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ずるい人

「アナベル」


 マーガレットが、うつむいたまま顔を上げることのないアナベルの名を呼んだ。しかし、アナベルは顔を上げず、返事もしない。


「二人を祝福してくれるわよね?」

「……」


 アナベルは、膝の上に置かれた右手の親指を左手で握りしめている。


「……」

「お母様」


 マリアがアナベルを呼ぶと、アナベルの肩がビクッと震えた。


「お母様、私を見てください」

「……」


 マリアの言葉に応えず顔を上げようとしないアナベル。


「お母様」

「……」


 マリアが小さく息を吐いた。


「……私は、お母様の望む容姿ではありません。そのせいでお母様を失望させたことを謝罪します」

「……」

「私の存在がお母様を苦しめたことを謝罪します」

「……」


 アナベルは顔を上げることはなかった。何も言葉を口にせず、小さくなって手を握りしめていた。


「お母様……お母様!なぜ、……」


 何もおっしゃらないの?


「顔を上げてください。私を見て……」


 マリアのギュッと握り締めた手が震えた。


 言いたいことはこんなことじゃない。私が言いたいのは、お母様の口から聞きたいのは。


「お母様……!何かおっしゃって……」


 マリアの叫ぶような声にビクンと肩を震わせたアナベル。その丸まった背中は頼りなくて、落ちこんだ肩は怯えているように見えた。


「なぜ……」


 私は、その震えた肩に話す言葉など持ってはいない。私が話をしたいのは、私を蔑むように見るお母様。私が言いたいのは、私が聞きたいのは。


「お母様!」

「……」

「……なぜ、私を憎むのですか?なぜ、私を嫌うのですか?……いったい、私があなたに、何を……」

「……」

「私はただ……」


 マリアの瞳から涙がこぼれ落ちた。マリアの吐く言葉が、アナベルに届かないまま消えていく。

 なぜ、自分は言葉を望むことも許されないのか。欲しくない言葉ばかりぶつけてきたのに、自分の望む言葉は何一つ与えられない。そんなに多くのことを望んでいるわけではない。ただ、答えが欲しいだけだ。正当な理由なんていらない。理不尽でも構わない。納得のできない言葉なら、そんなことで?と笑ってやるんだ、そう心に決めてきた。マリアが悪いと思えれば、許してもらえるまで謝ろう、そう思ってここに来た。たくさん考えて、やっと決心をしてここに来たのだ。


 でも、きっとどんな言葉をぶつけても、アナベルは何も返してくれない。何も教えてくれない。ただ、マリアが失望の色を濃くするだけ。


「……これからの私の人生は、私の幸せのために、私の望むように生きていきます。ですから、お母様。私のことは忘れてください。私のことでお心を苦しめないように、お母様の心の中から私を完全に消してください。そしてこれからは、憂いのない日々を送ってください。私も、お母様のことは忘れます」

「……」


 アナベルの肩が震えている。


「お母様から言われた言葉も、お母様の私を見る目もすべて忘れます。私のこれからの人生にはすべて不要なものですから。なので、お母さまも不要な私のことなど忘れて、心穏やかにお過ごしください」


 大きな涙をこぼしながら、マリアは小さく息を吐いてデヴィッドを見た。


「お父様」

「ああ、大丈夫だ。お前は自分の幸せだけを考えていればいい」


 デヴィッドは申し訳なさそうな顔をして笑い、マリアも小さくうなずいた。


 アナベルは皆が席を立っても動かず、誰もいなくなった部屋で、背中を小さく丸めてうつむいたままだった。





 馬車の中。マリアの涙と嗚咽は止まらない。


 アナベルと会ったらどうなるのか、という不安を抱えたまま馬車を降りた。マリアを見たアナベルは、その目を見開いたまま言葉を発することなく、ただマリアを見ていた。やつれた真っ白な顔からは精気を感じず、見開いた瞳は睨んでも蔑んでもいない。今まで一度もマリアに向けたことのない、複雑な感情を孕ませた視線。その視線の意味はわからない。それでも臆せず「お母様、ご無沙汰をしております」と挨拶をした。何も返事はなかったけど。


 デヴィッドの横に座ったアナベルはずっと下を向いたまま。


 イーサンとの交際を反対され、罵倒されるかもしれない。もしかしたら、叩かれることだってあるかもしれない。それならそれでもいい。どうなっても、自分の気持ちを言って、それで……。


 それなのに、アナベルはうつむいたまま一度も顔を上げなかった。


 あんなに私を睨んでいたじゃない。私を憎んでいたじゃない。顔を上げて、私を見て。


 でも、ずっとうつむいたまま。


 マリアはアナベルに何を望んでいたのか。謝ってほしかったのか、抱きしめてほしかったのか。何を望んで「お母様」と呼んだのか。「私を見てください」と言ったのか。


 言葉をぶつけてほしかった。アナベルのマリアに対する気持ちを。なんでもいい。アナベルの心の奥にある言葉をぶつけてほしい。なぜ、実の母親にあれほどまでに嫌われないといけないのか。何も知らずに納得できるはずがない。赤い髪か?茶色い瞳か?生まれた瞬間から憎まれるほど、自分は理想の娘ではなかったのか?アナベルの口から、その心の奥にしまわれた言葉を聞きたかった。


 納得できても、できなくてもなんでもいい。何か言葉を。そうでなければ、何もわからないまま憎まれて、マリアの中に生まれた怒りはどこに向ければいいのか。いっそのこと怒鳴りつけてくれれば、胸を突き破って出てきそうな言葉をアナベルにぶつけることができるのに。それなのに……。


 アナベルはやはりマリアを拒絶した。無言という一番卑劣なやり方で。


 ただ苦しめられただけのアナベルとの関係に終止符を。そう望むのに、それを叶えることも許さないアナベルは、うつむいたまま小さく小さく背中を丸め、頭を垂らしていた。


 逃げるな、卑怯者!あなたは弱くてずるい卑怯者だ!


 そう言葉にしたいのに、丸めた弱々しい背中はそんな言葉でズタズタに傷ついてしまいそうなほど、震えていた。だから、言葉が出なかった。


「あの人は……、ずるい……」


 イーサンに頭を抱きしめられ、喉の奥をヒリヒリさせながら短い言葉が音となる。


 どうして愛してくれなかったの?


 それが一番知りたかった。


 一度として母の愛を感じたことなどなかった。いや、感じたことがないわけではない。アナベルからドレスを貰ったときは、母の愛を感じた。アナベルが、自分のために用意をしてくれたのだと心から喜んだ。そして、時の流れはマリアを成長させ、現実を突きつけてきた。あのドレスはアナベルの愛ではなかったと。


「私は、愛されたかった」

「うん」


 イーサンの胸で、アンドルーとマーガレットの前で、ずっと口にしなかった言葉を、アナベルに向けて言いたかったのに言えなかった言葉を吐いた。


 臆病な自分は、これ以上の拒絶を恐れて「なぜ私を愛してくれないの?」と聞くこともできなかった。


 あんな人でも、自分を産んだたった一人の母親だ。容姿が似ていなくても、どんなに冷めた目で見られても、その瞳の奥に、自分に注がれているかもしれない愛を探すくらい許されるはずだ。あの黄色い瞳の奥に、我が子を慈しむ温もりを探すことくらい許されるはずだ。

 それで望むものが見つけられなくても構わない。


 でも、それさえも許されなかった。アナベルは話しあいの席で、一度もその黄色い瞳をマリアに見せることはなかったのだ。



 その後、アナベルは領地にある小さな別荘に移り住んだ。

 離縁か別居かの選択を迫ろうにも、デヴィッドの声はすでにアナベルには届かず、ジュリエンでさえその心に触れることはできない。


 別荘に移り住んだアナベルは、身の回りを世話する侍女と二人きり、誰と会うこともなく、しかしマリアが望んだとおり、マリアを忘れ心穏やかに暮らした。

 その空虚な瞳に映るものがなんなのかは誰にもわからない。ただ、その心はここではない別の所で生きている。そこはアナベルにとって幸せだけが満ちる場所。心乱されぬ穏やかな日々だ。






読んでくださりありがとうございます。

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