その後のパルトロー侯爵家
パルトロー侯爵邸から笑い声が聞こえなくなってから、ずいぶんとたった。
当主であるデヴィッドは仕事ばかりしていて、家族との時間を取ることもなく、ときどきデヴィッドの執務室に顔を出すアナベルとは喧嘩ばかり。
ジュリエンは、次期当主として厳しい教育を受けているが、思うように進まず教師が大きな溜息をつき、そのたびに、ジュリエンはアナベルに泣きついて、ついには教師をクビにした。
そして、アナベルは「かわいそうなジュリエンに、もっと目を向けてあげてちょうだい」とデヴィッドに言い、「次期当主がその程度の勉強で音を上げてどうする」とデヴィッドに一蹴されれば、目くじらを立てて「あなたが愛情を持って接してあげていればこんなことにはならなかったのです!」と喚く。
最近のパルトロー侯爵家は常にこんな感じだ。
食事で席を共にしても、会話もないし目も合わせない。それに最近デヴィッドは、屋敷に帰ってこないこともある。アナベルが、そんなデヴィッドの浮気を疑うのに、そう時間はかからなかった。
ついに我慢がならなくなったのか、アナベルがテーブルを思いきり叩いた。
「何をしている!アナベル?」
アナベルがテーブルを叩いたせいでスープが飛びちった。しかし、アナベルはデヴィッドの言葉を無視した。
「あなたはここ数日どこにいたのです?」
「何?領内の道を整備するために、業者と会うと言ってあっただろう」
「そんなことに三日もかかるのですか?」
「そんなこと?」
「打ち合せなんて、屋敷ですればいいではないですか?」
「くだらないことを。現場の状況も見ずに、どうやって打ちあわせをするのだ」
「そんな都合のいいことを言って、本当に打ちあわせをしていたのですか?」
アナベルは顔をゆがめて、デヴィッドを睨みつけた。
「……君が何を言いたいのかはわからないが、それはジュリエンに聞かせる話なのか?」
デビットの言葉にアナベルはハッとしてジュリエンを見た。驚いて目を見開いているジュリエンの瞳が揺れている。
「あ、ジュリエン。違うのよ。お父様があまりに忙しそうにしているから、心配になっただけなの」
慌てて取りつくろうアナベルをチラッと見たデヴィッドは溜息をついて、半分以上料理を残したまま席を立った。
「今日も、忙しいから帰ってこられるかはわからない。そのつもりでいてくれ。それからジュリエン」
デヴィッドはジュリエンを見つめた。
「はい」
「次期当主の自覚があるなら、勉強くらいで泣き言など言うな」
「……はい」
そう言うとデヴィッドは食堂を出ていった。
その後ろ姿を睨みつけるアナベルと、そんなアナベルを見つめるジュリエン。
最近のパルトロー侯爵家は常にこんな感じだ。
マリアが画家として絵を描きながら写本の仕事を続ける決心をしたとき、皆が喜んでくれたしジョアンナは目に涙を浮かべていた。
写本の仕事を辞めなかったのは、ただ単に書写することが好きだから。字を追っていると心が落ち着くし、集中することができる。だから辞めることは考えられなかった。
メルニックもそれで構わないというから、これからもリベナの二階で絵を描きながら写本をするつもりだ。
「芸術祭で売れた絵ですが、なかなか評判が良いようです」
「え?」
とある高位貴族の夫人が、自身のサロンに飾ったマリオの絵を絶賛し、その影響を受けたほかの貴族たちが購入を検討しているらしい。その高位貴族の夫人のサロンには、著名な芸術家の作品が多く並んでいて、収集家のあいだでも有名な人だそうだ。
「その夫人とは」
「ドシアン公爵夫人です」
「……おば様が……」
それなら、マリアの絵だとわかっていて飾ってくれているのだろうか。
「でも勘違いをしてはいけません。あなたの絵だからサロンに飾っているわけではありませんよ。ちゃんとマリオの絵を評価してくれているのです」
「はい」
「ドシアン公爵夫人は、芸術品の収集家として有名な方ですから、目もとても肥えています。価値のないものを手にするような方ではないのです」
それでも、本当にそれだけとは思えない。
「運も、人脈も才能です」
「……」
「才能は使わないと」
メルニックはニヤッと笑った。
「それに、あなたのお父様も」
「父が?」
「ええ、全部買うと言ってくださっていますよ」
「そうですか、父が」
家族の中で唯一マリアの味方だったデヴィッド。今の生活を支えてくれている理解者でもある。
「父には、私からプレゼントします」
「……それが良いでしょう」
メルニックとデヴィッドは、元々それほど親しい関係ではない。デヴィッドには芸術品を収集する趣味はないし、まじめで派手な遊びもしない。そのため、メルニックと関わることはほとんどなかった。
それが、突然メルニックから会って話をしたいと言われ、最初は何か売りつけられるのか?と警戒をしたらしい。いったいメルニックにどんな印象を持っているのやら。
そして、メルニックからマリアの話を聞くと、デヴィッドは大粒の涙を流した。貴族としてあるまじき姿だが、彼にはこらえきれない何かがあるのだろう。想像に容易いが。
マリアには絵の才能があり、自分はパトロンとして彼女を支援していくつもりだ。だから、何かあったときには助けてほしい。
味方は多いほうがいい。力があればなおのこと。
デヴィッドは「私にできることは何でもします。どうか、マリアをよろしくお願いします」と頭を下げた。
「あの子は何もできないと思っていました。感情を表には出さないし、部屋に閉じこもっていて、人と関わることを嫌がっていましたから。でも、仕事を始め、絵の才能を認められ、こうして羽ばたこうとしている。……私はあの子の何を見ていたんでしょうね」
マリアはすべてを拒絶する。そう思っていた。だが、これまでのことを思いかえしてみて、彼女が拒絶していたのは、令嬢らしさを求められることだけだった。
きれいなもの、可愛いものを拒絶していたが、デヴィッドが買いあたえた本は素直に受けとっていた。顔に変化がなかったから、喜んでいるのかはわからなかったが、いつも「ありがとうございます、お父様」と言っていた。
マリアの十二歳の誕生日に、画材をプレゼントしたのはデヴィッドだ。マリアが本格的に絵を描き始めたのはそれからだと思う。それも数年で描くのをやめてしまったが。
そうだった。マリアは絵を描くのが好きだった。
画材を初めて目にしたときの、あの少し見開いてキラキラと輝いた顔を、なぜ自分は忘れてしまったのだろう。なぜ、自分はマリアに令嬢らしさばかりを求めたのだろう。可愛いドレスも、賑やかなパーティーもマリアには必要なかったのに。
そうポツポツと話すデヴィッドを見つめながら、哀れな人だとメルニックは思った。
互いに言葉が足りず、恐れてぶつかり合うことができなかった結果がコレ。どんなに傷ついても必死になって向きあえばよかったのだ。それができるのは唯一親であるデヴィッドだけだったのに。
マリアを追い詰めたくなかったのはわかる。自分まで、マリアと衝突すれば彼女の逃げ場がなくなってしまう。
だが、本当に彼女はそんなに弱い人間だったのだろうか。少なくとも自分の足で立とうと決断する勇気のある人だ。
マリアの叫びを聞き、己の胸の内を晒せば、何か見出せることがあったはずなのだ。
「生きているんだからやり直せますよ。少なくともあなたは、マリア嬢の成長を見守ることができる」
読んでくださりありがとうございます。








