ましてくれているのだろうが、その言葉はまったく耳に入らない。イーサンの頭の中はマリアのことでいっぱいだ。
そして無意識に、「マリアが夢に出てきてくれればいいのに」なんて乙女チックなことを呟いて、バルトの全身に鳥肌が立つという恥ずかしいやらかしをした。その晩、イーサンはマリアの夢は見なかった。
マーロンと、古書を扱う古書店リベナに行く日。
マリアは教会のボランティアに行くと嘘を吐いた。デヴィッドは笑顔で送りだし、アナベルはチラッとマリアを見ただけ。そして、ジュリエンはクスリと笑っていた。いつものことだ。
馬車は教会までマリアを送りとどけると、屋敷へ戻っていった。そして決まった時間になると迎えに来るのだ。
教会の入り口の扉を開けると、聖堂で待ちあわせをしていたマーロンが、マリアの元まで来て聞いた。
「時間は大丈夫?」
「ええ。今日は遅くなるって言ってあるから」
「よかった」
そう言うと、マーロンはマリアを自分の馬車まで案内をした。リベナに向かうのだ。
教会からリベナまでは馬車だと一時間くらいはかかる。マリアの迎えの馬車が教会に来る前に、戻ってこなくてはならない。
マリアは少し笑っている。
「どうしたの?」
「ううん」
まさか、自分が親に嘘を吐く日が来るなんて。しかも、これから自分がやろうとしていることは、人生最大の大冒険。
「私がこんなことをするなんて、すごいと思って」
思いもしなかったのだ。自分が一人で生きていくことを考えるようになるなんて。
「あなたのお陰ね」
マリアはマーロンを見てニコッとした。
マーロンは吃驚して目を見開いて、少し頬を染めた。
「僕は何もしていないよ」
「そんなことはないわ」
マーロンはマリアの容姿には一切触れなかった。
字がキレイだね。絵が上手だね。面白い考えをしているね。実は僕はこう考えているんだ。僕たち、趣味が合いそうだね。
マーロンはマリアを色眼鏡で見ない。それに、自分の考えを押しつけることもしない。
マリアが侯爵令嬢であることも気にしないし、ドレスが茶色でも何も言わない。
マーロンはどんなマリアでも肯定してくれる。次第にマリアはマーロンに心を許すようになっていった。
マリアの周りにそんな人はいなかった。両親もジュリエンも、そしてイーサンも、マリアのそのままを肯定してはくれない。
「マーロンだけだもの」
「……」
マリアに本気で寄りそってくれるのは。マリアを心無い態度と言葉で傷つけないのは。
「あのさ、マリア」
「何?」
「前、ごめんね」
「何が?」
「君の婚約者にさ」
イーサンの前で今日のことを話した。ただ、それについてはすでにマーロンから謝罪を受けている。
「別に気にしていないわ」
「でも、喧嘩をしたままなんだろう?……僕、君の婚約者には腹が立っていたからさ。ちょっと意地悪するつもりだったのに、大ごとになっちゃって」
「ふふふ、大丈夫よ。彼は気にしていないわ」
「そうかな?」
「ええ。だって、婚約者っていうだけで、私のことを好きなわけでもないもの」
イーサンのあの人を殺しそうなほど鋭い目を見てしまったマーロンには、マリアの言葉は信じ難いが。
「よく考えてみて、マーロン。私のことが好きなら、浮気なんてしないでしょ?」
「まぁ、そうかな?」
「なぁに?それ」
「僕は、浮気なんてするほどモテたことがないからわかんないよ」
外見や性格だけだったら、爽やかで優しい好青年なのだが、爵位を継げないため、いまだに婚約者が決まっていないマーロン。「子爵子息というのも冴えないからね」と自虐する程度のユーモアはあるのだが。
「もったいないわよね、マーロンはこんなに素敵なのに」
「え?」
マリアの言葉に思わず、顔を赤くしてしまう。
「マリアくらいだよ。そんなことを言うのは」
「皆見る目がないのよ。私はマーロンが好きよ」
「ははは、うれしいよ」
友達として、だよね?
読んでくださりありがとうございます。