逃げ出したい 逃げ出した
「お嬢様」
ジョアンナがマリアに声をかけたとき、まだ身支度は整っていなかった。イーサンに何度もデートに誘われ、そのたびに四兄弟を通して、エリオットを通して断っていたが、さすがにこれ以上はかわいそうだと四兄弟に言われ、あの日以来久しぶりに顔を合わせる。
それなのに、ドキドキして昨日からまともに眠ることができなかったマリアは、今日も朝から心臓が大きく早く脈打っていて、逃げ出したい気持ちなのだ。
「なぜ、朝からデートなの?こんなの心臓が止まってしまうわ」
これまでどんなふうにイーサンと接してきたのかまったくわからない。
マリアにとってイーサンは幼馴染で、将来が約束された婚約者だった。でも、イーサンはマリアよりほかの令嬢と仲良くしたくて、マリアと結婚をしたくはないだろうと思っていた。傷つきたくないから、何も感じないように殻を作って、イーサンのことをちゃんと見ることができていなかった。
「だから平気だったのよ」
イーサンの気持ちなんて考えていなかったから、何も感じずに平気でいられた。
でも今は違う。
イーサンは私のことを好きなのかもしれない。
そう思うと信じられないくらい体は熱くなるし、心臓が早く動きすぎだし、頭はパンクしそうだ。
でも、勘違いかもしれない。私の思う好きと、イーサンの言う好きは違う種類かもしれない。だって私たちは友達だし。だから、意識なんてしたらダメ。落ち着いて、冷静に、何事もなかったかのように。
「お嬢様」
また、ジョアンナの声が聞こえた。
「もう、行かないと」
のろのろとシャトレーンバッグを掴んで部屋を出た。階段を下りると、見慣れた金色の髪がこちらを見上げていた。
途端にマリアの顔が赤くなる。
「おはよう」
そう言ったイーサンもつられて赤くなる。
ジョアンナは「あらあら」と言って笑った。
マリアは怒ってない?まだ嫌われてはいないのか?あの感じは、怒っていないよな?あれ、もしかして好きって言ったのは聞こえていなかったとか?いや、それならこんなに避けられるはずがない?やっぱり嫌われてはいないと思っていいのか?
イーサンの頭の中はそんな不安と期待が渦巻いている。
「おはよう」
緊張をした面持ちのイーサンの前に立ってようやく挨拶をしたマリア。
「うん。……行くか」
「うん」
大きなバッグを抱えたイーサンがドアを開けて外に出ると、マリアがそれに続いた。
「え?」
マリアが外に出ると目の前に馬の顔があって驚いた。
「ああ、テレサだ」
「まぁ。テレサっていうの。よろしくね」
マリアがテレサの顔をなでると、テレサはジッとマリアを見つめてそれから鼻をブルルンと鳴らした。
「でも、どうして?」
「ジョアンナがランチを作ってくれたんだ。これを持って、ピクニックに行こう」
イーサンが手にしたバッグを持ち上げた。
「……うん」
イーサンはテレサに跨り手を差し出した。
「掴まって」
イーサンはそう言うと、ふらふらしながらあぶみに足を乗せたマリアを引っ張り上げ、自分の前に座らせた。マリアがしっかり座ったのを確認すると、イーサンの指示に従ってゆっくりとテレサが歩き出す。
「どこに行くの?」
「すぐ近くに野花がたくさん咲いているところがあるんだ」
「そう」
一応聞いてみたが、それより今の状態が気になってほとんど耳に入っていないマリア。
この距離は何かしら?近すぎるわ。なんでこんなことになるのよ。
イーサンの前に横座りに座ったが、足がプラプラしてバランスが取りにくい。それに気を抜くとイーサンの体にマリアの肩が触れてしまう。
マリアは体を強張らせて鞍の前橋の出っ張りを握った。するとイーサンがグイッとマリアの体を自分のほうに引きよせ、マリアがイーサンに寄りかかるような体勢になった。
「え?」
「危ないから、俺に寄りかかっていて」
「……うん」
マリアが言われるがままイーサンに寄りかかって控えめに手を腰に回すと、イーサンの胸がマリアの耳にあたり心臓の音が聞こえた。その音はとても大きくて、とても速い。すごく、速い。
「……」
マリアの心臓もイーサンに負けないくらい、大きく速く動いているのに、イーサンの音を聞いていると不思議なくらい落ち着いてくる。
気がつけば、マリアはイーサンの胸に耳を押し当てていた。
おもむろに顔を上げたマリアが、イーサンに「重い?」と聞くと、イーサンは「全然」と素っ気なく答えた。
可愛い。
今、イーサンの脳内にはそれしかない。
小説のワンシーンのようなこの状況に浮かれ、自分に身を任せるマリアにメロメロに溶かされたイーサンは、ずっと愛馬テレサに乗って、二人きりの甘い時間を過ごしても良いのではないかと思いはじめている。
残念ながら、甘いのはイーサンの頭の中だけだが。
目的の草原までは一時間もかからずに着いてしまい、小さく舌打ちをしてのろのろとテレサから降りたイーサンと、イーサンに支えられるようにして降りたマリア。
しかし、何事もなければ「素敵な場所ね」と浮かれてしまうのだが、今のマリアには「もう逃げ場はない」という思考にしかならない。
そんなマリアの気持ちを知ってか知らずか、イーサンはマリアの手を引いて草原を少し歩きだした。その先にあるのは、紫や白の小花が集まって房状に垂れ下がった可愛らしいデュランタ。その周りには小さな黄色いデイジーが咲いている。
花を見て少し落ち着いたのか、ようやく気持ちのいい風と、目の前に広がる景色に目を遣ることができたマリア。
「素敵だわ」
「あとで何本か花を摘んで、ジョアンナに持って帰ろう」
「それはいい考えね」
足首より低い雑草を踏んで花を眺めながら、ひらひらと飛んでいる蝶を指さすイーサンと、そちらに目を遣って、別の蝶を見つけて「あそこにもいるわ」とはしゃぐマリア。
互いに不自然なくらいにあのときのことには触れずに、今の時間を楽しもうと笑いあう。
だって、もし触れてしまったら今のこの時間が台無しになってしまうかもしれない。これから先、今の二人のようには笑いあえないかもしれない。だから探るように、気がつかないように二人は口を噤む。
「お腹空いた?」
「ええ」
「それなら食事にしよう」
木陰に厚手の織物を敷いて座り、ジョアンナが作ってくれたサンドウィッチとフルーツを広げる。そして革の袋には少し温くなった果実酒。
「ふふ、とてもおいしい」
乾いた喉を通って果実酒の甘い香りが鼻孔を抜ける。
サンドウィッチは三種類。ジョアンナの作るサンドウィッチは、パンとチーズを一緒に焼いてそれから野菜やハムを挟む。だから香ばしくて、サクッとしていてとてもおいしい。
フルーツは庭で取れた木苺。
「私、ジョアンナの作るサンドウィッチが大好きなの」
マリアは、本当においしそうにサンドウィッチを食べる。そして木苺を口に放ったとき、マリアがギュッと目を瞑って顔をクシャッとした。
「酸っぱい!」
ジョアンナが、「少し早くて酸っぱいかもしれません」と言っていたことを伝えわすれていた。「もし酸っぱかったらかけてください」と言ってシロップを入れてくれていたのに。
「ごめん、マリア。俺のせいで」
慌ててシロップを木苺にかけた。
「別にイーサンのせいではないわ。それに私、酸っぱい木苺も好きよ」
確かにマリアは酸っぱいものが好きだ。キーライムのケーキも酸っぱいし。
「そうだったな」
そう言いながらイーサンは木苺をフォークに刺して口に入れた。
「んっ……、まだ酸っぱいぞ」
シロップをたっぷりかけたから、大丈夫だと思ったのに。
「酸っぱいのはなくならないわよ」
マリアはびっくりしてギュッと目を瞑ったイーサンを見て笑いだした。
イーサンはそんなマリアを愛おしそうに見つめる。
「木苺はマリアが全部食べていいよ」
イーサンは木苺の入った容器をマリアのほうに押しやった。
「ふふ、食べていいよ、ではなくて、イーサンが食べたくないんでしょ?」
そう言ってまたクスクスと笑う。
「イーサンは甘いのが好きよね?苺にはコンデンスミルクをかけるし、牛乳の中で苺を潰して、蜂蜜を足して飲むのも好きよね?」
それは屋敷でしかやらない食べ方だ。家族と屋敷の使用人、あとマリアしか知らない。それに、改めて言われると子供っぽくて恥ずかしい。思わずイーサンの顔が赤くなる。
「最近はやっていないよ」
行儀が悪いとマーガレットに言われて、何年も前に苺を潰して牛乳と一緒に飲むのはやめた。そのせいもあって最近苺は食べていない。
「そうなの?おいしいのに」
「マリアは、俺のことをよく知っているな」
「知っているわよ。いったい何年見てきたとおもって、いる……」
途中で声が小さくなっていくマリア。思わずうつむいてしまった。
「マリア。……俺のこと、見てくれていた?」
「……」
「マリア?」
「見ていたわよ」
「俺のこと気にしてくれていた?」
「……」
「マリア」
少しずつイーサンが距離を縮めてくる。少しずつ逃げるマリア。
たまらずマリアは真っ赤な顔をして立ちあがり、思わず駆けだした。
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