イーサンの想い
イーサンは驚いて立ちあがった。そしてマリアを追いかける。
「待って!マリア!」
やはりマリアの足は遅い。イーサンは、マリアをあっさりと抜き、その際にマリアの腕を掴んで抱きとめた。
「え?」
「ははは、簡単に捕まったな」
「……」
「……マリア、逃げないで」
「……逃げないから、はなして」
簡単に追いつかれ、抱きとめられてしまった。マリアが転ばないようにだろうか?それとも逃げられないようにだろうか?
「……」
イーサンがゆっくりとマリアを自分から離した。
「話をしよう」
「……」
「もう、終わりにしたいんだ」
イーサンの言葉にハッと顔を上げたマリア。
「終わり?」
「……このままの関係を続けるのは、やっぱり嫌なんだよ」
「……」
マリアの目から涙がこぼれて思わずうつむいた。
やっぱり勘違いだった。
「マリア」
イーサンが膝を突いてマリアを見上げる。
これではうつむいて顔を隠した意味がない。
「マリア、あなたが好きです」
「え?」
「俺を、あなたの恋人にしてください」
「……終わりって」
「元婚約者も友達も終わりにしたい。もう、我慢をしたくないんだ」
「我慢をしていたの?」
「そうだよ。ずっと我慢をしていた。言いたいことも言えずに我慢をしていた。触れたくても傷つけたくないから我慢をしていた」
イーサンがマリアの手を取ってその甲にそっとくちづけをする。
マリアの顔が一気に赤くなった。
「今まで、マリアのどこにもくちづけをしたことがない」
その美しく煌めく髪にでさえも。
「俺が君にくちづけをすることを許してほしい」
「……無理」
「……」
マリアがポツリと呟いた言葉にイーサンが固まった。
「何がなんだかわからないわ」
「マリア」
まずい。マリアが怒らないからって調子に乗りすぎた。
「それなら、マリアが理解できるまで待つよ」
そう言って笑ったイーサンを見て、マリアは自分の手を握るイーサンの手をグッと握り返した。
「どうして?」
「え?」
「どうして、それならそう言ってくれなかったの?どうして、ほかの令嬢と仲良くしたの?」
「それは……」
「どうして、今ごろになって好きって言うの?」
イーサンがマリアに好きと言ったときからずっと考えていた。もし、イーサンの言う好きが恋情という意味なら、これまで傷ついてきた時間はなんだったのかと。
「マリアに、関心を持ってもらいたかった。気を引きたかったんだ。なんでもいいから俺のことを考えてもらいたかった」
「……?」
「マリアが俺のことを怒ってくれたらいいのにって思っていたんだ。……ごめん」
「なんで、そんなことを考えるの?もっとほかに方法はあったでしょ?」
今のように気持ちを伝えてくれたら。
「嫌いになるって言われたんだ」
「え……?」
マリアを見上げるイーサンの顔が泣きそうだ。
「好きとか、可愛いとか、きれいとか言ったら、嫌いになるってマリアに言われたから。……どうしたらいいのかわからなくなって」
マリアの涙が止まった。驚いたように目を見開き、涙がスッと乾いていく。
「……私が?」
「……覚えていない?」
……覚えている。イーサンが急にマリアのことを褒めるようになって、アナベルと反対のことばかり言うのが嫌だった。
「マリアの赤い髪はキラキラしていてとてもきれいだね」
「マリアは難しい本を読んでいてとても勉強熱心なんだね」
「僕はマリアの声が大好きなんだ」
「マリアはとても可愛いよ」
「僕、マリアのこと大好きだよ」
イーサンの嘘つき!なぜ、そんなことばかり言うの?お母様は私のことを可愛くないって言っているの。地味で、あなたを見ていると気分が悪くなるって。赤い髪が気持ち悪いって。本ばかり読んでいて面白味もないって。それなのに、思ってもいないのにイーサンは嘘ばかり言って!もうやめて!
我慢の限界を迎えたマリアが、「私は可愛くもないし、赤い髪はきれいじゃないわ。心にもないのに、好きなんて簡単に言わないで。今度そんなことを言ったら、あなたのことを大嫌いになるわよ!」と、泣きながらイーサンに言ったのだ。
「それが、理由なの?」
「……」
それしか理由がない。本当にそれだけだ。
「なんて、……ひどい」
マリアの瞳から再び大きな涙がこぼれてきた。
「ごめん、マリア。こんなこと言うべきじゃ……」
「私が、そんな、ひどいことを言ったから。……ご、ごめんな、さい」
今なら、そのときのイーサンの言葉が本心からだとわかるのに。なぜ、自分はそんな真心にも気がつけなかったのだろう。なぜ、イーサンを傷つけて平気な顔をしていたのだろう。その言葉を素直に受けいれることができていれば、二人は違う道を進んでいたかもしれないのに。
「そうじゃない。マリアは十分傷ついていた。マリアが、俺を傷つけるために言ったわけじゃないってちゃんとわかっているから」
一方的に紡いだ言葉がマリアをどれほど傷つけるのかもわからず、バカみたいに何度も好きだと言った。何度もきれいだと、可愛いと……。そしてマリアを傷つけて、マリアの言葉にショックを受けて。
結局、謝ることもできなかった。そのことに触れたら、本当に嫌われると思ったからだ。だから、それには触れずマリアの様子を窺って、臆病になって。
もし、あの瞬間に謝ることができたら違っただろうか?なんて謝るんだ?もう二度と言わない、とでも?言えるわけがない。それに、何を言っても結果は変わらなかったはずだ。マリアの心は、イーサンが思うよりずっとボロボロだったのだから。
「私は、どうすればいいの?」
マリアの涙は止まらない。
こんなにひどいことばかりしてきたのに、イーサンの優しさに甘えるなんて勝手すぎる。
「どう謝罪したらいいのかわからない」
ごめんなさいなんて言葉では、とても償いきれない。だって十年以上だ。ずっと長い時間その言葉に怯えていたのなら、ごめんなさいなんて言葉では軽すぎる。
「……いらないよ、謝罪なんて、マリアが悪いなんて一度だって思ったことないんだから」
「イーサン」
「ただ聞かせてほしいんだ。君が俺のことをどう思っているのか」
「……」
マリアが目を見開いた。涙がスッと引いて、それから顔が真っ赤になる。
「……あ、あの、わたし……」
「俺の気持ちはあのときから変わっていないよ。それどころかあのときより、もっと、……マリアが好きだ。だから、謝罪よりマリアの気持ちが聞きたい」
イーサンがうつむいたマリアの顔をのぞき込むと、その瞳が揺れていて、イーサンの視線に気がついて瞼をぎゅっと瞑った。膝の上で握り締めた手にさらに力が入る。
「えっと……、わたしは……」
マリアの顔が今まで見たこともないほど赤い。頭の上に鍋でも置いたらお湯が沸いてしまいそうだ。
マリアの声が言葉にならずに時間だけが過ぎていく。
「……あの……」
もう、これ以上意地悪するのをやめようと、イーサンが諦めかけたとき。
「イーサンが好き。……たぶん、ずっと、……ずっと好き。小さい、ときから」
イーサンは目を見開いて驚いたような顔をしている。マリアは顔を上げた。顔は変わらずに真っ赤で、瞳は潤んでいるけど。
「イーサンから貰ったプレゼントは、全部、うれしかった。アクセサリーを、着ける勇気があればよかったけど、だけど、私には似合わないと思っていたから。ごめんなさい。……好きって言ってほしかった。でも、ごめんね……」
好き、とだけ言ってくれればいいのに。謝る必要なんてないのに。もう、やめよう、謝るなんて。そう言いたいけど、やはりイーサンの口からこぼれた言葉も「……俺も、ごめん」。
「……なんだか、ずいぶん遠回りをしているわね」
「そうだね……」
好きなのに傷つけあうなんて、こんな悲しいことはない。通い合わない想いほど辛いものはない。だけど、それでも。
「……よかった。イーサンがまだ私を好きでいてくれて。こんな辛い恋なのに、諦めないでいてくれて」
「……」
何も言わずにマリアを抱きしめたイーサンが泣いている。
「泣かないで」
「ごめん。格好悪くて、ごめん」
イーサンの腕にすこし力が入った。
「全然、格好悪くないわ。イーサンはいつでも素敵だもの」
自分はそんなことを言われるような人間ではない。マリアを諦めようとして別の人を傷つけた卑怯者だ。それでも、マリアも、彼女も自分を許してくれた。
マリアの腕がイーサンの背中に回り、その逞しい背中をなでる。
「マリアが好きだよ。愛している。ずっと、マリアのことだけが好きなんだ」
「……うれしい」
二人はしばらく抱きあっていたが、その後のことは割愛する。
なぜなら、当然のように唇を奪おうとしたイーサンをマリアが制して、甘い時間は終わってしまったからだ。
髪と額へのくちづけは許されたが、唇はまだ早い、だそうだ。
イーサンの落ち込みようはかなりのものだが、ひどく拗れてしまった二人だ。勢いで先に進みたくはないとマリアから真っ赤な顔をして言われれば、うなずく以外にイーサンにできることはない。
きちんと両家の親にも報告をして認めてもらいたいし、これからの二人について真剣に考える必要がある。マリアが生まれたときから二十年以上の付き合いとなる二人が、ようやく同じ方向を向き、歩幅をあわせようとしているのだから、いまさらだが、ゆっくりと互いの気持ちを知ることから始めてもいいのではないか。
「また初めから、だね」
「……そうよ。初めからやり直しましょう」
マリアが可愛らしく笑った。
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