幼いころの記憶
イーサンはマリアが何かを言う前に、その手を引いて馬車に乗り込んだ。馬車に乗ってしまえばこちらのもの。マリアが何を言っても引き返す気はない。
二人のあいだに会話はあまりないが、それは今に始まったことではない。お茶会のときに、三言で会話が終わったことだってあるのだから、無言の時間だって然程気にはならない。
それに、馬車の中は普段より互いの距離が近くなるし、ずっとマリアの顔を見ていられるから好きだ。
ゆっくり進む馬車の中から外の景色を眺めているマリアの瞳は、いつもより少し緑色が濃い。マリアの瞳は茶色で、日によって眼の虹彩に少し緑色が見えるヘーゼルアイ。
その美しい瞳に自分が映るとイーサンは喜びに震える。はっきり言えば病気だ。恋煩いなんて可愛いものではない。
イーサンはずっとマリアに片想いをしている。婚約者だからいずれ二人は一緒になるのに、その心を手に入れられないまま十年以上も片想い。そして、無駄に拗れてしまった。
マリアと初めて会ったときの記憶はない。二歳のころだから当然なのだが、いつからマリアのことを好きなのかはわからない。
ただ、木苺色の唇にドキッとしたのは、いわゆる思春期というには早い時期だったと思う。きっとマリアの唇は甘酸っぱいに違いない、と不埒なことを想像して、しばらく自己嫌悪に陥ったことは忘れられない。
あるとき、父のアンドルーに「女の子は褒めないといけない」と言われた。それが紳士のマナーで夫の重要な仕事だと。
「イーサンはいずれマリアの夫になるのだから、ちゃんとマリアを褒めないといけないぞ」とまじめな顔をして言われれば、イーサンだってまじめに返事をする。「わかりました。僕、一日に十回はマリアを褒めます」と。
わざわざ褒めようとしなくたって、マリアの素敵な所ならいくらでも言える。
可愛くて、髪がキレイで、瞳が吸い込まれそうで、知的で、落ち着いていて。
今まではそんなことを言葉にはしていなかったが、言わなくてはいけないのなら喜んで言う。
だから、会うたびにマリアがどれだけ素敵かを伝えていたら、あるときマリアに泣きながら言われた。
「私は可愛くもないし、赤い髪はきれいじゃないわ。心にもないのに、好きなんて簡単に言わないで。今度そんなことを言ったら、あなたのことを大嫌いになるわよ!」と。
そんなことを言われたイーサンは、その日のことをそれしか覚えていない。そしてショックでしばらく寝込んでしまった。
それから、マリアには可愛いとかきれいといった言葉を言ってはいない。言ったら嫌われてしまうのだ。それに好きという言葉も。
そして二人の会話は少しずつ減っていった。
余計なことを言ってマリアに嫌われたくなかったから、当たり障りのないことを話すようになり、そのうち話すこともなくなってしまった。元々、二人の会話はほとんどイーサンの一方通行。イーサンが口を噤めば、会話がなくなるのは当然だ。
それに、人付き合いをしないマリアには、共通の友人もいない。
部屋にこもっているから趣味は読書と絵。
読んでいる本は、経営学やら深層心理やら、高名な誰かが書いた交流理論やら。まったく面白さがわからない学術書ばかりだ。
「何?」
窓の外を見ていたマリアの顔が美しくて、熱心にマリアを見つづけていたせいで、マリアに不思議そうな顔をされてしまった。
「先にドレスを見に行こう」
イーサンは慌てて目を逸らして、そんなことを言った。
「今着ているドレスではダメかしら?」
「そのドレスもとても素敵だけど、それは外出用ではないだろ?」
「ええ、そうね」
まさか自分が着替えの手伝いをするわけにはいかないし、と都合のいいことを言って馬車を走らせたが、少し速度を上げた方がいいかもしれない。マリアの気が変わってしまいそうだ。
ブティックに着いたときには昼を回っていた。そのせいか客がいない。
「まー、イーサン様」
ブティックのオーナーは少し頬を染めて、甘えたような声でイーサンを出迎えた。そして、その後ろにいるマリアに気がついて、慌てて威儀を正す。
イーサンはときどき店にやって来ては、数着のスーツをオーダーしていった。質のいいスーツを気前良く買っていく公爵子息はこの店の上客。しかもとびきりいい男なわけだから、オーナーが色目を使ってしまうのもわからなくもない。
それにプレイボーイとして有名なイーサンだ。二人きりの店内で危険な恋が芽生える可能性に期待しないわけでもない。残念ながら、これまでそんなことは一度もなかったが。
このブティックでは、スーツとドレスの両方を扱っている。そのため、若いカップルが互いのスーツとドレスを選ぶデートコースの一つに組み込まれることがよくある。
だが、恋多き男が女性を連れてきたことは一度もない。それが、今日は初めて女性を連れてきた。しかも、まったく垢抜けない地味な女性を。
「彼女に合うドレスを選びたいのだが」
女性の腰に手を回しているその様子から、恋人と想像はできるが、本当に?と疑問が湧く。
今、王国でもっともモテる男と言っても過言ではないイーサンの恋人がアレ?
いや、そうではない。恋人ではなく、彼女は婚約者のマリア・パルトロー侯爵令嬢だ。地味で陰湿で美しくもないと言われている赤毛の令嬢。
「はい、畏まりました」
オーナーはニッコリと笑いながら、マリアを頭の上からつま先まで見た。
すらりとした細身にメリハリのある体。白い肌に、はっきりとした目鼻立ち。それに、赤い髪は艶やかで情熱的。
今のマリアを見れば、地味で冴えない女性のように見えるかもしれないが、ちゃんと整えればかなりきれいになるとわかる。
ただ、残念なのは着ているドレス。彼女にはくすんだ色より明るい黄色や、目の覚めるような赤いドレスが似合うはず。黒で大人っぽく仕上げてもいいし、白で華やかさを足してもいい。
大きな宝石のネックレスを着けても、負けることはないだろう。
軽く髪を結い上げて顔を出し、小さくイヤリングが揺れている、なんていうのも良いかもしれない。
オーナーの頭の中で、マリアがどんどんと変身していく。
「パーティー用でしょうか?」
「イヤ、これから、その、デートだから……」
さきほどまでのこなれた口調から一転して、顔を赤らめてごにょごにょと言うイーサン。
その様子を見たオーナーは目を見開いて、それからうなずいた。
「こんな天気のいい日には、こちらのクリーム色のドレスなどいかがでしょうか?」
そう言って爽やかな色のドレスを持って来た。
「……私には似合わないわ」
「……そうでしょうか?それでは」
そう言って幾つもドレスをマリアに見せたが、マリアが首を縦に振ることはない。オーナーは次々と渾身の一作を出してくるが、そのたびにマリアは腕を通すこともなく首を横に振る。オーナーの顔が徐々に引きつっていき、最後の一着を持ってきたとき、ついにはがっくりと肩を落としてしまった。
「……申し訳ございません。当店には令嬢のお気に召すドレスはないようです」
店内のすべてのドレスを断られ、ついにはオーナーも諦めた。
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