ザワザワした心の正体
リベナの二階の作業部屋で、マリアは大きな溜息をついた。
大好きなインクの匂いがいつの間にか油の匂いに変わり、窓を開けていないと少し息苦しくなる。
油絵は絵の具が乾くのを待たないといけないから時間もかかるし、待ちきれずに色を重ねたら濁ってしまった。
「始めて数カ月でできることではないわね」
独学で学ぶことを決意して、それでもわからないことがあると画材屋に足を運んだ。
画材屋の店主も慣れてきて、マリアが顔を出すと「お、来たね」と言って話を聞いてくれる。道具についてあまりに熱心に聞いてくるし、趣味というには本格的だなと思うが、そこには触れない。
ただ、客が画材を買いに来て、世間話のように絵の話をして、顔を輝かせて帰っていく後ろ姿を見送るだけ。
店主は絵を描いて食べていこうと決意をして家を飛び出し、それから挫折をして筆を折った経験がある。色々あって、今では絵は趣味で描く程度。
それでも、これまで得た知識や努力がほかの人の助けになるのなら、苦労した甲斐もある。だから、マリアの相談には親身になるし、女性が絵を描くことに嫌悪はない。
うれしそうに絵の話をするマリアは眩しいし、その楽しい気持ちの次に来る感情が、マリアの筆を折らせることのないようにと、親のような気持で見守っていたりもする。
マリアにとっても、いろいろと話を聞くことができる唯一の存在で、頼れるおじいさんと言ったところだ。
マリアは筆を置いて、ホッと息を吐いた。
「乾くのを待つしかないわね」
作業着から普段着に着替えて階段を下りていくと、階段を見上げたエリオットがマリアの姿を見て笑っている。
「疲れた顔をしているね」
試行錯誤を繰りかえす時間は楽しかったが、思い通りに描けないとイライラして落胆してしまう。
「感情の起伏が激しくて、コントロールするのは難しいです」と呟くと、エリオットが「とても人間らしい感情だよ」と言って、お茶を出してくれた。
「私、絵を描くことより、感情の動きに疲れているみたい」
「そうかもしれないね。気持ちが体調を左右することもあるんだ。しっかり心を休ませてあげないとね」
たしかに気持ちが前向きのときは体も軽くなるし、絵も意欲的に描ける気がする。
でも今は、描きたいのに描けない。そして苛々して手が動かなくなる。失敗ばかりを繰りかえすから、描きたい絵が色や姿を変えてしまい、最初に描きたかったものから遠ざかっていく。そんなことを繰りかえしているから、だんだん描けなくなっていく。
「心のケアはとても大切なんだよ。そうだ。少しの間、仕事を休んでゆっくりするといいよ」
「え?」
「本も一冊仕上がっているし、問題ないよ」
「でも」
「しっかり休んで、頭をすっきりさせたほうがいいかもしれないからね」
「……そうですね」
絵を描けずに悩む人はいるだろうが、そもそもマリアには知識が足りていない。誰かに弟子入りすることもできないから、それを補うことに必死になって、少し絵を描く楽しい気持ちから遠ざかっている。そして、グルグルと色々なことを考えて、ますます落ちこんでいく。
「余裕がなくなることはあるよ。初めてのことに挑戦しているんだから、むしろじっくり時間をかけないと。ね」
エリオットの優しい笑顔にうなずきながら、湯気が上るカップに口をつけた。
「ありがとうございます」
エリオットの言いたいことはわかるのに、気持ちは晴れないまま、午後の静かな時間をマリアは溜息と共に過ごした。
仕事を休んで数日。
ベッドに寝転がっても、庭で花を見ても心がザワザワとして落ち着かない。
そんなマリアを外に連れ出したのはイーサン。
「せっかくだから散歩をしよう」
ニコニコしながらやって来たイーサンに驚きながらも、それもいいかもしれないとうなずいたマリア。
無言のまま歩き出した二人は、どこに行くのかも決めず、途中で曲がって少し立ちどまって。
どこを見ているというわけでもなく、うわの空のマリアに付きあうイーサンと、のんびり道を進んでいく。
「絵がね」
「うん」
「うまく描けないの」
「そうか」
ポツリとこぼしたマリアの言葉に、イーサンは短い言葉で返した。
「これまで、ただ好きで楽しくて、それだけで描いていたのに」
「うん」
「最近は苦しくて」
よくわからない心のザワザワが気持ち悪い。
「誰かに弟子入りすることもできないから、ちゃんとした絵が描けないの」
「……ちゃんとした絵?」
「ちゃんとした正しい描き方ができないの」
「……」
それは基本を守って描くということだろうか。
「ちゃんとしたいの?」
「……うん」
「どうして?」
「うまく描けないからよ」
うつむいて右の人差し指を左手で握り締めた。
「不安なんだな」
「……不安?」
「違うか?」
「……」
このザワザワは不安なのか。
「好きだから描いていたころとは違うんだろ?」
「うん」
ただ描きたいものを描けばいい、と言われて描いていたころは自由だった。だから、油絵に挑戦してみようと思えたのに、いざ挑戦してみたら勝手が違う。
感覚だけではなく、知識や経験が必要で、うまくいかずに初めて誰かに教えてもらいたいと思った。でも、マリアに絵を教えてくれる人はいない。
それに、油絵に挑戦をしてみようと思う、と言ったらメルニックが喜んでいた。期待していますよ、と笑っていた顔が忘れられない。いつもの調子で言った言葉なのに、今のマリアには思うような絵が描けず、その期待に応えられないかもしれない、と焦る気持ちがますますマリアを苦しくする。
「不安なのかもしれない」
きっと不安なのだ。
「仕事って思っているか?」
「え?」
「絵を描くことを仕事って思っていないか?」
「……思っているわ。だってそれでお金を貰っているのよ」
そして、その仕事に期待している人がいる。だから焦ってしまう。
「俺は、マリアの失敗した絵もいいと思ったよ」
マリアを迎えにいったとき、描いていた絵の色が濁ってしまったと言って肩を落としていた。途中までうまく描けていただけに悔しい思いが大きかったようだ。「乾くのを待って、また色を重ねてみるわ」と言って大きな溜息をついていた。
「……適当なこと言って」
「俺は素人だからな。マリアの描く絵ならなんでもよく見えるんだ」
「……私は描きたい絵が描けないのに」
「そうなのか?」
「……水彩画では描きたい絵がそのまま描けたのよ。でもね、油絵になるとうまくいかないの。時間がかかるし、自分の出したい色が出ない。気持ちばかり焦ってしまって」
「……油絵って塗り直しができるんだろ?」
「うん」
「乾くのを待つ時間に、色々と練り直してみるのもいいんじゃないか?思った色じゃなければ塗り直せばいいし、そのまま描き続けたら想像とは違うものになっても、良い絵になるかもしれないよ」
そう言ってイーサンが笑う。マリアは少し目を見開いた。
「今は練習中だろ?」
「……」
「焦る必要はないよ。それに皆、マリアに仕事を期待しているわけじゃない」
「……」
「マリアが好きなように描くことを望んでいるんだ」
「……」
「メルニック卿に相談してみたらどうだ?」
「メルニック様に?」
「誰か紹介してくれるかもしれないだろ」
「そんなの無理よ。女の人が絵を描くことなんて認めてくれる人はいないわ」
「そんなのわからないじゃないか」
「でも」
「メルニック卿のような人がいるんだ。変わり者の画家もきっといるよ」
いるのだろうか?
「いなかったら別の方法を探せばいいさ。それに、油絵にこだわる必要なんてないだろ?やめてもいいんだ」
やめてもいい?
「水彩画を続けることに何か問題があるのか?」
「……いいえ、何も問題はないわ」
「そうだろ?」
「あれ……?」
いったい何にこだわっていたのだろう?
「立ちどまってもいいんだよ。たっぷり時間をかけてもいいし、引きかえしてもいい」
「前に進まなくてもいいの?」
「進むばかりがいいとは限らないよ、きっと」
「……」
そうなのか。進まないといけないと思っていた。そうしないといけないと決めつけていた。そうではないのか。
「相談してみるわ、メルニック様に」
「それがいい。……ところで、甘いものなんて食べたくない?」
イーサンが指さした先に、おいしそうなアイスクリームの店があった。
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