古い記憶
短めです。
メルニックの後ろ姿を見送るイーサン。
「イーサン様?」
ハンナに声をかけられてハッと気がつき、申し訳なさそうな顔をしたイーサン。
「スチュワート嬢。待ってくださりありがとうございます」
「いえ。いいお買い物ができて良かったですね」
ハンナはニコッと笑った。
「ええ」
「でも、驚きました。突然二点もお買いになるなんて」
「ああ。あの絵がとても気に入ったので」
売約済みの紙が貼られた絵をジッと見つめる。
あれは……。
「イーサン様?」
「あ、ああ、すみません。そろそろ行きましょう」
後ろ髪を引かれる思いで歩きだしたイーサンは、芸術祭の会場を抜けるまで辺りを見ては、無意識に周囲の人たちの中に何かを探していた。何か、いや、誰か、が正しいか。
会場を出て大通りを歩きだした二人。
「お腹は空いていませんか?」
「あ、はい。少し」
「では、どこか店に入りましょう」
屋台はたくさん出ているが、さすがに食べ歩きはできない。
「何か食べたいものはありますか?」
「いえ、特にはないのでイーサン様のお好きなもので」
「それなら、近くにおいしい海鮮料理の店があるのでそこにしましょう」
そう言って、イーサンが何度か行ったことのあるレストランに向かって歩き始めた。ハンナの手を取って。
ハンナがその手を見つめ、小さく笑って顔を上げたとき、突然イーサンが立ち止まった。驚いたハンナが「イーサン様?」と言ってイーサンを見上げると、イーサンが目を見開いて何かを目で追っている。
ハンナがその方向を見ると、赤い髪の女性が遠くに見えた。
イーサンが後を追うように体の向きを変えたとき、ハンナが思わずイーサンの腕を引っ張った。
「イーサン様!」
驚いたように振り返るイーサン。
「あ……」
イーサンはハンナの顔を見て、それから赤い髪の女性のいたほうを見たが、すでにその姿はない。
「……どこへ、行くのですか?」
ハンナが顔を少しゆがませて笑う。
「……すみません。知り合いに似ている人がいたから」
「……」
「……お腹、空きましたね」
イーサンは引きつった笑顔をハンナに向け、それからハンナの手を引いてレストランに向かった。
押し黙ったままのイーサンは、眉間にシワを寄せ、さきほどまでの優しい顔などどこにもない。そして、そんなイーサンを見上げているハンナに気がついて、整った笑顔を向けた。
「……」
イーサンがハンナを連れて入った店は、最近王都で人気の海鮮料理をしてくれるお洒落なレストラン。料理は、どれを食べてもおいしいし、大市で賑わっている通りの反対側にある中庭のテラスは静かで、風が気持ちいい。
それなのにイーサンの前に座るハンナは、食事があまり喉を通らないようだ。イーサンもまた、普段の半分も食べてはいない。
「あまり好きな料理ではなかったかな?」
イーサンが申し訳なさそうな顔をした。
「い、いえ。そのようなことはありません。ただ、胸が、胸がいっぱいで。……すみません」
ハンナは眉をハの字にして笑ったが、なんとなくその顔は曇って見えた。
「今日はとても楽しくて、少し張りきり過ぎてしまいました」
「疲れましたか?」
「ええ」
「……では、これを食べたら今日は帰りましょうか」
「……はい、そうします」
ドシアン公爵邸にマリオの絵が届いたのは、それから一週間がしたころ。
屋敷に届けられた絵を見ても、マーガレットは誰の絵なのかはわからなかった。マリオなんて名前は聞いたことがないし、今どきの絵でもない。
ただ、何となく知っている感じのする、懐かしい色使いや描き方だと思った。
それに、幸せな風景なのに背景が赤紫という、ちぐはぐさ。美しい世界にそっとおかれた仄暗さ。
絵を見て、形容しがたい感動に言葉を失ったマーガレットは、イーサン宛てに手紙を書いた。すぐに戻ってきて、絵について説明しなさい、と。
屋敷に帰ってきたイーサンは、絵を見てそのまま自分の部屋へと駆けこみ、それからしばらく出てこなかった。
マーガレットが心配になって部屋の前に行くと、閉まったドアの向こうからくぐもった嗚咽が聞こえる。殺しきれないその声が、まさかイーサンのものなんて信じられない気持ちだったが、疑う必要もない。
マーガレットは、声をかけることもできないままその場を離れたが、イーサンが部屋から出てきたのは夕方になってから。
真っ赤にはらした目が何を意味するのかはわからなかったが、握りしめた古い絵がそれを教えてくれた。マリアが幼いころに描いた絵だった。
読んでくださりありがとうございます。








