最初から
どこかで、マリアが自分から離れていくことはないと思っていた。たとえあのまま心が通い合わなかったとしても、マリアが自分から離れるはずがない、と。
違うな。マリアが自分から離れるなんてできるはずがない、そう思っていたんだ。
マリアに気を遣っているかのように振舞いながら、ずっとマリアを軽んじていた。
だから婚約の解消を訴えていると聞いたとき、信じられない思いだった。婚約破棄をされても仕方がないと思っていながら、そんなことをされるはずがない、とどこかで高を括っていたんだ。能天気に、怒ってほしい、なんてくだらないことを望んで。
そんな浅ましい自分に気がついたとき、心底自分が嫌になった。汚くて醜くてうわっ面だけの自分が情けなくて。
だから捨てられたのは自業自得。マリアの心に寄りそうことをしなかった傲慢な自分への罰。
「泣きやんだ?」
不意にマリアの声が聞こえてイーサンはハッとした。
「あ、……うん」
泣くなんて。慰められるなんて。
イーサンはうつむいたままマリアから頭を離した。
恥ずかしくて顔が真っ赤になっていることは鏡を見なくてもわかる。
「お茶を淹れなおさないといけないわね」
マリアはお湯を沸かすためにキッチンに向かった。チラッと見えたマリアの鼻が赤い。
こんなふうに二人が過ごすのは初めてでどうしたらいいのかわからない。
無駄に傷つけあう時間が長かったから、穏やかな時間はソワソワする。沈黙が続くと気まずくなる。
すると何かを炒める音と香ばしいガーリックの匂いがしてきた。
イーサンが吃驚して振り返るとマリアが料理をしている。
「……マリアが、料理、するのか」
なぜ今?と思うが、二人には少し時間が必要だ。気持ちを落ち着ける時間が。
少しするとマリアが戻ってきた。その手には、器からこぼれそうなくらいに盛られているガーリックとオリーブオイルと塩で炒めただけの大量のマッシュルーム。
「マリアが作ったの?」
「そうよ。今日、仕事から帰ってきたら作ろうと思っていたの」
「お腹、空いちゃったわ」と言いながら皿を二人の目の前に並べフォークを置いた。
「すごい量だな」
「私、マッシュルームが好きなのよ」
「そう、なんだ」
知らなかったな。
「おいしい」
そう言って微笑むマリアの鼻はまだ赤い。
「……うん、おいしいよ」
「よかった」
マリアはうれしそうに笑った。「私ね、オムレツを焼くのとマッシュルームを炒めるのは上手なのよ」と。「そう思うでしょ?」と聞いた顔がとても楽しそうだ。
また、イーサンの目に涙が浮かんでくる。なんだかいろいろと壊れてしまった。涙腺なんて決壊したまま修復もできていない。
「ごめん」
マリアの笑顔が眩し過ぎる。初めて見た。ずっとその笑顔が見たかった。
「本当に、ごめん」
再び流れる沈黙が、今度はイーサンに必要なものとなった。心を落ち着けて、涙を止めるためになんて情けない話だけど、いまさらそんなこと気にもならない。それくらいイーサンはマリアにみっともない姿を晒している。だけど、それがイーサンだ。
マリアが静かに口を開いた。
「イーサン、私たちもう一度最初からやり直せる?」
「……え?」
「イーサンが許してくれるなら」
「も、もちろんだ……!」
イーサンが立ちあがらんばかりに力を込めた。
「よかった」
マリアが頬を赤くする。
「私たち一番付き合いの長い知り合いだもの」
「……知り合い?」
「あ、知り合いっていう言い方はよくないかしら?友達?」
「……やり直すって?」
「出会ったときからやり直しましょ」
「それって、マリアが赤ん坊だったときのことを言っているの?」
「ええ」
本当に最初からか。
「私たち、婚約は破棄したけど、こうして話をする友達にはなれるでしょ?」
そうだよな。そんな都合のいい話はないよな。でも、それでもいい。
「俺たち、いい関係になれると思うよ」
鼻を赤くしたイーサンがうれしそうに笑った。
マリオとして絵を描くようになって数カ月。マリオの絵が人々に認知されるようになると、今度はマリオの絵を賞賛する人と否定する人で意見が真っ向から対立した。
見たままを描く絵は今の時代の主流で、マリオのような幻想や思考の世界を描く絵を受けいれ難い人も多い。
それに、その絵には仄暗い闇が見え隠れしていて、それも人々を拒絶させる理由の一つ。
しかし、マリオの絵を絶賛する人の中には、それがこれからの時代の絵だと主張する人も多くいた。今主流の絵は飽和状態。誰も彼もが同じような絵を描いていて、その先が見えない。美しい世界は誰もが求めるものだが、それだけが芸術と言えるのか?新しい時代が来ているのではないか?
そんな論争が繰り広げられているのだ。
そしてその話題の中心にいるマリアは、ひたすら絵を描き続け一切の雑音を遮断した。何にも心を揺さぶられないように誰もが細心の注意を払い、全員が完全武装でマリアの周囲に鉄壁を築いた。
メルニックに限らず力のある協力者たちが、悪意の声を潰し醜悪を垂れ流す紙を燃やした。
絵についてはともかく、マリオについてあらぬ噂を吹聴する者はことごとく潰されたのだ。
次第に余計な雑音は種類を変え、芸術とは、と声高に論じる暇な人たちだけが残った。
「私は平気ですよ」
マリアがニコッと笑ってそう言った。
自分の世界に入り込んでいたマリアが、周囲のピリピリした雰囲気に気がついたのは、エリオットが新聞を読んでいなかったから。
あまりの気の遣いように申し訳なくなったが、「いまさらだわ」と反省をした。
でも、過保護な周囲のお陰で、余計なことに気を取られることもなかった。
「何を言われているのか気になるけど、受けとめないことにしました」
「マリアちゃん」
「全部を受けとめたら立っていられないけど、すこしだけならきっと大丈夫です」
自分が誰に何を言われているか、気にならないでいられる人は多くはいないだろう。ましては、マリアはこれまでたくさんの傷を作ってきた人だ。耳を塞ぐことはできても、すでに耳に入ってしまった言葉を気にしないでいることは難しい。それでも、マリアはそれをしようとしている。
「無理をしなくていいんだよ」
エリオットは心配そうな顔をしているが、マリアは首を振る。
「大丈夫です。私、一人じゃないから。だから、平気なんです」
マリアを守ろうとしてその力の限りを尽くしてくれる人がいる。マリアには味方がいる。だから、大丈夫。
「私の絵が気に入らないなら、その人たちが目を閉じればいいんです」
「……うん、そうだね」
「だから、おじさんも私に遠慮なんてしないで新聞を読んでください」
そう言ってマリアがクスリと笑った。
「私はもう、耳と目を無理に閉じることはしません」
「その意気です。マリア嬢の絵はマリア嬢のもの。あなたはあなたの絵に責任を持てばいい。人が絵を見て湧く感情に対して責任を負う必要はない。その感情はその人のものだ」
メルニックがうなずいた。マリアも笑ってうなずいた。
「でも、私が苦しくなったら助けてください」
「もちろんです」
今のマリアには手を差しのべてくれる人たちがいる。マリアの言葉に耳を傾けてくれる人たちがいる。
だから頑張ってみようと思う。もう一歩前に進んでみようと思う。
読んでくださりありがとうございます。








