マリアの絵に求めるもの
「マリアちゃん」
エリオットの呼び声が聞こえて、ハッと顔を上げた。
「おじさん」
マリアの横で、困った顔をしているエリオットに気がついて、慌てて時計に目をやる。
すでに夕方の四時。
「昼食を食べに行くんじゃなかったかな?」
そういえば、もう少しで完成するからと筆を動かし続けて、今は新しい絵に取りかかっていた。
「……すみません、忘れていました」
エリオットがランチを持って来るようになってから、マリアは店番をすることがなくなった。忙しいマリアのための配慮だが、エリオットは失敗だったなと思っている。
「マリアちゃん。頑張るのはいいことだけど、食事は取らないと」
「はい、すみません」
マリアが仕事に夢中になって、昼食を取り忘れることなんて毎度のこと。それなら、ランチを持って来ればいいと思うが、作業場に籠りきりのマリアが気分転換できるようにと、家に帰るようにしているのだ。結局昼食を取り忘れるのだから、まったく意味はないのだけど。
「最近顔色が悪いよ。ちゃんと寝ているかい?」
「寝ていますよ」
「でもねぇ、女の子が目の下にクマを作ってはいけないよ」
「す、すみません」
書きたくて描きたくて、いつまでも筆を握ってしまう。
「メリハリ、大切だよ」
「メリハリ」
「一生懸命仕事をして、しっかり休む」
「はい」
エリオットはニコッと笑った。
「とにかく一度、食事をしておいで。ジョアンナさんが心配しているよ」
「そうですね。すぐに行きます」
そう言うと、マリアは別室に移動し、作業着を脱いで普段着に着替えた。
ペティコートは少し明るめの青、ジャケットは白。高い位置でお団子にした髪には黒い小さなヘアピン。
「ちょっと行ってきます」
「ああ、ゆっくりしておいで」
マリアが、小走りに出ていく姿を見送ってエリオットがホッと息を吐いてから、本の補修に取りかかった。
「これじゃ、夕飯と言ってもいいな」
あとで、ジョアンナにチクチクと言われそうだ。
「仕方ないよ。楽しそうなんだから」
今のマリアは生き生きとしている。
少し自分に自信が持てるようになって、ようやくアナベルの言葉が自分のすべてではないと気がつき始めた。
マリアは、地味ではないし醜くもない。可愛い色が似合わないわけでもないし、地味な色しか似合わないわけでもない。
ようやくそれに気がついたとき、マリアは変わりたいと思うようになった。
そして、マリアを否定し続けていきたアナベルの呪縛から解き放たれようと、必死にもがいているのだ。
一度だけ、ずっと栞に使っていたマーロンから貰ったお土産のヘアピンを髪に着け、イーサンから貰ったネックレスを着けたことがある。一人きりの部屋で、そっとネックレスを首にあてる程度だから、着けたとは言わないかもしれないけど。
特別な意味はない。ただ、自分に似合うのか知りたかった。もちろん、普段は着けない。まだ、人前でアクセサリーを着ける勇気はない。もう少し時間が必要だ。
ただ、知りたかった。
本当に自分には似合わないのか。
そして、おそるおそるネックレスを首にあてて鏡を見たとき、別になんてことはない、と思った。
ただのアクセサリー。似合うとか似合わないなんて大袈裟なものじゃなくて、このネックレス、とても可愛いわ、とただそう思ったのだ。
こんなことに、長い間怯えていたなんて。
呪文のように繰りかえしていた「私には似合わない」は本当に呪文だったのだ。わざわざ自分を貶めるために呟いていた呪いの呪文。悪意の塊だ。それならもう、解放されないと。
「さてどうしたものか」
マリアが食事から戻ってきたら、話をしなくてはならない。マリアの返事を聞かなくてもわかるだけに、相手の男が気にかかる。今、余計な心配をしても、どうなるものではないが。
マリアはこれから、大きな仕事をすることになるかもしれないのだから。
写本の中の挿絵を気に入ったある貴族の男が、マリオに絵を描いてもらいたいと言ってきたのだ。
まったく無名のマリオに?と耳を疑ったが、その内容は気軽に引きうけられるものではなかった。
男の名前はメルニック・ベッドフィールド伯爵。
生まれてすぐに神の御許に旅立った我が子と、神の御許に召される日まで幾ばくもない妻を描いてほしい。その手に抱くことのできなかった我が子を妻に見せてあげたい。
そう言って項垂れるメルニックは、それなりの財力と力を持ち、強引に相手を屈服させることもあるなど、悪い噂が多い男だ。しかし、目の前のメルニックからはとてもそんな姿は想像できない。
ただ置いていかれる悲しみに耐える、哀れな男だった。
マリアの絵には現実とは異なる世界観がある。見たものを忠実に描くこともできるが、それよりマリアの絵が輝くのは、この世界とは別の想像の世界、それこそ異世界のような不思議な空間を描いたときだ。
そしてメルニックが求めるのは、柔らかい陽だまりの世界を生きる、幸せな妻と子供。
苦しみも悲しみも後悔もなく、平穏で温かくて幸せしかない世界にしてほしい。緑が溢れていて、黄色い花とピンクの花が咲き乱れている。妻は笑っていて、赤ん坊は元気に泣いているのがいい。
エリオットはメルニックの気持ちを十分に理解したが、だからといって即答することもできない。マリアの許可もなく受けられる仕事ではないし、マリアがマリオであることは 絶対に知られてはならない秘密だ。
だから、マリオに妻に会ってほしい、と言われてもそれはできない。メルニックは少し困った顔をしたが、それでもいい、できるだけ早く返事がほしい、と言って店を出ていった。
きっとマリアは断らないだろう。だが、相手は貴族。もちろんマリアも貴族令嬢ではあるが、身元も性別も隠しているのだから、何か問題が起これば今の生活を手放すことになりかねない。
慎重に検討しなくてはいけない。そして。
マリアは即答した。「やります」と。
「何かあったら、今のままではいられないよ」というエリオットの言葉に困った顔はしたが、「それでも、やりたいです」と言い切った。
「わかったよ。先方には返事をしておくから」
「はい!」
元気に返事をしたマリアは作業部屋に駆け上がっていった。今手掛けている本の挿絵を三枚仕上げれば、一段落。そうしたら、依頼の絵に取りかかることになる。
マリアがメルニックの妻の絵を仕上げたのは、正式に依頼を受けてから二日後のこと。
柔らかいクリーム色の世界に草花が咲き乱れ、その中央に赤ん坊を抱いて微笑む女性。金色の長い髪が風に揺れ、赤ん坊を見つめている。赤ん坊の大きく開いた口から、元気な泣き声が聞こえてくるような気がした。
メルニックがその絵を見たとき、大粒の涙を流して頭を下げた。
メルニックが絵を引き取りに来たのは、メルニックの妻が息を引き取って五日後のことだった。
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