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マリオの絵

 マリアが一枚の絵を仕上げるのに一日もかからない時もあれば、一週間以上かかることもある。

 小さい絵もあれば大きな絵もある。

 物語のように男女を描くこともあるし、なんてことのない農園を描くこともある。

 ただ、マリアの絵は常に人々とは違う。今主流となっているのは、目に見えるありのままを描く絵だが、マリアの絵は想像の世界。神秘の世界のようで闇の世界のようで。

 なぜなら、物語の主人公のように笑い合う男女の絵は、二人の未来は輝いているかのように美しく描かれているのに、よく目を凝らせば、男女の背後に悲しみと絶望の涙を流している人々が見える。

 なんてことのない農園は、手前のほうは豊かに作物が実っているのに、遠くのほうは黒くなっている。よく見れば、作物が枯れ土地が朽ちているのだ。

 それに天使たちが楽しそうに過ごすその下のほうが赤い。


「本当に面白い。あなたの作品は何度見ても興味が尽きない」


 リベナの二階、マリアの作業場。今日は仕上がった絵をメルニックに納品する日。

 メルニックは、完成した数枚の絵を見ては感心の溜息をついた。芸術祭で展示した絵もそうだったが、マリアの絵はただ美しいだけではない。


「絵はこんなに美しいのに、黒い感情がほんの少し顔を出している」

「……変ですか?」

「いいえ、まったくそんなことは思いません」


 むしろ、天才と言ってもいいくらいだ。


「ただ、危険な絵でもありますね」


 狂気を孕んだ絵だ。この絵の一歩先には闇が見える。それに、今主流となっているのは、目に見えるものをそのまま描く絵。細部まで見たままを描くことが素晴らしいと評価されていた。マリアの絵はそうではない。見たこともない景色と美しさ、そしてなんともいえない仄暗さが共存している。まったく、今主流となっている絵ではないのだ。

 しかし、見たままを描く絵はすでに飽和状態。人々はすでに飽きている。だからこそ、この闇を孕んだ危うい絵が、人々の好奇心を刺激するはず。実際に、その刺激を受けてさらなる刺激を求めている人がすでにいるのだ。


「……後ろの人々を消したほうがいいですか?」

「いや、このままで」

「え?」

「これは後ろの人々がいなければただの男と女です」

「そうですね」

「後ろの人たちの苦しみの涙がなければこの絵は完成したとは言えない」


 マリオは絵には一切の解説を入れない。だから、見た人が感じるままに絵を捉える自由がある。男女の幸せな未来が、他人の苦しみや悲しみの上に成り立っているといいたいのか。はたまた、苦しみがあるから輝かしい未来があるといいたいのか。


 私なら前者をとるが。


 悲しみにゆがんで絶望する姿などない、美しい絵を望む人はもちろんいるだろうが、それはマリオの絵ではない。それに、これから先、人々の望む絵が変わっていけば、その絶望さえも美しいものに変わっていくだろう。そして、その絵に何が潜んでいるのか探ることも、これからの絵の楽しみ方になっていくのかもしれない。


 農園の風景もそうだ。作物が実っているのは見えている部分だけ。遠くに枯れた作物が見えるその風景にこそ意味がある。

 天使たちが楽しく過ごすその絵には、そんな狂気は描かれていないかと思えば、天使たちが飛んでいる下のほうに赤い水たまりのようなもの。それが血だまりを意味するならずいぶんとちぐはぐだ。


 彼女の目には何が見えているのか。闇を孕む絵を描くマリアの心が、闇に染まっているわけではない。だからといって美しいものだけが、彼女の心を埋めつくしているわけではない。感情表現の乏しかった彼女の心を表すのがこの絵なのだ。言葉にはならない激しい感情がこうして絵にあらわれているのだ。


「これがマリオの絵です。あなたは思うままに描けばいい。その後のことは私に任せてください」


 メルニックの言葉にマリアは小さくうなずいた。


 マリオの絵の価値を上げるには、まず高位貴族に所蔵してもらう必要がある。しかも芸術の世界に精通していて、それを価値あるものと一言いえば皆がうなずくほどの影響力を持っていればなおよい。例えばマーガレット・ドシアン公爵夫人のように。


 メルニックの頭の中に有力な貴族が数人浮かぶ。その中にはマリアの父である、デヴィッド・パルトローの顔もある。彼なら、無条件で宣伝をしてくれるだろう。


「メルニック様。とても悪いお顔をなさっていますわ」

「ははは、酷いですね。私は至って普通ですよ。ですが、面白いことを考えているときは、こんな顔になってしまいます」


 面白いこと?どう見ても悪いことを考えている顔だわ、とマリアは心の中で呟いた。


 メルニックが侍従に絵画を運び出させ、ニコニコしながら去っていくと、マリアはホッと一息ついた。ようやく少し時間が取れる。しばらくは写本だけをしようと決めている。


「お疲れさん」


 メルニックを見送り店内に入ってきたマリアを、エリオットが優しい笑顔で労った。


「ありがとうございます。おじさんのお陰です」


 写本の仕事より、絵を描くことを優先させることに喜んで賛成をしてくれたエリオットには感謝しかない。これからも迷惑をかけると思うと心苦しいが、「君の成長を見ているのが楽しいんだよ」と背中を押してくれている。


「帰るのかい?」

「今日は兄さんが迎えに来るから、それまで待っていようと思います」

「そうかい、それならお茶でも飲もうか」

「はい」


 まだ日は高いし、人通りも多いが今日はスノウが迎えに来るらしく、入れ違いにならないように待っていないといけない。


「なんで迎えに来るのかわからないのです」

「ははは、心配なのだろう」

「私は頼りないのかしら?」

「そうじゃないよ。でも、一人で歩いていたら変な奴らに絡まれるかもしれないからね」


 そう言って淹れたばかりのお茶をすする。


「マリアちゃんがここで働くようになってずいぶんとたつね」

「はい、そろそろ二年になります」


 不安と緊張で手が震えていた初めのころが懐かしい。まさか、あのころは挿絵以外で絵を描くことになるなんて思いもしなかった。


「それに、ずいぶんと自信がついたようだ」

「はい」


 無表情の仮面のような顔から、少しずつ感情が表に出るようになったのは、ボランティアに参加するようになってから。自分にできることがあって自分のやることに感謝をされて、褒めてくれる人がいて。

 侯爵家を出て、血のつながらないジョアンナと四兄弟が家族のように温かくて、人の目も気にせずに仕事ができて、絵を認められた。


 こんな素晴らしい環境にいなかったら、いまだにマリアは仮面を着けたままだったであろう。

 少し思い出に浸ってクスリと笑った。


「今が、人生で一番楽しいです」

「それは良かった」

「……だからでしょうか、最近は父のことをよく思い出します」

「……そうかい」


 デヴィッドの顔を最後に見たのは家を出る日の朝。

 とても疲れた顔をしていた。何度もマリアに謝り最後は「頑張るんだぞ」と言ってくれた。

 マリアの今の生活を支えてくれているのはデヴィッドだ。それに、マリアのために色々と手を尽くしてくれたことを、昨日のことのように思い出す。

 かわいいドレスを用意してくれて、誕生日パーティーを開こうと言ってくれた。本を買ってくれて、マリアの頭をなでてくれた。どんなに拒絶してもマリアを気にかけてくれていた。


「父は私のことをとても心配してくれていたのに、私は無関心を装って気がつかないふりをしていました」

「……」

「とても傷つけてしまいました」

「後悔をしているのかい?」

「……」


 マリアはコクリとうなずいた。


「私が父を追いつめていたと思います」

「……そういうときもあったかもしれないね」

「父の望むような娘にはなれませんでした」

「そんなことはないと思うよ。マリアちゃんの父君は、君の幸せを願っていたんだ。ただ、マリアちゃんの幸せがなんなのかわかっていなかっただけ。だから互いに間違えてしまったんだよ。きっと、今の幸せそうなマリアちゃんの姿が、父君の望んでいる娘の姿だと思うよ」

「そうでしょうか?」

「気になるかい?」

「……はい」

「それなら、いつか聞いてみたらいいよ」

「……」


 聞けるだろうか?父はこんな自分を本当に望んでくれたのだろうか?


 答えを知るのは少し怖い。






読んでくださりありがとうございます。

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