久しぶりの二人
兄弟たちはジョアンナに家を追い出され、家にはマリアとイーサン、そしてジョアンナ。そのジョアンナも、お茶の準備だけすると、さっさと二階に上がってしまい、ダイニングにはマリアとイーサンだけ。
「元気にしていた?」
気まずい沈黙を破ったのはマリア。
「ああ。マリアも?」
「ええ」
「……」
こんなとき、いつも話をするのはイーサンだったのに、うまく言葉が出てこない。
「……あの、マリア、すまなかった」
「何のこと」
「君の友人を殴って」
「……」
今回のことは兄弟たちが仕掛けたことだが、そもそもイーサンがマリアの周りをウロウロしていたのが悪い。
「私じゃなくて、彼らに謝って。それに友人じゃなくて兄よ」
「謝る、ごめん。……それで、兄っていうのは」
そこがずっと気になっていた。
「兄のように慕っているってこと。四人ともジョアンナの息子。私の大好きな人たちよ」
「そうか、本当に申し訳ないことをしたな……」
イーサンの大きな体がずいぶんと小さく見える。
「いったい、私の周りで何をしていたの?」
スノウがマリアの周りをウロウロしている人がいると言ったとき、ゾッとする恐怖を感じたのに、それがイーサンだったと知ると腹が立ってきた。
「マリアがどうしているか気になって」
「それで、私のことを見張っていたの?」
「見張っていたわけじゃ」
「私たちはもう他人なのよ。それなのに周りをうろついていたら、あなたは変質者よ」
「……すまない」
マリアは溜息をついた。
「もうこんなことはしないで」
「わかった」
イーサンはさらに背中を丸めた。
「私ね、今の生活が楽しいの。これまでの人生が本当にもったいなかったと思うくらい、素晴らしい毎日を過ごしているの。これまでの人生はなんだったのかと思うくらいよ」
「……すまない」
マリアは思わず言葉を強めてしまった。こんな言い方は子供っぽかったかもしれない。
見栄を張りたいわけじゃない。本当にマリアは幸せな時間を過ごしている。これまでにないくらい素晴らしい毎日だ。
だけど、それをイーサンにわざわざ言う必要はあるのだろうか?イーサンには幸せになってほしいと願っていたはずなのに。それなのに、なぜ、自分は幸せだと言葉を強くする必要があるのだろうか?
自分の心がわからない。これまで、もしイーサンに会ったら自分はどう感じるのだろうと思っていた。仲直りするのだろうか、それとも罵るのだろうか?
だけどこうして本人を目の前にすると、複雑な感情が渦巻いて、うまく言葉で表すことができない。
「結婚をするんでしょ?」
「……しないよ。俺は」
「そう」
イーサンにも事情があるだろう。貴族間の結婚は政略結婚が当たり前なのだから、そこに恋愛感情など関係はない。恋愛感情などあとからついてくればそれでよし、といったところだ。
それに今のマリアにはイーサンのそんな事情は関係ない。
「ごめんなさい。私が口にしていい話ではなかったわ」
「……いや、……そんなことはない」
マリアは多めの砂糖とミルクを紅茶に入れた。
イーサンはそのあいだ、家の中を眺めていた。何が気になるわけでもない。ここにマリアがいることが不思議で仕方がない。
「国境に行っていたの?」
少し冷めた紅茶を口に含んだマリアが、イーサンをジッと見つめる。
「……ああ」
「戦地には行かない約束じゃなかったの?」
「今は、もうその約束は反故になった」
「なぜ?」
「もう、後継者ではなくなったから」
「え?」
戦地に向かうひと月前。次期当主の座を弟のブルースに譲ると父に言った。
反対はされなかった。婚約者もいないし、この先結婚をするとも思えない。自分の軽率な行動でずいぶんと公爵家の名前に泥を塗ったし、自分は次期当主には相応しくない。
ブルースは婚約者もいるし、いずれは伯爵位を継ぐ予定だった。それが公爵位に変わるだけ。
それにブルースはイーサンを反面教師にしたのかとてもまじめで、それが良いという女性も多く人気が高い。とても賢く次期当主として申し分のない男だ。
「ブルースに任せれば安泰だしな」
マリアが婚約を解消したいなんて言わなければ、そんなことにはならなかったのかもしれない。なんて気に病む必要はないか。
「そう。それならよかったわ」
マリアは表情もなくカップに口をつけた。たっぷりのミルクと砂糖の甘さが心を落ち着かせてくれる。
イーサンがおずおずと口を開いた。
「仕事は、どう?順調?」
「ええ。お陰様で」
イーサンがホッとした顔をした。
「まさか、写本の仕事をしているなんて思わなかった。それに、絵も描いているなんて」
「挿絵のこと?」
「ああ、それもそうだし」
マリアは答えてくれるだろうか?
「マリオの絵も」
「……」
マリアは目を見開いて、それからクスクスと笑いだした。
「やっぱりわかっていたのね」
「マリアの絵は何度も見ているからね」
「芸術祭で二枚も買ってくれたのよね。ありがとう」
「本当は全部買いたかったんだ」
「その気持ちだけでうれしいわ」
「素晴らしかったよ。母さんがとても感激していて、マリアの絵だと思うって言ったら、すごく驚いていた」
自分が泣いてしまったことは秘密だ。
「サロンに飾りたいから譲ってくれって言ってさ。金まで払おうとするから断った」
「え?」
「あとで返せとか言われないためにだって」
イーサンの気が変わって取り戻そうとされても困ると言って、買った金額より多く払おうとしたマーガレット。もちろんそれは断ったが。
「サロンでの評判もいいらしい」
「うれしいわ」
たとえそれが、縁故や懐旧の情によるものだとしても、素直にうれしいと思う。
マリアにとってマーガレットはアナベルよりよほど母と慕っていた関係だったし、今でも会えるものなら会いたいと思っている。マリアが家を出たことで、それも今は叶わないが。
「絵を描くのは楽しい?」
「ええ。とても楽しいわ。写本の仕事も楽しいし、今、本当に楽しい」
「そうか。それは良かった」
イーサンがうれしそうに笑う。作られた美しい笑顔ではなくて、素直に喜んでいる、そんな笑顔。それなのに、マリアの顔はきっと引きつっている。
「……」
「……」
ぎこちない会話。何を話すべきか、どう切りだすべきか探りあう、そんな空気。それが今の二人の距離。
二人のあいだにしばらくの沈黙が流れた。
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