デートの約束
日がずいぶんと傾いてきた夕方のリベナの二階。マリアの作業部屋のドアをノックする音がする。マリアは気がつかないが。
それでも「マリア」と、聞き慣れた声で呼ばれれば、彼だと気がつくし、慌てて顔を上げる。
「イーサン」
「お疲れ。そろそろ帰る時間だぞ」
なぜか最近イーサンがマリアを迎えにくる。
「もうそんな時間?」
「とっくに五時は過ぎているよ」
時計を見ればすでに五時を回っている。
「イーサン、仕事は?」
騎士ってそんなに早く帰ることができるの?と疑問が湧くが。
「早番にしてもらっているんだ」
騎士には通常勤務以外に早番、遅番、深夜番の当番があり、早番は拘束時間が長いが早く上がることができる。深夜番はマリアを迎えにいったあとからでも出勤時間に十分に間に合う。そのため、できる限り早番や深夜番にしてもらっているのだ。
「そう」
「下で待っているよ」
「ええ」
イーサンが階段を下りていくのを確認して、ドアを閉めたマリア。道具を片づけ作業着から普段着に着替えた。いつも持ち歩いているネックレスは……、今日も着けずにバッグにしまう。
階段を下りるとイーサンとエリオットが楽しそうに話をしていた。すっかり馴染んでしまった光景だが、イーサンがリベナに来るようになってからまだ二ヶ月しかたっていない。
変なの。この光景が普通に感じるなんて。
「お待たせ」
マリアがそう言うとイーサンがニコッとした。
「帰るか」
「ええ。じゃ、おじさん、また明日」
「ああ、気をつけて」
エリオットに見送られながらリベナを出たマリアとイーサン。マリアの家はリベナから五分とかなり近い。
「ねぇ、イーサン」
「何?」
「騎士団の駐屯地からここまでずいぶん距離があると思うのだけど」
「まぁ、そうだね」
王都の端のほうにあるリベナから王都の中心近くにある騎士団の駐屯地までは、馬車だと一時間はかかる。
「大変だから、無理をしなくていいのよ?」
「馬で来ているから三十分もかからないし、心配しなくていいよ」
イーサンはそう言うが、それにしてもだ。
「俺が兄さんたちとおじさんから勝ち取ったのは、マリアを迎えにいく権利だけなんだから、それは奪わないでくれ」
まだ、家に入る許可は得ていない。因みに、兄さんとは四兄弟のことで、おじさんとはデヴィッドのことだ。
「ふふふ、変なことを言って」
「本当だよ。兄さんたちだって渋々譲ってくれたんだから」
いつの間にか四兄弟のことを兄さんと呼ぶイーサンの順応性にも、拳を交わした相手だから、とイーサンが兄さんと呼ぶことを許した四兄弟の懐の深さにも感心する。というか面白くて笑ってしまった。
「マリア、明日は休みだろ?」
「ええ」
「俺とデートしないか?」
「デート?」
「あ、いや、ほら、画材が欲しいって言っていただろう?」
これまで水彩画を描いていたマリアだったが、最近は油絵にも挑戦してみたいと考えていて、道具を見にいきたいとイーサンに話したことがあった。
「覚えていたの?」
「もちろんだ。それで、どう?俺がいたら、荷物運びに役立つと思うけど」
少し控えめに聞いてきたイーサン。この顔は何度も見たことがある。
「ええ、ぜひお願いするわ」
「……」
「イーサン?」
「いや、うん、わかった。明日、買いにいこう」
そう言ってイーサンはプイッと横を向いた。
夕日を浴びているせいか、イーサンの顔が赤い。
翌朝、約束の時間ピッタリにイーサンはマリアを迎えにきた。
極力目立たないようにと色を抑えて白いシャツに濃い緑色のズボンとベスト。それにベージュのハンチング帽。
マリアはクリーム色のペティコートに白いジャケット、茶色のコルセットにレースアップブーツ。腰には茶色いシャトレーンバッグ。中には硬貨とハンカチ。そして、肩から大きなバッグを掛けている。
「……」
「おはよう、イーサン」
「……」
イーサンがマリアを見つめているのに返事をしない。
「イーサン、怒っている?遅かった?」
「……いや、全然。うん、もう、まったく」
マリアが可愛い。編みあげブーツなんて、新鮮過ぎる。まさかこんなに着飾ってくれるなんて思わなかった。俺のほうが地味になってしまったか?失敗だ。マリアが可愛いことはわかっていたのに。これではマリアが目立ちすぎてしまう。
一応説明をしておくが、マリアは普段着で決して着飾ってはいない。
「……わね」
「……」
「……イーサン?」
「え?あ、ああ、何?」
「帽子が良く似合うわねって言ったの」
「え、そうか?目立たないように被ってきたんだけど」
「そう」
マリアはジッとイーサンと帽子を見つめている。そして溜息。
「イーサン。残念だけど、とても素敵すぎて目立ってしまうわ」
「……は?」
「帽子が似合いすぎて、いろいろと隠しきれていないわよ」
いろいろと?揶揄っているのか?褒められているような気もするけど。
「被らないほうがいい?」
「どちらでもいいわ。とてもよく似合っているから。それに、被っても被らなくてもあなたは目立つわよ」
マリアはクスクスと笑って歩きだした。その後ろを追うイーサン。
「……まるで夢の世界のようだ」
マリアが、天使より天使に見える。そしてこの世界は天国。一生分の幸せを使い果たしているのではないだろうか。だって、マリアに褒められた。母さん、この容姿に産んでくれてありがとう。ハンチング帽にも感謝だ。
イーサンの心は浮かれていて、体がフワフワと宙を浮いている気分。
マリアが最初に入った店は馴染みの小さな画材屋。品数は少ないがこだわりの品が多く、マリアは店主に色々と相談をしている。
そして今はパレットの話。パレットにも色々と使い勝手の良し悪しがあるらしい。それ以外に絵の具や油、筆やその他諸々、それぞれの説明を聞いていたら一日がこの店で終わりそうだ。
でも、マリアが可愛らしい笑顔で店主と話をしているのを見ると、それでもいいかな、なんて思えてしまうのだから、相変わらずイーサンは病気だ。
店主と話をして、ようやくマリアの買うものが決まったようだ。しかし、たくさん商品を並べていたのに買うのはパレットと四本の筆だけ。
「マリア、買うのはそれだけか?」
「ええ。もっといろいろ見て回りたいから」
「そうか」
そう言うとイーサンはポケットから硬貨を出して店主に渡そうとした。と、その腕を掴むマリア。その目は真っすぐとイーサンを見つめていた。
「これは私の仕事道具よ。だから私が買うの」
「……すまない」
イーサンは硬貨を握ったままポケットにそのまま突っ込んだ。強引に硬貨を店主に握らせることもできたが、マリアは絶対にそれを望まない。
「……」
マリアの、「仕事道具」という言葉がイーサンの耳にいつまでも残り、浮かれた心が一気に現実へと引きもどされた。
マリアは自立し、自分の歩む道をみつけ、新しいことに挑戦をしようとしている。その道にイーサンが足を踏み入れることは絶対にできなくて、それが眩しくもあり寂しくもある。
マリアが輝くことを喜びながら、どこかで置いていかないでくれてその足に縋りつく自分が想像できて、我ながら情けない。
マリアはどんどん前へと進んでいって、いつかその後ろ姿を見失ってしまいそうで、イーサンは思わずマリアの細い腕をつかんでしまった。
「え?」
吃驚したマリアは少し困った顔をしたイーサンの顔をのぞき込む。
「どうしたの?」
「……迷子にならないように、手、つなごう」
そう言ってイーサンが手を差し出した。マリアはイーサンの顔を見上げてからその手を取った。
買いたいものをある程度手に入れて、空腹を満たすために二人が入った店は、隣国ボリストン王国の軽食を出してくれるカフェ。
「ここのスープが格別においしいんだ」
イーサンのお薦めはエスニックな香草の香る海老と豆のスープ。それに、玉子と薄切りの牛肉と野菜を挟んだサンドウィッチ。
「イーサンはとても詳しいのね」
ここは騎士団の駐屯地からは離れているし、有名なお店というわけでもないのに。
「まぁ、仕事柄ね……」
マリアの周辺の治安を守るために日々巡回をしていたころに知った、とは言えないな。
「この店はおいしいのにあまり混んでいなくて気に入っているんだ」
「本当においしい。私、牛肉を挟んだサンドウィッチなんて食べたことがないわ」
サンドウィッチは軽食として出されることが多いため、はさむ具は野菜やハムくらい。薄切りとはいえ、牛肉のような食べ応えのある食材を挟むサンドウィッチはとても珍しい。
「それに、このスープの香りは独特ね。私、好きだわ」
馴染みのない味だが、香りの強いモノを好むマリアなら、きっと香草スープは気に入るだろうと思った。
「よかった。いつかマリアを連れてきてあげたいと思っていたんだ」
「……ありがとう。とてもうれしいわ」
こんな言葉をいつかどこかで聞いたことがある。まったく思い出せないが、今と同じ笑顔のイーサンがいたような気がする。
「今日は、買い物に付きあってくれてありがとう」
「いや、結局俺はあまり役に立たなかったし」
カフェに来る前に入った画材屋で買い物をするまで、マリアのバックは軽いままでイーサンが持つ必要がなかった。だから、二軒目の画材屋で買い物をした後、どうにかバックを持たせてもらったがその距離はたいしたことがなく、荷物持ちの仕事をしていないといってもいいくらい。
「油絵って難しいの?」
「わからないわ。初めてのことだから。でも水彩画とは違うから、たくさん練習をしないと」
師について教わるのが一番確実だが、女性のマリアを弟子にしてくれる画家はいないだろう。
それならそれでもいい。手本となる作品はたくさんあるし、使い方は画材屋の店主が色々教えてくれた。時間はかかるかもしれないけど、絵を描くことであれこれ考えるのは嫌いではない。
「楽しみだな」
少し見慣れてきたマリアの綻んだ顔は、イーサンの心をざわつかせる。
諦めることをしなくなったその瞳が、ピンと伸ばした背筋が、嫌わなくなった赤い髪が、どれほど美しく輝いているのかマリアは自覚をしていない。
そしてイーサンはいまだに臆病な子供のまま、マリアの背中を眺めている。
マーガレットは嫌われる覚悟をしろと言った。いまさら?長年自分を縛りつけていた言葉に抗い、その結果嫌われろと?恐ろしいことをサラッと言ったものだ。ようやく、ここまで近づけたのに、今度嫌われたらもう立ちなおれない。
手の止まっていたイーサンを見て「もう、お腹いっぱいなの?」とマリアが聞いた。「いや。……マリアの顔を見ていたら食べるのを忘れていたよ」と言って、果実酒を飲むイーサン。
「何言っているの」
マリアは少し顔を赤くして、サンドウィッチの最後のひと口を口に放った。一生懸命咀嚼して、ようやく一つ目のサンドウィッチを食べ終え、横に添えられたフルーツも一つ二つと食べたが、イーサンはまだマリアを見ている。
「私、食べ終わってしまうわよ?」
そう言ってイーサンの皿を見た。
「俺はほとんど食べ終わったよ」
イーサンの皿には、フルーツが残っているだけだった。
仕事柄早食いは得意だ。自慢にはならないが。
マリアは吃驚した顔をして、今度は「ゆっくり食べないとダメじゃない」と笑った。
溢れそうになる気持ちをさらけ出せば、この笑顔を手放すことになるかもしれない。またマリアを傷つけてしまうかもしれない。
そんなことできるわけがない。誰にだって触れてはいけない脆い感情がある。マリアには、イーサンのマリアに対する想いがそれなのだから、押しつけるわけにはいかない。どうすればいいのだろう。
「誰か教えてくれないだろうか」
思わずつぶやいた言葉に、「何を?」とマリアが小首を傾げたが、イーサンは情けない顔で微笑むだけだった。
読んでくださりありがとうございます。








