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珈琲という名の黒い液体

 ガッシュリードが緊張をした面持ちで、ドシアン公爵邸のドアの前に立った。そしてドアノッカーを握ろうとしたとき、ドアがスッと開いて中から執事のメルローが出てきた。


「スチュワート伯爵、お待ちしておりました」

「うむ」


 ガッシュリードが返事をしてうなずくと応接室に案内され、メルローがドアをノックすると、中から女性の声。

 ガッシュリードを待っていたのはマーガレット一人。


 夫人だけ?


「公爵閣下は?」


 思わず口を衝いてしまった。


「あら、私ではお話はできないかしら?」

「い、いえ、そのようなことはございません」

「ふふ、意地悪なことを言ってしまいましたね。実は、夫は急な仕事で明日まで帰ってこないのです」

「さようで」

「せっかくお呼び立てしたのに申し訳ないのですけど」


 マーガレットが頼りなげに微笑んだ。


「とんでもないことでございます」


 考え方によっては、この状況はこちらにとって都合がいい。


 ガッシュリードは、マーガレットの様子を盗み見した。可愛らしく優しそうな雰囲気に、頼りない佇まい。たとえ公爵夫人とはいえ、か弱い女性。やり手だとは聞いているが、自分だってそれなりに場数を踏んできた自負がある。こちらが有利に働くように話を運ぶことも難しくはないだろう。


 肌触りの良い革のソファーに、満面の笑みで深く腰を下ろしたガッシュリード。しかし、目の前に置かれたカップの中を見てギョッとした。紅茶にしては黒すぎる。それに、この香ばしい香りは?


 ガッシュリードのカップと同じように、黒い飲み物が注がれたカップに口をつけるマーガレット。


「とてもおいしいわ、ペニー」

「恐れいります」


 マーガレットに褒められた侍女のペニーは、表情を変えることもなく部屋を出ていった。

 今、応接室にいるのはマーガレットとガッシュリード。そしてドアの近くに執事のメルロー。


「ふふふ、スチュワート卿は甘いものはお好きかしら?」

「いえ、私はあまり」

「そう、残念ですわ」


 マーガレットはクスリと笑って、皿に置かれた小さな砂糖菓子を口にした。

 それからゆっくりとカップを口に運び、一口飲んでソーサーの上に置いた。


「そう言えば、スチュワート卿はパトロンとなって、芸術家の支援活動を行っていらっしゃるそうですね?」


 マーガレットがニコッと笑った。


「は、はい。芸術は心を豊かにしてくれます。そしてこれから羽ばたこうとしている若者を支援していくことこそが、我々の使命だと思っております」

「素晴らしいですわ」


 マーガレットが少女のような笑顔をして、胸元で両手を合わせた。


「スチュワート卿のような方が増えてくだされば、もっと素晴らしい芸術がこの世に誕生すると思いますわ」

「はい、私もそう思います」


 ガッシュリードは誇らしげに胸を張った。そんなガッシュリードを見て、マーガレットはハッと気がついたように手を叩く。


「もしよろしかったら、スチュワート卿も私たちのお仲間にならないかしら?」

「お仲間、ですか?」

「ええ。私たち、財団を立ちあげようと思っていますの。芸術家たちを支援することが目的の財団ですわ」

「財団」

「ええ、伯爵以上の貴族が中心となって作る財団ですの。いかがかしら?」

「なんと!ぜひ、参加させてください」


 まさか夫人からこのような申し出があるとは。


「うれしいですわ」


 マーガレットはニッコリとして黒い何かが入ったカップに口をつけた。そして、ガッシュリードのカップを見つめる。ガッシュリードはマーガレットの視線に気がついて、自分がカップに口をつけていないことに気がついた。


 すでに温くなった黒い液体の入ったカップ。いったいこれは?

 ガッシュリードはカップの中をジッと見つめていたが、意を決して黒い何かを啜った。


「グッ」


 口に含んだ次の瞬間、黒い飲み物を吹き出しそうになった。


「あら?スチュワート卿は珈琲があまりお好きではないのかしら?」

「こ、こーひー?」


 慌ててカップを置いたガッシュリードがハンカチで口を拭う。


「私の周りの人たちは、好んで珈琲を飲んでいますけど。そうね、特に男性はお好きな方が多いようですわ」


 マーガレットはチラッとガッシュリードを見た。


「ご存知なかったかしら?」

「え、このまずっ、いえ、珈琲をですか?」

「ええ、南のドルシャ王国から入ってきたもので、最近私のサロンでもお出ししているのですが、評判がとても良くて」

「そ、そうでしたか!初めて飲むもので、いや、お恥ずかしい」

「私こそ、説明もなしに申し訳ないことをしてしまいましたわ」

「とんでもないことでございます」


 珈琲は最近王国に入ってきたばかりの贅沢品。ガッシュリードが知らなかったとしても、特別恥ずかしいことではないのだが、マーガレットに首を傾げられると、自分が無知な人間だと言われているようで恥ずかしくなる。


「言われてみれば、香り高く上品な味わいですな」

「スチュワート卿は舌が肥えていらっしゃるから、きっと気に入ってくださると思っていましたわ」

「いや、はは、ははは」


 ガッシュリードは乾いた笑いをこぼすと、息を止めて一気に珈琲を飲み干した。


「まぁ、お気に召していただけたのでしたら、もう一杯いかがです?」

「いえ!もう、十分でございます」

「あら、残念ですわ」


 とんでもない飲み物だった。あんな苦いものをうまいという言う奴がいるなんて。





読んでくださりありがとうございます。

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