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今のマリアが思うこと

 覚悟を決めたのはイーサンだった。


「俺とは二度と話をしてくれないと思っていた」

「……」


 イーサンを好きか嫌いかと聞かれれば、それはマリアにもわからない。ただ、イーサンが憎いのかと聞かれればそれは違う。でも、心臓の奥のほうでくすぶって、吐きだせば止まらない洪水のような言葉が、今か今かと出番を待っているのはわかる。

 しかし、それを吐きだすことは今のマリアにはできない。感情的に話をするには、ずいぶんと時間がたってしまったし、今の自分には見えているものがある。少なくとも、何も見ないようにしていたころのマリアではない。


「悪いことをしたと思っているの?」

「思っている。俺は、……浮気をした。マリアに嫌なものを見せた」

「……」


 嫌なものって、相手の令嬢に失礼じゃないかしら?確かに気分のいいものではなかったけど。


「マリアを守らないといけないのに傷つけた」

「それから?」

「マーロンとの関係を怒った」

「そうね、それで?」

「俺に秘密にしていることがあると怒った」

「そんなこともあったわね。ほかには?」

「マリアが使わないのにアクセサリーを贈った」

「あとは?」

「……何着もマリアが着ないドレスを贈った」

「それで?」

「…………君が描いたお気に入りの絵を、欲しいってわがままを言って貰った」

「それと?」

「…………」


 イーサンは必死で自分の悪いところを探している。きっと何かあるはずだ。マリアが聞きたいのは、この程度ではないはず。もっと悪い何かが。

 するとマリアがクスクスと笑いだした。必死に言葉を探しているイーサンが少しだけ気の毒で、少しだけ面白い。


「私ね、ずっとイーサンの幸せを願っていたわ」

「……」

「ずっと浮気男の幸せを願っていたの」

「……」


 イーサンが口を開きかけてやめた。きっと音にするなら「ごめん」だろう。


「今なら、そのときの私はおかしかったのだとわかる。自分を裏切っている人の幸せを願うなんて、そんなバカなことをするのはやめなさいって言えるわ。そんな裏切り者なんて、頬を叩いて最低って言ってやりなさいって言える」


 イーサンは、少し泣きそうな顔で眉尻を下げたが、マリアから目を逸らすことはしなかった。


「でもね、そのときは、イーサンの幸せを願うことで、許されるような気がしていたの。こんな私と婚約をしている、かわいそうなイーサンの幸せを願えば、救われるような気がしていた。……本当は本気でそんなこと願ってなんかいなかったかもしれない。ただの口癖だったのかもしれない。自分が救われたいだけだったかもしれない。自分勝手だったかもしれない」

「マリアは自分勝手じゃないよ」

「……ありがとう。今ならその言葉を素直に聞けるわ。でもあのころの私はそうじゃない。私を貶めることで幸せになる人たちのために、私は自分自身を貶めていた。そうすることが私の役割のように感じていたの。顔を上げて胸を張れば、それだけで私は変われたのに、わざわざ地味な私になる努力をして。私なんてっていう言葉を、呪文のように繰りかえして」

「それは、仕方のないことだろ?マリアは、そう思い込むような環境にいた」

「そうかもしれない。そのときは、それしか考えることができなかったから。でも、もし苦しいって言えたら、イーサンはあんなことをしなかったのかなって思うの」

「……」

「浮気は許していないわよ。本当は嫌だったんだから。あんなのを見せられて、本当に最悪だったんだから」


 マリアを見つめるイーサンの目が少し大きく開いた。


「でも、そう感じるようになったのはずっとあと。あのころは、それさえ、仕方がないって思うだけだった。私が婚約者なのだから仕方がない。……おかしいわよね?」


 普通ならイーサンを怒るはずなのに、マリア自身が悪いと思うことですべてを完結していた。そう思うことで、傷が浅くなった。


 きっと言えばよかったのだ。心の奥のほうで叫んでいる声を、音にすればよかったのだ。怒って泣いて叫んで叩いて、そうすればイーサンはマリアの声を聞いてくれた。声にはならない声かもしれない。それでもイーサンはきっとその声を探し、見つけだしてくれた。きっとそうしてくれた。

 だけど、それをしなかった。できなかった。


「最低って言って頬を思いきり叩いてやればよかった」

「うん……」

「あなたなんて大嫌いって言ってやればよかった」

「……うん……」


 でも、そうしていたら。



 今の幸せはなかったかもしれない。




 気持ちは吐きだせても、今のマリアのようには生きられなかったはずだ。

 屋敷に閉じこもって一人で絵を描いて、静かに暮らしていたかもしれない。パーティーで壁の花にならなくても、好奇の目に晒される苦しみを味わっていたかもしれない。流されるように公爵夫人として生き、ジワジワと別の苦しみを味わっていたかもしれない。


 でも、そうはならなかった。


「イーサンのお陰って言っていいのかしら?私は公爵夫人にならないで済んだわ」

「……」


 イーサンがうつむいて拳を握りしめている姿とは反対に、マリアの心はとても静かで、イーサンを傷つけたい醜い感情が湧いてくる。


 私はなんて底意地の悪い女なのかしら。あなたが浮気をしてくれたお陰で、私は自由よ、と言っているのだから。


 そして、次の瞬間にはそんな醜い自分に対する嫌悪と後悔がやってくる。人の感情はなんて忙しいのだろう。それなのに、こんな感情でさえ愛おしいと感じてしまう自分は、やはりまだどこかがおかしいのだ。


「だからね、あの苦しむ時間は私に必要なことだった」

「そんなこと、あるわけがない。苦しむ時間が必要なことだったなんて、あるわけがないじゃないか」


 その苦しむ時間に加担した自分が言えることではない。それはわかっている。悔いて悔いて、なぜ自分にはそんなことしか考えられなかったのだと後悔して、取りかえしのつかない行為に罪悪感で苦しむ図々しく愚かな自分に嫌悪した。それなのに、マリアはその時間が必要だったというのか。


「あの苦しみは私が飛びだすために必要な時間だったの」


 とても長い時間だったし、もしあの苦しみをもう一度味わえと言われたら、きっとマリアは狂ってしまう。次は絶対に耐えられない。あんな時間は一度で十分だ。

 だけど、そのお陰でマリアは凝りかたまった考えから抜けだすことができた。屋敷を飛びだして心が傷を癒しはじめたら、見えていなかったものが見えてくるようになった。

 マリアを愛してくれていた人たちの姿だ。


 そして、マリアを愛してくれていた人たちを傷つける自分の姿も。


 拒絶される苦しみを知っているクセに、拒絶した。優しさを受けとらず、思いやりを拒んで、愛をくれる人が傷ついていることにも気がつかずに、愛を踏みにじっていた。


「私、イーサンをちゃんと見ていなかった。見ようとしていなかったし、見る勇気もなかった。……今はまだしっかり自分と向きあえていないから、全部をわかっているわけではないけど、あなただけを責めるのは違うっていうことだけはわかっているの。自分を見てもらえないことが辛いことだって知っていたのに、認めてもらえないことが悲しいことだってわかっていたのに、私はそれをイーサンにした。私がイーサンを苦しめていたことも、私がイーサンを傷つけていたことも、今ならわかるの」

「……」

「だから、私も、ごめんなさい。イーサンを傷つけて、ごめんなさい。さっきも、意地悪な言い方をして、ごめんなさい」

「……」

「やぁね、イーサン」


 マリアが立ちあがってイーサンの横まで行き、きれいな金色の髪を抱きしめた。


「泣かないで」






読んでくださりありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[一言] 神回ですね。 マリアがイーサンに、これまでの気持ちを伝えられるまでになったとは。
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